[表見代理]現場編 実印と権利証の全部盛りは勘弁してください
人は、肩書に弱いです。
医者。議員。教授。社長。そして――代理人。
名刺にそれっぽい文字が印刷されていて、本人の隣で堂々と座っていて、鍵まで持っていて、「この件は彼に任せています」なんて紹介されたら。
普通は思います。
ああ、この人には権限があるんだな、と。
そこで後から、
「いや、あいつにそこまで任せた覚えはない」
と言われても。
――知らんがな。
というのが、人情というものです。
そして民法は、ときどき人情より少しだけ冷静な顔をして、だいたい同じことを言います。
◇
「売ってません!」
朝九時十二分。
大槻不動産の事務所に、男の怒鳴り声が響きました。
私は危うく急須を落としかけました。
朝から土地の所有権を否定する声量としては元気すぎます。
「絶対に売ってない! 私はあの土地を売るなんて一言も言ってないんですよ!」
客は五十代半ばくらいの男性でした。
紺色の背広。
金縁眼鏡。
髪はきれいに撫でつけられているのに、その額には汗が浮いています。
名前は榊原宗一郎さん。
町外れで材木店を営んでいる人でした。
その榊原さんの向かいで、大槻所長が腕を組んでいます。
「では、弟さんには何を任せていたんです」
「倉庫の管理と、賃貸です!」
「賃貸?」
「ええ。使っていない倉庫を貸す話ですよ。それだけです」
所長は机の上の書類へ目を落としました。
私はお茶を置くふりをしながら、横目で見る。
土地建物売買契約書。
売主。
榊原宗一郎。
代理人。
榊原修二。
買主。
浜田食品株式会社。
売買代金、四千八百万円。
……。
昭和六十三年の四千八百万円。
文字にすると紙一枚ですが、胃に入れるとたぶん重たいです。
「弟さんは、榊原さんの印鑑も持っていたんですね」
「賃貸契約に使うからですよ!」
「登記済証は?」
「金庫にあるはずだったんです!」
「実印は?」
「……預けていました」
事務所が静かになりました。
私は思いました。
それはちょっと預けすぎです。
真壁さんも同じことを思ったらしく、渋い顔をしています。
「榊原さん」
所長が低く聞きました。
「弟さんに、どこまで任せていたんです」
「だから、賃貸です! 倉庫を貸すことだけです!」
「土地を売る権限は?」
「ない!」
即答でした。
「絶対にない!」
榊原さんは拳で膝を叩きました。
「なのに弟のやつが、勝手に浜田食品に売ったんです。昨日になって先方から『来月引渡しをお願いします』なんて電話が来て……!」
なるほど。
これは――。
「無権代理ですね」
私がぽつりと言うと、真壁さんがこっちを見ました。
「お前、最近そういう単語を朝飯みたいに食うな」
「好きで食べてません」
「じゃあ何だ」
「前世で食わされました」
「また意味分からんこと言ってんな」
私も意味が分かりません。
でも。
頭の中では、宅建の過去問が勝手にページをめくっています。
代理権がない人が代理人として契約する。
無権代理。
原則として、本人には効果が帰属しない。
本人が追認しなければ、契約は本人を拘束しない。
――普通なら。
「所長」
「何だ」
「浜田食品さんは、弟さんに売却権限がないことを知ってたんでしょうか」
所長が私を見ました。
「そこだな」
榊原さんは顔をしかめました。
「知らないでしょう。弟は昔から口がうまい。私の代理人だとでも言ったんじゃないですか」
「実際、代理人だったんですよね?」
私が聞く。
「だから、倉庫を貸す件だけだ!」
「はい」
私は頷きました。
「そこが問題なんです」
「……何がです」
榊原さんが怪訝な顔をする。
私は少し迷いました。
まだ事務見習いです。
十八歳です。
本来なら、お茶を出したあと電話番でもしている立場です。
でも、目の前にあるのは、宅建テキストなら太字で囲まれている場面でした。
「弟さんには、代理権そのものはあったんですよね」
「賃貸だけです」
「でも弟さんは、それを超えて土地まで売った」
「そうです!」
「だったら――表見代理が成立する可能性があります」
榊原さんの顔が止まりました。
「……ひょうけん?」
「表見代理」
真壁さんが眉を上げます。
「見た目だけ代理人、ってやつか」
「ざっくり言うと、そんな感じです」
「俺の説明でいいのか?」
「珍しく八割くらい合ってます」
「二割どこ行った」
「後編です」
「何の後編だよ」
所長が咳払いしました。
「栞。続けろ」
「はい」
私は榊原さんに向き直りました。
「本当は土地を売る権限がない。でも、外から見れば、売る権限までありそうに見えた。その外観を作ったことについて本人側にも原因があって、相手がそれを信じたことに落ち度がなければ――」
そこで一度区切ります。
「本人が、『権限はなかったから知りません』とは言えなくなる場合があります」
「そんな馬鹿な!」
榊原さんが立ち上がりました。
「勝手に弟がやったんですよ!」
「はい」
私はその怒りを否定しませんでした。
弟さんが勝手に売った。
それ自体はその通りです。
でも。
「弟さんを代理人にしたのは、榊原さんですよね」
「……」
「実印を預けたのも」
「……」
「土地と倉庫の管理を任せていたのも」
「……そうだが」
「取引先に、弟さんをどう紹介していました?」
その瞬間。
榊原さんの目が、わずかに泳ぎました。
所長が見逃しませんでした。
「何かありますね」
「……別に」
「榊原さん」
低い声。
大槻所長の「別に」は通りません圧が発動しました。
榊原さんはしばらく黙ったあと、苦々しく言いました。
「……『不動産のことは弟に任せている』とは、何度か」
あ。
それは。
「誰にです?」
「取引先に」
「浜田食品にも?」
沈黙。
私は心の中で頭を抱えました。
本人自ら外観を施工している。
しかも基礎工事から。
「一度だけです!」
榊原さんが言いました。
「浜田食品の専務が来た時ですよ。私は忙しかったから、『土地や倉庫のことは修二に任せてある』と」
「土地も?」
「言葉の綾です!」
――言葉の綾で四千八百万円が動く。
不動産、本当に怖い。
所長が静かに立ち上がりました。
「浜田食品へ行きましょう」
「え?」
「向こうが何を見て、何を信じたのか確認しないと判断できません」
真壁さんも立ち上がります。
「栞、来い」
「私も?」
「言い出した奴が来なくてどうする」
「事務見習いですよ、私」
「最近のお前は見習うより先にしゃべってる」
反論できません。
◇
浜田食品株式会社は、町の外れにある漬物工場でした。
敷地へ入った瞬間、ものすごく沢庵の匂いがします。
法律問題なのに嗅覚情報が強い。
応接室に通されると、五十歳くらいの男性が待っていました。
浜田専務。
人のよさそうな丸顔です。
「いやあ、大槻さん。どうしたんです?」
所長が単刀直入に言いました。
「榊原さんの土地の売買です」
「ああ。来月決済の」
「榊原さん本人は、弟さんに売却の代理権を与えていないと言っています」
浜田専務の笑顔が消えました。
「……え?」
本当に知らなかった顔でした。
私は胸の奥が重くなるのを感じました。
相手が悪党なら簡単です。
悪党を論理で叩き潰せばいい。
でも法律の問題で厄介なのは。
善人と善人が、同じ土地の両側に立つことです。
「そんな……」
浜田専務は額に手を当てました。
「私どもは、てっきり」
「なぜそう思ったんです?」
真壁さんが聞く。
「なぜって……」
浜田専務は戸棚から封筒を持ってきました。
「これですよ」
中から何枚か書類を出します。
名刺。
榊原材木店。
不動産管理担当。
榊原修二。
それから。
榊原宗一郎名義の委任状。
ただし内容は――。
倉庫の賃貸借契約締結、賃料受領、管理に関する一切の件。
売却とは書いてありません。
私は息を吐きました。
ここだけなら、普通は気づける。
土地の売却は、明らかに大きな行為です。
賃貸を任されている人が、そのまま売っていいとは限らない。
でも。
「これもあります」
浜田専務が、もう一枚出しました。
榊原材木店の便箋。
榊原宗一郎さんの署名。
そこにはこう書かれていました。
――今後、所有不動産に関する交渉については弟・修二を窓口としておりますので、同人とお話しくださいますようお願い申し上げます。
私は目を閉じたくなりました。
窓口。
便利な言葉です。
そして危険な言葉です。
「これ、いつもらいました?」
私が聞く。
「半年ほど前です」
「榊原さん本人から?」
「ええ」
「売買契約の時、何か確認しました?」
「しましたよ」
浜田専務は即答しました。
「修二さんに、本当に売却まで任されているのかと」
「何と?」
「兄から任されている、と」
「それだけですか」
「いえ」
浜田専務は少し考えて。
「宗一郎さんの実印も押されていましたし、印鑑証明書もありました。権利証も見せてもらいました」
真壁さんが小さく息を吐きました。
「全部持たせてたのか……」
全部盛りです。
ラーメンなら嬉しいやつ。
代理権の外観では全然嬉しくありません。
私は聞きました。
「浜田さん。以前、榊原さん本人から、弟さんについて何か言われたことは?」
「ああ……あります」
浜田専務が思い出したように頷きました。
「去年の宴会で」
また宴会。
土地はなぜ宴会に弱いのか。
「宗一郎さんが、『不動産のことは弟の方が詳しい。今後は修二と話してくれ』と」
「売る話も?」
「その時は、工場用地を探していると言ったんです」
榊原さんが、わずかに顔をしかめました。
浜田専務は続けます。
「そうしたら宗一郎さんが、『うちにも使ってない土地があるから、修二に聞いてみろ』と」
――決まった。
少なくとも。
表見代理を真正面から争えば、榊原さんは相当苦しい。
「榊原さん」
所長が言いました。
「これは厳しいです」
「何がです!」
「浜田さんが弟さんに売却権限があると信じたことについて、相応の理由があります」
「だが、私は売れなんて言ってない!」
「それは分かっています」
「なら!」
「でも」
私は思わず口を挟みました。
「浜田さんから見たら、どうでしょう」
榊原さんが私を睨みます。
怖い。
でも、ここで引いたらただのお茶係です。
「榊原さん本人から、『不動産のことは弟に任せている』と言われる」
「……」
「使っていない土地があるから弟に聞け、と言われる」
「……」
「弟さんは実印を持っている」
「……」
「印鑑証明書もある」
「……」
「権利証まである」
「……」
「その状態で契約した相手に、後から『実は売る権限だけはありませんでした』と言われても……」
私は少しだけ言葉を選びました。
「見抜け、という方が難しくないですか」
部屋が静かになりました。
沢庵工場なのに、音が消えたように感じます。
榊原さんは顔を赤くしていました。
「じゃあ……私が悪いっていうのか」
私は首を横に振りました。
「弟さんが勝手なことをしたのは、弟さんの責任です」
「なら」
「でも、浜田さんも悪くないんです」
その言葉で。
榊原さんの怒りが、ほんの少し止まりました。
「今回の法律は、誰が一番悪いかを決める話じゃないと思います」
私は言いました。
「誰に、その損を負わせるのが公平か、という話です」
「……公平?」
「浜田さんは、榊原さんが作った“弟さんには権限がありそうだ”という状態を信じて契約した」
本人。
代理人。
相手方。
三人の線が頭の中に浮かびます。
「だったら、その外観を信じた浜田さんより――」
私は榊原さんを見る。
「その外観を作る原因を作った側が、責任を負うことがある」
所長が静かに頷きました。
「それが表見代理だ」
榊原さんは椅子へ深く座り込みました。
「……そんな」
弱い声でした。
怒鳴っていた時より、ずっと胸に刺さります。
「親父から継いだ土地なんですよ」
ぽつりと。
「売る気なんてなかった」
それは、きっと本当でした。
使っていない。
でも手放したくはない。
土地には、そういうものがあります。
損得だけでは測れない場所。
父親の背中があった場所。
子供のころ走った場所。
何にも使っていないのに、なくなると痛い場所。
浜田専務も黙っています。
そして、しばらくして言いました。
「……榊原さん」
「何です」
「私どもも、どうしてもあの土地でないと困るわけではありません」
全員が浜田専務を見ました。
「実は隣町にも候補がありましてね」
「え?」
「ただ、こちらの方が工場に近かった。それで買ったんです」
浜田専務は頭をかきました。
「修二さんには参りましたが……あなたがそこまで売りたくない土地なら、無理に取ろうとは思いません」
「浜田さん……」
「ただし」
そこで専務の目が少しだけ商売人になりました。
「こちらも、契約のために測量や設計を進めています。手付金も支払いました。それまで全部なかったことに、というわけにはいきません」
当然です。
善意は無料ではありません。
真壁さんが腕を組みました。
「解除の条件を詰めるか」
「ええ」
所長も頷く。
「損害を整理して、榊原さん側で負担する。そのうえで合意解除できるなら、それが一番傷が浅いでしょう」
榊原さんはしばらく黙っていました。
やがて。
深く、頭を下げました。
「……お願いします」
それは朝の怒鳴り声とは、まったく違う声でした。
◇
その日の午後。
事務所では、真壁さんと所長が浜田食品側との調整に追われました。
測量費。
設計費。
手付金。
金融機関への手続費用。
解除に伴う負担。
一つずつ数字にする。
法律で「有効」「無効」と言うのは簡単です。
でも実務では、その二文字の間に、人の時間とお金がぎっしり詰まっています。
夕方になって。
ようやく話がまとまりました。
浜田食品は売買契約を合意解除。
榊原さんは、浜田食品が実際に負担した費用を補償。
手付金は全額返還。
土地は榊原さんの手元に残る。
そして。
弟の修二さんについては、別途きちんと責任を整理する。
「助かった……」
榊原さんは、事務所の椅子に腰を落としました。
本当に、全身から空気が抜けるみたいでした。
「でも、結構な額になりましたね」
私は言いました。
「仕方ない」
榊原さんは苦笑します。
「土地を失うよりはいい」
「……そうですね」
「それに」
彼は少しだけ視線を落としました。
「今回のことは、俺にも原因があったんでしょう」
私は返事に迷いました。
すると所長が先に言いました。
「原因は、一つじゃありません」
榊原さんが顔を上げます。
「弟さんが権限を越えた。それがまず問題です」
「はい」
「だが、代理人に何を持たせるか、どう紹介するか。それも本人の責任だ」
「……」
「代理というのは便利です」
所長は机の上の印鑑証明書を指で叩きました。
「便利なものほど、境界を曖昧にすると怖い」
榊原さんは、ゆっくり頷きました。
「これからは……弟には何も任せません」
「極端ですね」
私が思わず言うと。
真壁さんが吹き出しました。
「栞。今そこ突っ込むか?」
「だって、ゼロか百かなんですもん」
「じゃあどうしろってんだ」
「任せる範囲を書面にする」
私は言いました。
「何ができて、何ができないか」
「……なるほど」
「実印も必要な時だけ渡す」
「うん」
「権利証は――」
「絶対渡さん!」
榊原さんが即答しました。
「そこまで強く学習しましたか」
よかったです。
少なくとも次はなさそう。
たぶん。
◇
夜。
榊原さんが帰ったあと。
私は自分の机で、今日の契約書を思い返していました。
真壁さんが隣の机で煙草をくわえながら言います。
「しかし、変な制度だな」
「何がです?」
「権限ないのに、有効になるんだろ?」
「表見代理ですか」
「ああ」
真壁さんは煙を吐きました。
「本人からすりゃ、『俺は頼んでねえ』って話だろ」
「そうなんですよね」
「じゃあ本人かわいそうじゃねえか」
「かわいそうです」
「でも相手も悪くない」
「そうなんです」
「じゃあどうすんだ」
「だから法律が困るんです」
真壁さんが笑いました。
「法律も困るのか」
「困ると思いますよ」
私は椅子の背にもたれました。
「どっちも悪くないことって、ありますから」
「今日みたいにな」
「はい」
正確には。
弟さんはかなり悪いです。
でも。
本人と相手方だけを比べれば、どちらにも守りたい事情がある。
「だから、見た目を作った方に負担させる」
真壁さんが言いました。
「そんな感じか?」
「ええ」
「じゃあ俺が所長に『栞はうちの契約全部任されてます』って言いふらしたら?」
「やめてください」
「名刺も作ってやる」
「やめてください」
「『藤崎栞・全権代理人』」
「十八歳に背負わせる文字じゃないです」
奥から所長の声がしました。
「安心しろ。栞に全権など渡さん」
「ですよね」
「電話番だけだ」
「権限が狭すぎません?」
「お茶もあるぞ」
「拡張が微妙!」
真壁さんが笑った。
所長も少しだけ口元を緩めました。
私は頬を膨らませながら、机の上の受験案内を開きました。
代理。
無権代理。
表見代理。
昨日までなら。
AがBの代理人としてCと契約した、と書いてあるだけだった。
A。
B。
C。
記号です。
顔がない。
声もない。
だから、すぐ混乱する。
でも今日は違います。
本人には、榊原さんの顔がある。
代理人には、まだ会っていない弟さんがいる。
相手方には、沢庵の匂いがする浜田専務がいる。
そして。
表見代理という制度の向こうには。
たった一つの問いがある。
――その「代理人らしさ」を、誰が作ったのか。
「栞」
「はい?」
所長が私の机に、小さな紙袋を置きました。
「榊原さんからだ」
「何です?」
「饅頭」
「またですか」
「礼だそうだ」
私は袋を開けました。
六個。
きれいに並んでいます。
「真壁さん」
「ん?」
「二個までですよ」
「なんでお前が配給決めてんだ」
「今日一番しゃべったので」
「代理権あるのか?」
私は一瞬黙りました。
それから、紙袋を抱え込む。
「ありませんけど、外観はあります」
「何の外観だよ!」
笑い声が、夜の事務所に広がりました。
窓の外では、昭和六十三年の町が、まだ明るい。
土地の値段が上がり。
契約が増え。
人が誰かに仕事を任せ。
その分だけ、代理人も増えていく。
便利な時代ほど。
「任せた」と「そこまでは任せていない」の境目は、たぶん大事になる。
私は饅頭を一つ取って、半分に割りました。
条文は、人を疑えとは言っていない。
ただ。
誰かを信じさせる姿を作ったなら。
その姿に、少しだけ責任を持ちなさい。
そう言っているような気がした。
私は一口食べました。
甘い。
今日は、たぶんこれでいい。
そして明日からは。
誰かに実印と権利証をまとめて渡そうとする人を見たら。
私は全力で止めようと思います。
法律以前に。
本当に。
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