[復代理]現場編 任せた相手が、さらに誰かに任せる日
代理人という言葉には、妙な魔力があります。
「本人から任されています」
そう言われると、なんとなく強そうです。
印鑑証明がなくても強そう。
委任状が雑でも強そう。
声が大きいと、さらに強そう。
そして世の中には、その魔力を二倍にしようとする人がいます。
「俺は、その代理人から任されてます」
――代理人の代理人。
つまり、復代理人です。
名前だけ聞くと、ちょっと強そうですよね。
復活した代理人みたいで。
でも残念ながら、民法はロールプレイングゲームではありません。勝手にジョブチェンジできないのです。
昭和六十三年、七月。
その日の大槻不動産は、朝から扇風機が死にかけていました。
ぶおおおお。
ぶ……おおお。
ぶお……。
「所長。この扇風機、たぶん遺言を書き始めてます」
「まだ動く」
「それ、機械を壊す人の常套句です」
「昭和の機械は丈夫なんだ」
「昭和だからって根性論で回転数は上がりませんよ」
私が扇風機の首をこちらへ向けると、
「栞」
「はい?」
「俺の風だ」
向かいの机から真壁さんが言いました。
「所有権を主張しないでください」
「朝から誰がコンセント入れたと思ってる」
「電気代は所長持ちです」
「じゃあ所長の風か」
「くだらんことを言ってないで仕事しろ」
大槻所長の一言で、扇風機の所有権争いは終結しました。
さすが所長。
裁判所より速い。
そんな平和な午前十時。
事務所の扉が、勢いよく開きました。
「大槻さん!」
入ってきたのは、五十歳くらいの男性でした。
痩せた身体。
汗で張りついた白いシャツ。
手には茶封筒。
そして、後ろにはもう一人。
紺色のスーツを着た、三十代くらいの男が立っています。
「宮下さん」
真壁さんが立ち上がりました。
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもないよ!」
宮下さんは茶封筒を机へ置きました。
「親父の土地が、今日売られるっていうんだ!」
「……え?」
私は思わず手を止めました。
土地が勝手に歩いて買主のところへ行くわけではありません。
ということは、人間が何かやっています。
だいたい面倒なことを。
「順番に話してください」
所長が静かに言いました。
宮下さんは深く息を吐きました。
「親父が先月、入院したんです」
宮下徳三さん。
七十六歳。
町外れに、自宅のほか、国道沿いの土地を一筆持っている。
最近になって体調を崩し、入院した。
そこで徳三さんは長男である宮下正志さん――つまり今ここにいる男性へ、
土地の売却を任せた。
「委任状は?」
「あります」
正志さんが茶封筒から一枚の紙を出しました。
そこには確かに、
国道沿いの土地について、売却に関する一切の権限を長男・正志へ委任する旨が書かれていました。
なるほど。
正志さんは、本人である徳三さんから代理権を与えられた。
つまり任意代理人。
「それで?」
所長が聞きます。
正志さんは、後ろの男を指差しました。
「俺は仕事が忙しくて、不動産のことなんか分からない。それでこいつに頼んだんです」
紺色のスーツの男が、にこりと笑いました。
「どうも。坂口です」
「坂口さんは?」
「正志さんの昔からの友人です。不動産関係の仕事を少々」
少々。
不動産業界でこの言葉を使う人には警戒した方がいい。
経験も少々。
権限も少々。
説明も少々。
なのに請求だけ多々。
そういうことがあります。
「正志さんから、徳三さんの土地を売る代理を任されまして」
坂口さんは胸を張りました。
「今日午後、買主と契約します」
私は委任状をもう一度見ました。
「徳三さんは、坂口さんに任せることを承諾しているんですか?」
坂口さんの笑顔が、ほんの少し止まりました。
「いや。そこまで必要ないでしょう」
――はい。
来ました。
「正志さんが代理人なんだから、その正志さんから俺が任された。何の問題もない」
坂口さんはそう言い切りました。
正志さんも頷きます。
「俺もそう思ってたんです。ただ、今朝、親父に話したら急に怒り出して」
「なんと?」
「『お前に頼んだんだ。知らない男に頼んだ覚えはない』って」
でしょうね。
それは怒ります。
私が友達に猫の世話を頼んだら、その友達が知らない人に「じゃ、よろしく」と猫を渡していたくらい嫌です。
まして今回は猫ではない。
土地です。
「でもね」
坂口さんが言いました。
「代理って、本人の代わりにやる制度でしょう?」
「はい」
「だったら、その代理人が忙しいなら、別の人間にやらせてもいいじゃないですか」
私は少し首を傾げました。
「どうしてです?」
「どうしてって……」
「本人は正志さんを選んだんですよね」
「そうだけど」
「坂口さんは選んでませんよね」
「……」
「そこ、かなり大事じゃありません?」
坂口さんの眉が動きました。
真壁さんがこちらを見る。
「栞」
「はい」
「また何か知ってる顔してるな」
「私はいつも知性に満ちた顔をしています」
「自分で言う奴はだいたい違う」
失礼な。
私は委任状を机へ置きました。
「これ、復代理の問題です」
「ふくだいり?」
正志さんが聞き返します。
「代理人が、さらに別の人を選んで、本人を代理させることです」
「じゃあ、まさに俺たちじゃないか」
坂口さんが言いました。
「そうです」
「だったら問題ない」
「いえ」
私は首を振りました。
「任意代理人は、勝手に復代理人を選べません」
事務所が静かになりました。
扇風機だけが、
ぶおおおお。
と、どうでもよさそうに回っています。
「……勝手に?」
正志さんが言いました。
「はい」
「俺、親父から売却全部任されてるんですよ?」
「それでもです」
私は指を二本立てました。
「任意代理人が復代理人を選べるのは、大きく二つ」
一つ。
「本人の許諾があるとき」
二つ。
「やむを得ない事由があるとき」
「だから!」
坂口さんが声を上げました。
「正志さんは忙しいんだよ。それが理由だろ!」
私は正志さんを見ました。
「お仕事は?」
「町工場です」
「今日、休めないんですか?」
「いや……休もうと思えば休めます。ただ、忙しいから坂口に任せた方が楽で」
「入院して動けないとか?」
「いや」
「急病?」
「いや」
「どうしても本人から許可をもらえない事情は?」
「……ないです」
私は坂口さんへ向き直りました。
「“自分でやるより楽だから”を、普通は“やむを得ない”とは言いません」
「そんな細かいことを!」
「土地を売るんです」
私は静かに言いました。
「細かくて当然でしょう」
坂口さんが黙りました。
真壁さんが、わずかに口元を上げます。
「そりゃそうだ」
正志さんは困ったように頭を掻きました。
「じゃあ……坂口に任せちゃ駄目だったってことですか」
「少なくとも、今聞いた事情だけなら、お父さんの許諾なしで自由に選べるわけではありません」
「でもさ」
坂口さんが食い下がりました。
「俺、この前も同じようなことやったぞ」
「同じ?」
「西町の森川さんの土地」
その名前を聞いた瞬間、所長が顔を上げました。
「森川家?」
「そうですよ」
坂口さんは勢いを取り戻しました。
「あそこだって本人じゃなくて、母親が代理してた。その母親から頼まれて、別の人間が契約をやった。問題なかったじゃないか」
「……ああ」
所長が低く言いました。
「森川君は十六歳だったな」
「そうです」
「母親は親権者だ」
「だから何です?」
私は思わず、
「あ」
と声を出しました。
一本の線が、頭の中で繋がった。
なるほど。
この人、本当に混同している。
「全然違います」
私は言いました。
「何が?」
「森川さんのお母さんは法定代理人です」
「……?」
「正志さんは任意代理人です」
坂口さんは、まだ分からない顔をしています。
正志さんも同じでした。
そこで真壁さんが椅子を引き、座り直しました。
「栞。俺にも分かるように説明しろ」
「なんで真壁さんまで混ざるんですか」
「俺も分からん」
「潔いですね」
私は紙を一枚取りました。
中央に、
本人
と書く。
「代理人には、大きく分けて二種類あります」
その下に線を二本。
一方へ、
任意代理。
もう一方へ、
法定代理。
「任意代理は、本人が“この人に任せよう”と自分で選ぶ代理です」
私は正志さんを指しました。
「今回がこれ」
「はい」
「徳三さんは、息子の正志さんだから任せた」
「そうです」
「つまり、“誰でもいいから売ってくれ”ではない」
正志さんの表情が変わりました。
「あ……」
「本人がその人を信用して選んだんです。だから、選ばれた代理人が勝手に別人へ丸投げできると、本人の信頼を裏切ることになる」
私はもう一方を指しました。
「一方、法定代理人は、法律の規定によって代理権を持つ人です」
「森川さんのお母さん」
「そうです」
「法定代理人は、復代理人を選べるのか?」
真壁さんが聞きました。
「原則として自由に選任できます」
坂口さんが身を乗り出しました。
「ほら!」
「だから!」
私も思わず声を上げました。
「あなたが持ってきた例は、そっちなんです!」
坂口さんが固まった。
「森川さんの件は法定代理」
私は紙を叩きました。
「今回の宮下さんは任意代理」
もう一度叩く。
「ルールが違うんです」
「……」
「“前に代理人から別の人へ任せられたから、今回も大丈夫”にはならない」
正志さんが、椅子の背にもたれました。
「知らなかった……」
「普通は知らないですよ」
私は少し声を柔らかくしました。
「だから確認するんです」
そのときでした。
坂口さんが鼻を鳴らしました。
「分かった分かった。じゃあ今から病院へ行って、親父さんから許可もらえばいいんだろ」
正志さんの顔が曇りました。
「親父は、お前には任せないって」
「説得すりゃいい」
「いや……」
「もう買主も呼んであるんだぞ」
坂口さんの声が強くなった。
「今さら止めたら俺の顔が潰れる」
――出ました。
不動産トラブル界の万能カード。
俺の顔。
土地より広く、
契約書より重く、
なぜか本人の意思より優先されることがある謎の権利です。
もちろん民法典には載っていません。
「坂口さん」
所長が初めて、はっきりとした声を出しました。
「誰の土地だ」
低い。
静か。
でも、事務所の空気が一気に締まりました。
「……徳三さんのです」
「誰の顔を立てるかという話ではない」
「しかし」
「所有者が、あなたを代理人にすることを認めていない」
坂口さんの顔から笑みが消えました。
所長は続けます。
「そこを飛ばして契約を急ぐなら、うちは関わらん」
短い。
でも強い。
所長のこういうところ、ずるいと思います。
私が百行しゃべったところを、七秒で締めます。
文字単価なら私の圧勝ですけど。
「じゃあ、今日の契約はどうするんです?」
正志さんが不安そうに言いました。
私は時計を見ました。
十一時十分。
「買主さんは何時に?」
「二時です」
「場所は?」
「駅前の喫茶店」
「お父さんは、土地そのものを売る意思はあるんですよね?」
「ああ。それはあるんです。老後の金にしたいって」
「正志さんに売却を任せる意思も?」
「あります」
「なら」
私は言いました。
「正志さんが契約すればいいじゃないですか」
全員が私を見ました。
「……え?」
「え?」
私も見返しました。
「だって正志さん、代理人ですよね」
「でも俺、坂口に任せたんですよ?」
「だからって、正志さんの代理権は消えませんよ」
「……消えない?」
来た。
ここも復代理の大事なところです。
「復代理人を選任したとしても、元の代理人の代理権はなくなりません」
「そうなのか?」
真壁さんが聞きました。
「はい」
「じゃあ、仮に徳三さんが坂口さんを復代理人にしていいと許可していたとしても?」
「正志さん自身も契約できます」
「坂口さんに全部渡すわけじゃない?」
「違います」
私は頷きました。
「復代理って、“代理権のバトンタッチ”じゃないんです」
「ほう」
「どちらかというと、人が増える」
私は紙に書きました。
徳三さん。
その下に、
正志さん。
そして横に、
復代理人。
「復代理人を立てても、元の代理人は残ります」
正志さんが、紙をじっと見ました。
「……じゃあ俺、まだ親父の代理人なんですね」
「もちろんです」
その言葉を聞いた途端。
なぜか正志さんの表情が、少し変わりました。
責任を押しつけられた顔ではない。
むしろ逆だった。
取り戻した顔。
だったと思います。
「親父が……俺に頼んだんだもんな」
「はい」
「俺、不動産なんか分からないから、怖くて」
正志さんは苦笑しました。
「それで坂口に全部渡しちゃったんです」
「分からない部分は、私たちが説明します」
真壁さんが言いました。
「契約条件も確認する。買主との話も俺が横で聞きます」
「でも契約するのは?」
「宮下さんです」
「俺が?」
「代理人なんだから」
真壁さんは笑いました。
「逃げんなよ」
「……怖いなあ」
「怖いくらいでちょうどいいんです」
私は言いました。
「土地の契約を怖がらない人の方が、私は怖いです」
所長が小さく頷きました。
「午後の契約は、いったん条件を全部確認し直す」
「はい」
「徳三さんにも電話を入れる」
「はい」
「売却価格もな」
その一言で。
坂口さんの肩が、ごくわずかに動きました。
私は見逃しませんでした。
「……価格?」
正志さんが聞きます。
「いくらで売る予定だったんです?」
真壁さんが尋ねました。
「1,800万円です」
坂口さんが即答した。
所長が眉を寄せました。
「国道沿いの百二十坪だろ」
「ええ」
「1,800万?」
「相場ですよ」
今度は真壁さんが立ち上がりました。
「んなわけあるか」
声が低い。
顔が怖い。
出ました。
大槻不動産最終兵器。
法律担当、私。
実務担当、真壁。
圧担当、所長。
役割分担が綺麗です。
「最近、隣の角地が坪20万近くで動いただろ」
真壁さんが言います。
「条件差し引いても、1,800万は安すぎる」
「いや、それは――」
「買主、誰だ?」
「……」
「坂口」
正志さんが低い声で言いました。
「誰なんだ」
坂口さんは答えません。
嫌な沈黙でした。
数秒後。
「……知り合いの会社です」
「知り合い?」
「転売をやってるところで」
「いくらで転売する予定なんだ」
「知らないよ」
「坂口」
「知らないって!」
声が荒くなる。
でも、その声の大きさとは逆に。
もう答えは見えていました。
正志さんが坂口さんへ全部任せた。
坂口さんは自分の知り合いへ、安く売る話をまとめた。
おそらく、その先がある。
もちろん、安く売ること自体が直ちに違法という話ではありません。
でも。
本人が選んでもいない復代理人に。
本人が知らない価格で。
本人が知らない相手へ。
土地が流れていく。
そんな契約を、
「代理だから大丈夫」
の一言で通していいはずがない。
「今日の契約は中止です」
正志さんが言いました。
坂口さんが顔を上げました。
「正志!」
「親父に説明してから、やり直す」
「もう話が――」
「俺が代理人なんだろ」
静かな声でした。
「だったら俺がやる」
坂口さんは口を開きました。
でも、何も言いませんでした。
正志さんは、机の上の委任状を手に取りました。
「親父が俺を信用して任せたんなら……俺が人に丸投げしちゃ駄目だった」
私は少しだけ笑いました。
「分からないことを専門家に相談するのと、代理権そのものを勝手に渡すのは、別ですから」
「そうか」
「はい」
「相談するのはいい?」
「それはぜひ」
「じゃあ真壁さんに」
「なんで俺なんだよ」
「顔が怖いから買主に舐められなさそう」
「帰れ」
正志さんが初めて笑いました。
坂口さんは、そのまま何も言わず事務所を出ていきました。
扉が閉まる。
しばらくして、真壁さんが言いました。
「……栞」
「はい」
「お前、さっき復代理人は“人が増える”って言ったな」
「はい」
「じゃあ復代理人って、誰の代理人なんだ?」
「え?」
「元の代理人の代理人じゃないのか?」
私はにやりとしました。
「違います」
「違う?」
「復代理人も、本人の代理人です」
「……ややこしいな」
「でしょう?」
私は紙に矢印を書きました。
本人。
代理人。
復代理人。
「たとえば徳三さんが坂口さんを復代理人として認めて、坂口さんが適法に土地を売ったとします」
「うん」
「売買契約の効果は?」
「正志さんに来る?」
「ブブー」
「口で効果音を出すな」
「本人の徳三さんです」
「正志さんじゃない?」
「違います」
「じゃあ復代理人って、“代理人の代理人”じゃないのか」
「言葉の見た目に騙されるんですよ」
私は頷きました。
「復代理人は、本人のために本人を代理する人です」
「なるほどなあ」
真壁さんは腕を組みました。
「代理人が子分を作る制度じゃないんだな」
「その覚え方、法律家には怒られそうですけど、かなり正しいです」
所長が新聞を畳みました。
「栞」
「はい」
「午後、病院にも行ってこい」
「私もですか?」
「本人の意思確認だ」
「はい」
「それと」
所長は例の扇風機を指差しました。
「帰りに電器屋へ寄れ」
「買い替えるんですか!」
「いや」
期待した私に、所長は言いました。
「油を買ってこい」
「直す気だ!」
昭和の人、物を大事にしすぎです。
午後。
私たちは徳三さんの病室へ行きました。
白い病室。
窓辺に置かれた百合。
ベッドの上には、細身のおじいさんがいました。
顔色こそ悪いものの、目はしっかりしています。
「親父」
正志さんが、どこか気まずそうに椅子へ座りました。
「悪かった」
「何がだ」
「坂口に任せたこと」
「……」
「俺、不動産なんて分からんから」
徳三さんは、しばらく息子を見ていました。
「だからお前に頼んだんだ」
「え?」
「分かる奴なら、他にいくらでもいる」
正志さんが黙ります。
「息子だから頼んだんだ」
その声は、少しかすれていました。
「分からんなら、聞けばいい。大槻さんにも、真壁さんにも」
そこで徳三さんは私を見ました。
「この嬢ちゃんにも」
「一応、十八歳です」
「嬢ちゃんだろ」
「否定できない」
徳三さんが少し笑いました。
「でもな」
また正志さんを見る。
「最後に判を押すところだけは、お前に見てほしかった」
「親父……」
「俺はもう、目も悪いからな」
正志さんは俯きました。
「……分かった」
小さく答えた。
「ちゃんとやる」
「うん」
「分からんところは聞く」
「うん」
「でも、親父」
「なんだ」
「1,800万は安すぎるらしいぞ」
「なんだと?」
徳三さんの声が突然元気になりました。
「誰だそんな値段つけた奴!」
病人とは思えない音量です。
真壁さんが吹き出しました。
「そこは親子だな」
「土地の値段で急に生命力が戻りましたね」
「地主だからな」
結局、その日は売買契約をしませんでした。
大槻不動産で条件を精査し、徳三さん本人の希望を聞き直し、正志さんが正式に代理人として交渉を続けることになりました。
後日。
別の買主との間で、納得できる条件がまとまりました。
契約の日。
正志さんは何度も契約書を読みました。
一行読んでは真壁さんに聞く。
二行読んでは所長に聞く。
三行読んでは私に聞く。
「宮下さん」
「何?」
「今日中に終わります?」
「だって怖いんだよ」
「正解です」
「どっちなんだよ」
でも最後には、自分の手で判を押しました。
代理人として。
父親から任された人として。
契約を終えた帰り際、正志さんは私へ言いました。
「藤崎さん」
「はい」
「代理ってさ」
「はい」
「本人の代わりに判子押すだけだと思ってた」
「私も勉強する前はそんな感じでした」
「違うんだな」
少し照れたように笑いました。
「誰に頼むかってところから、もう本人の意思なんだな」
私は一瞬、答えに迷いました。
それから、
「たぶん、そういうことなんだと思います」
と言いました。
法律の説明としては、少し曖昧です。
試験なら減点かもしれません。
でもその日だけは、それでいい気がしました。
夕方。
事務所へ戻ると、例の扇風機が元気に回っていました。
ぶおおおおおお。
「……復活してる」
「油差した」
所長が得意そうに言いました。
「すごいですね」
「まだ使える」
「昭和、強い」
私は自分の机へ座りました。
今日の出来事を、頭の中で整理する。
本人が選んだ代理人。
その代理人が、さらに別の人を選ぶ。
復代理。
単純なようで、意外と引っかけが多い。
法定代理人なら、原則として自由に復代理人を選任できる。
でも任意代理人は違う。
本人の許諾がある場合。
または、やむを得ない事由がある場合。
そして。
復代理人を選んだからといって、元の代理人の代理権がなくなるわけではない。
さらに。
復代理人は、
「代理人の代理人」
ではない。
あくまで、
「本人の代理人」
なのだ。
「栞」
真壁さんが缶ジュースを机へ置きました。
「はい?」
「今日は助かった」
「珍しく素直ですね」
「返せ」
「ありがとうございます!」
私は即座に缶を抱えました。
「お前な」
オレンジジュースでした。
缶を開ける。
ぷしゅっ。
少しぬるい。
でも、仕事の後だと妙においしい。
「真壁さん」
「ん?」
「今日のこと、一言でまとめるなら何だと思います?」
「復代理?」
「はい」
真壁さんは少し考えました。
「……人の頼まれ事を、勝手にまた人へ頼むな」
「小学生の道徳みたいになりましたね」
「でもだいたい合ってんだろ」
「まあ」
私は笑いました。
「かなり合ってます」
そのとき、新聞を読んでいた所長が口を挟みました。
「ただし法定代理人は別だ」
「所長!」
「試験ならそこを落とすな」
さすがです。
温かい余韻を、試験対策で殴ってきました。
私は机の引き出しからノートを取り出しました。
今日のページの一番上に、こう書く。
――復代理。
その下へ、大きく四行。
代理人が復代理人を選任しても、代理人の代理権はなくならない。
復代理人は、本人の代理人。
法定代理人は、原則として自由に復代理人を選べる。
任意代理人は、本人の許諾またはやむを得ない事由が必要。
四行だけ。
教科書で見れば、それだけです。
でも今日、その四行の向こうに、一組の親子がいた。
父親は息子を選んだ。
息子は、自信がなくて他人へ渡そうとした。
そして最後に、自分が選ばれた意味を思い出した。
代理権というのは、不思議です。
目には見えない。
土地みたいに登記簿へ線を引けるものでもない。
でも、
「あなたに任せる」
という一言の中には、案外重たいものが入っている。
権限。
責任。
そして、ときには信頼まで。
だから法律は、
「代理人なんだから、好きな人に丸投げしていいでしょう」
とはしていない。
誰が、誰を選んだのか。
なぜ、その人なのか。
そこをちゃんと見ている。
「栞」
「はい?」
「扇風機、そっち向けすぎだ」
真壁さんが言いました。
「私がスイッチ入れました」
「朝と理屈が違うだろ」
「事情が変わりました」
「便利だな法律家」
「まだ事務見習いです」
「もっと悪い」
私は笑いながら、扇風機を少しだけ真壁さんの方へ向けました。
風は、半分ずつ。
代理権と違って、こちらは分けても問題ありません。
昭和六十三年。
今日も大槻不動産では、
土地と、
法律と、
人の信頼が、
思ったより面倒な形で絡まっていました。
でも。
絡まった糸には、ちゃんとほどき方がある。
私はそれを一つずつ覚えていく。
たぶん、それがこの仕事なのだと思います。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




