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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 代理

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[無権代理]現場編 その判子、誰の許可で押しました?

挿絵(By みてみん)


 人間には、勝手にやっていいことと、悪いことがあります。


 たとえば、冷蔵庫のプリンを勝手に食べる。


 よくない。


 でもまあ、家族会議で済むかもしれません。


 人の土地を勝手に売る。


 これは駄目です。


 プリンとは桁が違います。


 値段も。


 揉め方も。


「だから、叔父の土地は俺が任されてるんですよ」


 その男は、大槻不動産の応接机に肘をついて言いました。


 三十代半ば。


 妙に艶のある髪。


 妙に太い金時計。


 そして、妙に自信満々。


 三つ揃うと、私の中の警報機が鳴ります。


 偏見です。


 たぶん。


「委任状は?」


 真壁さんが聞きました。


「だから、身内なんですって」


 答えになっていない。


 身内は委任状の代用品ではありません。


「叔父は体調崩して入院中でね。俺に全部任せるって前から言ってるんですよ」


 男――沢村健二は、そう言って煙草を灰皿に押しつけました。


 売りたいという土地は、駅から十分ほどの場所にある古い倉庫付きの宅地。


 所有者は叔父の沢村清吉さん。


 七十二歳。


 今回の男、健二さんは、その甥でした。


「で、買主はもう決まってます」


「もう?」


 私が聞き返すと、健二さんは得意そうに笑いました。


「昨日、契約したんですよ」


 ……ん?


「契約した?」


「ええ。三千二百万円。手付も三百万もらってます」


 真壁さんの眉が、ゆっくり寄りました。


 所長の大槻さんは何も言いません。


 ただし、黙っている所長は怖い。


 怒鳴る人より、ずっと怖い。


「清吉さんは、その契約をご存じなんですか?」


 所長が聞きました。


「だから、俺に任せてるって――」


「ご存じなんですか?」


 声量は変わっていない。


 なのに気温が二度くらい下がりました。


「……まだ話してませんよ。入院してるし」


 はい。


 警報機、最大音量。


 私は湯飲みを置きながら、昨夜まで前世で睨み合っていた宅建のテキストを思い出しました。


 代理。


 代理権。


 無権代理。


 表見代理。


 そして、あの受験生泣かせの文章。


 ――代理権のない者が本人の代理人としてした契約は、本人が追認しなければ本人に対して効力を生じない。


「……真壁さん」


「なんだ」


「これ、まずいですよね」


「お前に言われんでも分かる」


 でしょうね。


 でも私は言いたい。


 テスト問題ならA、B、Cで済むのに、現実になると全員ちゃんと顔がある。


 そして顔があるぶん、胃が痛い。


 その時、事務所の電話が鳴りました。


 私が受話器を取ります。


「はい、大槻不動産です」


『あの……沢村さんの土地のことで……』


 女性の声でした。


「はい」


『昨日、契約した高瀬と申します』


 私は思わず健二さんを見ました。


 健二さんもこちらを見る。


 妙に目が泳いだ。


「少々お待ちください」


 受話器を押さえます。


「買主さんです」


「ちょうどいいじゃないですか」


 健二さんが立ち上がりました。


「叔父の土地は俺が処分できるって説明してくださいよ」


 いやです。


「説明できません」


「は?」


「だって、本当に処分できるか確認できてませんから」


「身内だって言ってるだろ」


「身内だと土地を売れるなら、日本中の親戚付き合いが一気に危険になります」


 真壁さんが吹き出しました。


 所長は笑っていません。


 よかった。


 私まで怒られそうなので。


 結局、その日の午後。


 買主の高瀬美和子さんが事務所へやってきました。


 四十歳くらい。


 小柄な女性で、古びた革の鞄を抱えています。


「私……あそこにパン屋を出すつもりだったんです」


 開口一番、そう言いました。


「勤めてた店を辞めて。ずっと、自分の店を持ちたくて」


 机の上には売買契約書。


 売主欄には、


 沢村清吉 代理人 沢村健二。


 健二さんの印鑑。


 手付金、三百万円。


「健二さんから、叔父さんに全部任されていると聞きました」


「委任状は見ましたか?」


「いいえ。でも……甥御さんだって聞いて」


「清吉さん本人とは?」


「会ってません」


 私は小さく息を吐きました。


 悪いのは、この人ではない。


 少なくとも今の話を聞く限り、代理権があると思って契約しただけです。


「私、もうオーブンも注文してるんです」


 高瀬さんは言いました。


「内装業者とも話をして……。来月には勤め先も辞める予定で……」


 夢の話ほど、契約事故との相性が悪い。


 夢には勢いがある。


 法律にはブレーキがある。


 たぶん両方必要なのだけれど、こういう時はブレーキのほうがありがたい。


「所長」


 私は大槻さんを見ました。


「まず、本人に確認したほうがいいですよね」


「ああ」


「本人が追認するなら……」


「契約は生きる」


「しないなら?」


「本人を縛ることはできん」


 高瀬さんが顔を上げました。


「追認?」


「簡単に言えば」


 私は言葉を選びました。


「清吉さん本人に、『甥御さんが勝手にした契約だけど、あなたもこの契約でいいですか』と確認することです」


「もし……嫌だと言われたら?」


「少なくとも、清吉さんに『土地を渡してください』とは言えません」


 高瀬さんの顔が青くなりました。


「じゃあ、私の三百万円は?」


「そこは別の話です」


 真壁さんが低い声で言いました。


「本人が責任を負わないからって、勝手に代理した奴まで無傷で帰れるわけじゃない」


「……健二さんに?」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


「ただ、まずは順番です」


 誰が本人なのか。


 誰が代理人を名乗ったのか。


 本当に代理権があったのか。


 本人は契約を認めるのか。


 この順番を崩すと、話が全部ごちゃごちゃになる。


 法律って、意外と片付け上手です。


 私の部屋より、たぶん。


 翌朝。


 私たちは清吉さんの入院先へ向かいました。


 病室に入ると、白髪の小柄な男性がベッドで新聞を読んでいました。


 思ったより元気そうです。


「大槻不動産です」


 所長が名乗り、事情を説明しました。


 清吉さんは最初、意味が分からないという顔をしていました。


 それから。


 売買契約書の写しを見た瞬間。


 顔が真っ赤になりました。


「売るわけないだろ!」


 病室に響く声。


 元気ですね。


 安心しました。


 いや、安心している場合ではない。


「あそこは女房と始めた倉庫だぞ!」


 清吉さんは震える指で契約書を叩きました。


「健二に売れなんて、一言も言っとらん!」


「土地の管理を頼んだことは?」


 所長が聞きます。


「草刈りと、固定資産税の払い込みを一度頼んだだけだ!」


「売却の権限は?」


「あるか、そんなもの!」


 完全にない。


 草刈りから三千二百万円の土地売却まで進化するのは、ゲームでも成長曲線がおかしい。


「健二さんから、土地を売ったと報告は?」


「今初めて聞いた!」


 清吉さんはしばらく怒っていました。


 でも、やがて急に黙りました。


「……買った人がいるのか」


「はい」


 私が答える。


「パン屋さんを開きたいそうです」


「そうか……」


 清吉さんの怒りが少しだけしぼみました。


 買主にも人生がある。


 それが分かってしまった顔でした。


「その人には悪いが……売れん」


「それでいいんです」


 私は言いました。


「清吉さんが売ると決めたわけじゃないんですから」


 清吉さんは、しばらく窓の外を見ていました。


「女房がな」


「はい?」


「昔、あそこで菓子を焼いてたんだ」


 倉庫の片隅に、小さな台所があったらしい。


 亡くなった奥さんが近所の子どもにクッキーを焼いた。


 年末には餅をついた。


 清吉さんにとっては、不動産というより、記憶の入れ物だった。


「金額じゃないんだなあ」


 帰りの廊下で、真壁さんが言いました。


「不動産って、大体そうですよ」


「十八のくせに悟ってんな」


「精神年齢はもう少し上なんです」


「は?」


「独り言です」


 転生者、説明が面倒です。


 事務所に戻ると、高瀬さんが待っていました。


 私は、清吉さんが追認しない意思を示したことを伝えました。


 高瀬さんは俯きました。


「……駄目でしたか」


「はい」


 ここで、「残念でしたね」で終わらせたら、不動産屋ではなく伝書鳩です。


 私は椅子を引いて、高瀬さんの正面に座りました。


「でも、高瀬さん。あなたまで何もできないわけじゃありません」


「え?」


「清吉さんが認めない以上、このまま『いつか認めてくれるかもしれない』と宙ぶらりんでいる必要もありません」


「……どういうことですか?」


「健二さんに代理権がなかったと知らずに契約したなら、本人が追認するまでの間、契約を取り消すという道があります」


 高瀬さんが目を見開きました。


「取り消せるんですか?」


「はい。少なくとも、ずっと待たされ続ける必要はありません」


 私は契約書を指しました。


「それと、手付三百万円」


「……返してもらえますか」


「健二さんと話をします」


 その日の夕方。


 健二さんを事務所へ呼びました。


 来た瞬間から不機嫌でした。


「叔父貴、何て言ってました?」


「追認しません」


 所長が答えました。


「は?」


「この売買は認めないそうだ」


 健二さんが鼻で笑いました。


「いやいや。俺は前から任されて――」


「草刈りを、ですか?」


 私が聞きました。


 健二さんの顔が止まりました。


「固定資産税の払い込みも一度」


「……」


「そこからどうやったら土地の売却権限が生えてくるんです?」


 沈黙。


「そんな細かい話じゃないだろ!」


「三千二百万円は、かなり細かく確認したほうがいい金額です」


 真壁さんが横で咳払いしました。


 笑いを隠したな。


 絶対。


「甥なんだぞ、俺は!」


「甥は代理権ではありません」


「叔父貴だって最後には納得する!」


「しません」


 所長が断ち切りました。


「本人は明確に拒絶した」


 健二さんの顔から、ようやく余裕が消えました。


「じゃあ……契約は?」


「清吉さんには効力を及ぼせない」


 所長が言いました。


「そして、高瀬さんはこちらにいる」


 奥の席から高瀬さんが立ち上がりました。


 健二さんが振り返る。


「高瀬さん、これは――」


「沢村さん」


 高瀬さんの声は震えていました。


 でも、逃げませんでした。


「私、契約を取り消します」


「ちょっと待ってくださいよ!」


「待ちません」


 健二さんが絶句した。


「あなたに本当に売る権限があると信じて、私は契約しました。三百万円も払いました」


「だから叔父貴を説得すれば――」


「もう結構です」


 高瀬さんは、鞄から一枚の書面を出しました。


「手付金も返してください」


 健二さんの頬が引きつった。


「今すぐ三百万なんて……」


「ありません、は通りませんよ」


 真壁さんが言いました。


「受け取ったんだろ」


「使ったわけじゃ――」


「なら返せるな」


「……」


 怖い。


 真壁さん、こういう時は顔の怖さを有効活用するタイプです。


 宅建業法に「顔面による説得」はありませんが、実務にはあります。


「健二さん」


 私は静かに言いました。


「本人の名前を使えば、何でも本人の契約になるわけじゃありません」


「……」


「代理って、便利なんです。でも、便利だからこそ、権限が必要なんです」


「説教かよ」


「いいえ」


 私は首を振りました。


「確認です」


 健二さんが私を睨む。


「勝手に契約した人が、『本人が嫌がったから全部なかったことに』で済むなら、高瀬さんだけが損をします」


「……」


「それは、おかしいでしょう」


 しばらくの沈黙のあと。


 健二さんは、ゆっくり椅子に座りました。


「……三百万は、返す」


 それから一週間かかりました。


 全額、一度ではありませんでした。


 でも、高瀬さんには三百万円が戻りました。


 そしてさらに二週間後。


 真壁さんが一枚の物件資料を私の机に放りました。


「栞」


「はい?」


「例のパン屋の人に、これどうだ」


「え?」


 駅の反対側。


 古い店舗付き住宅。


 一階が元喫茶店。


 厨房設備は古いものの、排気も取れる。


 価格も予算内。


「……真壁さん」


「なんだ」


「探してたんですか?」


「別に」


「探してた顔ですよ」


「うるせえ」


 分かりやすい人です。


 高瀬さんを案内すると、彼女は店の中を何度も歩き回りました。


 窓を開けて。


 厨房を見て。


 裏口を見て。


 最後に、道路側の大きな窓の前で止まる。


「ここなら……パン、並べられますね」


「ですね」


「朝、光も入る」


「たぶん、いい匂いも外まで行きます」


「迷惑じゃないですか?」


「パンの匂いなら私は許します」


 私が言うと、高瀬さんは初めて声を出して笑いました。


 三か月後。


 店は本当に開きました。


 名前は、


 『麦の灯』。


 開店初日の朝、高瀬さんが大きな紙袋を抱えて事務所にやってきました。


「皆さんで食べてください」


「こんなに?」


「試作品です」


「売り物でしょう」


「恩人価格です」


「いくらですか?」


「無料」


「価格とは」


 真壁さんが真っ先にあんパンを取った。


「先輩、遠慮って知ってます?」


「知ってる。今日は使わない」


 所長は黙ってクリームパンを取った。


 所長まで。


 この事務所、甘いものに弱すぎる。


 私は、小さなクロワッサンを一つもらいました。


 さくっと音がする。


 バターの香りが広がった。


「そういえば、清吉さんは?」


 高瀬さんが聞きました。


「退院したそうです」


「よかった」


 少しだけ間を置いて、彼女は笑いました。


「今なら思います。あの土地じゃなくてよかったのかも」


「そうなんですか?」


「はい」


「どうして?」


「あそこは、私の店になる場所じゃなかったんですよ」


 私は聞き返しませんでした。


 たぶん。


 清吉さんには、清吉さんの場所。


 高瀬さんには、高瀬さんの場所。


 どちらかが泣かなければ成立しない契約なら、最初からどこかが間違っていたのかもしれません。


 夕方。


 私は受験用のノートを開きました。


 無権代理。


 代理権のない者が、本人の代理人として契約する。


 本人が追認すれば、その契約は本人に帰属する。


 追認しなければ、本人を勝手に縛ることはできない。


 その横に、小さく書き足します。


 ――他人の人生を動かす権限は、「身内だから」では生えてこない。


「栞」


「はい?」


 真壁さんが、最後の一個だったメロンパンを持っています。


「半分食うか」


「珍しいですね」


「俺を何だと思ってる」


「人のパンを真っ先に取る人」


「返せ」


「いただきます」


 私は半分を受け取りました。


 昭和六十三年。


 バブルの土地は、相変わらず高い。


 たぶんこれから、もっと高くなる。


 高くなればなるほど、人は土地を数字で見る。


 でも。


 そこに住んだ人。


 そこを守ってきた人。


 そこで何かを始めようとする人。


 契約書の向こうには、いつも誰かの生活がある。


 だからこそ。


 誰かの名前を使うなら、ちゃんと権限をもらうこと。


 そんな当たり前のことを守るために、民法はずいぶん難しい言葉を使う。


 私はメロンパンをかじりました。


「……おいしい」


「だろ」


「真壁さんが作ったみたいに言わないでください」


「物件見つけたの俺だから、一割くらい俺の功績だ」


「パンの味には一ミリも関係ありません」


 所長が新聞の向こうで、低く笑いました。


 こうして今日も、大槻不動産の一日は終わる。


 無権代理。


 教科書なら、ほんの数ページ。


 でも現場では。


 勝手に売られそうになった土地と。


 三百万円を失いかけた人と。


 一軒の新しいパン屋をめぐる話になった。


 法律は、ときどき面倒くさい。


 でも。


 勝手に誰かの人生を決めさせないためなら――。


 その面倒くささも、案外、悪くない。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。


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