[質権]現場編 その時計、まだあなたの腕にありますよ
担保という言葉には、人を黙らせる力があります。
「それ、担保に入ってますから」
そう言われると、なんとなく逆らえない。
銀行。
借金。
差押え。
競売。
頭の中に、ろくでもない単語が列を作ります。
でも法律というものは、怖そうな顔をしているわりに、案外きっちりしています。
担保にすると言った。
契約書にも書いた。
判子まで押した。
だから何でも取っていい――。
そんな雑な世界ではありません。
少なくとも。
「その時計は、うちのもんだ!」
目の前で怒鳴っている男に関しては、かなり雑な世界観で生きているようでした。
◇
昭和六十三年、秋。
昼前の大槻不動産に、ひどく似合わない怒鳴り声が響きました。
「大槻さん! あんたんとこが紹介した客だろうが!」
カウンターの前に立っているのは、四十代半ばくらいの男。
茶色いダブルのスーツ。
金のネックレス。
革のセカンドバッグ。
そして声が大きい。
昭和の金融屋というのは、セカンドバッグの厚みと声量で信用力を測るのでしょうか。
測りたくありません。
「黒川さん。まず座ってください」
所長の大槻さんが言いました。
声は静かです。
なのに、なぜか黒川という男の声より重い。
これが所長力か。
黒川は舌打ちしながら椅子へ腰を下ろしました。
その向かいには、小柄な男性が座っています。
井坂さん。
駅前商店街で時計店を営む、五十代の店主です。
そしてその井坂さんが、さっきから妙に左手首を隠していました。
私はお茶を出しながら、ちらりと見ます。
銀色の腕時計。
革のベルト。
新品ではありません。
ケースには細かな傷があり、文字盤も少し焼けています。
でも、ずっと大切に使われてきた時計なのは分かりました。
黒川が、その時計を指さします。
「それだよ。それ!」
井坂さんの肩がびくっと揺れました。
「今日こそ渡してもらうからな」
「……これは困ります」
「困るも何もねえだろ。担保に入れたじゃねえか!」
担保。
私は湯飲みを置く手を止めました。
真壁さんも、隣で眉を寄せます。
「どういう話です?」
「簡単な話だ」
黒川はセカンドバッグから一枚の紙を取り出しました。
机に広げる。
金銭消費貸借契約書。
借入額、三百万円。
借主、井坂正一。
貸主、黒川金融。
そして末尾に、手書きの一文がありました。
――借入金の担保として、ロレックス腕時計一個を差し入れるものとする。
「ほら」
黒川は指で叩きました。
「ちゃんと書いてある。本人の署名も判子もある」
真壁さんが契約書を覗き込みます。
「三百万円か」
「店の仕入れで……」
井坂さんが俯いた。
「資金繰りが苦しくなりまして」
黒川が鼻を鳴らします。
「で、返済期限は昨日だった。払えなかった。だから時計を取る。当たり前だろ」
「ちょっと待ってください」
私は思わず口を挟みました。
黒川がこちらを見ます。
「なんだ、嬢ちゃん」
出ました。
昭和男性の万能呼称、嬢ちゃん。
十八歳なので否定しづらいのが悔しい。
「その時計、いつ黒川さんに渡したんですか?」
「は?」
「担保にした時です」
私は井坂さんを見ました。
「契約した日に、黒川さんへ預けました?」
「……いえ」
「一度でも?」
「ありません」
私は今度は黒川を見る。
「じゃあ、ずっと井坂さんが持っていたんですか?」
「だから今から持って帰るんだよ!」
黒川が苛立って机を叩いた。
私は時計を見る。
井坂さんの腕にある。
今も。
契約した日も。
ずっと。
頭の中で、前世の宅建テキストが勝手に開きました。
質権。
そして、成立要件。
私は小さく息を吸います。
「……それ、まだ質権成立してないんじゃないですか?」
事務所が静まり返りました。
「何?」
黒川の眉が動いた。
真壁さんもこちらを見る。
「栞、どういうことだ」
「質権ですよね?」
「ああ」
「質権って、契約しただけじゃ足りません」
私は井坂さんの腕時計を指しました。
「目的物を、質権者に引き渡さないと成立しません」
黒川が鼻で笑った。
「何言ってんだ。契約書に担保って書いてあるだろ」
「書いてありますね」
「判子もある」
「あります」
「じゃあ終わりじゃねえか!」
「終わってません」
私は首を振りました。
「質権は、紙の上だけで成立する担保じゃないんです」
真壁さんが腕を組んだ。
「物を渡す必要がある?」
「はい」
「なんで?」
「それが質権だからです」
「説明になってねえぞ」
「これからします!」
ちょっと待ってください。
十八歳に法律講義の即興ライブを要求しないでください。
私は井坂さんに聞きました。
「井坂さん。その時計を担保にする話をした時、どういうつもりでした?」
「もしどうしても払えなかったら、預けることになるかもしれないとは……」
「でも実際には?」
「渡していません」
「黒川さんも持ち帰っていない?」
「はい」
黒川が割り込んだ。
「だから、今から渡せば同じだろ!」
「同じじゃありません」
私は言いました。
「少なくとも、『あの時すでに質権が成立していた』ことにはなりません」
黒川の顔から、少し笑いが消えました。
「契約書に書いてあるから、今すぐその時計を質物として取り上げて、好きに処分できる――という話ではないです」
「嬢ちゃん。法律知ってんのか?」
「少しだけ」
前世で死ぬほど過去問に殴られましたから。
とは言いません。
この時代で言ったら、たぶん別の意味で病院へ連れていかれます。
所長が静かに口を開きました。
「栞の言う通りだ」
黒川が所長を見る。
「大槻さんまで何言ってんだ」
「質権は、占有を移す担保だ」
所長は契約書を指先で押さえました。
「担保にする合意があったとしても、質物を引き渡していないなら、少なくとも質権として完成していない」
「じゃあ、この契約書は紙切れだってのか!」
「そうは言ってない」
所長の声が少し低くなった。
「貸した金が消えるわけでもない。返済請求できなくなるわけでもない」
そこで一拍置く。
「だが、“金を返さないから時計を勝手に持っていっていい”という話とは別だ」
黒川が黙りました。
私は思わず、所長を見ました。
うまい。
これです。
法律の説明って、ともすると「相手が全部負けた」みたいな言い方になりがちです。
でも違う。
借金は借金。
担保は担保。
そこを切り分ける。
この人、本当に実務が上手い。
「それにな」
真壁さんも口を開いた。
「黒川さん。あんたさっき、『時計はうちのもんだ』って言ったよな」
「……言ったよ」
「質権があったとしても、あんたの所有物になるわけじゃねえだろ」
「!」
私は思わず真壁さんを見ました。
おお。
珍しく法律っぽい。
「なんだ、その顔」
「いえ。先輩もたまには知的なことを言うんだなと」
「たまにはってなんだ」
「褒めてます」
「全然褒めてねえ」
所長が咳払いしました。
はい、怒られますね。
私は口を閉じました。
黒川は苛立ったように脚を組み直します。
「じゃあ何か? 三百万円踏み倒されても、俺は指くわえて見てろってのか?」
「誰もそんなこと言ってません」
私は答えました。
「井坂さんには返済義務があります」
井坂さんが小さく頷いた。
「はい……」
「払えないなら、返済方法を話し合う必要があります。でも」
私は時計を見ました。
「質権が成立していないのに、“質物だから持っていく”という理屈は使えません」
黒川が睨む。
「だったら今ここで預けてもらえばいい」
井坂さんの顔が強張りました。
「それは……」
「どうせ払えねえんだろ!」
黒川が立ち上がった。
「じゃあ時計くらい渡せよ!」
その瞬間。
井坂さんは左手首を胸元へ引き寄せました。
その動きが妙に必死で。
私は、さっきから気になっていたことを聞きました。
「井坂さん」
「……はい」
「その時計、そんなに大事なんですか?」
井坂さんはしばらく黙っていました。
やがて、時計の文字盤を指で撫でます。
「親父のなんです」
黒川が舌打ちしました。
でも井坂さんは続けました。
「うちの店を始めたのが親父でしてね」
声が少し震えました。
「戦後、何もないところから店を作って……。私が二十歳になった時に、これをくれたんです」
「ロレックスを?」
「中古ですけどね」
井坂さんが、ほんの少し笑った。
「“時計屋の倅が時間に遅れるな”って」
私は思いました。
お父さん。
高い時計を渡しておいて教訓が庶民的です。
でも、いい。
すごくいい。
「店が苦しくなった時」
井坂さんは続けました。
「一度は、担保にしても仕方ないと思ったんです。でも……結局、渡せなかった」
黒川が鼻を鳴らす。
「情で借金が消えるかよ」
「消えません」
私は即答しました。
黒川がこちらを見る。
「そこは井坂さんが返すべきです」
井坂さんも頷く。
「はい」
「でも」
私は続けました。
「借金があることと、何でも奪っていいことは同じじゃありません」
また、事務所が静かになりました。
法律というのは、ときどき冷たいです。
三百万円借りた。
返せない。
なら返済義務は残る。
思い出があるとか、苦労しているとか、そういう事情だけでは消えません。
でも。
冷たいからこそ、線を引いてくれる。
ここまでは債権者の権利。
ここから先は違う。
それを、人の声の大きさで決めさせない。
たぶん法律の役目は、そういうところにもある。
所長が黒川を見ました。
「黒川さん」
「なんだよ」
「返済計画を作り直そう」
「は?」
「井坂さんの店は、春先になれば学校関係の時計需要も増える。修理の固定客もいる」
所長は井坂さんを見る。
「月々いくらなら現実に払えますか」
「……十万円なら」
「利息も含めて計算し直す必要があるな」
真壁さんが言う。
「一部まとまった金は用意できません?」
「店の在庫を少し整理すれば……五十万円くらいなら」
黒川が腕を組んだ。
「足りねえよ」
「だから残りは分割です」
私は言った。
「時計を取って揉めて、返済まで止まるより、その方が黒川さんも回収できます」
「嬢ちゃんは簡単に言うな」
「簡単じゃないですよ」
私は笑いました。
「だから所長がいます」
「おい」
所長がこっちを見る。
「丸投げするな」
「頼りにしてます」
「言い方だけは上手くなったな」
真壁さんが吹き出しました。
黒川まで、ほんの少し口元を緩めた。
「……ほんと妙な不動産屋だな、ここ」
「よく言われます」
私が答えると、
「お前が来てからだ」
真壁さんに即座に訂正されました。
◇
結局、その日の午後いっぱいを使って、返済の話し合いが続きました。
井坂さんはまず五十万円を支払う。
残額については毎月一定額を返済する。
店の経営状況が改善したら繰上げ返済する。
そして。
腕時計については、黒川へ渡さない。
少なくとも、今まで成立していなかった質権を理由に、強引に持ち去ることはしない。
黒川も最後には、渋々ながら頷きました。
「……分かったよ」
契約書類をセカンドバッグへしまいながら立ち上がります。
帰り際、私をちらりと見ました。
「嬢ちゃん」
「はい?」
「お前、本当に十八か?」
「失礼ですね」
「十八の事務員が質権なんて口にするか普通」
「趣味です」
「嫌な趣味だな」
「私もそう思います」
黒川は鼻で笑って帰っていきました。
扉が閉まる。
私は大きく息を吐いた。
「怖かったぁ……」
「今さらかよ」
真壁さんが呆れた。
「だって、あの人ずっと声大きいんですよ」
「お前、真正面から言い返してただろ」
「口と心臓は別系統です」
「便利な体だな」
井坂さんが、そんな私たちを見て小さく笑いました。
そして立ち上がり、深く頭を下げます。
「ありがとうございました」
「まだ終わってませんよ」
所長が言いました。
「借金は残っています」
「はい」
井坂さんは、今度はしっかり頷きました。
「返します」
そして左手首の時計を見る。
「これを売らずに済んだんです。店も、もう一度立て直します」
私は時計を見ました。
古びた革のベルト。
細かい傷。
でも、秒針はちゃんと動いている。
「その時計」
「はい?」
「時間、合ってます?」
井坂さんはぱっと文字盤を見た。
壁の時計を見る。
そして顔色を変えました。
「……三分遅れてる」
私は吹き出しました。
「時計屋さん!」
「いや、これはその……」
「お父さん泣きますよ。“時間に遅れるな”って言われたんでしょう?」
「栞、お前そこまで言うな」
真壁さんまで笑っている。
井坂さんは顔を赤くしながら、時計の竜頭を引きました。
「……修理屋の時計ほど、後回しになるもんなんですよ」
「歯医者さんが虫歯みたいな?」
「そうそう」
「納得しかけましたけど、駄目ですからね」
秒針が止まり、三分進められる。
そして再び動き始めた。
カチ。
カチ。
カチ。
小さな音でした。
でも、なぜか事務所の中によく響いた気がしました。
◇
井坂さんが帰ったあと。
私は机に座って、受験用のノートを開きました。
質権。
昨日まで、正直あまり好きな分野ではありませんでした。
抵当権ならまだ分かる。
家を担保にしても、住み続けられる。
でも質権は違う。
質物を相手に渡す。
だから腕時計なら、持っていかれる。
宝石なら、預ける。
そうやって債権者が目的物を占有することで、担保として機能する。
私はノートに一行だけ書きました。
――質権は、「約束した担保」ではなく、「預けた担保」。
「何書いてる?」
真壁さんが、背後から覗き込みました。
「質権です」
「まだやんのか」
「今日のうちに覚えておくんです」
「さっき十分しゃべっただろ」
「しゃべった知識と、試験で点になる知識は別物です」
「面倒くせえ世界だな」
「本当に」
私は大きく頷きました。
そして、ふと思いついて横に書く。
抵当権――物を渡さなくていい。
質権――物を渡す。
「……これなら覚えられる」
「ずいぶん雑だな」
「入口は雑でいいんです」
私は言いました。
「あとで細かくします」
「お前、たまに妙にいいこと言うな」
「たまに?」
「たまに」
抗議しようとしたところで、所長が奥から顔を出しました。
「栞」
「はい?」
「今日の件で一つ覚えておけ」
「なんですか?」
所長は、私のノートを見ました。
「担保があるかないかだけを見るな」
「……?」
「その担保が、どうやって成立するのかを見るんだ」
私は瞬きしました。
所長は続ける。
「契約で成立するのか。物を渡す必要があるのか。登記が必要なのか。法律上当然に発生するのか」
「あ……」
「担保物権は、名前だけ覚えても使えん」
所長は静かに言いました。
「成立の仕方まで分かって、初めて武器になる」
私はノートを見る。
質権。
たった二文字。
でも今日、その二文字の向こうには、井坂さんの時計があった。
黒川さんの三百万円があった。
店を守りたい人と、金を回収したい人がいた。
どちらかを悪者にして終わる話ではない。
だからこそ、法律が線を引く。
貸した金は返してもらえる。
でも、成立していない担保を、成立したことにはできない。
その線一本で、今日、一つの時計が持ち主の腕に残った。
「……所長」
「なんだ」
「それ、今からノートに書くので、もう一回言ってください」
「聞いてなかったのか」
「聞いてました。文章として欲しいんです」
「自分でまとめろ」
「ケチ」
「誰がケチだ」
真壁さんが横から笑います。
「栞、俺が教えてやるよ」
「本当ですか?」
「ああ。質権ってのはな」
真壁さんは腕を組み、得意げに言いました。
「物を人質に取る担保だ」
「……」
「どうだ。分かりやすいだろ」
「所長」
「なんだ」
「やっぱり所長がお願いします」
「おい!」
三人で笑いました。
◇
数日後。
井坂時計店の前を通ると、店先に新しい小さな札が出ていました。
《時計修理承ります》
ガラス越しに、井坂さんが作業台へ向かっています。
左手首には、あの時計。
私に気づくと、笑って腕を上げました。
私は道路の向こうから、自分の左手首を指さす。
――時間、大丈夫?
という意味です。
井坂さんは慌てて時計を確認した。
そして大きく丸を作った。
合っているらしい。
よし。
私は少し笑って、大槻不動産へ戻りました。
質権は、物を預ける担保です。
預けるからこそ、債権者はその物を手元に置ける。
そして、債務が弁済されなければ、その物から優先的に弁済を受けることができる。
でも。
「担保にする」と書いただけで、まだ手元にある物まで勝手に質物になるわけではない。
法律は、言葉だけではなく、実際に何が行われたのかを見る。
私は今日、それを一つ覚えました。
そして、もう一つ。
人間というのは、金に困ると、大切なものまで差し出そうとすることがあります。
だからこそ。
差し出したのか。
まだ差し出していないのか。
その違いを、ちゃんと区別してくれる法律がある。
それはたぶん、思っていたより少しだけ優しい仕組みです。
私は事務所の扉を開けました。
「戻りましたー」
「栞!」
真壁さんの怒鳴り声が飛んでくる。
「どこほっつき歩いてた! 客来てるぞ!」
「三分しか遅れてません!」
「遅れてんじゃねえか!」
――しまった。
井坂さんのお父さん。
あなたの教え。
今度は私にも刺さりました。
昭和六十三年。
今日も時間は、きっちり進んでいます。
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