[先取特権]現場編 契約書に書いてなくても、先に取れる
世の中には、契約書に書いてあるから強い権利があります。
抵当権とか。
質権とか。
保証とか。
では逆に、契約書に一文字も書いていないのに、法律が勝手に――いや、法律が親切にも――用意してくれている権利もあります。
先取特権です。
私はこの日、そのありがたみを、
「そんな権利、契約書のどこに書いてあるんだ!」
という、たいへん分かりやすい台詞で知ることになりました。
◇
「……もう一度、お願いします」
大槻不動産の応接机で、私は鉛筆を持ったまま聞き返しました。
目の前に座っているのは、五十歳くらいの男だった。
日に焼けた顔。
太い指。
爪の隙間には、洗っても落ちなかったらしい白いものが残っている。
左官職人の佐伯さん。
古い木造家屋を改装して店舗にする工事を請け負った人だ。
「ですからね」
佐伯さんは帽子を膝の上で握りしめた。
「仕事は全部終わってるんです」
「はい」
「壁も塗った。土間も仕上げた。外回りも直した。追加工事までやった」
「はい」
「なのに、二百八十万円、一円も払ってもらってないんです」
私は鉛筆を止めた。
二百八十万円。
昭和六十三年の二百八十万円。
十八歳の私には、十分すぎるほど「人生の一部」という金額だった。
「建物の持ち主は?」
真壁さんが聞く。
「田所商事です」
「あそこか」
真壁さんの顔が険しくなった。
私でも名前くらい知っている。
田所商事。
この町で土地を買って、古家を潰して、店舗やアパートにして売る会社だ。
羽振りがいいという噂だった。
少なくとも、先月までは。
「最近、資金繰りが悪いらしくてな」
真壁さんが低く言った。
「銀行も締め始めてるって話だ」
「はい……」
佐伯さんは俯いた。
「それで昨日、田所社長に言われました」
「なんて?」
「申し訳ないが、銀行への返済が先だって」
私は眉をひそめる。
「銀行が先?」
「はい。銀行から借りた金がある。ほかにも仕入先がいる。お前のところは、余ったら払うって」
――余ったら。
嫌な言葉だ。
給食のおかずならともかく、人の仕事代を「余ったら」で処理しないでいただきたい。
「それで?」
大槻所長が静かに聞いた。
「俺も言ったんです。こっちは材料代まで立て替えてるんだって。そしたら……」
佐伯さんが、ぐっと唇を噛んだ。
「『担保も取ってない奴が悪い』って」
応接室が静かになった。
私は思わず、佐伯さんの手を見た。
節くれだった指。
その手で何日も壁を塗って、床を仕上げて、建物の価値を上げた。
それなのに最後に言われた言葉が、
担保を取ってない奴が悪い。
――なるほど。
腹が立つ。
法律問題としてではなく、普通に腹が立つ。
「契約書、ありますか?」
「あります」
佐伯さんが鞄から書類を出した。
工事請負契約書。
工事代金。
施工場所。
支払時期。
一通り書かれている。
私は上から下まで目を通した。
「……確かに、抵当権を設定するとは書いてませんね」
「でしょう?」
佐伯さんが力なく笑う。
「俺も、そういう難しいことは分からんですから」
その横から、真壁さんが覗き込んだ。
「栞。なんとかならんか」
「なんとかって言われても」
「お前、こういう時だけ妙な引き出し開くだろ」
「私を法律のびっくり箱みたいに扱わないでください」
「違うのか?」
「否定しづらいのが腹立ちますね」
そう言いながら、私は契約書をもう一度見た。
建物。
工事。
代金未払い。
他の債権者。
担保がない。
……いや。
待って。
担保が「ない」とは限らない。
頭の中で、あの言葉が浮かんだ。
――先取特権。
「佐伯さん」
「はい?」
「この工事を始める前に、何か登記の手続きをしてませんか?」
「登記?」
「工事費用の予算額を登記するとか」
佐伯さんが目を瞬いた。
「ああ……」
「あります?」
「司法書士さんに言われて、何かやりました」
私は椅子から半分立ち上がった。
「やったんですか?」
「はい。田所社長もその時は、『念のためやっとけ』って」
「書類あります?」
「たぶん……」
佐伯さんが鞄をひっくり返す。
領収書。
見積書。
煙草。
軍手。
なんで軍手まで出てくるんですか。
「あ、これかな」
差し出された登記事項の書類を見た瞬間、私は息を止めた。
「……真壁さん」
「なんだ」
「これ」
「読めん」
「読んでください」
「字が多い」
「営業マンでしょう!」
私は指先で一か所を示した。
そこには確かに、工事に関する先取特権保存の登記があった。
額も記載されている。
私は顔を上げた。
「佐伯さん」
「はい」
「まだ負けてません」
佐伯さんが、ぽかんとした。
「……え?」
「むしろ、ちゃんと準備してます」
「俺が?」
「はい」
「何を?」
「先取特権です」
佐伯さんの顔が、さらに分からないものを見る顔になった。
「せん……何です?」
「先に」
私は一本指を立てた。
「取る」
二本目。
「特別な」
三本目。
「権利」
真壁さんが横から口を挟んだ。
「説明が漢字の分解になってるぞ」
「最初はこれくらいでいいんです」
「つまり?」
「他の債権者より、優先して弁済を受けられる場合があるんです」
佐伯さんは、しばらく何も言わなかった。
そして恐る恐る聞いた。
「……そんな契約、しましたっけ?」
「してません」
「じゃあ駄目でしょう」
「そこが違うんです」
私は首を振った。
「これは、契約で作る権利じゃありません」
「え?」
「法律が認めているんです」
その時。
部屋の奥で新聞を読んでいた大槻所長が、静かに新聞を畳んだ。
「法定担保物権だ」
低い声だった。
「抵当権や質権のように、当事者が合意して設定する担保とは違う」
「ほうてい……」
「法律上、一定の債権を特別に保護するために認められる」
佐伯さんが、自分の手の中の書類を見た。
「じゃあ俺は……担保を取ってないわけじゃない?」
「正確には」
私は言った。
「『担保を取る契約をしていなかったから、何の権利もない』ということにはなりません」
佐伯さんの肩が、ほんの少しだけ上がった。
うつむいていた人が、初めて顔を上げる時の動きだった。
◇
問題は。
こういう法律の話というものは、事務所の中で「なるほど!」と言っているだけでは一円にもならないことです。
午後。
私たちは田所商事へ向かった。
もちろん私は留守番のつもりだった。
「栞、お前も来い」
と真壁さんが言うまでは。
「なんでですか」
「説明係」
「先輩は?」
「俺は迫力係」
「役割分担がおかしい」
「適材適所だ」
否定できない。
真壁さん、黙って立っているだけで、普通の取り立てより三割くらい怖い。
田所商事の応接室には、社長本人が待っていた。
四十代半ば。
高そうなスーツ。
机の上には金色のライター。
こちらを見る目に、露骨な苛立ちがあった。
「佐伯さんの件だって?」
「ええ」
真壁さんが答える。
「工事代金の未払いについてです」
「それなら本人にも説明したよ」
田所社長は煙草に火をつけた。
「払わないとは言ってない。今は銀行への返済が優先なんだ」
私は隣で黙って聞いた。
「会社には順番ってもんがあるんだよ」
社長は続ける。
「銀行。手形。大口の仕入先。そのあとだ」
「その順番、誰が決めたんですか?」
気づいたら、私は口を開いていた。
田所社長がこちらを見る。
「……誰だ、君」
「大槻不動産の藤崎です」
「事務員?」
「見習いです」
「だったら黙ってた方がいい」
うわ。
昭和。
香ばしい。
「そうしたいんですけど」
私は笑った。
「順番が間違ってるので」
「何?」
真壁さんが横で、ほんの少し口元を上げた。
やめてください。
その顔、「行け栞」って書いてあります。
「佐伯さんの工事代金には、先取特権があります」
一瞬。
田所社長の目が止まった。
知らない顔ではない。
なるほど。
知ってますね。
「……そんなもの、契約してないだろ」
「先取特権は、契約で成立する担保物権ではありません」
「理屈はいい」
「理屈じゃなくて法律です」
「同じだ」
「だいぶ違います」
私は持ってきた書類を机に置いた。
「それに、この工事については、ちゃんと登記もされています」
田所社長の顔から、笑いが消えた。
今。
空気が変わった。
「社長」
真壁さんが低く言った。
「佐伯さんに『担保を取ってない奴が悪い』って言ったそうですね」
「……だから何だ」
「取ってますよ」
私は答えた。
「正確には、法律が認めています」
「……」
「佐伯さんが知らなかったからといって、権利まで消えるわけじゃありません」
田所社長が煙草を灰皿に押しつけた。
「銀行の債権だってあるんだぞ」
「ありますね」
「だったら銀行が先だ」
「それも、全部を一括りにはできません」
私は言った。
「債権には、ただ早く発生しただけでは優先できないものがあります。逆に法律が特別に優先させる債権もある」
「……」
「先取特権は、そのための仕組みです」
田所社長の眉間に皺が寄った。
「借金した時期が早いから勝ち、という単純な話じゃありません」
真壁さんが、ぽつりと言う。
「早い者勝ちなら、正月の福袋だな」
「先輩」
「なんだ」
「今わりといいところです」
「すまん」
田所社長が睨んでくる。
でも、さっきまでの余裕はなかった。
私は続けた。
「社長。佐伯さんは、あなたの建物を良くするためにお金と労力を出したんですよね」
「それが仕事だろ」
「そうです」
「だったら――」
「だからこそです」
私は遮った。
「その仕事によって価値が生まれた物から、工事をした人が一定の場合に優先して支払いを受けられる。そういう仕組みを法律が用意してるんです」
社長は黙った。
「担保契約をしていないからゼロ」
私は言った。
「そういう話にはなりません」
部屋に時計の音だけが響いた。
カチ。
カチ。
カチ。
やがて田所社長は、ゆっくり背もたれにもたれた。
「……いくらだ」
「二百八十万円です」
「全部は無理だ」
「では支払計画を出してください」
真壁さんが即座に言った。
「今日、書面で」
「今日?」
「今日」
「無茶言うな」
そこで、それまでほとんど口を開かなかった大槻所長が言った。
「田所さん」
声は静かだった。
なのに部屋の温度が二度くらい下がった気がした。
「無茶を言っているのは、どちらですか」
田所社長が黙る。
「人に工事をさせた」
所長は続けた。
「建物は出来上がった」
「……」
「その利益は受け取った」
「……」
「その上で、金は余ったら払う」
所長は田所社長を見る。
「それを商売とは呼ばんでしょう」
静かだった。
ただ静かに、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
これだ。
この人の怖さは。
真壁さんが「迫力係」なら、所長は「判決文係」だ。
田所社長はしばらく机を見つめていた。
やがて電話を取った。
「経理を呼べ」
その一言で。
勝負はついた。
◇
最終的に、佐伯さんには二百八十万円のうち百八十万円がすぐに支払われ、残る百万円についても、一か月以内に支払う書面が交わされた。
もちろん、私はそれを「法律で二百八十万円を一瞬で取り返しました!」などとは思わない。
現実は、そんなに綺麗じゃない。
会社に金がなければ、権利があっても回収には苦労する。
他の担保権との順位だってある。
登記だって重要になる。
先取特権という言葉ひとつ唱えれば金庫が開くなら、司法書士も裁判所もいらない。
でも。
「助かりました」
事務所へ戻ってきた佐伯さんは、何度も頭を下げた。
「本当に……助かりました」
「まだ全部じゃありませんよ」
私が言うと、
「それでもです」
佐伯さんは笑った。
「材料屋にも払える。うちの若いのにも給料出せます」
――若いの。
私はそこで初めて、佐伯さんが自分一人のために来ていたわけではないと知った。
「若い職人さん、いるんですか」
「二人ね」
「そうだったんですね」
「二十三と十九」
十九。
私と一歳しか違わない。
「昨日ね」
佐伯さんは、少し照れたように鼻をこすった。
「十九の奴に言われたんですよ」
「何て?」
「親方、今月厳しいなら、俺の給料は来月でいいですよって」
私は何も言えなかった。
「馬鹿野郎って怒鳴りました」
佐伯さんは笑った。
「若い奴にそんなこと言わせたら、親方失格でしょう」
なるほど。
二百八十万円。
数字だけなら、ただの債権です。
でも、その後ろには材料屋がいる。
職人がいる。
その家族もいる。
給料袋を待っている人がいる。
先取特権。
他の債権者より先に取ることができる権利。
テキストには、それだけ書いてある。
だけど。
法律が「この債権は先に守ろう」と決めた裏側には、たぶん、こういう人たちがいるのだ。
「藤崎さん」
「はい」
「俺、難しい法律なんて知らんけど」
「はい」
「法律って、ちゃんと働いた奴の味方もしてくれるんですね」
私は一瞬迷って。
「……いつも、とは言えません」
正直に答えた。
佐伯さんが目を丸くする。
「そこは『はい』じゃないの?」
「法律を過信すると危険ですから」
「ははは!」
佐伯さんが初めて、大きな声で笑った。
その笑い声を聞いて、真壁さんまで笑った。
「栞は夢がないな」
「現実的と言ってください」
「十八歳が言う台詞じゃない」
「人生二周目ですから」
「またそれか」
「またです」
もちろん、信じてもらえてはいない。
信じてもらっても困るけど。
◇
夕方。
佐伯さんが帰ったあと、私は自分の机で今日の書類を整理していた。
「なあ、栞」
「はい?」
真壁さんが椅子をくるりとこちらへ向けた。
「抵当権は契約で作るんだよな」
「はい」
「先取特権は?」
「法律が認めます」
「契約はいらない」
「基本はそうです」
「で、他の奴より先に金を取れる」
「一定の場合に、です」
「なんで毎回ひと言足すんだ」
「真壁さんの理解が大胆すぎるからです」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすすぎて危険なんです」
すると大槻所長が帳簿から顔も上げずに言った。
「栞の方が正しい」
「ほら」
「ただし」
所長が続ける。
「栞も、今日の一件だけで先取特権を分かった気になるなよ」
「……はい?」
「種類もある。順位もある。登記が問題になるものもある。物上代位もある」
私は固まった。
「そんなに?」
「ある」
「今日、結構頑張ったんですけど」
「法律は、頑張ったから範囲を減らしてくれたりはしない」
「宅建試験の神様、性格悪いですね」
「神様じゃない。試験委員だ」
「もっと怖いじゃないですか」
真壁さんが吹き出した。
私はため息をつきながらノートを開く。
先取特権。
法定担保物権。
契約によらず成立する。
一定の債権について、他の債権者より優先して弁済を受けられる。
そして――。
「そういえば所長」
「なんだ」
「なんで法律は、こんな権利をわざわざ作ったんでしょうね」
所長はしばらく考えた。
「さあな」
「そこ、教えてくれないんですか」
「法律家じゃないからな」
「便利な逃げ方!」
所長は笑った。
それから少しだけ真面目な顔になって言った。
「ただ」
「はい」
「今日の佐伯さんを見れば、だいたい分かるんじゃないか」
私は鉛筆を止めた。
「……」
「世の中、契約の上手い奴ばかりじゃない」
所長は言った。
「担保の取り方を知ってる奴ばかりでもない」
「はい」
「だが、それだけで、働いた人間が全部後回しになっていいわけでもない」
私はノートを見た。
――先取特権。
先に取る権利。
なんだか名前だけ聞くと、少し欲張りな権利に見える。
でも今日の佐伯さんを思い出すと、そうじゃない。
むしろ逆だった。
誰かが全部持っていってしまう前に。
法律が、
「この人の分は先に残しておこう」
と手を置いている。
そんな権利なのかもしれない。
私はノートの端に、小さく書いた。
――契約書に書いていない権利もある。
その時。
事務所の扉が開いた。
「こんばんはー!」
聞き覚えのない若い声。
振り向くと、作業着姿の青年が二人、大きな箱を抱えて立っていた。
「佐伯左官です!」
「親方がお世話になりました!」
箱を開ける。
中には。
饅頭。
それも、ものすごい数の饅頭。
「……何個あります?」
私が聞く。
「五十個です!」
「五十」
「親方が、少ないより多い方がいいだろって!」
佐伯さん。
その発想は分かります。
分かりますけど。
「真壁さん」
「なんだ」
「先取特権って、饅頭にも使えます?」
「使えるか」
「じゃあ先に三個取ります」
「お前それはただの早い者勝ちだ」
所長が奥から声を飛ばした。
「藤崎」
「はい?」
「二個にしろ」
「所長も取るんですか!」
夕方の事務所に笑い声が広がった。
私は饅頭を一つ手に取った。
まだ少し温かかった。
昭和六十三年。
担保といえば、私はずっと、契約書に判子を押して作るものだと思っていた。
でも。
世の中には。
判子を押さなくても、生まれる権利がある。
ちゃんと働いた人。
物を守った人。
価値を生み出した人。
そういう誰かを、法律が少しだけ先に並ばせてくれることがある。
それが、先取特権。
……まあ。
饅頭の順番までは、守ってくれませんけど。
私は三個目に伸ばしかけた手を、
所長に無言で叩かれた。
法律より先に、所長がいた。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




