[留置権]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私は今日の領収書のコピーを机の上に置きました。
屋根修理費、二十八万円。
その横に、ノートを開く。
今日の事件を一言でまとめるなら、
――お金を払ってもらうまで、建物を返さなくてもいい場合がある。
という話でした。
「……強いなあ」
私は鉛筆をくるりと回しました。
「何がだ?」
案の定、真壁さんが後ろから覗き込んできました。
「留置権です」
「そんな強かったか?」
「だって、人の物を返さなくていいんですよ」
「言い方が悪いな」
「でも事実でしょう?」
「条件付きだろ」
「そうなんです」
私は鉛筆の先で、ノートをとん、と叩きました。
「そこが今日の大事なところです」
留置権。
言葉だけ聞くと難しそうですが、考え方は単純です。
たとえば時計屋さんに時計を修理してもらったとします。
修理代を払わずに、
「時計だけ先に返してください」
と言ったらどうなるか。
時計屋さんとしては困ります。
そこで、
「修理代を払ってくれるまで、この時計は返しません」
と言える。
これが留置権です。
「なんだ。時計屋なら普通だな」
「はい。でも宅建では時計より建物が出ます」
「いきなり規模がでかい」
「不動産資格ですから」
私はノートに大きく書きました。
留置権=他人の物を占有している者が、その物に関して生じた債権の弁済を受けるまで、その物を留め置くことができる権利。
「長い」
真壁さんが即答しました。
「じゃあ簡単に」
私はその下に書き直します。
留置権=
「この物のことでお金を払ってもらえるまで、この物は返しません」
「それなら分かる」
「でしょう?」
「最初からそう書け」
「試験でそれ書いたら怒られます」
「誰にだよ」
たぶん採点者です。
いや、マークシートだから誰にも怒られません。
でも気持ちの問題です。
私は続けました。
まず、最初の重要ポイント。
留置権は、動産だけではなく、不動産にも成立します。
「建物も?」
「はい」
「土地も?」
「場合によっては成立します」
「時計みたいな物だけじゃないんだな」
「そうです」
留置権と聞くと、どうしても時計や車の修理みたいなイメージになりがちです。
でも、宅建では不動産が主役です。
今日の澄江さんのように、
借りていた建物について必要費を支出した。
貸主がその必要費を払ってくれない。
その場合、条件を満たせば建物を留置できる。
「つまり、契約が終わっても出なくていい?」
「必要費の弁済を受けるまで、明渡しを拒める場合があります」
「強いな」
「だから強いって言ったじゃないですか」
私は丸で囲みました。
超重要①
留置権は、
動産にも成立する。
不動産にも成立する。
ここはそのまま出題されることがあります。
私はノートの端に、
「留置権=時計だけ」
と書いて、大きくバツをつけました。
「栞」
「はい?」
「そんな間違いする奴いるのか?」
「試験中の人間は、普段なら絶対しない間違いをします」
「経験者の顔だな」
「前世で何度もやりました」
「……前世?」
「独り言です」
危ない。
うっかり転生設定を説明するところでした。
次。
留置権を使っている人は、預かっている物を好き勝手に扱っていいわけではありません。
「今日も言ってたな」
「はい」
留置権者は、
善良な管理者の注意をもって、留置物を占有しなければなりません。
「善良な管理者?」
「善管注意義務です」
「また法律語か」
「簡単に言うと、ちゃんと大事に扱ってください、です」
私はノートに書きました。
留置権者
↓
善管注意義務を負う。
「自分の物と同じくらい注意すればいい、じゃないのか?」
「違います」
「違うのか」
「そこ、宅建で引っかけられます」
私は少し得意げに鉛筆を立てました。
「留置権者は、自己の財産と同じ注意ではなく、善良な管理者としての注意が必要です」
「どっちが重い?」
「一般には善管注意義務の方が重いと考えてください」
「へえ」
そして、質権者も同じです。
留置権者だけでなく、
質権者も、
善良な管理者の注意をもって目的物を占有する必要があります。
「じゃあ問題で、『留置権者は善管注意義務、質権者は自分の物と同じ注意』って書いてあったら?」
「誤りです」
「両方、善管注意義務」
「正解」
私はノートに大きく書きました。
超重要②
留置権者も質権者も
善管注意義務を負う。
「じゃあ、建物を留置してる人は、そのまま店を続けてもいいのか?」
真壁さんが聞きました。
「原則、勝手には駄目です」
「なんで?」
「留置権は、あくまで返さずに持っておける権利ですから」
私は説明しました。
留置物を使用したり、賃貸したりするには、原則として債務者の承諾が必要です。
留置権があるからといって、
「よし、この建物で商売を続けよう」
「空き部屋だから誰かに貸そう」
と自由に使えるわけではありません。
「なるほどな」
「留置はできる。でも自由利用権ではない」
「その言い方、覚えやすいな」
私はすぐノートに書きました。
留置権=自由利用権ではない。
「俺の言葉を勝手に教材にするな」
「著作権料、一円でいいですか?」
「安すぎるわ」
さて。
ここからが今回の本丸です。
必要費。
造作買取請求権。
この二つ。
似ているように見えて、留置できるかどうかが違います。
私はノートを二つに分けました。
必要費
→建物を留置できる場合がある。
造作買取代金
→建物を留置できない。
「ここ、今日もややこしかったな」
「そうなんです」
まず必要費。
必要費とは、
その物を保存したり、維持したりするために必要な費用です。
今日の例なら、雨漏りした屋根の修理。
放っておけば建物が傷む。
営業もできない。
だから必要費です。
建物の賃借人がこの必要費を支出した場合、賃貸人に償還を請求できます。
そして、その必要費を払ってもらえない場合。
賃借人は、必要費償還請求権に基づいて建物を留置することができます。
「払うまで出ません、が言える」
「はい」
「ただし営業続け放題じゃない」
「はい」
「なるほど」
私は丸をつけました。
超重要③
建物について必要費を支出
↓
必要費償還請求権
↓
建物を留置できる。
ところが。
造作買取請求権になると違います。
「エアコンだな」
「そうです」
造作というのは、建物に取り付けた設備など。
たとえば、
畳。
ふすま。
エアコン。
一定の照明設備など。
借主が貸主の同意を得て造作を付け、賃貸借終了時に一定の要件を満たす場合には、貸主に造作を買い取るよう請求できることがあります。
「それが造作買取請求権」
「はい」
「でも、代金払わなかったら?」
「建物全体を留置することはできません」
「そこだよな」
「そこです」
私は強く線を引きました。
超重要④
造作買取代金を払ってもらえなくても、
建物を留置することはできない。
「なんで必要費はいいのに、造作は駄目なんだ?」
「宅建では、まず結論を覚えるのが大事です」
「逃げたな」
「逃げてません」
私は咳払いしました。
「留置権が成立するには、債権がその物に関して生じたことが必要なんです」
「関係があるかどうか?」
「そうです。法律では牽連性といいます」
必要費は、
その建物自体を維持するために支出した費用です。
だから、
必要費の債権と建物との関係が強い。
一方、造作買取代金債権は、
造作についての代金請求です。
建物そのものを丸ごと留置できるほどの関係は認められない。
「エアコン代払わないなら建物全部返さない、は広すぎるわけか」
「そう覚えると分かりやすいです」
「エアコン数万円のために建物丸ごと止めたら大げさだもんな」
「イメージとしてはそうです」
もちろん、法律上の理屈を単純に金額比較だけで説明するのは危険ですが、試験対策として、
必要費=建物そのものの維持。
造作代金=造作についての請求。
と分けると覚えやすい。
私は書きました。
必要費
「建物そのものを守るためのお金」
→建物留置○
造作買取代金
「設備を買い取ってもらうお金」
→建物留置×
「それなら分かる」
「でしょう?」
「でもエアコンそのものは?」
「そこまで突っ込むんですか」
「お前が上級者向けって書いてるからな」
「ぐっ」
私はノートの表紙を見ました。
確かに書いてある。
上級者向け。
自分で逃げ道を塞いでいました。
「造作そのものについて留置権が成立する余地とは別問題です。ただ、宅建で狙われるのは『造作買取代金を払わないから建物を留置できるか』です」
「答えは?」
「できない」
「よし」
真壁さんが満足そうに頷きました。
なんで先生側なんですか。
次の論点。
これは少し意地悪です。
賃貸借契約が、借主の債務不履行によって解除された。
そのあと借主が建物に費用をかけた。
その費用を払ってもらうまで留置できるか。
「できそうだけどな」
「できない場合があります」
「なんで?」
「占有の始まり方に問題があるからです」
留置権には重要なルールがあります。
占有が不法行為によって始まった場合には、留置権は成立しません。
「泥棒が盗んだ物を『金払うまで返しません』って言えないのと同じか」
「極端に言えば、そうです」
そして判例上、
賃借人が債務不履行によって賃貸借契約を解除されたあと、
もう占有する権原がないことを知りながら建物を占有し続け、
その間に有益費を支出した場合。
その有益費を理由に建物を留置することはできません。
「契約切られたあと居座って、勝手にシステムキッチンにして?」
「はい」
「金払うまで出ません」
「駄目です」
「そりゃそうだ」
「分かりやすく言えば、そうなんです」
私は書きました。
超重要⑤
不法な占有をもとに留置権を作ることはできない。
たとえば、
賃貸借契約を債務不履行で解除された。
もう住む権利がないと知っている。
それでも居座る。
その間に勝手に改良工事。
そして、
「工事代を払うまで出ません」
これは認められない。
「後から自分で留置権の材料作ったみたいになるもんな」
「そういうことです」
「法律もそこまで甘くない」
「むしろこの辺は結構厳しいです」
さらに。
今日の話とは少し場面が変わりますが、宅建では二重譲渡と留置権を組み合わせてくることがあります。
「また嫌な組み合わせだな」
「出題者は混ぜるのが好きなんです」
「料理みたいに言うな」
たとえば。
売主Aが建物をBに売りました。
でもAは同じ建物をCにも売った。
二重譲渡です。
そしてCが先に登記を備えた。
「ならCが勝つ」
「そうです」
Bは所有権をCに対抗できません。
この場合、Cから建物を明け渡せと言われたBは、
「売主Aから損害賠償をもらうまで、この建物を留置します」
と言えるか。
「言えそうだけど……」
「言えません」
「また駄目か」
「駄目です」
Bが持っている損害賠償請求権は、売主Aに対するものです。
一方、明渡しを求めているのは、登記を備えたC。
その建物と損害賠償債権との間に、留置権を認めるだけの関係がないとされます。
「要するに、Cに八つ当たりするなってことか」
「ものすごく雑に言えば」
「雑でいい。覚えやすい」
私はそのまま書きそうになって止めました。
試験ノートに、
第三者Cに八つ当たり禁止。
は、さすがにどうなんでしょう。
でも覚えやすい。
私は小さく書きました。
二重譲渡
第二買主が先に登記
↓
第一買主は明渡し必要
↓
売主への損害賠償を理由に
建物を留置することはできない。
「そこ、試験で出たら?」
「留置できる、と書いてあったら誤りです」
「分かった」
そしてもう一つ。
土地と建物の関係。
これも引っかけがあります。
建物の賃借人が、建物について必要費を支出した。
だから建物を留置する。
ここまではいい。
「さっきやったな」
「はい」
でも、その建物が建っている土地が、建物所有者とは別の第三者の物だったらどうなるか。
「土地まで返さなくていい?」
「駄目です」
「やっぱり」
建物についての必要費償還請求権は、
建物賃貸人との間で生じた債権です。
だから建物について留置権が成立することはあっても、
建物所有者とは無関係の第三者が所有する土地まで留置することはできません。
「建物の話を土地にまで広げるなってことか」
「そうです」
私は書きました。
超重要⑥
建物について必要費を支出
→建物留置○
その建物の敷地が第三者所有
→敷地まで留置×
「留置権って、広げすぎると大体駄目なんだな」
真壁さんが言いました。
「……それ、いいですね」
「何が」
「留置権の覚え方です」
私はノートに書きます。
留置権は、
「この物に関係する金を払え」
という権利。
関係ない物まで巻き込まない。
「お前また俺の言葉を」
「教材化しました」
「金取るぞ」
「その債権を理由に、このノート留置します?」
「もうややこしいからいい」
最後。
留置権には、物上代位性がありません。
「物上代位?」
「今日は名前だけ覚えてください」
「上級者向けなのに?」
「物上代位を説明し始めると別の回になります」
私は断固として言いました。
物上代位とは、
担保の目的物が売却されたり、滅失して保険金になったりしたときに、
その代金や保険金などに担保権の効力を及ぼす仕組みです。
抵当権などでは重要になります。
でも。
留置権には物上代位性がありません。
「つまり?」
「留置していた物が別の価値に変わったからって、その代金に留置権が移るわけではありません」
「そもそも留置って、物を手元に置いとく権利だもんな」
「そうです」
留置権の強さは、
その物を占有していること。
返さないこと。
そこにあります。
だから占有を失えば、留置権は原則として消滅します。
「なるほど。持ってること自体が命なんだな」
「その表現、かなり分かりやすいです」
私は最後に書きました。
超重要⑦
留置権には物上代位性がない。
留置権は
「目的物を占有して留め置く」
ことが中心。
そこまで書いたところで、所長が奥から出てきました。
「まだやってるのか」
「はい。今日は留置権です」
所長がノートを覗きます。
しばらく黙ってから、
「栞」
「はい」
「留置権で、試験中に最初に確認することは何だ」
私は少し考えました。
「……債権と物との関係?」
「そうだ」
所長が頷きます。
「何の金を請求しているのか」
「はい」
「何を留置しようとしているのか」
「はい」
「その二つを最初に見る」
私は急いでノートの一番下に書きました。
留置権の問題を見たら、
①何の債権か
②何を留置するのか
を確認する。
「必要費なら?」
「建物についての必要費だから、建物を留置できる」
「造作買取代金なら?」
「造作についての債権だから、建物全体は留置できない」
「建物の必要費で第三者所有の土地は?」
「土地は留置できない」
「二重譲渡の損害賠償で建物は?」
「留置できない」
「債務不履行解除後、不法占有中に出した有益費は?」
「それを理由に留置できない」
「留置物の管理は?」
「善管注意義務」
「動産だけか?」
「不動産にも成立します」
「物上代位は?」
「ありません」
所長が満足そうに頷いた。
「よし」
「……」
私は瞬きしました。
「なんだ」
「いや、今の完全に口頭試問だったなと思って」
「覚えたならいいだろ」
「十八歳の見習いに圧が強いです」
「不動産屋は圧に慣れろ」
「教育方針が昭和すぎます」
「昭和だぞ」
「そうでした」
忘れてた。
ここ昭和六十三年でした。
真壁さんが笑っています。
「お前、たまに妙なこと言うよな」
「気のせいです」
私は、今日のまとめをもう一度見ました。
留置権。
動産にも不動産にも成立する。
留置権者は善管注意義務を負う。
留置物を勝手に使用・賃貸することは原則できない。
建物について支出した必要費なら、建物を留置できる場合がある。
でも、造作買取代金を理由に建物全体を留置することはできない。
不法占有をもとに留置権を作ることはできない。
二重譲渡で第一買主が売主に持つ損害賠償債権を理由に、登記を得た第二買主へ建物の留置を主張することはできない。
建物の必要費を理由に、第三者所有の敷地まで留置することもできない。
そして、物上代位性はない。
「……いっぱいあるなあ」
「嫌になったか?」
真壁さんが聞きます。
「いいえ」
私は鉛筆を置きました。
「むしろ、一本に見えてきました」
「一本?」
「はい」
留置権は、
ただ、
「金を払ってもらうまで返さない」
という権利ではない。
もっと正確には、
「この物について生じた債権だから、この物を返さない」
という権利です。
だから、
屋根の修理代なら建物。
これはつながる。
でも、
エアコン代だから建物全部。
これはつながらない。
建物の必要費だから第三者の土地。
これもつながらない。
売主への損害賠償だから第二買主の建物。
これもつながらない。
「結局」
私は言いました。
「物と債権を線で結べるかどうかなんですね」
所長がこちらを見ました。
「そういうことだ」
「だったら最初からそう書いてくださいよ、民法」
「条文に文句を言うな」
「前世からの恨みです」
「また前世って言ったぞ」
「気のせいです」
私は慌ててノートを閉じました。
帰り支度をしていると、真壁さんが机の上に紙袋を置きました。
「ほら」
「なんですか?」
「森下さんから預かった」
中を見ると、昨日と同じクッキーが入っていました。
「また焼いてくれたんですか?」
「最後の材料が残ってたらしい」
「じゃあ、これ本当に最後?」
「たぶんな」
私は一枚取りました。
バターの匂いがしました。
「真壁さんも食べます?」
「今日は素直だな」
「昨日、留置権を悪用して怒られたので」
「成長したじゃないか」
「ただし一枚五十円です」
「全然成長してねえ!」
所長が奥から言いました。
「栞」
「はい?」
「その五十円債権とクッキーの間に、牽連性はあるのか」
「……」
「留置できるか?」
「……できません」
「よし」
「所長まで乗ってこないでください!」
真壁さんが腹を抱えて笑いました。
私はクッキーを一枚だけ渡しました。
五十円は取りませんでした。
今日は。
昭和六十三年。
今日覚えたのは、留置権。
抵当権みたいに競売するわけじゃない。
優先して金を取れるわけでもない。
ただ、そこにある物を、
「払うまで返さない」
と留めておく。
地味です。
でも。
今日の澄江さんには、それで十分でした。
権利があるから、頭を下げ続けなくて済んだ。
権利があるから、坂井さんとも対等に話せた。
そして権利には、ちゃんと限界もある。
必要費なら建物を留置できる。
造作代金なら建物は留置できない。
関係のある物だけ。
必要な範囲だけ。
強い権利ほど、境界線が大事なのかもしれない。
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
留置権――
「払うまで返さない」ではなく、
「この物のことで払ってもらうまで、この物だけは返さない」。
うん。
これなら忘れない。
たぶん。
「栞」
「はい?」
「残りのクッキー」
「駄目です」
「なんでだよ」
「これは私の所有物です」
「留置権ですらなくなったな」
「所有権は強いですよ」
「民法をお菓子の防衛に使うな!」
明日もたぶん、
大槻不動産は平和です。
法律問題さえ持ち込まれなければ。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




