[双方代理]現場編 右手と左手で契約成立? ひとりじゃんけんで土地を売る男
じゃんけんというのは、二人以上でするから意味があります。
一人で、
「じゃーんけーん、ぽん」
と言いながら右手でグー、左手でパーを出して、
「はい、左手の勝ち」
と言われても困ります。
何より困るのは、最初からどちらを勝たせるか自分で決められることです。
そして不動産取引には、ときどきいるのです。
それを土地でやろうとする人が。
「……安すぎません?」
その日の朝。
私は、大槻不動産の応接机に置かれた一枚の紙を見て、思わずそう言いました。
目の前に座っていた初老の男性――田島源一郎さんが、不安そうに瞬きをします。
「やっぱり、そう思うかい?」
「場所、ここですよね?」
私は住宅地図を指差しました。
駅から徒歩十二分。
県道から一本入った角地。
古い木造倉庫が建っていますが、敷地は百二十坪ほどある。
提示された売買価格は――。
九百万円。
昭和六十三年。
土地が日に日に値札を書き換えているような時代です。
もちろん地域差はあります。
もちろん古い倉庫の解体費もかかる。
もちろん私は十八歳の事務見習いです。
でも。
「九百万円は……ずいぶん買主寄りですね」
言葉を選んだ。
本音を言えば、
――誰ですか、この値段つけた人。
です。
横で腕を組んでいた真壁さんも、紙を覗き込みました。
「俺なら、少なくとも最初からこの金額では出さねえな」
「だよねえ……」
田島さんが膝の上で手を組みました。
「でも、長谷川君がね。これくらいが相場だって言うんだよ」
「長谷川さん?」
「昔から知ってる不動産屋さんでね。今回、売るのを任せてるんだ」
私は顔を上げました。
「売却の代理を?」
「ああ。俺も腰が悪いし、女房を亡くしてから、細かいことがどうにも億劫でなあ。買主を探すのも、値段を決めるのも、契約するのも任せた」
真壁さんの眉が少し動きました。
「委任状はありますか」
「あるよ」
田島さんが鞄から紙を出しました。
土地売却に関する代理権。
価格交渉。
契約締結。
代金受領については別途本人確認。
かなり広い。
私は嫌な予感がしました。
代理という制度は便利です。
本人ができないことを、代わりに誰かがやってくれる。
でも。
便利な刃物ほど、持つ側を間違えると怖い。
「それで、買主は誰なんです?」
「それがね……」
田島さんは、少し困ったように笑いました。
「長谷川君なんだ」
「……はい?」
「だから、長谷川君が買ってくれるって」
私は紙を見た。
田島さんを見た。
もう一度、紙を見た。
右手でグー。
左手でパー。
左手の勝ち。
はい閉廷。
いや、閉廷してる場合じゃありません。
「本人が買うんですか?」
「ああ」
「田島さんから売却を任された、その長谷川さん本人が?」
「そう」
「九百万円で?」
「そうなんだ」
私は静かに息を吸いました。
――自己契約。
来ました。
宅建受験生が図で見ると三秒で分かるのに、文章問題になると急にAだのBだのが増えて頭を壊しにくるやつです。
本人A。
代理人B。
BがAの土地を、B自身に売る。
つまり、
売る側の代理人と、買う本人が同じ人。
これを自由に認めたらどうなるか。
簡単です。
「一億円で売ってこい」と言われた人間が、
「九百万円なら買います」
「分かりました。売ります」
と、一人で会話できてしまう。
世界で一番まとまりのいい価格交渉です。
本人以外は。
「田島さん」
所長の大槻さんが、ようやく口を開きました。
さっきまで黙っていたのに、声が落ちるだけで室温まで下がった気がします。
「長谷川さんが自分で買うことについて、あなたは許可しましたか」
「許可?」
「『あなた自身が買って構わない』と」
「いや……」
田島さんは首を振りました。
「そんな話はしてないよ。買う人を探してくれとは頼んだけど」
「九百万円で売っていいとは?」
「それも聞いてない」
所長が一度だけ頷きました。
「なるほど」
怖い。
この「なるほど」は、大槻所長の場合、だいたい相手がなるほどでは済まない時に出ます。
その時でした。
事務所の黒電話が鳴りました。
「大槻不動産です」
私が受話器を取る。
『田島さん、そこにいる?』
男の声でした。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
『長谷川不動産の長谷川』
本人来ました。
いや、電話ですが。
「少々お待ちください」
私は受話器を押さえました。
「長谷川さんです」
田島さんの顔が曇る。
「出たくないなあ……」
「俺が出ます」
真壁さんが受話器を取った。
「大槻不動産の真壁です」
数秒後。
真壁さんの眉間に、見事な縦線が入りました。
「いや、田島さんは今、うちに相談に来てます」
何か言われています。
「……は?」
さらに何か。
「ちょっと待ってください。誰が契約済みだって?」
私は椅子から腰を浮かせました。
真壁さんがこちらを見る。
嫌な目でした。
「分かりました。そっち行きます」
ガチャン。
受話器を置く。
「どうしました?」
「契約は昨日成立したってよ」
「昨日?」
田島さんが立ち上がりました。
「俺、昨日は病院だぞ!」
「長谷川が、田島さんの代理人として売った」
「誰に?」
真壁さんが、ものすごく嫌そうな顔をしました。
「自分に」
私は額を押さえました。
見事です。
教科書の図よりきれいな自己契約でした。
長谷川不動産は、駅前商店街の裏にありました。
ガラス戸には、
『土地急募!』
『今が売り時!』
『即金買取!』
という赤文字。
昭和の不動産屋、文字の圧が強い。
事務所へ入ると、五十代くらいの男が革張りの椅子に座っていました。
背広は上等。
金色の腕時計。
机の上には灰皿。
そして、その前には――契約書。
「わざわざ大槻さんとこまで相談に行くことないでしょう、田島さん」
長谷川は笑いました。
「こっちは全部やってあげたんだから」
「長谷川君……」
田島さんの声は弱い。
「九百万なんて、聞いてないよ」
「だから相場ですよ」
「お前が買うとも聞いてない」
「誰が買ったって同じでしょう?」
出ました。
不動産トラブル界の危険語。
――同じでしょう。
だいたい同じではありません。
「同じじゃありませんよ」
思わず口から出ました。
長谷川が私を見ます。
「誰、この子」
「事務の藤崎です」
真壁さんが言いました。
「見習いです」
そこ余計です。
「見習い?」
長谷川は鼻で笑いました。
「じゃあ黙っててもらえるかな。これは大人の取引だから」
十八歳。
痛恨。
こういう時だけ年齢が仕事をします。
でも。
「では大人の取引なら、一つ教えてください」
「何?」
「長谷川さんは田島さんから、土地を売る代理権をもらった」
「ああ」
「その代理人である長谷川さんが、自分自身を買主にして契約したんですよね?」
「だから何?」
「田島さんは、それを許諾していません」
「代理権はある」
「売る代理権はあります」
私は契約書を見ました。
「でも、それと『自分に売っていい』は同じじゃありません」
長谷川の笑顔が少し消えた。
「何が言いたい」
「その契約、田島さんに当然に効くとは限りません」
「……は?」
私は契約書を指差しました。
「自己契約だからです」
静かになりました。
田島さんがきょとんとしている。
真壁さんは腕を組んだまま黙っている。
そして長谷川だけが、露骨に嫌な顔をした。
知ってる顔です。
「民法の話か」
「はい」
「子供が法律覚えて偉いねえ」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
「でしょうね」
真壁さんが横で咳払いしました。
たぶん笑いを隠した。
「田島さんは俺に、売却を全部任せたんだぞ」
長谷川が言います。
「だったら買主を誰にするかも俺の裁量だ」
「他人を探すのと、自分を買主にするのは違います」
「田島さんに損はない」
「九百万円が妥当かどうか、誰と交渉したんです?」
「……何?」
「売主側の代理人として、買主のあなたと交渉したんですよね?」
私は両手を机の前に出しました。
右手を少し上げる。
「長谷川さん。九百万円で買いたいです」
左手を上げる。
「長谷川さん。分かりました。九百万円で売ります」
両手を合わせました。
「契約成立」
長谷川の眉間がひくりと動いた。
「……馬鹿にしてるのか」
「仕組みの説明です」
横で真壁さんがとうとう吹き出しました。
「分かりやすいな」
「でしょう?」
「おい」
長谷川が机を叩きます。
「現実の商売は、そんな子供の理屈じゃねえんだ!」
そこへ。
「では、大人の理屈で話しましょう」
低い声がしました。
振り向く。
大槻所長でした。
いつ来たんですか。
怖いんですよ登場の仕方が。
所長は田島さんから委任状を受け取り、机に置きました。
「この委任状には、長谷川さん自身への売却を許諾する記載はない」
「だから何だ」
「田島さん本人も許諾していないと言っている」
「代理権は――」
「代理権があれば、本人と利益がぶつかる取引まで自由にできると思ってるのか?」
長谷川が黙りました。
所長は続けました。
「本人のために売る代理人が、自分のために買う。それを野放しにすれば、代理人は好きな値段をつけられる」
「九百万は適正だ」
「なら査定の根拠を出せ」
「……」
「近隣事例もだ」
「……」
「出せないなら、適正だと声を大きくしても値段は上がらん」
強い。
法律で殴ってない。
実務で逃げ道を塞いでる。
これが所長です。
私が宅建の知識で「そこ危険です」と赤旗を立てる。
真壁さんが現場を押さえる。
所長が最後に、逃げ道をコンクリートで埋める。
大槻不動産、役割分担が怖いほどきれいです。
長谷川は椅子にもたれました。
「……分かったよ」
煙草を取り出しかけて、やめる。
「田島さんが嫌だっていうなら、買うのはやめる」
田島さんがほっと息を吐きました。
でも。
長谷川はそこで笑いました。
「ちょうどいい。別の買主がいるから」
嫌な予感。
この人、第二形態あります?
「別の買主?」
「川本商事」
長谷川は引き出しから別の紙を出しました。
「さっき話がついた。千万円なら買うってさ」
「……ずいぶん早いですね」
「商売だからね」
「で、田島さんの代理人として、その会社に売るんですか?」
「ああ」
「なら問題ないんじゃ――」
田島さんが言いかけた時。
長谷川が続けました。
「川本さんからも、買付けの代理を頼まれてる」
私は固まりました。
真壁さんも固まりました。
所長だけが固まりませんでした。
所長は多分、山が噴火しても眉毛一本動かさない。
「つまり」
私は確認しました。
「田島さんの売主側代理人も長谷川さん」
「そう」
「川本商事の買主側代理人も長谷川さん」
「そうだ」
「両方?」
「ああ」
私は目を閉じました。
右手グー。
左手パー。
今度は右手も左手も代理人です。
進化しなくていいんです、そこ。
「双方代理……」
私が呟くと、長谷川が苛立った顔をしました。
「また法律か」
「また法律です」
「今回は俺が買うわけじゃない」
「でも両方の代理人ですよね」
「だから何だ。売りたい奴と買いたい奴がいる。俺が間に入れば話が早い」
「早すぎるんです」
私は言いました。
「売主は高く売りたい」
田島さんを見る。
「買主は安く買いたい」
長谷川を見る。
「その両方から値段交渉を任された人が、一人だったらどうするんです?」
「公平にやる」
「誰に対して?」
「……」
「双方に?」
「そうだ」
「千万円にした根拠は?」
「相場だ」
「田島さんのために、千百万円まで上げようと交渉しました?」
「……」
「川本商事のために、九百万円まで下げようと交渉しました?」
「何が言いたい」
「両方できないでしょう」
私は言いました。
「一人の人間が、同じ瞬間に『もっと高く』と『もっと安く』を本気で主張するなんて」
事務所の時計だけが、カチ、カチ、と鳴っていました。
私は自分でも少し怖いくらい、頭が冴えていました。
宅建のテキストでは、たった数行です。
自己契約。
双方代理。
原則禁止。
無権代理として扱う。
あの頃の私は、
――はいはい、利益相反ね。
くらいにしか思っていませんでした。
でも違う。
目の前にすると分かる。
これは図形問題じゃない。
代理人に人生の一部を預けた人間が、
その代理人の都合で値札まで決められてしまう問題なんだ。
「田島さん」
私は振り返りました。
「川本商事への売却について、長谷川さんが買主側の代理人もすることを承諾しましたか?」
「いや……」
「聞いていました?」
「今初めて聞いた」
「川本商事の方は、田島さん側の代理人でもあることを知っているんですか?」
「さあね」
長谷川が投げやりに言いました。
「じゃあ確認しましょう」
「は?」
真壁さんが電話帳を引き寄せました。
「川本商事だろ?」
「おい」
「話が早い方がいいんだろ?」
真壁さんがにやりとしました。
「なら早くしようぜ」
この人、こういう時だけ相手の言葉を返すのが上手い。
三十分後。
川本商事の専務が、長谷川不動産にやってきました。
四十代くらいの、小柄で生真面目そうな男性でした。
「どういうことですか、長谷川さん」
専務は開口一番、怒っていました。
「あなた、田島さんの代理人でもあったんですか」
「いや、それは――」
「うちには言ってませんでしたよね?」
「売主側の話は別に――」
「別じゃないでしょう!」
机がびりっと震えました。
田島さんが驚いて縮こまる。
私はその横で、
――よかった。
と思いました。
怒っている。
つまり、この人は少なくとも、最初から全部知って乗っていたわけではない。
「私はあなたに、『できるだけ安くまとめてほしい』と頼みました」
専務が言いました。
「そうでしょう?」
「ああ」
「田島さんからは?」
長谷川は答えない。
田島さんが、ぽつりと言いました。
「私は……なるべくいい値段で売ってくれって頼んだよ」
専務が長谷川を見ました。
「どうやって両方やるんです?」
――それです。
私が十分かけて説明したことを、一行で言った。
大人、強い。
「専務さん」
所長が口を開きました。
「今回の契約は、いったん白紙に戻した方がいいでしょう」
「私もそう思います」
専務は即答しました。
「この状態で判を押したくありません」
長谷川が慌てます。
「待ってくださいよ! 千万円で双方納得してるんだから、それでいいでしょう!」
「納得してません」
田島さんでした。
小さな声でした。
でも、今までで一番はっきりしていました。
みんなが田島さんを見る。
「長谷川君」
「あ……」
「俺はね」
田島さんは膝の上で拳を握りました。
「面倒だから君に任せたんだ」
「……」
「分からないから、任せたんじゃない」
長谷川の顔から、笑みが消えました。
「女房が死んで、腰も悪くなって、役所へ行くのも契約書を読むのもしんどくなった。だから、昔から知ってる君ならと思って任せた」
田島さんは一度、息を整えました。
「でも」
そして言いました。
「任せたってのは、好きにしていいって意味じゃないだろ」
静かな言葉でした。
なのに、その場で一番重かった。
私の胸の奥に、すとんと落ちました。
そうなんです。
代理って、そういうものなんです。
自分で全部できる人ばかりじゃない。
年を取ったり。
病気になったり。
忙しかったり。
遠くに住んでいたり。
だから、自分の代わりに誰かを立てる。
代理人に渡しているのは、好き勝手にしていい権利じゃない。
自分の代わりに、自分の利益を考えて動いてくれるだろうという――信用です。
「……悪かったよ」
長谷川が言いました。
初めて、声が少し小さくなりました。
「話を急ぎすぎた」
「契約書は?」
「破棄する」
「自己契約の方も?」
「破棄するよ」
所長が静かに言いました。
「原本も返してください」
「分かってる」
「委任状も」
「……分かった」
真壁さんが横でぼそっと言います。
「素直になるまで長かったな」
「真壁さん」
「はいはい」
長谷川は机の引き出しから委任状を取り出し、田島さんへ返しました。
田島さんは、それを両手で受け取りました。
たった一枚の紙です。
でも。
その紙に書かれた「代理」という二文字が、少しだけ違って見えました。
その後。
田島さんの土地は、うちで改めて査定することになりました。
もちろん、だからといってうちで買主を囲い込むわけではありません。
所長は三社の査定も取らせました。
近隣の成約事例。
道路付け。
間口。
古家解体費。
用途地域。
全部並べる。
最終的に、川本商事も正式に買付けを出し直しました。
提示額は――一千四百八十万円。
長谷川さんの自己契約より、五百八十万円高い。
「……五百八十万」
契約の日。
田島さんは、金額を聞いてしばらく黙っていました。
「大きいなあ」
「大きいですよ」
私も言いました。
「軽自動車なら何台か買えます」
「栞、お前の金銭感覚、車基準なのか」
真壁さんが突っ込む。
「じゃあ缶コーヒーなら」
「やめろ。余計分からなくなる」
今回は、売主田島さん本人が契約に来ました。
川本商事の専務も本人。
売る人。
買う人。
それぞれが、自分の側で条件を確認する。
当たり前です。
でも、当たり前の光景がやけに安心して見えました。
「それでは、一千四百八十万円で」
所長が確認します。
「田島さん、よろしいですか」
「はい」
「川本専務」
「異存ありません」
署名。
押印。
朱肉の赤が紙に残る。
契約成立。
今度は右手と左手ではありません。
ちゃんと二人いる。
いや、普通なんですけどね。
一度怖いものを見た後だと、普通ってすごく尊い。
ところが。
数日後。
私はまた混乱しました。
「……所長」
「なんだ」
「これ、駄目じゃないですか?」
決済準備の書類を見ていた時です。
所有権移転登記を担当する司法書士の名前がありました。
売主・田島源一郎。
買主・川本商事。
そして。
双方の登記申請代理人。
司法書士・水野正義。
「……双方ですよね?」
「ああ」
「水野先生、田島さんの代理もするんですよね?」
「する」
「川本商事の代理も?」
「する」
「双方代理じゃないですか!」
私は椅子から立ち上がりました。
真壁さんが新聞の向こうから顔を出します。
「お前、また始まったな」
「だってこの前、あれだけ駄目だって!」
「落ち着け」
「右手と左手ですよ!」
「例えが定着してんじゃねえか」
所長が書類から顔を上げました。
「栞」
「はい」
「契約はもう終わってるな?」
「……はい」
「売買代金も決まっている」
「はい」
「土地も決まっている」
「はい」
「水野先生が、値段を上げたり下げたりできるか?」
「……できません」
「売るか買うか決められるか?」
「できません」
「契約条件を好きに変えられるか?」
「できません」
「じゃあ、残ってる仕事は?」
私は書類を見ました。
「……登記」
「そうだ」
所長は頷きました。
「売買契約が終わった後、その契約で決まった義務を実行する。そのための行為だ」
「あ」
頭の中で。
また宅建のテキストが開きました。
自己契約・双方代理。
原則禁止。
ただし――。
「債務の履行……」
「そういうことだ」
私は、へなへなと椅子へ座りました。
「先に言ってくださいよ……」
「聞かれなかった」
「法律家みたいな返ししないでください」
「不動産屋だ」
「もっと悪い」
「おい」
真壁さんが笑っています。
「つまりアレか」
真壁さんが言いました。
「長谷川みたいに、値段まで決められる場面で両側やるのは危ない」
「はい」
「でも、もう千四百八十万で契約終わってて、『この通り登記してください』なら、片方をえこひいきする余地がない」
「そうです」
「じゃあ最初からそう言えよ」
「今、私が言おうとしてたんです!」
「所長に教わった直後だろ」
「知識は受け取った瞬間から私のものです」
「図々しいな、お前」
そこへ当の水野先生がやってきました。
六十歳くらいの、穏やかな司法書士でした。
「おや、何の話です?」
「先生が双方代理していいのかって、栞が騒いでます」
「真壁さん!」
水野先生は一瞬きょとんとしてから笑いました。
「なるほど。いいところに気づきましたね」
「ほら!」
「ただし今回は大丈夫です」
「結論が早い!」
みんな笑いました。
悔しい。
法律を勉強すると、分からない時より、半分分かった頃が一番恥をかく気がします。
知識が増えるほど、
「あっ、これ違法では?」
と世界中に赤旗を立てたくなる。
そしてだいたい所長が、
「例外だ」
と言って抜いていく。
宅建、性格が悪い。
決済の日。
田島さんは新しい背広を着て来ました。
「亡くなった女房が買ってくれたやつでね」
少し照れくさそうに襟を触ります。
川本商事から代金が支払われ。
必要な書類が確認され。
水野先生が登記書類を整えていく。
全部終わると、田島さんは深く頭を下げました。
「本当に、ありがとう」
「いえ」
所長が答えました。
「最終的に決めたのは田島さんです」
「でも、あのままだったら九百万だった」
田島さんは苦笑しました。
「五百八十万も違った」
「大きいですね」
私が言うと、田島さんは頷きました。
「でもね、栞ちゃん」
「はい」
「金額だけじゃないんだ」
田島さんは、少し考えてから続けました。
「最初の契約は、自分の土地なのに、自分だけが外にいる感じがした」
「……」
「誰かが決めて、誰かが買って、知らないうちに話が終わってる」
私は黙って聞きました。
「今回はちゃんと、自分で売ったって思える」
そう言って。
田島さんは笑いました。
「それが一番よかった」
胸の奥が、少しだけ温かくなりました。
法律というと。
つい、
有効。
無効。
取消し。
対抗できる。
できない。
そんな言葉ばかり覚えます。
でも本当は、その境目に人がいる。
代理制度は、人の代わりに契約する仕組みです。
だからこそ。
代理人が主役になってはいけない。
主役は最後まで、本人なんだ。
その日の夕方。
田島さんから大きな紙袋が届きました。
「何ですか、これ」
「見りゃ分かるだろ」
真壁さんが中を覗きます。
どら焼き。
しかも三十個。
「多い!」
「田島さんからだ」
「昭和の感謝、どうして毎回物量なんですか」
「ありがたく食え」
私は一つ取って、包装を開きました。
真壁さんも取る。
所長も、しれっと一つ取る。
「あ」
私は所長を見ました。
「所長」
「なんだ」
「それ、私がもらったどら焼きですよね?」
「事務所宛てだ」
「でも田島さん、『栞ちゃんにも食べさせて』って」
「だから食べてるだろ」
「所長も取ってるじゃないですか」
「問題あるか」
私は、はっとしました。
「……自己契約」
「違う」
「双方代理」
「もっと違う」
真壁さんが机を叩いて笑いました。
「何でも法律にすんな!」
「じゃあ所長、一個百円で私から買ってください」
「なぜだ」
「私が売主で、私が所長の代理人になって買います」
「完全に自己契約じゃねえか!」
「本人が許諾すればいいんですよね?」
「俺は許諾してない!」
「じゃあ無権代理です」
「どら焼き一個で民法を使うな!」
とうとう所長まで笑いました。
窓の外では、夕日が商店街の屋根を赤く染めています。
昭和六十三年。
土地の値段が上がり。
金が動き。
人が焦り。
代理人に全部任せたくなる時代。
でも。
任せるということは、捨てることではない。
任せた人の意思も。
利益も。
その人自身も。
契約の外へ追い出していいわけじゃない。
私はどら焼きを一口かじりました。
甘い。
今日覚えた法律は、たぶん忘れない。
自己契約。
代理人が、自分を相手にする契約。
双方代理。
一人の代理人が、売主と買主の両方に立つ契約。
どちらも危ないのは、理由を考えれば簡単でした。
一人でじゃんけんをしてはいけない。
右手と左手のどちらを勝たせるか決められる人に、
他人の土地まで賭けさせてはいけない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが最後のどら焼きに手を伸ばしました。
私は同時に掴みました。
「……離してください」
「早い者勝ちだ」
「半分にしましょう」
「嫌だ」
「では所長に代理人を頼んで、公平に分けてもらいます」
「所長、お願いします」
所長は私たちを見ました。
そして。
どら焼きを取り上げました。
「預かる」
「え?」
「え?」
包装を開ける。
ぱくり。
「所長!?」
「本人の利益を害してる!」
「それ代理人じゃなくて泥棒ですよ!」
夕暮れの事務所に、笑い声が響きました。
代理人には気をつけよう。
特に。
どら焼きを持たせる時は。
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