[代価弁済]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
今日の事件を、一から整理する。
村瀬さんは、土地と工場を八百万円で佐伯さんに売った。
でも、その不動産には一千万円の抵当権が付いていた。
そして佐伯さんが、まだ八百万円を村瀬さんへ払っていない段階で、抵当権者である東栄信用金庫が言った。
――その八百万円を、こちらへ支払ってください。
佐伯さんがそれに応じて、八百万円を信用金庫へ支払う。
すると。
抵当権は、佐伯さんのために消滅する。
「……やっぱり、ここだけ見ると妙なんだよなあ」
私はノートの数字を見ながら呟きました。
「何がだ?」
案の定、真壁さんが後ろから覗き込んできました。
「一千万円の抵当権ですよ」
「ああ」
「なのに、八百万円払っただけで抵当権が消える」
「二百万足りねえな」
「ですよね」
「じゃあ二百万どうなる」
「村瀬さんの債務として残ります」
「抵当権は?」
「この不動産については消えます」
「……銀行、損じゃねえか」
「だから、銀行が自分で選ぶんですよ」
「ん?」
私は鉛筆を置きました。
「代価弁済って、第三取得者が勝手に始める制度じゃないんです」
「そうだったな」
「抵当権者が請求するんです」
私はノートの真ん中に、大きく書きました。
代価弁済
=抵当権者主導
「まず、ここが一番大事です」
「そんなにか?」
「はい。たぶん試験で抵当権消滅請求と混ぜてきます」
「名前からして似てるもんな」
「そうなんです」
私は頭を抱えました。
「民法って、似た制度に似た名前をつけるの好きすぎません?」
「知らん」
「受験生への嫌がらせです」
「法律作った奴は、お前の受験のこと考えてねえよ」
「少しくらい考えてほしかったです」
私は気を取り直して、ノートに書きました。
代価弁済
抵当権者 → 第三取得者へ請求
第三取得者が、その請求に応じて代価を弁済
→抵当権消滅
「つまり?」
真壁さんが聞く。
「抵当権者が、『その売買代金、売主に払わず、こっちへ払ってください』と言う」
「うん」
「第三取得者が、『分かりました』と払う」
「うん」
「抵当権が消える」
「やっぱりお前の説明、最後だけ雑だな」
「核心です」
「雑な核心だな」
でも、これくらい単純化したほうが覚えやすい。
私はさらに書き足しました。
重要。
第三取得者から、自分で一方的に代価弁済を請求することはできない。
「ここ、間違えたら駄目です」
「なんで?」
「抵当権者にとっては、抵当権を消すかどうかって大問題だからです」
今日の東栄信用金庫を思い出す。
一千万円の債権。
八百万円の代価。
八百万円を受け取れば、残り二百万円は無担保になる。
「抵当権者としては、八百万円で抵当権を手放すかどうか、自分で判断したいですよね」
「そりゃそうだ」
「だから、代価弁済は抵当権者側から請求する」
「なるほどな」
真壁さんが腕を組んだ。
「じゃあ、買った側から始める制度はないのか?」
「あります」
「あるのかよ」
「抵当権消滅請求です」
「出たな。似た名前」
「出ました」
私はノートに二列作りました。
代価弁済
スタートする人 → 抵当権者
対象 → 所有権または地上権を買い受けた第三者
抵当権消滅請求
スタートする人 → 抵当不動産の第三取得者
対象 → 所有権を取得した第三者
「ちょっと待て」
真壁さんが指を差した。
「今、地上権って書いたな」
「はい」
「代価弁済は、土地を買った奴だけじゃないのか?」
「そこが試験ポイントです」
私は赤鉛筆を持ちました。
「代価弁済は、所有権を買い受けた第三者だけじゃありません」
ぐるっと囲む。
所有権または地上権を買い受けた第三者。
「地上権を買った人も、代価弁済できるんです」
「地上権って、土地そのものを買ったわけじゃないだろ?」
「そうです」
「なのに抵当権を消せるのか?」
「正確には、その第三者との関係で抵当権の効力が及ばなくなる形ですね」
「ややこしくなってきたな」
「私も今、ちょっと泣きそうです」
「泣くな。説明しろ」
鬼。
私は簡単な図を書きました。
A 所有者
↓
B 抵当権者
一千万円の抵当権
その後、
C 地上権を五百万円で買い受ける
「たとえば、Cさんが地上権を五百万円で買ったとします」
「うん」
「そのCさんに対して、Bが『その五百万円をこちらに払ってください』と請求する」
「それで払う」
「はい」
「抵当権が消える」
「……Cさんとの関係では、抵当権をもって対抗できなくなります」
「同じじゃないのか?」
「似てますけど、少し違います」
ここは丁寧にやったほうがいい。
私は線を引き直しました。
「地上権を買ったCさんは、土地の所有者ではありません」
「うん」
「なので、その後に抵当権が実行されて土地が競売されたとしても」
「うん」
「Cさんは、その地上権を新しい買受人に対抗できることになります」
「つまり?」
「抵当権者から見ると、“地上権付きの不動産”を競売することになるんです」
「価値が下がるな」
「そのとおりです」
真壁さんが少し納得した顔をした。
「だから抵当権者としても、地上権者から代価を受け取るかどうか考えるわけか」
「そうです」
「五百万もらって、地上権を認めた状態にする、と」
「ざっくり言えば、そんな感じです」
「ざっくり禁止じゃなかったのか」
「法律説明には、時々ざっくりが必要なんです」
「便利な言葉だな」
私はその横に、大きく書きました。
重要。
代価弁済は、
所有権を買い受けた第三者
だけでなく、
地上権を買い受けた第三者
もできる。
「じゃあ、地上権なら何でもいいのか?」
真壁さんが聞いた。
「そこです」
「嫌な言い方だな」
「試験って、こういうところ突いてきますから」
私は次のページを開きました。
「地代を定期的に払う契約で地上権を取得した人は、代価弁済できません」
「なんで?」
「“買い受けた”人じゃないからです」
「……?」
真壁さんの顔が完全に停止した。
分かります。
私も初見ではそうなりました。
「代価弁済の対象になるのは、“地上権を買い受けた第三者”です」
「うん」
「つまり、地上権そのものを代価を払って取得した人」
「うん」
「でも、毎月地代を払う人は、地上権を買い受けたわけじゃありません」
「家賃みたいなもんか?」
「イメージとしては近いです」
私はノートに書きました。
地上権を五百万円で買った
→代価弁済できる
毎月地代を払う契約
→代価弁済できない
「なるほど」
真壁さんが指を鳴らした。
「“地上権者なら誰でも”じゃないんだな」
「そうです」
「買い受けた第三者だけ」
「はい」
私はそこを二重線で囲みました。
試験で、
「地代を定期に支払う地上権者は代価弁済できる」
と出たら――。
誤り。
「はい、ここ絶対出ます」
「お前、試験作る側みたいな言い方するな」
「受験生は、敵の気持ちを読むんです」
「戦かよ」
「試験会場は戦場です」
「大げさだ」
「落ちた人間にしか分からない戦いがあります」
「前世の話か?」
「聞かなかったことにしてください」
危ない危ない。
私は咳払いをして話を戻しました。
「次」
「まだあるのか」
「あります」
「多いな」
「抵当権ですから」
「理由になってねえ」
私はノートに、新しい見出しを書きました。
物上保証人。
「代価弁済は、物上保証人には使えません」
「なんで?」
「物上保証人は、第三取得者じゃないからです」
「分かるように言え」
「はい」
私は簡単な例を書きました。
A 借金をする
B 銀行
C 自分の土地をAの借金の担保に出す
「Cさんが物上保証人です」
「自分は借金してないのに、自分の土地を担保に入れる奴な」
「はい」
「で?」
「Cさんは、あとから抵当不動産を買った人ではありません」
「最初から自分の土地か」
「そうです」
「だから第三取得者じゃない」
「はい」
「代価弁済できない」
「正解です!」
「なんでお前に褒められなきゃならねえんだ」
「伸びましたね、真壁さん」
「殴るぞ」
「暴力反対」
私はさらに整理しました。
代価弁済できる人
①抵当不動産の所有権を買い受けた第三者
②抵当不動産について地上権を買い受けた第三者
代価弁済できない人
①物上保証人
②単に地代を定期的に支払う地上権者
「これで、かなり見えてきました」
「うん」
「ただし」
「まだあるのか」
「最後です」
「本当だろうな」
「たぶん」
「信用できねえ」
私はノートの最初のページへ戻りました。
「代価弁済で一番大切なのは、“誰が動かす制度か”です」
「抵当権者」
「はい」
私はその横に、
抵当権消滅請求
と書きました。
「一方、抵当権消滅請求は、第三取得者側から動きます」
「逆なんだな」
「そうです」
「代価弁済は抵当権者」
「はい」
「抵当権消滅請求は第三取得者」
「はい!」
真壁さんが腕を組んで考えた。
「だったら、覚え方は簡単じゃねえか」
「何です?」
「代価弁済は、金を取りたい抵当権者が『こっちに払え』」
「はい」
「抵当権消滅請求は、土地を買った側が『抵当権消してくれ』」
「……」
私はしばらく黙りました。
「それ、すごく分かりやすいです」
「だろ」
「悔しい」
「なんでだよ」
「私が言いたかった」
「先に言ったもん勝ちだ」
私は仕方なく、真壁さんの言葉をそのままノートに書きました。
代価弁済
抵当権者「その代金、こっちに払え」
抵当権消滅請求
第三取得者「この抵当権、消してください」
「……これでいいのか、法律ノート」
「試験に通れば正義です」
「すげえ思想だな」
そこへ所長がやってきました。
「ずいぶん勉強してるな」
「所長」
「代価弁済か」
「はい」
所長は私のノートをしばらく見てから言いました。
「じゃあ藤崎。問題だ」
「急ですね」
「抵当権付きの土地を買った第三者が、自分から抵当権者へ『売買代金を払うので抵当権を消してください』と言った」
「はい」
「これは代価弁済か?」
「違います」
即答した。
「なぜだ」
「代価弁済は、抵当権者の請求に応じて行う制度だからです」
「よし」
所長が頷く。
「次」
「まだあるんですか」
「地上権者なら、全員代価弁済できるか」
「できません」
「なぜだ」
「地上権を“買い受けた”第三者に限られます。単に地代を定期的に支払う地上権者は対象外です」
「よし」
「ちょっと楽しくなってきました」
「じゃあ最後だ」
「どうぞ」
「物上保証人は?」
「代価弁済できません」
「理由」
「第三取得者ではないからです」
「合格」
所長が短く言った。
私は思わず笑いました。
「今の試験、本番でも出てほしいです」
「出題者に頼め」
「連絡先知りません」
「俺も知らん」
真壁さんが横で笑っている。
私は最後に、ノートへまとめを書きました。
代価弁済
①抵当権者からの請求で始まる。
②対象は、所有権または地上権を買い受けた第三者。
③第三取得者が代価を抵当権者へ弁済する。
④その第三者のために抵当権が消滅する。
⑤被担保債権の全額を払わなくてもよい。
⑥残額があれば、その債務は残る。
⑦物上保証人は利用できない。
⑧単に地代を定期的に支払う地上権者も利用できない。
そして、その下に大きく書く。
最重要。
代価弁済は
「抵当権者主導」。
「よし」
私は鉛筆を置きました。
今日までは、
代価弁済。
抵当権消滅請求。
第三取得者。
地上権。
物上保証人。
全部、テキストの中で似たような顔をして並んでいた。
でも今なら違う。
村瀬さんがいる。
佐伯さんがいる。
信用金庫の高木さんがいる。
八百万円がある。
一千万円の抵当権がある。
そして、
「その八百万円を、こちらへ支払ってください」
という一言がある。
あれが、代価弁済の始まりだった。
法律は、覚えようとすると難しい。
でも、人の顔をつけると、少しだけ忘れにくくなる。
「栞」
「はい?」
真壁さんが机の上に缶コーヒーを置いた。
「今日は俺が一個教えただろ」
「何をです?」
「覚え方」
「ああ」
「礼は?」
「ありがとうございます」
「素直だな」
「ただし」
「ん?」
「ノートには“真壁式”とは書きません」
「なんでだよ」
「試験会場で思い出して笑いそうなので」
「失礼だな」
私は缶コーヒーを開けました。
ぷしゅ、と小さな音がする。
昭和六十三年。
抵当権付きの不動産を買う。
代金を誰に払うのか。
抵当権をどう消すのか。
たったそれだけの違いが、八百万円と一千万円の行方を変える。
私はノートを閉じました。
代価弁済。
抵当権者が言う。
――その代金、こっちへ払ってください。
そして第三取得者が払う。
すると抵当権が消える。
うん。
今度こそ、忘れない。
たぶん。
……少なくとも、
「誰が言い出すんだっけ?」
と迷ったら。
怖い顔をした銀行員が、
八百万円を指差しているところを思い出そうと思います。
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