[意思表示]法理編 栞とお勉強
事件が一段落した翌日の夕方。
私は事務所の自分の机で、一冊のノートを開いていました。
昨日の桜庭旅館跡地の件。
あれは、まるで民法の問題集をそのまま現実に持ってきたような事件でした。
冗談。
名義だけ。
勘違い。
だまされた。
怖がらされた。
全部、本人の意思表示に問題がある。
でも、法律上の扱いは全部違う。
「……やっぱり、ここを一度整理しておこう」
私はペンを持った。
試験のためだけじゃありません。
昨日みたいな事件が、また来るかもしれないからです。
そして何より――。
「似ているものほど、間違えるんですよね」
独り言を呟いたところで、後ろから声がしました。
「何が?」
「うわっ」
振り返ると、真壁さんがコーヒーを片手に立っていました。
「いつからいたんですか」
「今来たところ」
「絶対嘘です」
「人聞きの悪い。俺は君が“似ているものほど間違える”とか、もっともらしいことを言ってるところを聞いただけだ」
「聞いてたじゃないですか」
「だから、今来たんだって」
「……まあいいです」
私はノートを真壁さんの方へ向けました。
「昨日の事件、五つの意思表示が全部出てきたじゃないですか」
「ああ」
「だから、ここで一回まとめます」
「おお。勉強熱心」
「茶化さないでください」
「してないしてない」
絶対しています。
私はノートの一番上に、大きく書きました。
意思表示――まずは五つを見分ける
そして、その下に五つ並べます。
心裡留保
虚偽表示
錯誤
詐欺
強迫
「まず、言葉だけだと難しいんですよね」
「そうだな」
「だから、私はこう覚えることにします」
私は横に簡単な言葉を書きました。
心裡留保――冗談
虚偽表示――相手と組んだ嘘
錯誤――勘違い
詐欺――だまされた
強迫――脅された
「雑だな」
「でも分かりやすいですよ」
「まあ、最初の取っ掛かりとしては悪くない」
そこへ所長がやって来ました。
「何をしてる」
「昨日の事件の復習です」
「なら、俺も混ぜろ」
所長が椅子を引いて座ります。
「ちょうどいい。意思表示は、まず“何が起きたのか”を分けるところから始めろ」
「はい」
私は頷いて、もう一度ノートを見ました。
一、心裡留保――本心ではないことを言う
「まず、心裡留保」
私は書きます。
本当はその意思がないのに、わざとそれとは違うことを言う。
「昨日のハルさんの“3,000万円なら考える”ですね」
「そうだ」
「本人は冗談のつもりだった」
「そして相手も冗談だと分かっていた」
「だから無効」
「そこを覚えろ」
所長が言いました。
「心裡留保は、原則として意思表示どおりの効力が生じる。だが、相手方がその真意を知っていた、または知ることができた場合は無効だ」
「つまり……」
私はノートに書き足します。
心裡留保=本心と違うことを言った
ただし、
相手方が悪意または有過失なら無効
「じゃあ、相手が本当に知らなかったら?」
「善意無過失なら有効だ」
「冗談だったのに?」
「法律は、本人の心の中だけで判断しない。相手方の信頼も考える」
「なるほど」
私は頷きました。
「じゃあ第三者との関係では?」
「善意の第三者に対しては、無効を主張できない」
「善意なら?」
「そうだ」
私はノートに書きます。
心裡留保
→ 相手方が悪意・有過失なら無効
→ 相手方が善意無過失なら有効
→ 善意の第三者には無効を主張できない
「なんだか、“冗談を言った側が全部守られるわけじゃない”ってことですね」
「そういうことだ」
真壁さんがコーヒーを飲みながら言いました。
「大人なら、冗談で契約書を作るなって話でもある」
「それを言ったら終わりです」
二、虚偽表示――二人で組んだ嘘
次。
私は大きく書きます。
虚偽表示=相手方と通じて、本当はない法律行為をあるように見せること。
「昨日の勝也さんですね」
「そう」
「“名義だけ移して、あとで戻す”。本当に売るつもりはない」
「つまり二人とも嘘だと分かっている」
「これが心裡留保との違いですね」
「そこが重要だ」
私は二つを並べました。
心裡留保 → 一人で本心と違うことを言う
虚偽表示 → 二人で通じて嘘の意思表示をする
「なるほど」
私は頷きました。
「そして虚偽表示は、当事者間では無効」
「そうだ」
「第三者は?」
「善意の第三者には対抗できない」
私は書き足します。
虚偽表示=当事者間では無効
ただし、善意の第三者には無効を主張できない
「心裡留保と似ていますね」
「だから間違える」
「でも覚え方は簡単です」
「ほう?」
「一人で嘘なら心裡留保。二人で組んで嘘なら虚偽表示」
「それでいい」
所長が頷きました。
私はちょっと嬉しくなりました。
「やった」
「何がだ」
「所長から“それでいい”をもらいました」
「そんなことで喜ぶな」
真壁さんが笑いました。
三、錯誤――自分で勘違いした
次は錯誤。
ここから少し難しくなります。
「錯誤は、“自分で勘違いした”ですね」
「そうだ」
「昨日なら、再開発で土地の価格が絶対に上がると思って、売る判断をしたところ」
「ただし、単純に何でも勘違いすれば取消せるわけじゃない」
所長が指を一本立てました。
「法律上、重要な錯誤である必要がある」
「はい」
私は書きます。
錯誤=重要なことを勘違いして意思表示をした
「そして効果は?」
「無効じゃない」
「そう」
「取消しです」
私は大きく書きます。
錯誤 → 取消し
「ここ、大事ですね」
「意思表示をした時点では、いったん有効に成立する。そして一定の要件を満たせば、表意者が取り消すことができる」
「なるほど」
そして、もう一つ。
「重大な過失がある場合は?」
「原則として取消しできない」
「自分で大失敗した場合まで、いつでも法律が助けてくれるわけじゃない」
「そういうことだ」
私はノートに線を引きます。
錯誤
→ 原則、取消し可能
→ 表意者に重大な過失がある場合は、原則として取消し不可
→ 善意無過失の第三者には取消しを主張できない
「心裡留保や虚偽表示とは、ここで大きく分かれますね」
「そうだ」
「無効じゃなくて取消し」
「ここを試験で落とすな」
「はい!」
受験生らしく返事をしてしまいました。
真壁さんが笑います。
「先生に褒められた小学生かよ」
「うるさいです」
四、詐欺――だまされて、その気になる
「次、詐欺」
私は書きます。
詐欺=相手にだまされて、その気になって意思表示をする。
「昨日の再開発の話も、ここに入る可能性があります」
「そうだな。ただし、単に結果的に話が違っただけでは詐欺とは限らない」
「だました側の行為が必要ですね」
「そうだ」
「そして効果は?」
「取消し」
「錯誤と同じ」
私は並べます。
錯誤 → 取消し
詐欺 → 取消し
強迫 → 取消し
「ここは三兄弟ですね」
「覚え方としては悪くない」
「でも第三者が違う」
「そこだ」
所長がノートを指差しました。
「詐欺による取消しは、善意無過失の第三者には対抗できない」
「つまり……」
私は整理します。
詐欺
→ だまされた
→ 取消し可能
→ 善意無過失の第三者には取消しを主張できない
「どうして第三者を守るんでしょう?」
私が聞くと、所長は少し考えてから答えました。
「詐欺の場合、表意者はだまされたとはいえ、自分で意思表示をしている。だから、事情を知らず、しかも落ち度のない第三者まで巻き込む場合には、その第三者の信頼も保護する」
「なるほど」
つまり、だまされた人を助けつつ、第三者の取引安全も守る。
民法は、誰か一人だけを見ているわけではない。
五、強迫――怖くて、意思表示をした
そして最後。
私は少しだけ筆圧を強くしました。
強迫=脅されて、怖くなって意思表示をする。
「昨日の夜の業者ですね」
「そうだ」
「怖がらせて判を押させた」
「強迫による意思表示も、取消しができる」
「ここまでは詐欺と同じ」
「だが、第三者との関係が違う」
私は顔を上げました。
「善意無過失の第三者にも、取消しを主張できる」
「そうだ」
「ここが強迫の最大の特徴」
私はノートに大きく書きました。
強迫 → 被害者保護が強い
「詐欺の場合は、善意無過失の第三者には対抗できない」
私は確認します。
「でも強迫なら、善意無過失でも取消しを主張できる」
「そうだ」
「なぜですか?」
所長は短く答えました。
「強迫された者には、詐欺の場合のような落ち度すらないからだ」
私はその言葉を書き留めました。
詐欺=だまされた
強迫=怖がらされた
だから、強迫の方が被害者保護が強い。
「なるほど……」
真壁さんが横から口を挟みました。
「つまり、“だまされた人”より“脅された人”の方が法律上強い」
「ざっくり言えば、そうです」
「じゃあ俺も、誰かに脅されたら――」
「まず警察です」
「民法の話をしてるんだけど」
「そこは現実優先です」
「正しい」
所長まで頷きました。
そして、五つを一枚にまとめる
私はここまで書いたところで、ノートの新しいページを開きました。
「ここまで来たら、全部一枚にまとめたいです」
「やれ」
所長の許可が出ました。
私は表を書きました。
種類 ざっくり覚える
効果
第三者
心裡留保 冗談・本心ではない
原則有効。ただし相手方が悪意・有過失なら無効
善意の第三者には無効主張できない
虚偽表示 二人で組んだ嘘
無効
善意の第三者には無効主張できない
錯誤 勘違い
取消し可能
善意無過失の第三者には対抗できない
詐欺 だまされた
取消し可能
善意無過失の第三者には対抗できない
強迫 脅された
取消し可能
善意無過失の第三者にも取消しを主張できる
「これです」
私は満足して眺めました。
「まず、上二つと下三つを分ける」
私は線を引きます。
心裡留保・虚偽表示 → 無効
錯誤・詐欺・強迫 → 取消し
「これだけでも、かなり楽になります」
「そうだな」
「それから第三者」
もう一本、線を引きました。
心裡留保・虚偽表示 → 善意の第三者
錯誤・詐欺 → 善意無過失の第三者
強迫 → 善意無過失の第三者にも対抗可能
「……こうすると綺麗ですね」
真壁さんがノートを覗き込みました。
「確かに」
「ですよね」
「でも、試験だったらこの表のどこか一個をわざと入れ替えてくるんだろ」
「やめてください」
「それが試験だ」
所長が淡々と言いました。
「だから、表を丸暗記するな」
「え?」
「なぜそうなるかを理解しろ」
所長はペンを取って、表の下に三つの言葉を書きました。
無効
取消し
第三者
「意思表示の問題を見たら、まずこの三つを確認する」
「三つ?」
「そうだ」
所長が説明します。
「第一に、どんな意思表示か」
「心裡留保、虚偽表示、錯誤、詐欺、強迫」
「第二に、効果は無効か取消しか」
「心裡留保・虚偽表示は無効。錯誤・詐欺・強迫は取消し」
「第三に、第三者がいるか」
「いて、その第三者が善意なのか、善意無過失なのかを見る」
「なるほど」
私は大きく書きました。
① 何が起きた?
② 無効? 取消し?
③ 第三者は?
「これなら、問題文を読んだときに迷子にならないですね」
「そういうことだ」
私はふと、もう一つ疑問が浮かびました。
「所長」
「何だ」
「そもそも、“無効”と“取消し”って、どう違うんですか?」
「そこを曖昧にすると全部崩れるぞ」
所長はそう言って、ホワイトボードに二つ書きました。
無効
取消し
「無効は、最初から法律上の効力が認められない」
「はい」
「取消しは、いったん有効に成立した法律行為について、取消権者が取り消すことができる」
「つまり……」
私は考えました。
「最初から効力がないのが無効」
「そう」
「いったん有効だけど、あとからひっくり返せるのが取消し」
「そういう理解でいい」
私はノートに書きました。
無効=最初から効力なし
取消し=いったん有効。ただし、取り消せる
「だから昨日の事件でも」
私は振り返りました。
「冗談や、通じた嘘は“無効”の問題」
「そう」
「勘違い、詐欺、強迫は“取消し”の問題」
「そうだ」
「ここを最初に分ける」
「それだけで半分勝ちだ」
所長が珍しく力強く言いました。
私はちょっと嬉しくなりました。
夕方になって、窓の外が少し暗くなってきました。
私はノートを見返します。
心裡留保。
虚偽表示。
錯誤。
詐欺。
強迫。
確かに、全部似ています。
でも、昨日の事件を思い出すと、違いがよく分かります。
冗談だったのか。
相手と組んだ嘘だったのか。
自分で勘違いしたのか。
だまされたのか。
脅されたのか。
同じ「変な契約」でも、原因は違う。
そして原因が違えば、法律の救い方も違う。
「……面白いですね」
「何が?」
真壁さんが聞きました。
「法律って、結果だけ見ないんだなって」
「どういう意味?」
「同じ“契約をしたくなかった”でも、どうしてそうなったのかを見るじゃないですか」
「まあな」
「冗談だった人と、相手と組んで嘘をついた人と、勘違いした人と、だまされた人と、脅された人を、全部同じには扱わない」
「なるほど」
真壁さんが少し笑いました。
「そう考えると、民法って意外と人情派だな」
「意外と?」
「もっと冷たいと思ってた」
所長が新聞から顔を上げました。
「冷たいぞ」
「所長、夢がない」
「だが、冷たいだけではない」
所長はそう言って、私のノートを指しました。
「誰が、何を、どういう状況で言ったのか。それを細かく見ている」
「……はい」
「だから、雑に覚えるな」
所長は立ち上がりました。
「似ているものほど、分けて考えろ」
その言葉を聞いて、私はノートの一番下に書きました。
似ているから混ぜるのではなく、似ているからこそ分ける。
帰る前に、私はもう一度だけノートを開きました。
意思表示・最終チェック
心裡留保
本心ではないことを言う。
相手方が悪意または有過失なら無効。
相手方が善意無過失なら有効。
善意の第三者には無効を主張できない。
虚偽表示
相手方と通じて、本当はない法律行為をあるように見せる。
当事者間では無効。
善意の第三者には無効を主張できない。
錯誤
重要なことを勘違いして意思表示をする。
取消しが可能。
表意者に重大な過失がある場合は、原則として取消しできない。
善意無過失の第三者には取消しを主張できない。
詐欺
だまされて意思表示をする。
取消しが可能。
善意無過失の第三者には取消しを主張できない。
強迫
脅されて意思表示をする。
取消しが可能。
善意無過失の第三者に対しても取消しを主張できる。
そして、その下に大きく書きます。
無効
心裡留保・虚偽表示
取消し
錯誤・詐欺・強迫
さらに、その下。
第三者
心裡留保・虚偽表示
→ 善意の第三者
錯誤・詐欺
→ 善意無過失の第三者
強迫
→ 善意無過失の第三者にも対抗できる
「……よし」
私はペンを置きました。
これなら、覚えられそうです。
「終わった?」
真壁さんが聞きました。
「はい」
「じゃあ帰るか」
「はい」
私はノートを閉じます。
所長が最後に一言だけ言いました。
「栞」
「はい?」
「明日の朝、その表を見ずに言ってみろ」
「えっ」
「本当に理解したなら言える」
「……はい」
私は苦笑しました。
やっぱり最後は試験なんですね。
でも、不思議と嫌ではありませんでした。
昨日までなら、
心裡留保。
虚偽表示。
錯誤。
詐欺。
強迫。
ただの五つの暗記項目でした。
今は違います。
冗談を言った人。
相手と嘘をついた人。
勘違いした人。
だまされた人。
脅された人。
一人ひとりの姿が浮かびます。
そして、その人たちを法律がどう扱うのかも、少し見えるようになりました。
私はノートの最後に、もう一度だけ書きました。
意思表示は、言葉だけを見るんじゃない。
誰が。
何を。
どうして。
そして、その後に誰が登場したのか。
そこまで分けて考える。
それが、意思表示を理解するということなのだと思います。
「栞、帰るぞ」
「はい!」
私はノートを鞄にしまいました。
事務所の灯りを消す。
今日も一日が終わります。
そして明日になれば、また別の土地の、別の契約の、別の「困った」がやって来るのでしょう。
そのとき私は、今日のノートを開く。
……たぶん。
いや。
できれば開く前に、ちゃんと覚えていたい。
心裡留保と虚偽表示は無効。
錯誤・詐欺・強迫は取消し。
そして――。
強迫だけは、善意無過失の第三者にも対抗できる。
よし。
これだけは絶対に忘れない。
……たぶん。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




