[取得時効]現場編 その二年、父ちゃんの八年と足せます
土地というものは、動きません。
山も動きません。
塀も、だいたい動きません。
物置なんて、もっと動きません。
なのに不動産屋にいると、ときどき、
「昨日まで自分の土地だった場所が、今日から他人の土地になりました」
みたいな話が平然と出てきます。
土地は動かない。
人間の権利だけが、ものすごく動きます。
大変迷惑です。
昭和六十三年の五月。
私――藤崎栞、十八歳。
前世で宅建試験に散々殴られた記憶を持ったまま、大槻不動産という小さな不動産屋で事務見習いをしている私は、その日も朝から黒電話の横で伝票を整理していました。
そこへ、
「所長さん! お願いです、助けてください!」
女の人が飛び込んできました。
三十代半ばくらい。
白いブラウスに紺色のスカート。髪は乱れて、手には茶封筒。
そして後ろには、小学校低学年くらいの男の子が、お母さんの服をぎゅっとつかんでいました。
「まあ座ってください」
大槻所長が静かに言います。
この人は声を荒らげません。
荒らげないのに怖い。
たぶん虎も「まあ座れ」と言われたら座ります。
「真壁、お茶」
「なんで俺が」
「栞は話を聞け」
「はい」
「俺、営業なんですけど」
「知ってる」
真壁さんはぶつぶつ言いながら急須を持っていきました。
顔の怖い営業マンがお茶を淹れる。
絵面だけなら取り立てです。
女性は森田由美子さんと名乗りました。
昨年、父親を亡くし、父が住んでいた家を相続したそうです。
「それで……昨日、隣の高梨さんが来て……」
震える手で茶封筒を開きます。
中から出てきたのは、一枚の測量図でした。
赤鉛筆で細長い部分が囲まれています。
「ここを返せって言うんです」
「ここ?」
「庭の端です。物置が建ってるところです」
図面を見る。
森田家の土地と、高梨家の土地。
その境界に、幅一メートルほど、奥へ長く伸びる細長い土地がありました。
現在は森田家の庭として使われています。
生垣があり、物置があり、洗濯物を干す場所まである。
ところが登記上、その細長い部分は高梨家の土地だった。
「高梨さんは、なんと?」
所長が尋ねます。
「一週間以内に物置を壊せって。それから、今まで勝手に使った分も払えって……」
「いくらです」
「百万円」
真壁さんがお盆を持ったまま止まりました。
「百?」
「はい……」
「庭の端っこで?」
「真壁さん」
「いや、だって」
気持ちは分かります。
土地は面積ではなく立地で値段が変わるとはいえ、いきなり百万円は威勢がいい。
由美子さんの隣で、男の子が小さな声で言いました。
「おじいちゃんの物置、こわされちゃうの?」
由美子さんが、唇を噛みました。
あ。
これは、ちょっと嫌な案件だ。
金額ではない。
そういう話だ。
「その物置、お父さんが?」
「はい。父が建てました」
「いつですか?」
「……十年くらい前です」
私は顔を上げました。
「十年?」
「はい」
頭の中で、何かが小さく鳴りました。
カチッ、と。
宅建受験生なら嫌でも覚える数字。
十年。
二十年。
所有の意思。
平穏。
公然。
他人の物。
占有。
――取得時効。
「森田さん」
私は身を乗り出しました。
「お父さん、その土地が高梨さんの土地だと知っていましたか?」
「いえ」
「絶対に?」
「はい」
由美子さんは首を振りました。
「むしろ、自分の土地だと思っていました」
来た。
「どうしてです?」
「父が十年前にこの家を買った時、不動産屋さんから『この生垣までが敷地です』って説明されたそうです」
「売買契約書とか、当時の図面はありますか?」
「家にあると思います」
「境界杭は?」
真壁さんが急に営業マンの顔になりました。
「杭?」
「地面に石とか、金属の印とかありませんでした?」
「生垣の角に石が……」
「よし」
真壁さんがお盆を置きます。
「現場見るぞ」
「お茶は?」
「飲んでから行け」
所長が言いました。
「熱いんですよ!」
「知らん」
この会社、上下関係が厳しいようで雑です。
森田家は、駅から車で十五分ほどの古い住宅地にありました。
昭和四十年代に分譲されたらしい家が並んでいます。
問題の庭は、家の裏側。
確かに細長い。
でも、どう見ても森田家の庭でした。
生垣が一本、きれいに境界のように続いている。
その内側に木造の物置。
古い脚立。
植木鉢。
子供用の自転車。
そして端には小さな柿の木までありました。
「これ、全部お父さんが?」
「はい。柿も父が植えました」
真壁さんがしゃがみ込んで、生垣の端を調べました。
「あった」
古いコンクリート杭です。
「これ見りゃ、普通はここまで自分の土地だと思うわな」
私も頷きました。
父親は十年前、この家を購入した。
現地では生垣と杭によって、問題部分まで一体の敷地に見えていた。
そのまま庭として使用。
物置を建てる。
柿の木を植える。
隠れて使っていたわけでもない。
どうぞ見てくださいと言わんばかりに使っています。
公然。
もちろん、力ずくで奪った様子もない。
平穏。
そして何より――。
「お父さん、高梨さんに地代とか払ってました?」
「払ってません」
「借りてるという話は?」
「ありません」
「使用貸借とか、『ちょっと使わせて』みたいな話も?」
「ないです。父はずっと、自分の庭だと思ってました」
所有の意思あり。
私は腕を組みました。
かなり形が見えてきた。
ところが。
「あらあら」
背後から声がしました。
振り返る。
六十代くらいの男が、隣家の門からこちらを見ていました。
薄いグレーの背広。
細身。
髪をきれいに撫でつけています。
「あんたら、大槻さんとこの人?」
「高梨さんですか」
真壁さんが聞きます。
「そうですよ」
高梨さんは笑っていました。
愛想はいい。
でも、その笑い方は、値札を見せる前の商売人の笑顔でした。
「もう説明しましたけどね。そこ、うちの土地ですよ」
「登記上は、ですね」
私が言うと、高梨さんが私を見る。
「お嬢ちゃん、不動産屋?」
「見習いです」
「じゃあ勉強しなさい」
うわ。
嫌な始まり方ランキング上位です。
「土地はね、登記を見れば分かるんだよ。ここはうち。森田さんのところじゃない」
「それは確認します」
「確認も何もないよ」
高梨さんは測量図をひらひらさせました。
「専門家にも見てもらった。間違いない。それに森田さんは去年相続したばかりだろ?」
「はい」
「まだ一年ちょっとだ」
その言葉に、私は少し引っかかりました。
「だから?」
「だからって」
高梨さんが笑います。
「人の土地を一年使ったからって、自分のものにはならんでしょ」
――あ。
なるほど。
この人。
たぶん、少し知ってる。
時効のことを。
「それに由美子さん」
「……はい」
「去年、俺が言ったよね?」
由美子さんの顔色が変わりました。
「この辺、境界おかしいかもしれないって」
「それは……」
「知ってたんだよ」
高梨さんが勝ち誇ったように言いました。
「この人は、自分の土地じゃないかもしれないって知ってた。それでも使ってたんだ」
なるほど。
さらに少し知っている。
「時効ってのはね」
高梨さんが私を見る。
「善意なら十年。悪意なら二十年なんだろ?」
真壁さんが、ちらっと私を見ました。
私も真壁さんを見る。
その視線だけで会話します。
――知ってますね。
――半端にな。
高梨さんは続けました。
「由美子さんが相続してから、まだ一年ちょっと。しかも途中で他人の土地だって知った。二十年なんか経ってない」
由美子さんの肩が落ちました。
「だから、返してもらう。物置も撤去。それで終わりにしてやるなら、百万円でいい」
百万円でいい。
その言い方が、妙に引っかかりました。
恩を売る金額じゃないでしょう。
私はもう一度、物置を見ました。
古い木の戸。
錆びた取っ手。
入口の柱には、子供の背丈を測った鉛筆の跡がありました。
たぶん、由美子さん。
その隣にもっと新しい線。
息子さんでしょう。
代替わりした家。
代替わりした庭。
そして――代替わりした占有。
「高梨さん」
「ん?」
「森田さんのお父さんがこの土地を使い始めたのは、何年前かご存じですか?」
「さあね」
「十年前です」
「だから?」
「正確には?」
由美子さんに聞きます。
「父が家を買ったのが……昭和五十三年の四月です」
今は昭和六十三年五月。
十年と一か月。
私は胸の中で、数字を並べました。
父。
八年余り。
娘。
二年弱。
合計。
十年。
「お父さんが亡くなったのは?」
「一昨年の六月です」
よし。
「真壁さん」
「ああ」
真壁さんの口元が、少し上がりました。
たぶん、この人も気づいた。
私は高梨さんに向き直りました。
「一つ、勘違いしてます」
「何を?」
「時効の時計、森田さんが相続した日にゼロに戻りません」
笑顔が消えました。
「……何?」
「占有は、引き継げます」
風が吹きました。
生垣の葉が、ざわっと揺れる。
「森田さんは、お父さんの占有期間と、自分の占有期間を合わせて主張できます」
「いや、しかし、この人は途中で知って――」
「そこもです」
私は言いました。
「十年か二十年かを見るときに重要なのは、基本的に占有を始めた時です」
高梨さんが黙る。
「お父さんが占有を始めた昭和五十三年。その時、お父さんが本当に自分の土地だと信じていて、しかもそう信じたことに過失がなかったなら」
私は生垣を指しました。
「この境界のような生垣」
杭。
「この境界杭」
家。
「そして売買時の説明」
一つずつ。
積み上げます。
「善意無過失で占有を始めた可能性があります」
「でも娘は知ったんだぞ!」
「あとから知ったからって、お父さんが十年前に始めた占有まで悪意に変身するわけじゃありません」
法律にタイムマシン機能はありません。
「森田さんが、お父さんの占有を合わせて主張するなら、お父さんの占有開始時の状態も一緒に引き継いで考えます」
私は言いました。
「八年と二年」
高梨さんの眉が動く。
「足して十年です」
由美子さんが息を呑みました。
その横で、男の子が指を折りました。
八。
二。
十。
小学二年生でも分かる足し算が、土地の所有権をひっくり返そうとしていました。
「そんな馬鹿な」
高梨さんが言いました。
「俺の土地なんだぞ」
「登記名義が高梨さんだということと、取得時効が成立するかどうかは、別の話です」
「登記がある!」
「はい」
「こっちは権利証だってある!」
「はい」
「なら俺の土地だろ!」
その声が少し大きくなった時。
「高梨さん」
低い声がしました。
大槻所長でした。
いつの間にか、後ろに立っています。
こわ。
登場の仕方まで所長です。
「栞」
「はい」
「言い切るな」
「え?」
「まだ資料を全部見ていない」
「あ……」
所長は私の横まで来ると、高梨さんへ頭を下げました。
「この場で取得時効が完成している、と断定するつもりはありません」
「ほら見ろ!」
「ただし」
声は静かでした。
「あなたが提示した『相続後まだ二年だから時効ではない』という理屈だけでは、森田さんに撤去を求める根拠にはなりません」
高梨さんが止まりました。
「父親の占有が承継できるなら、十年以上になります。父親の占有開始時が善意無過失だったか。所有の意思があったか。平穏かつ公然だったか。占有が継続していたか」
所長は指を折りません。
必要もないんでしょう。
頭の中に全部入っている人です。
「調べるべきことは山ほどある」
「……」
「それを調べずに、百万円払え、一週間で壊せ、は少し順番が逆でしょう」
静かな声。
でも圧がある。
虎なら伏せます。
「まず、資料を揃えましょう」
所長は言いました。
「それから話をしましょう」
翌日。
森田さんが、大きな紙袋を抱えて事務所へ来ました。
中身を全部机に広げます。
十年前の売買契約書。
当時の販売図面。
古い写真。
固定資産関係の書類。
父親の日記までありました。
「お父さん、日記つけてたんですね」
「几帳面な人だったんです」
古いアルバムには、家を購入した直後の写真もありました。
問題の生垣。
今と同じ位置です。
庭に立つ父親。
嬉しそうにスコップを持っています。
写真の裏に、
『昭和五十三年五月三日 庭に柿を植える』
と書いてありました。
「証拠って、こういうところから出るんだな」
真壁さんが感心します。
「人生、捨てたもんじゃないですね」
「アルバムを捨てる話じゃねえ」
さらに出てきた販売図面には、現況の生垣付近まで敷地のように描かれていました。
面積の記載は登記と微妙に合いません。
測量も粗い。
昭和の宅地売買、雑。
いえ、令和でも雑なものは雑ですけど。
「これなら父親が自分の土地だと思ったのも、無理はなさそうだな」
真壁さんが言いました。
「はい」
私は資料を並べながら答えました。
「少なくとも、高梨さんの言う『最初から勝手に使ってた』とは全然違います」
「それに十年間、何も言われてない」
「そうなんです」
庭として丸見え。
物置まである。
こっそり占有という概念から最も遠い。
そこへ大槻所長が戻ってきました。
「高梨さんの先代にも確認した」
「え?」
「老人ホームにいる」
仕事が早い。
「何て?」
真壁さんが聞きます。
「森田さんの父親が家を買った頃から、庭として使っていたことは知っていたそうだ」
私は目を見開きました。
「止めなかったんですか?」
「境界がそこだと思っていたらしい」
「……え?」
「高梨家の先代もだ」
全員、黙りました。
これは強い。
森田さんの父親だけではない。
隣の所有者側まで、生垣が境界だと思っていた。
「じゃあ今の高梨さんは、最近測量して気づいたんですか?」
「そうらしい」
所長が頷きます。
真壁さんが鼻から息を吐きました。
「それで百万円か」
「真壁」
「はいはい」
でも私も同じことを思いました。
三日後。
高梨さんは、大槻不動産へやってきました。
前回より笑っていません。
机には、森田さん。
私。
真壁さん。
所長。
古い写真。
販売図面。
そして十年分の時間。
高梨さんが言いました。
「……つまり、そちらは時効を主張する、と」
「必要なら」
所長が答えます。
「争うつもりか」
「争わずに整理したいと思っています」
高梨さんが私を見ました。
「でも、その娘は土地が他人のものだと知ったんだろ」
「二年前に、疑いがあるとは聞きました」
森田さんが答えました。
「ほら」
「だから何度言えば」
思わず口から出ました。
所長を見る。
怒られるかな。
怒られませんでした。
なので続けます。
「高梨さん」
「何だ」
「十年の取得時効で見る善意無過失は、今日の森田さんじゃないんです」
机の上の写真を、一枚押し出しました。
十年前。
庭で笑っている父親。
「ここです」
「……」
「昭和五十三年。お父さんが占有を始めた、その時」
私は写真を指しました。
「この時、この人がどう思っていたかです」
家を買った。
生垣まで自分の庭だと説明された。
境界杭らしきものもあった。
隣家の先代も、そこが境界だと思っていた。
父親は庭として使った。
柿を植えた。
物置を建てた。
誰にも隠さなかった。
誰にも借りていない。
誰にも地代を払っていない。
「そして八年以上占有した」
私は森田さんを見る。
「その後、娘さんが相続して、占有を続けた」
二年。
「八年と二年」
十年。
「占有を引き継ぐなら、年数だけじゃありません」
高梨さんが黙っています。
「前の人の占有の状態も、一緒についてきます」
真壁さんが横から言いました。
「親父さんの八年は、死んだから消えるわけじゃないってことだ」
「……」
「人が死んだら土地の時間までゼロに戻るなら」
私は言いました。
「民法、ずいぶん相続人に厳しいゲームになります」
「ゲームじゃねえよ」
「たとえです」
高梨さんはしばらく写真を見ていました。
やがて、小さく言いました。
「……親父まで、境界を勘違いしてたとは思わなかった」
所長が答えます。
「古い分譲地では、珍しくありません」
「俺は……登記を見つけたから」
「はい」
「当然、返してもらえると思った」
その声から、少しだけ棘が抜けました。
「登記を確認したこと自体は悪くありません」
所長が言います。
「ただ、不動産は登記簿だけで全部が決まるわけではない」
高梨さんが苦笑しました。
「不動産屋がそれ言うのか」
「不動産屋だから言うんです」
所長が答えました。
……かっこいい。
ちょっと悔しい。
私もいつか言いたい。
「では」
所長が資料を閉じました。
「物置を一週間で撤去しろという要求と、百万円の請求は、いったん撤回してもらえますか」
長い沈黙。
高梨さんは、ため息をつきました。
「……分かった」
森田さんの肩から、目に見えるくらい力が抜けました。
「境界については、改めて測量して、必要なら正式に話をつけよう」
「ありがとうございます」
森田さんが深く頭を下げました。
「ただし」
高梨さんが私を見る。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「生意気だな」
「よく言われます」
「誰に」
「主に真壁さんに」
「俺、そんな言ってねえぞ!」
言ってます。
顔で。
その日の夕方。
森田さんが帰ったあと、私は事務所の机に突っ伏していました。
「疲れた……」
「お前、ほとんど喋ってただけだろ」
真壁さんが缶コーヒーを置きます。
「喋るの疲れるんですよ」
「十八歳の台詞じゃねえな」
「心は受験浪人なので」
「また意味分かんねえこと言ってる」
所長は新聞を読みながら言いました。
「栞」
「はい」
「今日の件、何が一番大事だった」
来た。
大槻塾。
営業時間終了後に突然始まる無料講義です。
「十年?」
「違う」
「善意無過失?」
「半分」
「占有の承継?」
「それもある」
「じゃあ何です?」
所長が新聞を畳みました。
「年数だけ見るな」
私は瞬きをしました。
「取得時効というと、十年だ二十年だと数字だけ覚える奴が多い」
「……はい」
前世の私です。
耳が痛い。
「だが最初に見るのは、その占有がどういうものかだ」
所長は指を一本上げます。
「借りているのか」
二本目。
「自分のものとして持っているのか」
三本目。
「隠れているのか、公然なのか」
四本目。
「いつ始まったのか」
そして最後に、
「前の占有者がいるなら、それを引き継ぐのか」
なるほど。
「数字は最後なんですね」
「そうだ」
真壁さんが缶コーヒーを開けました。
「賃貸で三十年住んでる奴が『三十年住んだから俺んちだ』って言っても駄目ってことか」
「そうです」
私は即答しました。
「家賃払いながら『俺のもの』は、さすがに主張が忙しすぎます」
「じゃあ四十年なら?」
「年数を増やしても駄目です」
「百年」
「寿命を先に心配してください」
所長が小さく笑いました。
その時、事務所のドアが開きました。
「あの……」
森田さんの息子さんでした。
お母さんと一緒です。
手に紙袋を持っています。
「どうしたの?」
私が聞くと、男の子は紙袋から何かを取り出しました。
柿でした。
まだ少し青い、小さな柿。
「おじいちゃんの木の」
「あ……」
「まだ食べられないけど」
男の子は、ちょっと恥ずかしそうに笑いました。
「お姉ちゃんにあげる」
私は受け取りました。
硬い。
青い。
絶対まずい。
でも、妙に嬉しかった。
「ありがとう」
「物置、壊さなくていい?」
「うん」
私は答えました。
「今すぐ壊せなんて話には、もうならないよ」
「よかった」
男の子は笑いました。
「おじいちゃん、あそこで僕の自転車直してくれたから」
そうか。
百万円でもない。
土地一坪の値段でもない。
子供にとっては、そういう場所だったんだ。
森田さんが深く頭を下げました。
「本当にありがとうございました」
「いえ」
私は柿を両手で持ったまま答えました。
「まだ正式に片づけることは残ってますから」
「はい」
「でも、少なくとも一週間で全部壊せなんてことにはなりません」
「それだけでも十分です」
親子が帰ったあと。
真壁さんが柿を見ました。
「それ、食うのか?」
「食べますよ」
「青いぞ」
「熟すまで待ちます」
「何日?」
「知りません」
「時効まで待つなよ」
「柿に取得時効はありません」
所長が新聞の向こうで吹き出しました。
私は窓際に柿を置きました。
夕日が、まだ青い実を照らしています。
十年前。
一人の男が、自分の庭だと思って柿の木を植えた。
八年使った。
亡くなった。
娘がその家を継いだ。
そして二年。
八と二。
たったそれだけの足し算の後ろに、人の暮らしが十年分積み重なっている。
宅建のテキストでは、
善意無過失なら十年。
そうでなければ二十年。
占有は承継できる。
たった数行です。
でも今日、その十年には、
柿の木が一本ありました。
古い物置が一つありました。
父親がいて。
娘がいて。
孫がいた。
法律というものは、ときどき妙なことをします。
ずっと他人のものだった土地を、一定の条件で、本当に占有者のものにしてしまう。
初めて勉強した時の私は、
「そんな制度ありなの?」
と思いました。
今も、ちょっと思います。
でも。
十年、二十年。
人がそこを自分の場所として使い続け、周囲もそれを前提に暮らし、時間だけが積み重なっていった時。
法律は、その時間を全部「なかったこと」にはしない。
そう考えると。
時効という言葉は、少し冷たいけれど。
案外、人間の暮らしをよく見ている制度なのかもしれません。
「栞」
「はい?」
「その柿、熟れたら俺にも半分よこせ」
「嫌です」
「即答かよ」
「私が占有してますから」
「まだ一分だろ」
「所有の意思があります」
「十年待て」
「その頃、真壁さん四十代ですよ」
「喧嘩売ってんのか」
所長がまた新聞の向こうで笑いました。
昭和六十三年。
今日も大槻不動産には、土地と人間と、少々面倒な法律が集まってくる。
私は窓際の柿をもう一度見ました。
熟すには、まだ時間がかかる。
時間が経てば、変わるものがある。
柿の色。
人の暮らし。
そして――。
場合によっては、土地の所有者まで。
……民法。
やっぱり油断ならない。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




