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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 担保物件

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137/412

[質権]現場編 その時計、まだあなたの腕にありますよ

挿絵(By みてみん)

 担保という言葉には、人を黙らせる力があります。


 「それ、担保に入ってますから」


 そう言われると、なんとなく逆らえない。


 銀行。

 借金。

 差押え。

 競売。


 頭の中に、ろくでもない単語が列を作ります。


 でも法律というものは、怖そうな顔をしているわりに、案外きっちりしています。


 担保にすると言った。


 契約書にも書いた。


 判子まで押した。


 だから何でも取っていい――。


 そんな雑な世界ではありません。


 少なくとも。


「その時計は、うちのもんだ!」


 目の前で怒鳴っている男に関しては、かなり雑な世界観で生きているようでした。


        ◇


 昭和六十三年、秋。


 昼前の大槻不動産に、ひどく似合わない怒鳴り声が響きました。


「大槻さん! あんたんとこが紹介した客だろうが!」


 カウンターの前に立っているのは、四十代半ばくらいの男。


 茶色いダブルのスーツ。


 金のネックレス。


 革のセカンドバッグ。


 そして声が大きい。


 昭和の金融屋というのは、セカンドバッグの厚みと声量で信用力を測るのでしょうか。


 測りたくありません。


「黒川さん。まず座ってください」


 所長の大槻さんが言いました。


 声は静かです。


 なのに、なぜか黒川という男の声より重い。


 これが所長力か。


 黒川は舌打ちしながら椅子へ腰を下ろしました。


 その向かいには、小柄な男性が座っています。


 井坂さん。


 駅前商店街で時計店を営む、五十代の店主です。


 そしてその井坂さんが、さっきから妙に左手首を隠していました。


 私はお茶を出しながら、ちらりと見ます。


 銀色の腕時計。


 革のベルト。


 新品ではありません。


 ケースには細かな傷があり、文字盤も少し焼けています。


 でも、ずっと大切に使われてきた時計なのは分かりました。


 黒川が、その時計を指さします。


「それだよ。それ!」


 井坂さんの肩がびくっと揺れました。


「今日こそ渡してもらうからな」


「……これは困ります」


「困るも何もねえだろ。担保に入れたじゃねえか!」


 担保。


 私は湯飲みを置く手を止めました。


 真壁さんも、隣で眉を寄せます。


「どういう話です?」


「簡単な話だ」


 黒川はセカンドバッグから一枚の紙を取り出しました。


 机に広げる。


 金銭消費貸借契約書。


 借入額、三百万円。


 借主、井坂正一。


 貸主、黒川金融。


 そして末尾に、手書きの一文がありました。


 ――借入金の担保として、ロレックス腕時計一個を差し入れるものとする。


「ほら」


 黒川は指で叩きました。


「ちゃんと書いてある。本人の署名も判子もある」


 真壁さんが契約書を覗き込みます。


「三百万円か」


「店の仕入れで……」


 井坂さんが俯いた。


「資金繰りが苦しくなりまして」


 黒川が鼻を鳴らします。


「で、返済期限は昨日だった。払えなかった。だから時計を取る。当たり前だろ」


「ちょっと待ってください」


 私は思わず口を挟みました。


 黒川がこちらを見ます。


「なんだ、嬢ちゃん」


 出ました。


 昭和男性の万能呼称、嬢ちゃん。


 十八歳なので否定しづらいのが悔しい。


「その時計、いつ黒川さんに渡したんですか?」


「は?」


「担保にした時です」


 私は井坂さんを見ました。


「契約した日に、黒川さんへ預けました?」


「……いえ」


「一度でも?」


「ありません」


 私は今度は黒川を見る。


「じゃあ、ずっと井坂さんが持っていたんですか?」


「だから今から持って帰るんだよ!」


 黒川が苛立って机を叩いた。


 私は時計を見る。


 井坂さんの腕にある。


 今も。


 契約した日も。


 ずっと。


 頭の中で、前世の宅建テキストが勝手に開きました。


 質権。


 そして、成立要件。


 私は小さく息を吸います。


「……それ、まだ質権成立してないんじゃないですか?」


 事務所が静まり返りました。


「何?」


 黒川の眉が動いた。


 真壁さんもこちらを見る。


「栞、どういうことだ」


「質権ですよね?」


「ああ」


「質権って、契約しただけじゃ足りません」


 私は井坂さんの腕時計を指しました。


「目的物を、質権者に引き渡さないと成立しません」


 黒川が鼻で笑った。


「何言ってんだ。契約書に担保って書いてあるだろ」


「書いてありますね」


「判子もある」


「あります」


「じゃあ終わりじゃねえか!」


「終わってません」


 私は首を振りました。


「質権は、紙の上だけで成立する担保じゃないんです」


 真壁さんが腕を組んだ。


「物を渡す必要がある?」


「はい」


「なんで?」


「それが質権だからです」


「説明になってねえぞ」


「これからします!」


 ちょっと待ってください。


 十八歳に法律講義の即興ライブを要求しないでください。


 私は井坂さんに聞きました。


「井坂さん。その時計を担保にする話をした時、どういうつもりでした?」


「もしどうしても払えなかったら、預けることになるかもしれないとは……」


「でも実際には?」


「渡していません」


「黒川さんも持ち帰っていない?」


「はい」


 黒川が割り込んだ。


「だから、今から渡せば同じだろ!」


「同じじゃありません」


 私は言いました。


「少なくとも、『あの時すでに質権が成立していた』ことにはなりません」


 黒川の顔から、少し笑いが消えました。


「契約書に書いてあるから、今すぐその時計を質物として取り上げて、好きに処分できる――という話ではないです」


「嬢ちゃん。法律知ってんのか?」


「少しだけ」


 前世で死ぬほど過去問に殴られましたから。


 とは言いません。


 この時代で言ったら、たぶん別の意味で病院へ連れていかれます。


 所長が静かに口を開きました。


「栞の言う通りだ」


 黒川が所長を見る。


「大槻さんまで何言ってんだ」


「質権は、占有を移す担保だ」


 所長は契約書を指先で押さえました。


「担保にする合意があったとしても、質物を引き渡していないなら、少なくとも質権として完成していない」


「じゃあ、この契約書は紙切れだってのか!」


「そうは言ってない」


 所長の声が少し低くなった。


「貸した金が消えるわけでもない。返済請求できなくなるわけでもない」


 そこで一拍置く。


「だが、“金を返さないから時計を勝手に持っていっていい”という話とは別だ」


 黒川が黙りました。


 私は思わず、所長を見ました。


 うまい。


 これです。


 法律の説明って、ともすると「相手が全部負けた」みたいな言い方になりがちです。


 でも違う。


 借金は借金。


 担保は担保。


 そこを切り分ける。


 この人、本当に実務が上手い。


「それにな」


 真壁さんも口を開いた。


「黒川さん。あんたさっき、『時計はうちのもんだ』って言ったよな」


「……言ったよ」


「質権があったとしても、あんたの所有物になるわけじゃねえだろ」


「!」


 私は思わず真壁さんを見ました。


 おお。


 珍しく法律っぽい。


「なんだ、その顔」


「いえ。先輩もたまには知的なことを言うんだなと」


「たまにはってなんだ」


「褒めてます」


「全然褒めてねえ」


 所長が咳払いしました。


 はい、怒られますね。


 私は口を閉じました。


 黒川は苛立ったように脚を組み直します。


「じゃあ何か? 三百万円踏み倒されても、俺は指くわえて見てろってのか?」


「誰もそんなこと言ってません」


 私は答えました。


「井坂さんには返済義務があります」


 井坂さんが小さく頷いた。


「はい……」


「払えないなら、返済方法を話し合う必要があります。でも」


 私は時計を見ました。


「質権が成立していないのに、“質物だから持っていく”という理屈は使えません」


 黒川が睨む。


「だったら今ここで預けてもらえばいい」


 井坂さんの顔が強張りました。


「それは……」


「どうせ払えねえんだろ!」


 黒川が立ち上がった。


「じゃあ時計くらい渡せよ!」


 その瞬間。


 井坂さんは左手首を胸元へ引き寄せました。


 その動きが妙に必死で。


 私は、さっきから気になっていたことを聞きました。


「井坂さん」


「……はい」


「その時計、そんなに大事なんですか?」


 井坂さんはしばらく黙っていました。


 やがて、時計の文字盤を指で撫でます。


「親父のなんです」


 黒川が舌打ちしました。


 でも井坂さんは続けました。


「うちの店を始めたのが親父でしてね」


 声が少し震えました。


「戦後、何もないところから店を作って……。私が二十歳になった時に、これをくれたんです」


「ロレックスを?」


「中古ですけどね」


 井坂さんが、ほんの少し笑った。


「“時計屋の倅が時間に遅れるな”って」


 私は思いました。


 お父さん。


 高い時計を渡しておいて教訓が庶民的です。


 でも、いい。


 すごくいい。


「店が苦しくなった時」


 井坂さんは続けました。


「一度は、担保にしても仕方ないと思ったんです。でも……結局、渡せなかった」


 黒川が鼻を鳴らす。


「情で借金が消えるかよ」


「消えません」


 私は即答しました。


 黒川がこちらを見る。


「そこは井坂さんが返すべきです」


 井坂さんも頷く。


「はい」


「でも」


 私は続けました。


「借金があることと、何でも奪っていいことは同じじゃありません」


 また、事務所が静かになりました。


 法律というのは、ときどき冷たいです。


 三百万円借りた。


 返せない。


 なら返済義務は残る。


 思い出があるとか、苦労しているとか、そういう事情だけでは消えません。


 でも。


 冷たいからこそ、線を引いてくれる。


 ここまでは債権者の権利。


 ここから先は違う。


 それを、人の声の大きさで決めさせない。


 たぶん法律の役目は、そういうところにもある。


 所長が黒川を見ました。


「黒川さん」


「なんだよ」


「返済計画を作り直そう」


「は?」


「井坂さんの店は、春先になれば学校関係の時計需要も増える。修理の固定客もいる」


 所長は井坂さんを見る。


「月々いくらなら現実に払えますか」


「……十万円なら」


「利息も含めて計算し直す必要があるな」


 真壁さんが言う。


「一部まとまった金は用意できません?」


「店の在庫を少し整理すれば……五十万円くらいなら」


 黒川が腕を組んだ。


「足りねえよ」


「だから残りは分割です」


 私は言った。


「時計を取って揉めて、返済まで止まるより、その方が黒川さんも回収できます」


「嬢ちゃんは簡単に言うな」


「簡単じゃないですよ」


 私は笑いました。


「だから所長がいます」


「おい」


 所長がこっちを見る。


「丸投げするな」


「頼りにしてます」


「言い方だけは上手くなったな」


 真壁さんが吹き出しました。


 黒川まで、ほんの少し口元を緩めた。


「……ほんと妙な不動産屋だな、ここ」


「よく言われます」


 私が答えると、


「お前が来てからだ」


 真壁さんに即座に訂正されました。


        ◇


 結局、その日の午後いっぱいを使って、返済の話し合いが続きました。


 井坂さんはまず五十万円を支払う。


 残額については毎月一定額を返済する。


 店の経営状況が改善したら繰上げ返済する。


 そして。


 腕時計については、黒川へ渡さない。


 少なくとも、今まで成立していなかった質権を理由に、強引に持ち去ることはしない。


 黒川も最後には、渋々ながら頷きました。


「……分かったよ」


 契約書類をセカンドバッグへしまいながら立ち上がります。


 帰り際、私をちらりと見ました。


「嬢ちゃん」


「はい?」


「お前、本当に十八か?」


「失礼ですね」


「十八の事務員が質権なんて口にするか普通」


「趣味です」


「嫌な趣味だな」


「私もそう思います」


 黒川は鼻で笑って帰っていきました。


 扉が閉まる。


 私は大きく息を吐いた。


「怖かったぁ……」


「今さらかよ」


 真壁さんが呆れた。


「だって、あの人ずっと声大きいんですよ」


「お前、真正面から言い返してただろ」


「口と心臓は別系統です」


「便利な体だな」


 井坂さんが、そんな私たちを見て小さく笑いました。


 そして立ち上がり、深く頭を下げます。


「ありがとうございました」


「まだ終わってませんよ」


 所長が言いました。


「借金は残っています」


「はい」


 井坂さんは、今度はしっかり頷きました。


「返します」


 そして左手首の時計を見る。


「これを売らずに済んだんです。店も、もう一度立て直します」


 私は時計を見ました。


 古びた革のベルト。


 細かい傷。


 でも、秒針はちゃんと動いている。


「その時計」


「はい?」


「時間、合ってます?」


 井坂さんはぱっと文字盤を見た。


 壁の時計を見る。


 そして顔色を変えました。


「……三分遅れてる」


 私は吹き出しました。


「時計屋さん!」


「いや、これはその……」


「お父さん泣きますよ。“時間に遅れるな”って言われたんでしょう?」


「栞、お前そこまで言うな」


 真壁さんまで笑っている。


 井坂さんは顔を赤くしながら、時計の竜頭を引きました。


「……修理屋の時計ほど、後回しになるもんなんですよ」


「歯医者さんが虫歯みたいな?」


「そうそう」


「納得しかけましたけど、駄目ですからね」


 秒針が止まり、三分進められる。


 そして再び動き始めた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 小さな音でした。


 でも、なぜか事務所の中によく響いた気がしました。


        ◇


 井坂さんが帰ったあと。


 私は机に座って、受験用のノートを開きました。


 質権。


 昨日まで、正直あまり好きな分野ではありませんでした。


 抵当権ならまだ分かる。


 家を担保にしても、住み続けられる。


 でも質権は違う。


 質物を相手に渡す。


 だから腕時計なら、持っていかれる。


 宝石なら、預ける。


 そうやって債権者が目的物を占有することで、担保として機能する。


 私はノートに一行だけ書きました。


 ――質権は、「約束した担保」ではなく、「預けた担保」。


「何書いてる?」


 真壁さんが、背後から覗き込みました。


「質権です」


「まだやんのか」


「今日のうちに覚えておくんです」


「さっき十分しゃべっただろ」


「しゃべった知識と、試験で点になる知識は別物です」


「面倒くせえ世界だな」


「本当に」


 私は大きく頷きました。


 そして、ふと思いついて横に書く。


 抵当権――物を渡さなくていい。


 質権――物を渡す。


「……これなら覚えられる」


「ずいぶん雑だな」


「入口は雑でいいんです」


 私は言いました。


「あとで細かくします」


「お前、たまに妙にいいこと言うな」


「たまに?」


「たまに」


 抗議しようとしたところで、所長が奥から顔を出しました。


「栞」


「はい?」


「今日の件で一つ覚えておけ」


「なんですか?」


 所長は、私のノートを見ました。


「担保があるかないかだけを見るな」


「……?」


「その担保が、どうやって成立するのかを見るんだ」


 私は瞬きしました。


 所長は続ける。


「契約で成立するのか。物を渡す必要があるのか。登記が必要なのか。法律上当然に発生するのか」


「あ……」


「担保物権は、名前だけ覚えても使えん」


 所長は静かに言いました。


「成立の仕方まで分かって、初めて武器になる」


 私はノートを見る。


 質権。


 たった二文字。


 でも今日、その二文字の向こうには、井坂さんの時計があった。


 黒川さんの三百万円があった。


 店を守りたい人と、金を回収したい人がいた。


 どちらかを悪者にして終わる話ではない。


 だからこそ、法律が線を引く。


 貸した金は返してもらえる。


 でも、成立していない担保を、成立したことにはできない。


 その線一本で、今日、一つの時計が持ち主の腕に残った。


「……所長」


「なんだ」


「それ、今からノートに書くので、もう一回言ってください」


「聞いてなかったのか」


「聞いてました。文章として欲しいんです」


「自分でまとめろ」


「ケチ」


「誰がケチだ」


 真壁さんが横から笑います。


「栞、俺が教えてやるよ」


「本当ですか?」


「ああ。質権ってのはな」


 真壁さんは腕を組み、得意げに言いました。


「物を人質に取る担保だ」


「……」


「どうだ。分かりやすいだろ」


「所長」


「なんだ」


「やっぱり所長がお願いします」


「おい!」


 三人で笑いました。


        ◇


 数日後。


 井坂時計店の前を通ると、店先に新しい小さな札が出ていました。


 《時計修理承ります》


 ガラス越しに、井坂さんが作業台へ向かっています。


 左手首には、あの時計。


 私に気づくと、笑って腕を上げました。


 私は道路の向こうから、自分の左手首を指さす。


 ――時間、大丈夫?


 という意味です。


 井坂さんは慌てて時計を確認した。


 そして大きく丸を作った。


 合っているらしい。


 よし。


 私は少し笑って、大槻不動産へ戻りました。


 質権は、物を預ける担保です。


 預けるからこそ、債権者はその物を手元に置ける。


 そして、債務が弁済されなければ、その物から優先的に弁済を受けることができる。


 でも。


 「担保にする」と書いただけで、まだ手元にある物まで勝手に質物になるわけではない。


 法律は、言葉だけではなく、実際に何が行われたのかを見る。


 私は今日、それを一つ覚えました。


 そして、もう一つ。


 人間というのは、金に困ると、大切なものまで差し出そうとすることがあります。


 だからこそ。


 差し出したのか。


 まだ差し出していないのか。


 その違いを、ちゃんと区別してくれる法律がある。


 それはたぶん、思っていたより少しだけ優しい仕組みです。


 私は事務所の扉を開けました。


「戻りましたー」


「栞!」


 真壁さんの怒鳴り声が飛んでくる。


「どこほっつき歩いてた! 客来てるぞ!」


「三分しか遅れてません!」


「遅れてんじゃねえか!」


 ――しまった。


 井坂さんのお父さん。


 あなたの教え。


 今度は私にも刺さりました。


 昭和六十三年。


 今日も時間は、きっちり進んでいます。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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