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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 担保物件

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141/249

[先取特権]現場編 契約書に書いてなくても、先に取れる

挿絵(By みてみん)

 世の中には、契約書に書いてあるから強い権利があります。


 抵当権とか。


 質権とか。


 保証とか。


 では逆に、契約書に一文字も書いていないのに、法律が勝手に――いや、法律が親切にも――用意してくれている権利もあります。


 先取特権です。


 私はこの日、そのありがたみを、


「そんな権利、契約書のどこに書いてあるんだ!」


 という、たいへん分かりやすい台詞で知ることになりました。


     ◇


「……もう一度、お願いします」


 大槻不動産の応接机で、私は鉛筆を持ったまま聞き返しました。


 目の前に座っているのは、五十歳くらいの男だった。


 日に焼けた顔。


 太い指。


 爪の隙間には、洗っても落ちなかったらしい白いものが残っている。


 左官職人の佐伯さん。


 古い木造家屋を改装して店舗にする工事を請け負った人だ。


「ですからね」


 佐伯さんは帽子を膝の上で握りしめた。


「仕事は全部終わってるんです」


「はい」


「壁も塗った。土間も仕上げた。外回りも直した。追加工事までやった」


「はい」


「なのに、二百八十万円、一円も払ってもらってないんです」


 私は鉛筆を止めた。


 二百八十万円。


 昭和六十三年の二百八十万円。


 十八歳の私には、十分すぎるほど「人生の一部」という金額だった。


「建物の持ち主は?」


 真壁さんが聞く。


「田所商事です」


「あそこか」


 真壁さんの顔が険しくなった。


 私でも名前くらい知っている。


 田所商事。


 この町で土地を買って、古家を潰して、店舗やアパートにして売る会社だ。


 羽振りがいいという噂だった。


 少なくとも、先月までは。


「最近、資金繰りが悪いらしくてな」


 真壁さんが低く言った。


「銀行も締め始めてるって話だ」


「はい……」


 佐伯さんは俯いた。


「それで昨日、田所社長に言われました」


「なんて?」


「申し訳ないが、銀行への返済が先だって」


 私は眉をひそめる。


「銀行が先?」


「はい。銀行から借りた金がある。ほかにも仕入先がいる。お前のところは、余ったら払うって」


 ――余ったら。


 嫌な言葉だ。


 給食のおかずならともかく、人の仕事代を「余ったら」で処理しないでいただきたい。


「それで?」


 大槻所長が静かに聞いた。


「俺も言ったんです。こっちは材料代まで立て替えてるんだって。そしたら……」


 佐伯さんが、ぐっと唇を噛んだ。


「『担保も取ってない奴が悪い』って」


 応接室が静かになった。


 私は思わず、佐伯さんの手を見た。


 節くれだった指。


 その手で何日も壁を塗って、床を仕上げて、建物の価値を上げた。


 それなのに最後に言われた言葉が、


 担保を取ってない奴が悪い。


 ――なるほど。


 腹が立つ。


 法律問題としてではなく、普通に腹が立つ。


「契約書、ありますか?」


「あります」


 佐伯さんが鞄から書類を出した。


 工事請負契約書。


 工事代金。


 施工場所。


 支払時期。


 一通り書かれている。


 私は上から下まで目を通した。


「……確かに、抵当権を設定するとは書いてませんね」


「でしょう?」


 佐伯さんが力なく笑う。


「俺も、そういう難しいことは分からんですから」


 その横から、真壁さんが覗き込んだ。


「栞。なんとかならんか」


「なんとかって言われても」


「お前、こういう時だけ妙な引き出し開くだろ」


「私を法律のびっくり箱みたいに扱わないでください」


「違うのか?」


「否定しづらいのが腹立ちますね」


 そう言いながら、私は契約書をもう一度見た。


 建物。


 工事。


 代金未払い。


 他の債権者。


 担保がない。


 ……いや。


 待って。


 担保が「ない」とは限らない。


 頭の中で、あの言葉が浮かんだ。


 ――先取特権。


「佐伯さん」


「はい?」


「この工事を始める前に、何か登記の手続きをしてませんか?」


「登記?」


「工事費用の予算額を登記するとか」


 佐伯さんが目を瞬いた。


「ああ……」


「あります?」


「司法書士さんに言われて、何かやりました」


 私は椅子から半分立ち上がった。


「やったんですか?」


「はい。田所社長もその時は、『念のためやっとけ』って」


「書類あります?」


「たぶん……」


 佐伯さんが鞄をひっくり返す。


 領収書。


 見積書。


 煙草。


 軍手。


 なんで軍手まで出てくるんですか。


「あ、これかな」


 差し出された登記事項の書類を見た瞬間、私は息を止めた。


「……真壁さん」


「なんだ」


「これ」


「読めん」


「読んでください」


「字が多い」


「営業マンでしょう!」


 私は指先で一か所を示した。


 そこには確かに、工事に関する先取特権保存の登記があった。


 額も記載されている。


 私は顔を上げた。


「佐伯さん」


「はい」


「まだ負けてません」


 佐伯さんが、ぽかんとした。


「……え?」


「むしろ、ちゃんと準備してます」


「俺が?」


「はい」


「何を?」


「先取特権です」


 佐伯さんの顔が、さらに分からないものを見る顔になった。


「せん……何です?」


「先に」


 私は一本指を立てた。


「取る」


 二本目。


「特別な」


 三本目。


「権利」


 真壁さんが横から口を挟んだ。


「説明が漢字の分解になってるぞ」


「最初はこれくらいでいいんです」


「つまり?」


「他の債権者より、優先して弁済を受けられる場合があるんです」


 佐伯さんは、しばらく何も言わなかった。


 そして恐る恐る聞いた。


「……そんな契約、しましたっけ?」


「してません」


「じゃあ駄目でしょう」


「そこが違うんです」


 私は首を振った。


「これは、契約で作る権利じゃありません」


「え?」


「法律が認めているんです」


 その時。


 部屋の奥で新聞を読んでいた大槻所長が、静かに新聞を畳んだ。


「法定担保物権だ」


 低い声だった。


「抵当権や質権のように、当事者が合意して設定する担保とは違う」


「ほうてい……」


「法律上、一定の債権を特別に保護するために認められる」


 佐伯さんが、自分の手の中の書類を見た。


「じゃあ俺は……担保を取ってないわけじゃない?」


「正確には」


 私は言った。


「『担保を取る契約をしていなかったから、何の権利もない』ということにはなりません」


 佐伯さんの肩が、ほんの少しだけ上がった。


 うつむいていた人が、初めて顔を上げる時の動きだった。


     ◇


 問題は。


 こういう法律の話というものは、事務所の中で「なるほど!」と言っているだけでは一円にもならないことです。


 午後。


 私たちは田所商事へ向かった。


 もちろん私は留守番のつもりだった。


「栞、お前も来い」


 と真壁さんが言うまでは。


「なんでですか」


「説明係」


「先輩は?」


「俺は迫力係」


「役割分担がおかしい」


「適材適所だ」


 否定できない。


 真壁さん、黙って立っているだけで、普通の取り立てより三割くらい怖い。


 田所商事の応接室には、社長本人が待っていた。


 四十代半ば。


 高そうなスーツ。


 机の上には金色のライター。


 こちらを見る目に、露骨な苛立ちがあった。


「佐伯さんの件だって?」


「ええ」


 真壁さんが答える。


「工事代金の未払いについてです」


「それなら本人にも説明したよ」


 田所社長は煙草に火をつけた。


「払わないとは言ってない。今は銀行への返済が優先なんだ」


 私は隣で黙って聞いた。


「会社には順番ってもんがあるんだよ」


 社長は続ける。


「銀行。手形。大口の仕入先。そのあとだ」


「その順番、誰が決めたんですか?」


 気づいたら、私は口を開いていた。


 田所社長がこちらを見る。


「……誰だ、君」


「大槻不動産の藤崎です」


「事務員?」


「見習いです」


「だったら黙ってた方がいい」


 うわ。


 昭和。


 香ばしい。


「そうしたいんですけど」


 私は笑った。


「順番が間違ってるので」


「何?」


 真壁さんが横で、ほんの少し口元を上げた。


 やめてください。


 その顔、「行け栞」って書いてあります。


「佐伯さんの工事代金には、先取特権があります」


 一瞬。


 田所社長の目が止まった。


 知らない顔ではない。


 なるほど。


 知ってますね。


「……そんなもの、契約してないだろ」


「先取特権は、契約で成立する担保物権ではありません」


「理屈はいい」


「理屈じゃなくて法律です」


「同じだ」


「だいぶ違います」


 私は持ってきた書類を机に置いた。


「それに、この工事については、ちゃんと登記もされています」


 田所社長の顔から、笑いが消えた。


 今。


 空気が変わった。


「社長」


 真壁さんが低く言った。


「佐伯さんに『担保を取ってない奴が悪い』って言ったそうですね」


「……だから何だ」


「取ってますよ」


 私は答えた。


「正確には、法律が認めています」


「……」


「佐伯さんが知らなかったからといって、権利まで消えるわけじゃありません」


 田所社長が煙草を灰皿に押しつけた。


「銀行の債権だってあるんだぞ」


「ありますね」


「だったら銀行が先だ」


「それも、全部を一括りにはできません」


 私は言った。


「債権には、ただ早く発生しただけでは優先できないものがあります。逆に法律が特別に優先させる債権もある」


「……」


「先取特権は、そのための仕組みです」


 田所社長の眉間に皺が寄った。


「借金した時期が早いから勝ち、という単純な話じゃありません」


 真壁さんが、ぽつりと言う。


「早い者勝ちなら、正月の福袋だな」


「先輩」


「なんだ」


「今わりといいところです」


「すまん」


 田所社長が睨んでくる。


 でも、さっきまでの余裕はなかった。


 私は続けた。


「社長。佐伯さんは、あなたの建物を良くするためにお金と労力を出したんですよね」


「それが仕事だろ」


「そうです」


「だったら――」


「だからこそです」


 私は遮った。


「その仕事によって価値が生まれた物から、工事をした人が一定の場合に優先して支払いを受けられる。そういう仕組みを法律が用意してるんです」


 社長は黙った。


「担保契約をしていないからゼロ」


 私は言った。


「そういう話にはなりません」


 部屋に時計の音だけが響いた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 やがて田所社長は、ゆっくり背もたれにもたれた。


「……いくらだ」


「二百八十万円です」


「全部は無理だ」


「では支払計画を出してください」


 真壁さんが即座に言った。


「今日、書面で」


「今日?」


「今日」


「無茶言うな」


 そこで、それまでほとんど口を開かなかった大槻所長が言った。


「田所さん」


 声は静かだった。


 なのに部屋の温度が二度くらい下がった気がした。


「無茶を言っているのは、どちらですか」


 田所社長が黙る。


「人に工事をさせた」


 所長は続けた。


「建物は出来上がった」


「……」


「その利益は受け取った」


「……」


「その上で、金は余ったら払う」


 所長は田所社長を見る。


「それを商売とは呼ばんでしょう」


 静かだった。


 ただ静かに、逃げ道を一つずつ塞いでいく。


 これだ。


 この人の怖さは。


 真壁さんが「迫力係」なら、所長は「判決文係」だ。


 田所社長はしばらく机を見つめていた。


 やがて電話を取った。


「経理を呼べ」


 その一言で。


 勝負はついた。


     ◇


 最終的に、佐伯さんには二百八十万円のうち百八十万円がすぐに支払われ、残る百万円についても、一か月以内に支払う書面が交わされた。


 もちろん、私はそれを「法律で二百八十万円を一瞬で取り返しました!」などとは思わない。


 現実は、そんなに綺麗じゃない。


 会社に金がなければ、権利があっても回収には苦労する。


 他の担保権との順位だってある。


 登記だって重要になる。


 先取特権という言葉ひとつ唱えれば金庫が開くなら、司法書士も裁判所もいらない。


 でも。


「助かりました」


 事務所へ戻ってきた佐伯さんは、何度も頭を下げた。


「本当に……助かりました」


「まだ全部じゃありませんよ」


 私が言うと、


「それでもです」


 佐伯さんは笑った。


「材料屋にも払える。うちの若いのにも給料出せます」


 ――若いの。


 私はそこで初めて、佐伯さんが自分一人のために来ていたわけではないと知った。


「若い職人さん、いるんですか」


「二人ね」


「そうだったんですね」


「二十三と十九」


 十九。


 私と一歳しか違わない。


「昨日ね」


 佐伯さんは、少し照れたように鼻をこすった。


「十九の奴に言われたんですよ」


「何て?」


「親方、今月厳しいなら、俺の給料は来月でいいですよって」


 私は何も言えなかった。


「馬鹿野郎って怒鳴りました」


 佐伯さんは笑った。


「若い奴にそんなこと言わせたら、親方失格でしょう」


 なるほど。


 二百八十万円。


 数字だけなら、ただの債権です。


 でも、その後ろには材料屋がいる。


 職人がいる。


 その家族もいる。


 給料袋を待っている人がいる。


 先取特権。


 他の債権者より先に取ることができる権利。


 テキストには、それだけ書いてある。


 だけど。


 法律が「この債権は先に守ろう」と決めた裏側には、たぶん、こういう人たちがいるのだ。


「藤崎さん」


「はい」


「俺、難しい法律なんて知らんけど」


「はい」


「法律って、ちゃんと働いた奴の味方もしてくれるんですね」


 私は一瞬迷って。


「……いつも、とは言えません」


 正直に答えた。


 佐伯さんが目を丸くする。


「そこは『はい』じゃないの?」


「法律を過信すると危険ですから」


「ははは!」


 佐伯さんが初めて、大きな声で笑った。


 その笑い声を聞いて、真壁さんまで笑った。


「栞は夢がないな」


「現実的と言ってください」


「十八歳が言う台詞じゃない」


「人生二周目ですから」


「またそれか」


「またです」


 もちろん、信じてもらえてはいない。


 信じてもらっても困るけど。


     ◇


 夕方。


 佐伯さんが帰ったあと、私は自分の机で今日の書類を整理していた。


「なあ、栞」


「はい?」


 真壁さんが椅子をくるりとこちらへ向けた。


「抵当権は契約で作るんだよな」


「はい」


「先取特権は?」


「法律が認めます」


「契約はいらない」


「基本はそうです」


「で、他の奴より先に金を取れる」


「一定の場合に、です」


「なんで毎回ひと言足すんだ」


「真壁さんの理解が大胆すぎるからです」


「分かりやすいだろ」


「分かりやすすぎて危険なんです」


 すると大槻所長が帳簿から顔も上げずに言った。


「栞の方が正しい」


「ほら」


「ただし」


 所長が続ける。


「栞も、今日の一件だけで先取特権を分かった気になるなよ」


「……はい?」


「種類もある。順位もある。登記が問題になるものもある。物上代位もある」


 私は固まった。


「そんなに?」


「ある」


「今日、結構頑張ったんですけど」


「法律は、頑張ったから範囲を減らしてくれたりはしない」


「宅建試験の神様、性格悪いですね」


「神様じゃない。試験委員だ」


「もっと怖いじゃないですか」


 真壁さんが吹き出した。


 私はため息をつきながらノートを開く。


 先取特権。


 法定担保物権。


 契約によらず成立する。


 一定の債権について、他の債権者より優先して弁済を受けられる。


 そして――。


「そういえば所長」


「なんだ」


「なんで法律は、こんな権利をわざわざ作ったんでしょうね」


 所長はしばらく考えた。


「さあな」


「そこ、教えてくれないんですか」


「法律家じゃないからな」


「便利な逃げ方!」


 所長は笑った。


 それから少しだけ真面目な顔になって言った。


「ただ」


「はい」


「今日の佐伯さんを見れば、だいたい分かるんじゃないか」


 私は鉛筆を止めた。


「……」


「世の中、契約の上手い奴ばかりじゃない」


 所長は言った。


「担保の取り方を知ってる奴ばかりでもない」


「はい」


「だが、それだけで、働いた人間が全部後回しになっていいわけでもない」


 私はノートを見た。


 ――先取特権。


 先に取る権利。


 なんだか名前だけ聞くと、少し欲張りな権利に見える。


 でも今日の佐伯さんを思い出すと、そうじゃない。


 むしろ逆だった。


 誰かが全部持っていってしまう前に。


 法律が、


 「この人の分は先に残しておこう」


 と手を置いている。


 そんな権利なのかもしれない。


 私はノートの端に、小さく書いた。


 ――契約書に書いていない権利もある。


 その時。


 事務所の扉が開いた。


「こんばんはー!」


 聞き覚えのない若い声。


 振り向くと、作業着姿の青年が二人、大きな箱を抱えて立っていた。


「佐伯左官です!」


「親方がお世話になりました!」


 箱を開ける。


 中には。


 饅頭。


 それも、ものすごい数の饅頭。


「……何個あります?」


 私が聞く。


「五十個です!」


「五十」


「親方が、少ないより多い方がいいだろって!」


 佐伯さん。


 その発想は分かります。


 分かりますけど。


「真壁さん」


「なんだ」


「先取特権って、饅頭にも使えます?」


「使えるか」


「じゃあ先に三個取ります」


「お前それはただの早い者勝ちだ」


 所長が奥から声を飛ばした。


「藤崎」


「はい?」


「二個にしろ」


「所長も取るんですか!」


 夕方の事務所に笑い声が広がった。


 私は饅頭を一つ手に取った。


 まだ少し温かかった。


 昭和六十三年。


 担保といえば、私はずっと、契約書に判子を押して作るものだと思っていた。


 でも。


 世の中には。


 判子を押さなくても、生まれる権利がある。


 ちゃんと働いた人。


 物を守った人。


 価値を生み出した人。


 そういう誰かを、法律が少しだけ先に並ばせてくれることがある。


 それが、先取特権。


 ……まあ。


 饅頭の順番までは、守ってくれませんけど。


 私は三個目に伸ばしかけた手を、


 所長に無言で叩かれた。


 法律より先に、所長がいた。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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