[債権質]現場編 まだ返ってこない三千万円
借金の担保にできるもの。
土地。
建物。
腕時計。
宝石。
ここまでは、なんとなく分かります。
物です。
目に見える。
指をさせる。
最悪の場合、
「これを売って返済してください」
と言える。
では。
まだもらっていない三千万円は、担保にできるでしょうか。
――できます。
正確には、
「将来、三千万円を返してもらう権利」
を担保にできます。
法律というのは、ときどき実体のないものまで商品棚へ並べるので油断できません。
そして。
目に見えないものを担保にすると、当然ながら話も見えにくくなります。
「だから、その三千万円を今日払ってもらいます」
目の前の男がそう言った瞬間。
私は思いました。
いや。
あなた。
それ、まだ出てきてない三千万円です。
◇
昭和六十三年。
大槻不動産の午後は、一本の電話から壊れました。
黒電話が鳴った。
「はい、大槻不動産です」
私が受話器を取ると、低い男の声がしました。
『大槻さんいる?』
「どちら様でしょうか」
『東亜商事の久世』
一瞬、机の向こうで真壁さんの眉が動きました。
知っている名前らしい。
「少々お待ちください」
受話器を押さえる。
「真壁さん。東亜商事の久世さんって」
「金融もやってる会社だ」
「怖い人?」
「お前の判断基準、そこなのか」
「重要でしょう」
「まあ……笑顔で近づいてくるタイプだな」
「もっと怖いやつじゃないですか」
所長へ電話を回しました。
大槻さんは短く相槌を打ちながら話を聞いていた。
やがて。
「……それはできません」
低い声が落ちました。
私は書類を整理する手を止める。
「ええ。承諾したことと、今すぐ払うことは別です」
しばらく沈黙。
「でしたら、お越しください」
ガチャン。
電話が切れました。
「所長」
「なんだ」
「揉めます?」
「たぶんな」
「お茶、多めに沸かします」
「なんでだ」
「長引きそうなので」
真壁さんが笑いました。
「栞、お前だんだん不動産屋らしくなってきたな」
それ、褒め言葉でしょうか。
◇
三十分後。
当事者が三人そろいました。
一人目。
竹原さん。
四十代の男性。
駅前の三階建て店舗を借りて、家具店を営んでいます。
二人目。
その建物の大家、森田さん。
六十代。
眉毛が立派です。
顔の半分くらい眉毛です。
三人目。
東亜商事の久世さん。
灰色のスーツ。
細い眼鏡。
そして本当に笑顔でした。
真壁さん。
正しかったです。
怖い。
「話は簡単なんですよ」
久世さんは柔らかい声で言いました。
「竹原さんには、うちが二千万円貸している」
竹原さんが俯きます。
「……はい」
「その担保として、森田さんに預けてある敷金三千万円の返還請求権に、うちのための質権を設定してもらった」
机の上には書類がありました。
そこには確かに、
竹原さんが森田さんに対して持つ敷金返還請求権を担保とする旨が記載されている。
そして大家の森田さんも、その設定を承諾している。
私は心の中で人間関係を並べました。
竹原さん。
借金した人。
久世さん。
金を貸した人。
森田さん。
将来、敷金を返す人。
……三人。
出ました。
法律が受験生を殺しにくる人数です。
二人なら何とかなる。
三人になると急に、
「AがBに対する債権をCに――」
が始まります。
私は前世で何度ABCに殺されたことか。
「で」
久世さんが続けました。
「うちへの返済日は昨日だった」
「……払えていません」
竹原さんが小さく言った。
「なら、質権を実行する」
久世さんは森田さんを見る。
「敷金三千万円。うちへ払ってください」
「いや、だから……」
森田さんが困った顔をしました。
「竹原さん、まだ店借りてるでしょう」
「それが何か?」
「何かって……敷金返すのは、店を明け渡してからでしょう」
そこです。
私は顔を上げました。
久世さんは笑った。
「でも森田さん」
「はい?」
「あなた、質権設定を承諾しましたよね」
「しましたけど」
「だったら払ってください」
いや。
そうはならない。
承諾したら、未来から三千万円がワープしてくるわけではありません。
「ちょっといいですか」
私が口を挟む。
久世さんの視線がこちらへ向きました。
「……事務員さん?」
「見習いです」
「同じようなものでしょう」
「地味に傷つくので分けてください」
真壁さんが横で咳払いしました。
笑いを隠している。
あとで覚えておいてください。
「確認なんですが」
私は竹原さんを見る。
「この店、まだ借り続けるんですよね?」
「はい」
「退去する予定は?」
「ありません。店を閉めるつもりもありません」
「家賃も?」
「遅れてません」
なるほど。
では、少なくとも今すぐ敷金全部を返せという話ではない。
「森田さん」
「はい」
「竹原さんの敷金返還請求権って、今すぐ三千万円を全部払わなきゃいけない状態ですか?」
「いやいや」
森田さんが首を振った。
「契約が終わって、店を返してもらって。それから未払いの家賃とか修繕とか精算して、残った分を返しますよ」
ですよね。
私は久世さんを見る。
「じゃあ、まだその三千万円を取り立てる時期じゃないです」
笑顔が少しだけ薄くなりました。
◇
「何を言ってるのかな」
久世さんは眼鏡を上げました。
「うちの竹原さんに対する貸金債権は、もう弁済期が来ている」
「はい」
「返してもらえていない」
「はい」
「敷金返還請求権には、うちの質権が付いている」
「はい」
「なら、うちが森田さんから取り立てられる」
「そこまでは分かります」
「なら――」
「でも」
私は指を一本立てました。
「森田さんが竹原さんに敷金を返す時期は、まだ来てません」
久世さんが黙った。
「質権が付いているからって」
私は続けました。
「元々の債権より先に、お金が生えてくるわけじゃありません」
真壁さんが吹き出した。
「生えてくるってお前」
「だってそうでしょう?」
三千万円が植木鉢から生えてきたら、私も育てたい。
「竹原さんが持っているのは、あくまで森田さんに対する“敷金を返してもらう権利”です」
「それにうちの質権が付いている」
「そうです」
「なら同じだろ」
「同じじゃありません」
私は紙を一枚引き寄せました。
そして鉛筆で三人の名前を書きます。
竹原さん
↓
森田さんから敷金を返してもらう権利
そして横に、
久世さん
↓
その権利を担保に取っている
「久世さんが持っているのは」
私は鉛筆で敷金返還請求権を囲みました。
「この債権に対する質権です」
「だから?」
「この債権自体が、まだ“今払え”と言える状態じゃないんです」
真壁さんが腕を組んだ。
「なるほど」
「分かりました?」
「なんとなく」
「なんとなくですか」
「要するに」
真壁さんが言いました。
「まだ収穫時期じゃない畑を担保に取ったからって、今日野菜をよこせとは言えねえってことか」
私は目を瞬いた。
「……意外と上手いですね」
「意外とは余計だ」
でも、本当にそんな感じです。
権利を担保にできる。
だからといって、その権利の内容まで都合よく書き換わるわけじゃない。
「久世さん」
所長が静かに口を開きました。
「森田さんが質権設定を承諾したのは、敷金返還請求権に質権が設定されたことを認めたという話です」
「ええ」
「竹原さんとの賃貸借契約を今日終わらせて、三千万円を即日返します、と承諾したわけじゃない」
久世さんの笑顔が消えました。
所長は続けます。
「そこを混ぜるな」
――来た。
所長の一刀。
この人、声を荒らげないのに、話だけきれいに真っ二つにします。
「貸金の返済期限が来た」
所長が言う。
「だから竹原さんに請求する。それは分かる」
「……」
「敷金返還請求権に質権を設定している。それも分かる」
「……」
「だが、その敷金返還請求権自体の弁済期がまだ来ていない」
所長は書類を指しました。
「なら今すぐ森田さんに三千万円を払え、とはならん」
事務所に沈黙が落ちました。
竹原さんが、ゆっくり顔を上げた。
◇
「じゃあ……」
竹原さんが聞きました。
「私は、店を追い出されなくて済むんですか?」
「待ってください」
私は慌てて言いました。
「そこまで話を飛ばさないでください」
「え?」
「借金が消えたわけじゃないです」
「あ……」
法律で助かる場面というのは、ときどきここを間違えます。
相手の無茶な主張を止めた。
だから全部チャラ。
――ではない。
残念ながら現実は、ドラマの最終回ほど親切ではありません。
「久世さんへの二千万円の返済義務は残っています」
「はい……」
「でも」
私は続けました。
「その借金があるからといって、まだ返還時期が来ていない敷金を今日無理やり回収していい、ということにはならない」
竹原さんが頷きました。
「……はい」
「そこを分けましょう」
その言葉を言いながら、私は少し不思議な気持ちになりました。
最近、法律を使う時。
私は何度も、
分ける。
という言葉を使っている。
借金と担保。
契約と引渡し。
本人と第三者。
そして今日は、
担保されている借金の期限と、
担保に入れた債権の期限。
ごちゃごちゃしている話を、人ごとに、権利ごとに、時間ごとに分ける。
すると。
急に答えが見える。
宅建という試験。
もしかすると、暗記力より仕分け能力を試しているのではないでしょうか。
だったら最初から、
宅地建物取引士試験ではなく、
法律仕分け選手権と名乗ってほしい。
◇
「でもよ」
真壁さんが言いました。
「久世さんからしたら、担保取った意味なくねえか?」
「あります」
「今は取れないんだろ?」
「今は、です」
私は答えました。
「敷金返還請求権の弁済期が来れば、話は変わります」
「たとえば竹原さんが店を明け渡したら?」
「そうです」
「その時、森田さんが敷金を返す義務を負う」
「精算後ですけどね」
敷金は、単純に預けた額がそのまま全額戻るとは限らない。
未払賃料などがあれば、差し引かれる。
でも残額について返還時期が来れば、今とは状況が違う。
「その時には」
私は久世さんを見ました。
「質権者として、取り立てられる場面が出てきます」
「ほら」
久世さんが言う。
「結局うちが取れるんじゃないか」
「将来の話です」
「同じだ」
「今日と将来を同じにしたら、世の中の住宅ローン全部今日払うことになりますよ」
「……」
「三十年後の支払いを今日請求されたら困るでしょう?」
真壁さんが笑った。
「お前、今日はやけに時間に厳しいな」
「債権は時間が命なんです」
「昨日三分遅刻した女の台詞じゃねえな」
「それは人間の時間です」
「同じ時計で動いてるよ」
うるさい。
◇
久世さんは、しばらく黙っていました。
やがて、眼鏡を外して布で拭きました。
「……分かりました」
意外なほど静かな声でした。
「今日は森田さんへの請求を引っ込めます」
竹原さんが息を吐いた。
でも。
「ただし」
久世さんは竹原さんを見る。
「うちへの返済は別ですよ」
「分かっています」
竹原さんは、今度は逃げずに答えました。
「払います」
「どうやって?」
「……家具店を続けながら、返済計画を組ませてください」
久世さんが眉を寄せる。
そこで真壁さんが口を挟みました。
「店は潰さない方がいい」
「営業さん」
「竹原さんの店、売上そのものは落ちてないんです」
「じゃあなんで借りた」
「新店舗出そうとして、仕入れ抱えすぎた」
竹原さんが気まずそうに俯く。
なるほど。
昭和六十三年。
景気がいい。
土地も上がる。
店も増やせ。
借りて広げろ。
みんながアクセルを踏んでいる時代です。
でも。
アクセルしかない車は、いつか壁に刺さる。
「在庫を整理すれば」
真壁さんが続けました。
「ある程度現金化できる。店舗を続ければ、毎月の返済原資も作れる」
「だから店を潰すなと?」
「今すぐ敷金取ろうとして賃貸借まで壊したら、本当に回収できなくなるかもしれない」
久世さんは腕を組んだ。
所長が言いました。
「担保を取る目的は、担保を奪うことじゃない」
私は所長を見る。
「金を回収することだ」
静かな声でした。
「回収可能性が高い方を選べ」
久世さんはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……一週間ください」
竹原さんを見る。
「返済計画、持ってきてください」
「はい」
「数字が現実的なら検討します」
竹原さんの顔が少しだけ緩みました。
「ありがとうございます」
「礼は返してからにしてください」
「……はい」
その返事には、さっきまでとは違う力がありました。
◇
三人が帰ったあと。
私は椅子の背にもたれました。
「疲れた……」
「お前、たいして何もしてねえだろ」
真壁さんが言う。
「しましたよ」
「図描いただけじゃねえか」
「その図で分かったでしょう?」
「まあな」
「じゃあ図面代ください」
「不動産屋で図面代請求すんな」
所長が書類を片づけながら言いました。
「栞」
「はい」
「今日の話、分かったか」
「たぶん」
「たぶんか」
「登場人物が三人になった瞬間、脳が拒否反応を起こしました」
「情けねえな」
真壁さんが笑った。
「だって債権質って嫌なんですよ!」
私は机の紙に書きました。
竹原さん。
森田さん。
久世さん。
「竹原さんが森田さんに対して持っている“敷金を返してもらう権利”を」
丸で囲む。
「久世さんへの借金の担保にした」
矢印を書く。
「だから債権質」
「物じゃなくて、権利を質に入れた」
「そうです」
「で、久世さんはその権利を使って森田さんから金を取れる」
「条件が整えば」
「今日整ってなかった条件は?」
「敷金返還請求権の方の弁済期」
「なるほど」
私は思わず笑いました。
「真壁さん」
「なんだ」
「今日ちょっと賢いですね」
「ちょっとって言うな」
「昨日より伸びてます」
「俺を新人扱いするな」
所長が小さく笑っています。
◇
一週間後。
竹原さんは、本当に返済計画を持ってきました。
在庫の処分。
新店舗計画の中止。
毎月の返済額。
繁忙期の増額返済。
久世さんは数字を見て、渋い顔をしながらも受け入れました。
店を出ていく必要はなくなった。
敷金三千万円も、その時点ではそのまま。
もちろん借金は残る。
だから、これを「めでたしめでたし」と言うのは少し違う。
ただ。
一つだけ変わったものがありました。
竹原家具店の店先に、
《新店舗開店予定》
と書かれていた紙がなくなっていました。
代わりに。
《創業二十五周年 在庫整理市》
という赤い紙が貼られている。
私は真壁さんと店の前を通った時、それを見上げました。
「……撤退ですね」
「違う」
真壁さんが言った。
「立て直しだ」
「同じじゃないですか?」
「違うよ」
真壁さんは店を見る。
「逃げるのと、いったん戻るのは違う」
店の中では竹原さんが客に頭を下げていました。
その顔は、前より少し疲れて見えた。
でも。
ちゃんと前を向いていた。
「真壁さん」
「ん?」
「たまにいいこと言いますね」
「“たまに”取れ」
「褒めてます」
「お前の褒め言葉は棘があるんだよ」
私は笑いました。
◇
その夜。
事務所で一人、ノートを開きました。
債権質。
物ではなく、債権を担保にする質権。
昨日までなら、
AがBに百万円を貸す。
AがCから百万円借りる。
AはBに対する貸金債権をCのために質入れする。
――はいはい。
ABC。
またお前らか。
としか思いませんでした。
でも今日なら違う。
竹原さんには、森田さんから敷金を返してもらう権利があった。
その権利を、久世さんから借りた金の担保にした。
だから。
目には見えなくても、
「お金を返してもらう権利」
そのものに価値がある。
そして、その価値を担保に使うことができる。
私はノートに一行だけ書きました。
債権質――「物」ではなく、「もらう権利」を質に入れる。
そして、その下にもう一行。
ただし、質権を取ったからといって、元の債権の期限まで早くなるわけではない。
「……ここだな」
今日の事件で一番大事なのは。
久世さんの貸金債権。
竹原さんの敷金返還請求権。
二つの債権には、それぞれ別の時計が動いている。
一方の期限が来たからといって、もう一方まで勝手に早送りされるわけじゃない。
法律は、人間関係だけじゃなく。
時間まで整理する。
私は鉛筆を置きました。
窓の外を見る。
向かいの商店街では、竹原家具店の明かりがまだついていました。
たぶん在庫を数えている。
返すために。
店を続けるために。
今日、法律が助けたのは、借金を消すことではなかった。
時間を戻したわけでもない。
ただ。
まだ来ていない期限を、
無理やり「今日」にされるのを止めただけ。
でも、人には時々。
その「まだ」が必要なんだと思う。
もう少し働く時間。
立て直す時間。
返すための時間。
私はノートを閉じました。
「栞ー!」
奥から真壁さんの声。
「帰るぞ!」
「今行きます!」
「電気消せよ!」
「分かってます!」
「昨日つけっぱなしだったぞ!」
「……」
しまった。
どうやら私にも、
立て直す時間が必要らしい。
昭和六十三年。
債権にも人間にも。
期限は、ちゃんと守った方がいい。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




