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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 代理

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[表見代理]現場編 実印と権利証の全部盛りは勘弁してください

挿絵(By みてみん)


人は、肩書に弱いです。


 医者。議員。教授。社長。そして――代理人。


 名刺にそれっぽい文字が印刷されていて、本人の隣で堂々と座っていて、鍵まで持っていて、「この件は彼に任せています」なんて紹介されたら。


 普通は思います。


 ああ、この人には権限があるんだな、と。


 そこで後から、


「いや、あいつにそこまで任せた覚えはない」


 と言われても。


 ――知らんがな。


 というのが、人情というものです。


 そして民法は、ときどき人情より少しだけ冷静な顔をして、だいたい同じことを言います。


          ◇


「売ってません!」


 朝九時十二分。


 大槻不動産の事務所に、男の怒鳴り声が響きました。


 私は危うく急須を落としかけました。


 朝から土地の所有権を否定する声量としては元気すぎます。


「絶対に売ってない! 私はあの土地を売るなんて一言も言ってないんですよ!」


 客は五十代半ばくらいの男性でした。


 紺色の背広。


 金縁眼鏡。


 髪はきれいに撫でつけられているのに、その額には汗が浮いています。


 名前は榊原宗一郎さん。


 町外れで材木店を営んでいる人でした。


 その榊原さんの向かいで、大槻所長が腕を組んでいます。


「では、弟さんには何を任せていたんです」


「倉庫の管理と、賃貸です!」


「賃貸?」


「ええ。使っていない倉庫を貸す話ですよ。それだけです」


 所長は机の上の書類へ目を落としました。


 私はお茶を置くふりをしながら、横目で見る。


 土地建物売買契約書。


 売主。


 榊原宗一郎。


 代理人。


 榊原修二。


 買主。


 浜田食品株式会社。


 売買代金、四千八百万円。


 ……。


 昭和六十三年の四千八百万円。


 文字にすると紙一枚ですが、胃に入れるとたぶん重たいです。


「弟さんは、榊原さんの印鑑も持っていたんですね」


「賃貸契約に使うからですよ!」


「登記済証は?」


「金庫にあるはずだったんです!」


「実印は?」


「……預けていました」


 事務所が静かになりました。


 私は思いました。


 それはちょっと預けすぎです。


 真壁さんも同じことを思ったらしく、渋い顔をしています。


「榊原さん」


 所長が低く聞きました。


「弟さんに、どこまで任せていたんです」


「だから、賃貸です! 倉庫を貸すことだけです!」


「土地を売る権限は?」


「ない!」


 即答でした。


「絶対にない!」


 榊原さんは拳で膝を叩きました。


「なのに弟のやつが、勝手に浜田食品に売ったんです。昨日になって先方から『来月引渡しをお願いします』なんて電話が来て……!」


 なるほど。


 これは――。


「無権代理ですね」


 私がぽつりと言うと、真壁さんがこっちを見ました。


「お前、最近そういう単語を朝飯みたいに食うな」


「好きで食べてません」


「じゃあ何だ」


「前世で食わされました」


「また意味分からんこと言ってんな」


 私も意味が分かりません。


 でも。


 頭の中では、宅建の過去問が勝手にページをめくっています。


 代理権がない人が代理人として契約する。


 無権代理。


 原則として、本人には効果が帰属しない。


 本人が追認しなければ、契約は本人を拘束しない。


 ――普通なら。


「所長」


「何だ」


「浜田食品さんは、弟さんに売却権限がないことを知ってたんでしょうか」


 所長が私を見ました。


「そこだな」


 榊原さんは顔をしかめました。


「知らないでしょう。弟は昔から口がうまい。私の代理人だとでも言ったんじゃないですか」


「実際、代理人だったんですよね?」


 私が聞く。


「だから、倉庫を貸す件だけだ!」


「はい」


 私は頷きました。


「そこが問題なんです」


「……何がです」


 榊原さんが怪訝な顔をする。


 私は少し迷いました。


 まだ事務見習いです。


 十八歳です。


 本来なら、お茶を出したあと電話番でもしている立場です。


 でも、目の前にあるのは、宅建テキストなら太字で囲まれている場面でした。


「弟さんには、代理権そのものはあったんですよね」


「賃貸だけです」


「でも弟さんは、それを超えて土地まで売った」


「そうです!」


「だったら――表見代理が成立する可能性があります」


 榊原さんの顔が止まりました。


「……ひょうけん?」


「表見代理」


 真壁さんが眉を上げます。


「見た目だけ代理人、ってやつか」


「ざっくり言うと、そんな感じです」


「俺の説明でいいのか?」


「珍しく八割くらい合ってます」


「二割どこ行った」


「後編です」


「何の後編だよ」


 所長が咳払いしました。


「栞。続けろ」


「はい」


 私は榊原さんに向き直りました。


「本当は土地を売る権限がない。でも、外から見れば、売る権限までありそうに見えた。その外観を作ったことについて本人側にも原因があって、相手がそれを信じたことに落ち度がなければ――」


 そこで一度区切ります。


「本人が、『権限はなかったから知りません』とは言えなくなる場合があります」


「そんな馬鹿な!」


 榊原さんが立ち上がりました。


「勝手に弟がやったんですよ!」


「はい」


 私はその怒りを否定しませんでした。


 弟さんが勝手に売った。


 それ自体はその通りです。


 でも。


「弟さんを代理人にしたのは、榊原さんですよね」


「……」


「実印を預けたのも」


「……」


「土地と倉庫の管理を任せていたのも」


「……そうだが」


「取引先に、弟さんをどう紹介していました?」


 その瞬間。


 榊原さんの目が、わずかに泳ぎました。


 所長が見逃しませんでした。


「何かありますね」


「……別に」


「榊原さん」


 低い声。


 大槻所長の「別に」は通りません圧が発動しました。


 榊原さんはしばらく黙ったあと、苦々しく言いました。


「……『不動産のことは弟に任せている』とは、何度か」


 あ。


 それは。


「誰にです?」


「取引先に」


「浜田食品にも?」


 沈黙。


 私は心の中で頭を抱えました。


 本人自ら外観を施工している。


 しかも基礎工事から。


「一度だけです!」


 榊原さんが言いました。


「浜田食品の専務が来た時ですよ。私は忙しかったから、『土地や倉庫のことは修二に任せてある』と」


「土地も?」


「言葉の綾です!」


 ――言葉の綾で四千八百万円が動く。


 不動産、本当に怖い。


 所長が静かに立ち上がりました。


「浜田食品へ行きましょう」


「え?」


「向こうが何を見て、何を信じたのか確認しないと判断できません」


 真壁さんも立ち上がります。


「栞、来い」


「私も?」


「言い出した奴が来なくてどうする」


「事務見習いですよ、私」


「最近のお前は見習うより先にしゃべってる」


 反論できません。


          ◇


 浜田食品株式会社は、町の外れにある漬物工場でした。


 敷地へ入った瞬間、ものすごく沢庵の匂いがします。


 法律問題なのに嗅覚情報が強い。


 応接室に通されると、五十歳くらいの男性が待っていました。


 浜田専務。


 人のよさそうな丸顔です。


「いやあ、大槻さん。どうしたんです?」


 所長が単刀直入に言いました。


「榊原さんの土地の売買です」


「ああ。来月決済の」


「榊原さん本人は、弟さんに売却の代理権を与えていないと言っています」


 浜田専務の笑顔が消えました。


「……え?」


 本当に知らなかった顔でした。


 私は胸の奥が重くなるのを感じました。


 相手が悪党なら簡単です。


 悪党を論理で叩き潰せばいい。


 でも法律の問題で厄介なのは。


 善人と善人が、同じ土地の両側に立つことです。


「そんな……」


 浜田専務は額に手を当てました。


「私どもは、てっきり」


「なぜそう思ったんです?」


 真壁さんが聞く。


「なぜって……」


 浜田専務は戸棚から封筒を持ってきました。


「これですよ」


 中から何枚か書類を出します。


 名刺。


 榊原材木店。


 不動産管理担当。


 榊原修二。


 それから。


 榊原宗一郎名義の委任状。


 ただし内容は――。


 倉庫の賃貸借契約締結、賃料受領、管理に関する一切の件。


 売却とは書いてありません。


 私は息を吐きました。


 ここだけなら、普通は気づける。


 土地の売却は、明らかに大きな行為です。


 賃貸を任されている人が、そのまま売っていいとは限らない。


 でも。


「これもあります」


 浜田専務が、もう一枚出しました。


 榊原材木店の便箋。


 榊原宗一郎さんの署名。


 そこにはこう書かれていました。


 ――今後、所有不動産に関する交渉については弟・修二を窓口としておりますので、同人とお話しくださいますようお願い申し上げます。


 私は目を閉じたくなりました。


 窓口。


 便利な言葉です。


 そして危険な言葉です。


「これ、いつもらいました?」


 私が聞く。


「半年ほど前です」


「榊原さん本人から?」


「ええ」


「売買契約の時、何か確認しました?」


「しましたよ」


 浜田専務は即答しました。


「修二さんに、本当に売却まで任されているのかと」


「何と?」


「兄から任されている、と」


「それだけですか」


「いえ」


 浜田専務は少し考えて。


「宗一郎さんの実印も押されていましたし、印鑑証明書もありました。権利証も見せてもらいました」


 真壁さんが小さく息を吐きました。


「全部持たせてたのか……」


 全部盛りです。


 ラーメンなら嬉しいやつ。


 代理権の外観では全然嬉しくありません。


 私は聞きました。


「浜田さん。以前、榊原さん本人から、弟さんについて何か言われたことは?」


「ああ……あります」


 浜田専務が思い出したように頷きました。


「去年の宴会で」


 また宴会。


 土地はなぜ宴会に弱いのか。


「宗一郎さんが、『不動産のことは弟の方が詳しい。今後は修二と話してくれ』と」


「売る話も?」


「その時は、工場用地を探していると言ったんです」


 榊原さんが、わずかに顔をしかめました。


 浜田専務は続けます。


「そうしたら宗一郎さんが、『うちにも使ってない土地があるから、修二に聞いてみろ』と」


 ――決まった。


 少なくとも。


 表見代理を真正面から争えば、榊原さんは相当苦しい。


「榊原さん」


 所長が言いました。


「これは厳しいです」


「何がです!」


「浜田さんが弟さんに売却権限があると信じたことについて、相応の理由があります」


「だが、私は売れなんて言ってない!」


「それは分かっています」


「なら!」


「でも」


 私は思わず口を挟みました。


「浜田さんから見たら、どうでしょう」


 榊原さんが私を睨みます。


 怖い。


 でも、ここで引いたらただのお茶係です。


「榊原さん本人から、『不動産のことは弟に任せている』と言われる」


「……」


「使っていない土地があるから弟に聞け、と言われる」


「……」


「弟さんは実印を持っている」


「……」


「印鑑証明書もある」


「……」


「権利証まである」


「……」


「その状態で契約した相手に、後から『実は売る権限だけはありませんでした』と言われても……」


 私は少しだけ言葉を選びました。


「見抜け、という方が難しくないですか」


 部屋が静かになりました。


 沢庵工場なのに、音が消えたように感じます。


 榊原さんは顔を赤くしていました。


「じゃあ……私が悪いっていうのか」


 私は首を横に振りました。


「弟さんが勝手なことをしたのは、弟さんの責任です」


「なら」


「でも、浜田さんも悪くないんです」


 その言葉で。


 榊原さんの怒りが、ほんの少し止まりました。


「今回の法律は、誰が一番悪いかを決める話じゃないと思います」


 私は言いました。


「誰に、その損を負わせるのが公平か、という話です」


「……公平?」


「浜田さんは、榊原さんが作った“弟さんには権限がありそうだ”という状態を信じて契約した」


 本人。


 代理人。


 相手方。


 三人の線が頭の中に浮かびます。


「だったら、その外観を信じた浜田さんより――」


 私は榊原さんを見る。


「その外観を作る原因を作った側が、責任を負うことがある」


 所長が静かに頷きました。


「それが表見代理だ」


 榊原さんは椅子へ深く座り込みました。


「……そんな」


 弱い声でした。


 怒鳴っていた時より、ずっと胸に刺さります。


「親父から継いだ土地なんですよ」


 ぽつりと。


「売る気なんてなかった」


 それは、きっと本当でした。


 使っていない。


 でも手放したくはない。


 土地には、そういうものがあります。


 損得だけでは測れない場所。


 父親の背中があった場所。


 子供のころ走った場所。


 何にも使っていないのに、なくなると痛い場所。


 浜田専務も黙っています。


 そして、しばらくして言いました。


「……榊原さん」


「何です」


「私どもも、どうしてもあの土地でないと困るわけではありません」


 全員が浜田専務を見ました。


「実は隣町にも候補がありましてね」


「え?」


「ただ、こちらの方が工場に近かった。それで買ったんです」


 浜田専務は頭をかきました。


「修二さんには参りましたが……あなたがそこまで売りたくない土地なら、無理に取ろうとは思いません」


「浜田さん……」


「ただし」


 そこで専務の目が少しだけ商売人になりました。


「こちらも、契約のために測量や設計を進めています。手付金も支払いました。それまで全部なかったことに、というわけにはいきません」


 当然です。


 善意は無料ではありません。


 真壁さんが腕を組みました。


「解除の条件を詰めるか」


「ええ」


 所長も頷く。


「損害を整理して、榊原さん側で負担する。そのうえで合意解除できるなら、それが一番傷が浅いでしょう」


 榊原さんはしばらく黙っていました。


 やがて。


 深く、頭を下げました。


「……お願いします」


 それは朝の怒鳴り声とは、まったく違う声でした。


          ◇


 その日の午後。


 事務所では、真壁さんと所長が浜田食品側との調整に追われました。


 測量費。


 設計費。


 手付金。


 金融機関への手続費用。


 解除に伴う負担。


 一つずつ数字にする。


 法律で「有効」「無効」と言うのは簡単です。


 でも実務では、その二文字の間に、人の時間とお金がぎっしり詰まっています。


 夕方になって。


 ようやく話がまとまりました。


 浜田食品は売買契約を合意解除。


 榊原さんは、浜田食品が実際に負担した費用を補償。


 手付金は全額返還。


 土地は榊原さんの手元に残る。


 そして。


 弟の修二さんについては、別途きちんと責任を整理する。


「助かった……」


 榊原さんは、事務所の椅子に腰を落としました。


 本当に、全身から空気が抜けるみたいでした。


「でも、結構な額になりましたね」


 私は言いました。


「仕方ない」


 榊原さんは苦笑します。


「土地を失うよりはいい」


「……そうですね」


「それに」


 彼は少しだけ視線を落としました。


「今回のことは、俺にも原因があったんでしょう」


 私は返事に迷いました。


 すると所長が先に言いました。


「原因は、一つじゃありません」


 榊原さんが顔を上げます。


「弟さんが権限を越えた。それがまず問題です」


「はい」


「だが、代理人に何を持たせるか、どう紹介するか。それも本人の責任だ」


「……」


「代理というのは便利です」


 所長は机の上の印鑑証明書を指で叩きました。


「便利なものほど、境界を曖昧にすると怖い」


 榊原さんは、ゆっくり頷きました。


「これからは……弟には何も任せません」


「極端ですね」


 私が思わず言うと。


 真壁さんが吹き出しました。


「栞。今そこ突っ込むか?」


「だって、ゼロか百かなんですもん」


「じゃあどうしろってんだ」


「任せる範囲を書面にする」


 私は言いました。


「何ができて、何ができないか」


「……なるほど」


「実印も必要な時だけ渡す」


「うん」


「権利証は――」


「絶対渡さん!」


 榊原さんが即答しました。


「そこまで強く学習しましたか」


 よかったです。


 少なくとも次はなさそう。


 たぶん。


          ◇


 夜。


 榊原さんが帰ったあと。


 私は自分の机で、今日の契約書を思い返していました。


 真壁さんが隣の机で煙草をくわえながら言います。


「しかし、変な制度だな」


「何がです?」


「権限ないのに、有効になるんだろ?」


「表見代理ですか」


「ああ」


 真壁さんは煙を吐きました。


「本人からすりゃ、『俺は頼んでねえ』って話だろ」


「そうなんですよね」


「じゃあ本人かわいそうじゃねえか」


「かわいそうです」


「でも相手も悪くない」


「そうなんです」


「じゃあどうすんだ」


「だから法律が困るんです」


 真壁さんが笑いました。


「法律も困るのか」


「困ると思いますよ」


 私は椅子の背にもたれました。


「どっちも悪くないことって、ありますから」


「今日みたいにな」


「はい」


 正確には。


 弟さんはかなり悪いです。


 でも。


 本人と相手方だけを比べれば、どちらにも守りたい事情がある。


「だから、見た目を作った方に負担させる」


 真壁さんが言いました。


「そんな感じか?」


「ええ」


「じゃあ俺が所長に『栞はうちの契約全部任されてます』って言いふらしたら?」


「やめてください」


「名刺も作ってやる」


「やめてください」


「『藤崎栞・全権代理人』」


「十八歳に背負わせる文字じゃないです」


 奥から所長の声がしました。


「安心しろ。栞に全権など渡さん」


「ですよね」


「電話番だけだ」


「権限が狭すぎません?」


「お茶もあるぞ」


「拡張が微妙!」


 真壁さんが笑った。


 所長も少しだけ口元を緩めました。


 私は頬を膨らませながら、机の上の受験案内を開きました。


 代理。


 無権代理。


 表見代理。


 昨日までなら。


 AがBの代理人としてCと契約した、と書いてあるだけだった。


 A。


 B。


 C。


 記号です。


 顔がない。


 声もない。


 だから、すぐ混乱する。


 でも今日は違います。


 本人には、榊原さんの顔がある。


 代理人には、まだ会っていない弟さんがいる。


 相手方には、沢庵の匂いがする浜田専務がいる。


 そして。


 表見代理という制度の向こうには。


 たった一つの問いがある。


 ――その「代理人らしさ」を、誰が作ったのか。


「栞」


「はい?」


 所長が私の机に、小さな紙袋を置きました。


「榊原さんからだ」


「何です?」


「饅頭」


「またですか」


「礼だそうだ」


 私は袋を開けました。


 六個。


 きれいに並んでいます。


「真壁さん」


「ん?」


「二個までですよ」


「なんでお前が配給決めてんだ」


「今日一番しゃべったので」


「代理権あるのか?」


 私は一瞬黙りました。


 それから、紙袋を抱え込む。


「ありませんけど、外観はあります」


「何の外観だよ!」


 笑い声が、夜の事務所に広がりました。


 窓の外では、昭和六十三年の町が、まだ明るい。


 土地の値段が上がり。


 契約が増え。


 人が誰かに仕事を任せ。


 その分だけ、代理人も増えていく。


 便利な時代ほど。


 「任せた」と「そこまでは任せていない」の境目は、たぶん大事になる。


 私は饅頭を一つ取って、半分に割りました。


 条文は、人を疑えとは言っていない。


 ただ。


 誰かを信じさせる姿を作ったなら。


 その姿に、少しだけ責任を持ちなさい。


 そう言っているような気がした。


 私は一口食べました。


 甘い。


 今日は、たぶんこれでいい。


 そして明日からは。


 誰かに実印と権利証をまとめて渡そうとする人を見たら。


 私は全力で止めようと思います。


 法律以前に。


 本当に。

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