[留置権]現場編 払うまで、ここを動きません
人間、「金を払ってもらうまで返しません」と言えるものを持っていると、ちょっと強くなります。
時計屋さんなら、修理した時計。
クリーニング屋さんなら、洗った背広。
そして不動産の場合――。
「この店、明け渡しません」
建物です。
……いや、スケールが急にでかい。
昭和六十三年、九月。
大槻不動産の朝は、一人の男性が応接机に分厚い封筒を叩きつけたところから始まりました。
「とにかく! 今月末までに出ていってもらいます!」
男性は五十代くらい。
焦げ茶色の背広に、金色の腕時計。額には汗。声量だけなら選挙演説でもいけそうです。
その向かいには、白いシャツに紺色のエプロンを着た女性が座っていました。
四十代半ばくらい。
小さな喫茶店を十年以上やっている、森下澄江さん。
駅から少し離れた商店街で、『喫茶こもれび』という店を営んでいます。
「ですから」
澄江さんは、膝の上で両手を握りしめました。
「出ていくこと自体は、もう納得しています。でも、私が立て替えた屋根の修理代だけは払っていただきたいんです」
「それとこれとは別でしょう!」
男――建物の所有者、坂井さんが言い返しました。
「契約は終わったんです。なら明け渡す。それが先だ」
「でも……」
「修理代なんて、あとで話せばいい」
はい出ました。
不動産トラブル界における危険ワードランキング、たぶん上位。
――あとで話せばいい。
その「あとで」が来なかったから、人類は契約書を発明したんじゃないでしょうか。
私はお茶を置きながら、澄江さんの前にある領収書をちらりと見ました。
屋根補修工事。
二十八万円。
雨漏り箇所補修。
瓦交換。
下地修繕。
けっこう本格的です。
「雨漏り、ひどかったんですか?」
私が聞くと、坂井さんがこちらを見ました。
「誰だ、君は」
「事務見習いです」
「じゃあ黙ってなさい」
開始三分で戦力外通告を受けました。
十八歳への扱いとしては、まあ妥当です。
ただし私は前世で宅建のテキストに殴られ続けた女です。
黙るかどうかは論点次第です。
澄江さんが小さく答えました。
「去年の台風のあとから、雨が入るようになったんです。カウンターの上にまで落ちてきて」
「大家さんには?」
「何度も連絡しました。でも坂井さん、その頃、お父様の介護で東京に行っておられて……」
坂井さんが苦い顔をしました。
「だからって勝手に二十八万もかけるか?」
「放っておいたら営業できませんでした」
「安い業者を探すとかあったでしょう!」
「三社に聞きました。一番安いところです」
澄江さんが、もう一枚紙を出しました。
見積書が三枚。
十八歳の私でも分かります。
ちゃんとしてる。
むしろ、ちゃんとしすぎて怖いくらいです。
そこへ、背後から真壁さんが現れました。
「所長」
低い声です。
顔は今日も怖い。
でも私はもう知っています。
この人、怖い顔のまま捨て猫に牛乳を買うタイプです。
「屋根は建物を使うために必要な修繕だろ」
「ああ」
大槻所長が短く答えました。
ずっと黙って話を聞いていた所長が、領収書を手に取ります。
「坂井さん」
「なんです」
「修繕前の写真はありますか」
澄江さんが鞄から写真を出しました。
天井には大きな染み。
壁にも雨筋。
ひどい。
これ、喫茶店で雨漏りしたというより、店内に局地的梅雨が発生してます。
所長は写真を眺め、それから坂井さんに言いました。
「これは必要費でしょうな」
「必要費?」
「建物を維持するために必要な費用です」
「だから?」
「原則として、借主が立て替えたなら貸主に償還を求められる」
坂井さんの顔が少し曇りました。
でも、すぐに鼻を鳴らしました。
「なら払えばいいんでしょう。ただし後でだ。先に明け渡してもらう」
その言葉を聞いた瞬間。
私の頭の中で、過去問の選択肢が一行、ぴかっと光りました。
――建物賃借人が必要費を支出した場合、必要費償還請求権に基づいて建物を留置することができる。
「それ」
私は口を挟みました。
全員がこちらを見ます。
「逆です」
「何?」
坂井さんが眉を寄せた。
「澄江さんは、修理代を払ってもらうまで、建物の明渡しを拒める可能性があります」
空気が止まりました。
真壁さんが私を見る。
あの顔です。
――また何か始めたな、この十八歳。
所長は何も言わず、続きを促すように顎を少し上げました。
「この場合、澄江さんが持っているのは、屋根の必要費についての償還請求権です」
私は領収書を指しました。
「そして、そのお金が発生した原因は、この建物です」
「だから何だ?」
「だから、この建物を留置できます」
「る……?」
「留置権です」
言葉にすると、急に法律っぽくなります。
でも中身は簡単です。
「払ってもらうまで、渡しません」
私は言いました。
「それが留置権です」
「そんな馬鹿な!」
坂井さんが机を叩きました。
「人の建物を借りてる側が、返さないなんて認められるのか!」
「場合によっては認められます」
「泥棒じゃないか!」
「泥棒は返す条件として、法律上の債権を持ってません」
「……」
ちょっと言い方が強かった。
反省はしています。
撤回はしません。
真壁さんが口元を押さえて横を向きました。
笑うな。
「要するに」
所長が静かに話を引き取りました。
「建物について生じた費用を払ってもらえないから、その建物を明け渡さずにいる。債権と物との間に牽連性があるわけです」
「けん……?」
「関係がある、ということです」
私が横から訳しました。
法律用語は時々、普通の日本語に戻す作業が必要です。
坂井さんは苛立ったように椅子へ座り直しました。
「じゃあ、金を払うまでずっと営業できるってことか?」
「そこは違います」
私は即答しました。
「え?」
「留置しているからって、好き勝手使っていいわけじゃありません」
これも大事。
留置権者は、留置物をきちんと管理しなければいけない。
勝手に使用したり、賃貸したりするのは原則駄目です。
つまり、
――金払うまで店を返しません! ついでに商売続けまーす!
とはならない。
法律はそこまで陽気じゃない。
「澄江さんが明渡しを拒めるとしても、何をしてもいいわけじゃありません。建物をきちんと管理する義務があります」
「じゃあ営業は?」
澄江さんが不安そうに聞きました。
「留置に必要な範囲を超えて勝手に使うのは問題になります。そこは慎重にした方がいいです」
「……そうなんですね」
澄江さんは、少しだけ肩を落としました。
なるほど。
この人は居座りたいわけじゃない。
ただ、お金を払ってほしいだけなんだ。
たぶん、それがいちばん大事でした。
「私は……」
澄江さんが言いました。
「別に、この店を人質にしたいわけじゃないんです」
その声は小さかった。
「十年以上、お世話になりましたから」
坂井さんが顔を上げる。
「でも二十八万円は、私には大きなお金です。店を閉めたあと、次の仕事もまだ決まっていなくて」
テーブルの上には、二十八万円の領収書。
その横に、古い店の鍵。
二十八万円。
大きい。
バブルで土地が億だ兆だと浮かれていても、普通の人の財布は別世界です。
「払ってもらえないまま鍵を渡したら」
澄江さんは笑おうとして、うまく笑えませんでした。
「たぶん私、そのあと何度もお願いに来なきゃいけないでしょう?」
坂井さんは黙ってしまいました。
その沈黙に、少し嫌な響きがありました。
……もしかして。
「坂井さん」
所長が静かに言いました。
「すぐ払えない事情がおありですか」
「……」
「責めているわけじゃありません」
所長の声は低い。
でも、この人が「責めていない」と言う時ほど、逃げ道がなくなるのを私は知っています。
「正直に話してもらった方が、まとめやすい」
坂井さんはしばらく黙っていました。
やがて、深く息を吐きました。
「……相続税だ」
「はい?」
「親父が死んで、この建物も相続した。税金やら葬式やらで金が出ていった」
机の上の封筒を見下ろします。
「だから建物を売るんだ」
なるほど。
ここでようやく、話が一本につながりました。
坂井さんは単に澄江さんを追い出したいわけじゃない。
売却したい。
そのためには空き家にしたい。
だから早く明け渡してほしい。
でも、修理代を今すぐ払う余裕がない。
それで「先に出てくれ、金はあとで」と言っていた。
悪人というより。
追い詰められた人です。
不動産トラブル、だいたいここから難しくなる。
「売買契約はもう?」
真壁さんが聞きました。
「まだだ。来週、買いたいという業者と話す」
「なら」
所長が言いました。
「なおさら、ここは整理しておいた方がいい」
坂井さんが顔を上げました。
「整理?」
「森下さんに二十八万円を支払う。その代わり、建物を明け渡してもらう。同時にやる」
「金がないと言ってるだろ」
「売買代金から出せばいい」
「……え?」
所長は机の上のメモ用紙を引き寄せました。
「買主との決済日に、売買代金の一部から森下さんへの二十八万円を支払う。森下さんはその場で鍵を渡して明け渡す」
真壁さんが頷いた。
「決済と明渡しを同時にするわけか」
「そうだ」
私は思わず所長を見ました。
うまい。
法律だけなら、
留置できます。
終わり。
でも実務は、その先が大事です。
留置権は勝つための刀じゃない。
相手に支払わせるための圧力。
なら、圧力が効いている間に着地点を作る。
「買主が了承すれば、できます」
所長が言いました。
「坂井さんも、先に二十八万円を用意しなくて済む。森下さんも、確実に受け取れる」
坂井さんは黙ったまま計算していました。
やがて、
「……それなら」
小さく言いました。
「できるかもしれん」
澄江さんが顔を上げます。
「本当に?」
「ただし」
坂井さんは、まだ少し意地の残った声で言いました。
「二十八万円だぞ。それ以上は出せん」
「はい」
澄江さんはすぐに頷きました。
「それでいいんです」
その返事の早さに、坂井さんの方が驚いていました。
なんだ。
この人、本当に一円でも多く取りたいわけじゃなかったんだ。
「……森下さん」
坂井さんが、少し声を落としました。
「屋根、本当にそんなにひどかったのか」
「はい」
「親父が生きてた頃は、俺、建物のこと全然見てなくてな」
「そうですね」
「もう少し早く言ってくれれば」
澄江さんが、困ったように笑った。
「言いましたよ」
「……そうだったな」
「五回くらい」
「……」
「お手紙も二回」
「……悪かった」
おお。
昭和の頑固親父から「悪かった」を引き出した。
これ、留置権よりレアなのでは?
私は真壁さんを見る。
真壁さんも少しだけ眉を上げました。
所長だけはいつもの顔です。
たぶん内心でもガッツポーズしない人なんでしょう。
人生における表情筋の節約家です。
話は、そこでまとまりかけました。
――ところが。
「あの」
澄江さんが、遠慮がちに言いました。
「もう一つだけ、いいでしょうか」
嫌な予感。
「なんでしょう」
「店のエアコンなんですけど」
はい。
来ました。
私は心の中で天を仰ぎました。
法律問題って、なぜ一問ずつ来てくれないんでしょう。
試験なら大問一つなのに。
現実は、論点セット盛りです。
「五年前につけたんです。坂井さんのお父さんに許可をもらって」
「そういえば、あったな」
「退去するなら、あれも買い取ってもらえるんですよね?」
真壁さんが私を見ました。
その顔は明らかに、
――ほら、次。
と書いてあります。
私は小さく息を吐いた。
「造作買取請求の話ですね」
「ぞうさ?」
「エアコンとか、畳とか、建物につけた設備です」
「それも金を払わなければ、明け渡さなくていいのか?」
坂井さんが聞きました。
「いいえ」
私は答えました。
「そっちは違います」
「違うの?」
澄江さんも驚く。
そう。
ここが留置権のいやらしいところです。
同じ建物。
同じ借主。
同じ貸主。
同じ「お金払って」。
なのに結果が違う。
「屋根の修理代は、建物そのものを維持するために必要だった費用です」
「はい」
「だから、その必要費を払ってもらうまで建物を留置できる」
私は一拍置きました。
「でもエアコンの造作買取代金については、それを払ってもらえないからといって、建物全体の明渡しを拒むことはできません」
「なんでだ?」
真壁さんが聞きます。
「建物そのものについて生じた債権とは扱われないからです」
私は言いました。
「簡単に言えば、エアコン代のために建物丸ごと返さない、は駄目なんです」
「なるほどな」
真壁さんが腕を組む。
「二十八万円の屋根はいいけど、エアコンは駄目」
「乱暴に言えばそうです」
「ややこしいな」
「民法が素直だったら、宅建試験はもっと平均点高いです」
「知らんよ」
でも澄江さんは、かえって安心したようでした。
「じゃあ、エアコンのことは別に話せばいいんですね」
「はい」
「よかった」
「よかった?」
私は聞き返しました。
澄江さんは、少し笑いました。
「なんでもかんでも『払うまで出ません』って言うのは、なんだか嫌だったから」
その言葉に、坂井さんが澄江さんを見ました。
「……あんた、本当に出るつもりだったんだな」
「最初からそう言ってるでしょう」
「俺はてっきり、居座る口実かと」
「十年以上、家賃を一度も遅らせなかった人に、それ言います?」
澄江さんが少し頬を膨らませた。
坂井さんは黙る。
真壁さんが、小声で私に言いました。
「完全に坂井さんの負けだな」
「法律じゃなくて人望で負けてますね」
「厳しいな、お前」
「十八歳は正直なんです」
「都合いいな、それ」
その日の午後。
真壁さんが買主候補の業者へ電話を入れ、決済時に二十八万円を澄江さんへ直接支払う形で調整することになりました。
澄江さんは支払いと同時に建物を明け渡す。
エアコンについては別途査定。
買取りが成立すれば、その代金も精算する。
それまでは、勝手に持ち出したり壊したりしない。
きれいに線を引いた。
こんがらがっていた糸が、一つずつほどけていく。
こういう瞬間が、私はけっこう好きです。
法律は、人を黙らせるために使うと怖い。
でも、
誰が何を請求できるのか。
誰が何を拒めるのか。
どこまでが権利なのか。
そこをきれいに分けると、喧嘩していた人たちが、急に話し合えるようになることがあります。
帰り際。
澄江さんが、鞄から小さな包みを出しました。
「栞ちゃん、これ」
「なんですか?」
「店の最後のクッキー」
「最後?」
「もう閉店準備に入ってるから。余った材料で焼いたの」
紙包みの中には、丸いクッキーが六枚入っていました。
「いいんですか?」
「もちろん」
そして澄江さんは、少し考えてから一枚を坂井さんの方へ差し出しました。
「坂井さんも」
「俺も?」
「十年以上のお付き合いですから」
「……」
「屋根の件は怒ってますけど」
「そこは言うのか」
「言います」
坂井さんは、しばらくそのクッキーを見ていました。
やがて受け取る。
「……親父、ここのコーヒー好きだったな」
「毎週水曜日に来てましたよ」
「そうか」
「いつも砂糖二つ」
「糖尿病だったぞ、あの人」
「だから奥さんには内緒って」
「親父……」
坂井さんが額を押さえました。
澄江さんが笑う。
初めて、ちゃんとした笑顔でした。
その二人を見ていたら、建物って不思議だなと思いました。
法律の上では「不動産」。
登記簿には所在地、地番、家屋番号。
契約書には賃料。
修理すれば必要費。
設備をつければ造作。
売れば代金。
でも実際には、その箱の中に十年とか二十年とかの時間が溜まっている。
だから、明け渡すだけなのに揉める。
だから、たった二十八万円なのに大事になる。
大事なのは金額だけじゃない。
「栞」
真壁さんが、私のクッキーへ手を伸ばしました。
私は包みを引きました。
「これは私がもらったものです」
「六枚あるだろ」
「留置します」
「は?」
「私が正当に占有していますので」
「おい」
「食べたければ対価を」
「お前、覚えた法律すぐ悪用するなよ」
「悪用ではありません。応用です」
「所長」
真壁さんが助けを求める。
大槻所長は書類から目を上げずに言いました。
「栞」
「はい」
「そのクッキーについて、お前は真壁に対する債権を持っているのか」
「……」
「留置権には、物と債権の間に関係が必要だ」
「……」
「ただ持ってるだけじゃ駄目だ」
「…………一枚どうぞ」
真壁さんが勝ち誇った顔でクッキーを取った。
「法律は正しく使えよ、見習い」
「今の一枚、有料です」
「懲りろよ!」
夕方。
私は机の端に、今日の領収書のコピーを置きました。
屋根修理、二十八万円。
たった一枚の紙です。
でも、その紙がなければ、澄江さんは「払ってください」と何度も頭を下げるしかなかったかもしれない。
権利がある。
払ってもらうまで、渡さなくてもいい。
それだけで、人は対等に話せるようになる。
留置権。
名前は少し地味です。
抵当権みたいに競売するわけでもない。
先取特権みたいに優先弁済の響きがあるわけでもない。
ただ、
――払うまで返さない。
それだけ。
でも、その「それだけ」が、今日、一人の女性を守りました。
私はクッキーをかじります。
少しバターが強くて、甘い。
「おい、栞」
「はい?」
「もう一枚」
「駄目です」
「なんでだ」
「さっき所長に教わったので」
「何を」
私は包みを抱えて言いました。
「権利のない留置は、ただの独占です」
「分かってるなら寄越せよ」
「それとこれは別です」
窓の外は、もう夕焼けでした。
昭和六十三年。
まだ私は、この時代のことを何も知らない。
でも一つずつ覚えていく。
人の物を預かるなら、大切にする。
払ってもらえる権利があるなら、必要な範囲で主張する。
そして。
権利があるからといって、どこまでも欲張っていいわけじゃない。
法律は、「返さなくていい」と言う時にも、
ちゃんと境界線を引いている。
私は最後のクッキーを口へ放り込みました。
「あっ!」
真壁さんの声が飛ぶ。
「最後の一枚!」
「早い者勝ちです」
「それ法律じゃねえだろ!」
はい。
そこは民法ではなく、
我が家の家訓です。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




