[抵当権消滅請求]現場編 払うのは、抵当権が消えてから
不動産の売買には、ときどき順番というものがあります。
契約して。
代金を払って。
鍵をもらう。
普通なら、それで終わりです。
でも。
土地に抵当権が付いている場合。
話は少し変わります。
というか、順番を間違えると、人生が変わります。
悪いほうに。
「栞!」
朝九時を三分過ぎたところで、真壁さんの声が飛んできました。
「はい!」
「お茶!」
「またですか!」
「またってなんだよ。客が来たらお茶だろ」
「私、最近、民法より茶葉に詳しくなってる気がするんですけど」
「いいじゃねえか。宅建落ちても茶道家になれる」
「縁起でもないこと言わないでください!」
「前世で落ちたのか?」
「そこ掘らないでください!」
危ない。
この人、時々、私の転生設定に素で近づいてくる。
私は急須を持って応接へ向かいました。
そこには若い夫婦が座っていました。
三十歳くらいの男性と、少し年下らしい女性。
二人とも、明らかに困っている。
男性の膝の上には契約書。
女性の手には封筒。
そして机の上には――。
登記事項証明書。
私はそこで、嫌な予感がしました。
不動産屋で登記簿が机に出ている。
しかも客が青い顔をしている。
この組み合わせで、楽しい話だった試しがありません。
「お茶です」
「ありがとうございます」
女性が小さく頭を下げた。
大槻所長は、じっと書類を見ていました。
「もう一度確認します」
「はい」
男性――西村さんが答えた。
「この土地を、九百万円で買った」
「はい」
「契約は成立している」
「はい」
「ただし、まだ代金全額は払っていない」
「はい」
「そして、その土地には一千二百万円の抵当権が付いている」
西村さんは、重く頷いた。
私はそっと登記簿を見る。
所有者は大橋さん。
抵当権者は城南信用組合。
債権額、一千二百万円。
売買代金、九百万円。
はい。
また嫌な算数が始まりました。
最近、この事務所。
足し算と引き算のたびに人が泣いてません?
「売主さんは、なんて言ってるんですか?」
私が聞くと、西村さんの奥さんが答えた。
「『九百万円払ってくれれば、抵当権はあとで外す』って」
――出た。
あとで外す。
前回の「あとで銀行と話をつける」と同じ系列です。
不動産業界における、
“あとで何とかする”
は。
何とかならなかった時に、ものすごく高くつきます。
「でも私たち、怖くて……」
奥さんが続けた。
「もし九百万円払って、そのあと抵当権が消えなかったら……」
「競売される可能性があります」
所長が静かに言った。
奥さんの顔がさらに青くなる。
「やっぱり……」
西村さんが拳を握った。
「だから売主に、抵当権を消してから払うと言ったんです。でも向こうは、『契約したんだから先に払え』って」
真壁さんが腕を組んだ。
「売主は、借金返す金がねえんだろうな」
「たぶん」
「九百万を受け取ってから銀行へ払う気か」
「そう言ってました」
「危なっかしいな」
その言葉。
顔の怖い人が言うと、説得力が三割増しです。
私は登記簿をもう一度見ました。
抵当権付き不動産。
第三取得者。
まだ代金未払い。
そして買主側から、抵当権を消してほしい。
……あ。
頭の中で、昨日のノートが開きました。
代価弁済。
抵当権者からの請求。
それに応じて第三取得者が代価を払う。
今回は逆。
第三取得者の側から動く。
「所長」
「なんだ」
「これ、抵当権消滅請求……使えませんか」
西村夫妻がこちらを見る。
真壁さんも見る。
「しょうめつせいきゅう?」
西村さんが聞き返した。
「はい」
私は椅子を少し引いて、机の前へ出ました。
「抵当権付きの不動産を買った第三者が、抵当権者に対して、『この金額で抵当権を消してください』って請求する制度です」
「そんなことできるんですか?」
「できます」
「勝手に?」
「勝手に、というより法律に沿った手続で」
私は少し考えて言い直した。
「ちゃんと正面玄関から行く方法です」
真壁さんが横から言った。
「裏口じゃねえ、と」
「そうです」
「お前の説明、たまに法律書に載せられないな」
「載せなくていいです」
所長が西村さんに聞いた。
「所有権移転は?」
「まだです」
私は一瞬止まった。
「……あ」
所長がこちらを見る。
その目。
たぶん今、試されています。
嫌な先生だ。
「藤崎」
「はい」
「抵当権消滅請求できるのは?」
私は頭の中で条文を引っ張り出した。
「抵当不動産について所有権を取得した第三者です」
「つまり?」
「まだ所有権を取得していないなら、その段階ではできません」
西村夫妻の表情が曇る。
「じゃあ駄目なんですか?」
「いえ」
所長が言った。
「だから取引の組み方を変える」
さすが所長。
法律だけでなく、実務に着地させる。
私はこれがまだ弱い。
「まず所有権を取得させる。ただし代金の支払いは、抵当権消滅請求の手続が終わるまで止める」
「止めていいんですか?」
奥さんが聞いた。
私は思い出した。
そうだ。
抵当権消滅請求をした第三取得者は。
その手続が終わるまで。
売主への代金支払いを拒める。
「はい」
私は頷いた。
「抵当権が消えるか分からないうちに、代金だけ払わされないためです」
西村さんの顔が少し明るくなった。
「じゃあ、九百万円を持っていかれないまま手続できるんですか」
「できます」
「よかった……」
その瞬間。
事務所の黒電話が鳴った。
事務員さんが出る。
「大槻不動産です。……はい。はい……少々お待ちください」
受話器を押さえて言った。
「所長。大橋さんです」
売主。
タイミングが良すぎて怖い。
所長が電話を代わる。
「大槻です」
数秒後。
所長の眉がほんの少し動いた。
「……今日中に?」
真壁さんと私が顔を見合わせた。
「分かりました。こちらへ来てください」
電話を置く。
「何て?」
真壁さんが聞いた。
「今日中に代金を払わなければ、契約違反だと言っている」
「強気だな」
「それと」
所長は登記簿を指で叩いた。
「信用組合から督促が来ているそうだ」
西村夫妻の顔がこわばる。
「競売……されるんですか」
「まだ分からん」
「まだ?」
「差押えが入っているか確認する」
私は、その言葉で背筋が伸びた。
――差押え。
抵当権消滅請求には、時間制限がある。
抵当権実行としての競売による差押えの効力が発生する前。
それを過ぎたら。
使えない。
「所長」
「ああ」
所長も分かっている。
「急いだほうがいいですね」
「そういうことだ」
真壁さんが立ち上がった。
「信用組合行くぞ」
「はい!」
「お前もだ」
「はい!」
「お茶は置いてけ」
「持って行きませんよ!」
城南信用組合は、駅から車で十分ほどの場所にありました。
昭和の金融機関って、どうしてこう全体的に茶色いんでしょう。
床も。
机も。
応接セットも。
信用を色で表すと茶色になるのかもしれない。
私たちは融資担当の男性に事情を説明しました。
「大橋様の件ですね」
担当者は少し困った顔をした。
「正直申し上げると、返済はかなり滞っています」
「競売申立ては?」
真壁さんが聞く。
「まだです」
私は心の中で、小さく拳を握った。
まだ間に合う。
「差押えも?」
「まだです」
よし。
これで条件が一つ通った。
所長が静かに切り出す。
「第三取得者側で、抵当権消滅請求を検討しています」
担当者の表情が変わった。
「……そうですか」
「売買代金九百万円。第三取得者としては、その額を基準に提示する方向です」
「一千二百万円の債権があります」
「承知しています」
「九百万円では、三百万円足りません」
「だからこそ、受けるか競売するかは御行の判断になる」
応接室の空気が少し張った。
私は横で、昨日の代価弁済との違いを噛みしめていました。
前回は。
抵当権者側が、
「その代金をこちらへ払え」
と請求した。
今回は。
第三取得者側から、
「この金額で抵当権を消してください」
と仕掛ける。
主導権が逆。
でも、目的は似ている。
第三取得者が、抵当権付き不動産を抱えてしまわないようにすること。
「検討します」
担当者が答えた。
「ただし、正式な書面をいただいてからです」
「もちろんです」
所長は頷いた。
そして帰り際。
担当者がぽつりと言った。
「こちらとしても、競売が最善とは限りません」
なるほど。
競売すれば時間がかかる。
費用もかかる。
九百万円以上で売れる保証もない。
抵当権者にも計算がある。
法律は、感情でなく、選択肢を作る。
そこが面白い。
事務所へ戻ると。
売主の大橋さんが、すでに来ていました。
四十代後半。
頬がこけ、苛立った顔で足を組んでいる。
「遅いよ」
第一声がそれだった。
真壁さんの眉が動いた。
私の心の中では、
“あなたの借金の相談に行ってたんですが”
という字幕が流れました。
「で?」
大橋さんが机を叩く。
「九百万は払うのか?」
西村さんが息を吸った。
「抵当権がきちんと消えるまで、支払いません」
「なんだと?」
「抵当権消滅請求の手続をします」
大橋さんが私たちを見る。
「誰がそんなこと言った」
「私です」
つい答えてしまった。
真壁さんが小声で言う。
「前出るな」
「もう出ました」
「戻れ」
「無理です」
大橋さんが私を睨んだ。
「嬢ちゃん、契約って知ってるか?」
「知ってます」
「買ったんなら払うんだよ」
「抵当権が付いたままなら、話は別です」
「俺があとで外すって言ってるだろ!」
「その“あとで”を、西村さんが九百万円かけて信じる必要はありません」
空気が止まった。
大橋さんの顔が赤くなる。
「失礼な!」
「失礼でも、九百万円は九百万円です」
「栞」
真壁さんが低く呼ぶ。
怒られるかと思った。
でも。
「そこまでにしとけ」
声が少し笑っていた。
所長が続けた。
「大橋さん」
「なんだよ」
「西村さんは、抵当権付きの土地を買う。そのまま代金を払えば、自分の金を払ったうえで競売される危険を抱える」
「だから外すって」
「今、外せますか」
「……」
「九百万円を受け取る前に」
「……」
沈黙。
答えは出ていた。
「できないから、九百万円が必要なんでしょう」
所長の声は静かだった。
「なら、買主が法律上認められた手段を取ることを責める筋ではない」
「でも俺は……」
大橋さんの声が、急に小さくなった。
「金が必要なんだよ」
その一言で、空気が変わった。
「工場、もう駄目なんだ」
また工場。
この時代。
土地と借金と工場が、まるで三点セットみたいについてくる。
「取引先が飛んでさ」
大橋さんは俯いた。
「材料代も払えてない。従業員には先月で辞めてもらった。九百万入れば、借金返して……少しは残ると思ってた」
西村さんが静かに聞いた。
「三百万、残りますよね」
「……ああ」
「借金が」
「……」
「俺たちが九百万払っても」
「ああ」
西村さんは少し考えた。
「大橋さん」
「なんだ」
「俺、あなたを責めたいわけじゃないです」
「……」
「でも、俺たちも家買うんです」
奥さんが隣で頷いた。
「子どもが春から小学校で」
その言葉に、大橋さんが顔を上げた。
「ここなら学校も近いし、庭もあるからって」
「……そうか」
「だから」
西村さんはゆっくり言った。
「抵当権だけは、きれいにしたいです」
しばらく誰も喋らなかった。
大橋さんは、やがて背もたれに沈み込んだ。
「……分かった」
「え?」
「好きにしろ」
「大橋さん」
「俺も……逆なら嫌だ」
そう言って、乾いた笑いを浮かべた。
「九百万払って、家取られるかもしれんなんて」
その顔を見て。
私は少しだけ胸が痛くなった。
悪人じゃない。
追い詰められていただけだ。
でも。
追い詰められている人の約束ほど。
時々、他人を巻き込む。
だから法律がいる。
手続は、その後、慌ただしく進みました。
西村さんは所有権を取得。
登記をした抵当権者に対し、必要な書面を送付。
提示額は九百万円。
そして。
手続が終わるまで、売買代金の支払いは止めた。
大橋さんには不満もあった。
信用組合にも計算があった。
でも。
期限が動き始めた。
抵当権者は、書面を受け取ったまま黙っていればいいわけではない。
承諾できないなら。
競売という行動を取らなければならない。
ただ、
「嫌です」
と返事するだけでは足りない。
そこが、この制度の強いところだった。
数週間後。
城南信用組合から連絡が来ました。
競売の申立てはしない。
提示された九百万円で処理する。
私は受話器を持ったまま、
「……よし」
と小さく言いました。
「決まったか?」
真壁さんが聞く。
「はい」
「競売なし?」
「はい」
「じゃあ」
「抵当権、消せます」
西村夫妻へ電話すると。
奥さんが電話口で泣きました。
「本当ですか?」
「本当です」
「家、なくならないんですよね?」
「はい」
その言葉。
なんだか妙に重かった。
家は土地と建物です。
登記簿では。
でも。
そこに住む人にとっては。
そんな二行では終わらない。
子どもの学校。
夕飯の匂い。
洗濯物。
庭。
帰る場所。
抵当権という文字が一つ消えるだけで。
守られるものは、意外と多い。
決済の日。
西村夫妻が事務所へ来ました。
「本当にありがとうございました」
奥さんが何度も頭を下げる。
「いえ」
私が答えると。
真壁さんが横から言った。
「こいつ、ほとんど茶しか出してませんよ」
「真壁さん!」
「冗談だ」
「今この事務所で冗談に敏感なんです!」
「心裡留保か?」
「うるさいです!」
所長が小さく笑った。
そして西村さんに言う。
「これで終わりじゃありません」
「はい」
「登記も確認する。抹消まで見届ける」
「お願いします」
「不動産はな、金を払ったら終わりじゃない」
所長はゆっくり言った。
「権利関係がきれいになって、初めて終わりだ」
私はその言葉を、心の中にメモしました。
所長。
たまに教科書よりいいこと言う。
それから一か月ほど後。
西村夫妻が、小さな紙袋を持って事務所へ来ました。
「引っ越しました」
「おめでとうございます」
袋の中には、お菓子が入っていました。
「子どもが、庭で毎日遊んでます」
奥さんが笑った。
「最初、あんなに怖かったのに」
「抵当権ですか?」
「はい」
「字面からして怖いですからね」
「そうなんです」
西村さんが笑う。
「でも今は、登記簿見ても分かるようになりました」
「おお」
「抵当権、ない」
「そこだけですか」
「そこが一番大事です」
確かに。
満点です。
夕方。
私はいつもの机でノートを開きました。
抵当権消滅請求。
第三取得者側から動く制度。
抵当不動産の所有権を取得した者が。
抵当権者に対して。
一定の金額を提示し。
抵当権を消してほしいと請求する。
「前回と逆だな」
真壁さんが言った。
「はい」
「代価弁済は?」
「抵当権者から」
「今回は?」
「第三取得者から」
「地上権者は?」
「今回は駄目です」
「債務者は?」
「駄目です」
「保証人は?」
「駄目です」
「差押えされた後は?」
「遅いです」
「……お前、だいぶ即答するようになったな」
「昨日まで過去問に殴られてた人間ですから」
「だから意味分からねえって」
「私もです」
私はノートに最後の一行を書きました。
抵当権消滅請求。
払う前に。
消せる道を探す。
「なんだ、それ」
真壁さんが覗き込む。
「今日の教訓です」
「法律用語ゼロじゃねえか」
「物語は覚えやすさ優先です」
「試験は?」
「後編でちゃんとやります」
「誰に言ってんだ」
「読者です」
「どこにいるんだよ」
「未来です」
「怖えよ」
窓の外が赤く染まっていました。
昭和六十三年。
土地が値上がりし。
家が売れ。
借金が増え。
みんなが少しだけ未来を楽観している時代。
でも。
私は知っている。
未来は。
いつも予定どおりには来ない。
だから。
今できることを、きちんとやる。
権利を確認する。
順番を守る。
必要なら支払いを止める。
差押えが来る前に動く。
法律って。
未来を当てるためのものじゃない。
未来が外れた時に、人を守るためのものなのかもしれない。
私はノートを閉じました。
そして机の横に置かれた紙袋から、こっそり饅頭を一つ取る。
「栞」
「はい?」
「それ俺のだぞ」
「共有です」
「共有じゃねえ」
「不可分性があります」
「適当な法律使うな!」
夕方の事務所に、真壁さんの声が響きました。
新しい家では。
たぶん今ごろ。
子どもが庭を走っている。
抵当権のない土地の上を。
私は饅頭を半分に割りました。
「半分あげます」
「最初から俺のだ!」
……うん。
今日はこれでいい。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




