[意思表示]現場編 「なんか変な契約」で一括りにしないで。似た話を似たままにしない法律の知恵
似ているものほど、人は雑に覚えます。
たとえば親戚の子どもの名前。たとえば会社の会議室の名前。たとえば宅建の意思表示です。
冗談。嘘。勘違い。だまされた。脅された。
言葉にすると、だいたい全部「なんか変な契約」なんですよね。でも法律は、その“なんか変”を絶対にひとまとめにしません。
冗談で言ったのか。相手と組んで嘘をついたのか。自分で勘違いしたのか。だまされてその気になったのか。怖がらされて押したのか。
たったそれだけの違いで、無効になったり、取消しになったり、第三者に勝てたり負けたりする。
正直、性格が悪い。
でもまあ、不動産トラブルの方がもっと性格悪いので、民法もこれくらい細かくならざるを得ないのでしょう。
そしてその日、大槻不動産にやってきた案件は、まるで民法が「全部まとめて使ってごらん」と言ってきたような代物でした。
朝9時半。所長が珍しく、事務所に入るなり顔をしかめていました。
「厄介なのが来る」
第一声がそれ。
真壁さんが新聞から目を上げます。
「朝から縁起でもないですね」
「縁起で済めばいいがな」
所長は机に茶封筒を置きました。分厚い。嫌な予感しかしません。
「昨日の夜、商工会経由で相談が来た。桜庭旅館跡地の件だ」
私は思わず顔を上げました。
「あの駅裏の古い旅館ですか?」
「そうだ」
桜庭旅館。駅裏にある、木造二階建ての古い旅館跡。もう何年も閉まっていて、庭木も伸び放題。立地だけは悪くないので、前から“いつか誰かが手を出すだろう”と言われていた場所です。
「持ち主、桜庭のおばあさん一人だったはずですよね」
「そのはずだった」
所長のその言い方で、私は嫌な確信を得ました。
はずだった時点で、もう揉めています。
真壁さんが封筒を開け、中身をざっと見て、露骨に嫌そうな顔になりました。
「うわ」
「何ですか」
「売買契約書が三本。確認書が一枚。仮登記関係のメモが二枚。手書きの念書。あと、相続関係の戸籍写し」
「情報量が渋滞してますね」
「しかも相談者が三人いる」
やめてください。
意思表示編の総決算で、登場人物まで増やさないでほしい。
所長が椅子に腰を下ろしました。
「整理するとこうだ。桜庭旅館跡地の所有者は桜庭ハルさん。七十五歳。息子は東京、娘は県外」
「はい」
「そこへ、まず地元の業者・諸星不動産が接触」
出た。あの派手スーツ。
「さらに、知人の紹介で資金繰りに困っていた親族が“名義だけ移して守ろう”と持ちかけた話もある」
「虚偽表示っぽいですね」
「加えて、近所の男が“駅前再開発で大化けするから今売らないと損”と吹き込んだ」
「錯誤か詐欺の匂い」
「そして最後に、工事業者が夜に押しかけて、“今判を押さないと近隣との関係が面倒になる”と迫ったらしい」
「強迫まで入ってるじゃないですか」
真壁さんが深々とため息をつきました。
「満漢全席かよ」
ほんとそれです。
「で、今どうなってるんです?」
私が聞くと、所長は指を折りながら言いました。
「ハルさん本人は、“売るつもりはなかった、でも怖くて押したものもあるし、うまい話に乗った気もするし、冗談で返事しただけのものもある”と言っている」
「全部ある」
「さらに、親族の一人が一時的に名義を移す話をして、登記関係まで相談した形跡がある」
「うわあ」
「で、その後、別の買主候補が出てきてる」
「第三者までいるんですか」
「いる」
民法先生、やりすぎです。
午前十時。桜庭ハルさん本人と、その甥の達郎さんが来ました。
ハルさんは小柄で、いかにも昔気質の女将さんという雰囲気の人でした。背筋はしゃんとしているのに、目の奥だけが疲れています。ここ数週間で相当消耗したのだと分かります。
一方の甥の達郎さんは五十代前半。真面目そうですが、少し気弱そう。たぶん“親族の相談役”として巻き込まれたのでしょう。
「朝からすみませんねえ」
ハルさんはそう言ったものの、座る前からもう混乱が表情に出ていました。
「いえ」
私はお茶を置きながら言います。
「今日は、まず順番に整理しましょう。たぶん今、一番しんどいのは“何がどうおかしいのかが、自分でも分からなくなっていること”だと思うので」
ハルさんは、少しだけ驚いたように私を見ました。
「そう……そうなのよ」
当たりでした。
「皆、違うことを言うの。あっちは売ったって言うし、こっちはまだ仮の話だって言うし、あの紙はただの覚えだって言われたと思ったら、いや契約だって言われるし……」
「分かりました」
私はノートを開きました。
「今日はまず、出来事を時間順に並べます。評価はその後です」
所長が頷く。
「そうしよう。ハルさん、最初に来たのは誰です?」
「諸星不動産の人よ」
やっぱりお前か。
「いつ頃ですか」
「一か月半くらい前かしら。“旅館跡は今、値がつく”って」
「その時、売る気は?」
「なかったわよ。だから冗談で“3,000万円なら考えるよ”って笑って言ったの」
はい、来ました。心裡留保の匂いが濃い。
「諸星さんは、冗談だと分かっていそうでしたか」
「分かってたと思うわよ。笑って、“じゃあ今度判子持ってきます?”なんて言ってたもの」
第一話と同じ類型ですね。相手方が悪意か、少なくともそうと気づける流れなら、心裡留保による意思表示は無効方向。
私はさらっと書き留めます。
① 諸星への「3,000万円なら考える」発言 → 冗談の可能性大
「その後は?」
達郎さんが割って入りました。
「その後、うちの従兄弟の勝也が、“今は差押えとか税金とか面倒だから、一度自分名義にして守ろう”って言い出したんです」
「勝也さん?」
「ええ。親族です」
「ハルさん、その話はどう聞きました?」
「名義だけって言われたの。あとで戻すからって」
はい。虚偽表示の匂いです。
「実際に売るつもりは?」
「なかったわよ。守るためだけだって」
「代金は?」
「もらってない」
非常に教科書的です。代金なし。名義だけ。後で戻す。親族。差押え回避。
ひどく実務っぽいのに、宅建教科書でもよく見るやつです。
「登記はしましたか」
「そこまで行く前に、私が怖くなって……司法書士さんのところで話だけして、やめたの」
よし。まだ登記未了。かなり救いがあります。
私は二本目の線を引きました。
② 親族・勝也への“名義だけ移転”話 → 通謀虚偽表示の可能性
「その次です」
所長が促すと、ハルさんは少し考えてから言いました。
「近所の、松岡って人が来たの。“駅裏は再開発で絶対上がる”“今売らないと逆に損する”って」
「松岡さんは業者ですか?」
「ただの顔の広い人よ。不動産も少しやってるとかやってないとか」
最悪のタイプですね。素人と玄人の中間で、一番責任が曖昧になるやつ。
「その人の話を信じた?」
「……少しね」
「それで売ろうと思った?」
「“そんなに上がるなら、今のうちに整理して小さいマンションに移ってもいいかしら”とは思った」
はい、ここで錯誤か詐欺かを見分ける必要が出ます。
自分で勘違いしたのか。誰かの嘘に乗せられたのか。この線は毎回微妙です。
「その“再開発で絶対上がる”という話、何か資料は?」
「ないわよ。口だけ」
「ハルさんは、その前提を誰かに伝えましたか?」
「諸星の人に、“駅裏が上がるなら急がなくてもいいのかしら”って聞いたことはある」
……なるほど。
つまり、上がるという情報を前提に判断し始めている。
ただ、その誤信がどこまで契約の動機として相手に表示されているかは、もう少し詰めないといけません。
「最後に、夜に来た工事業者の話です」
私がそう言うと、ハルさんの肩がぴくっと跳ねました。
はい。ここが一番深い傷ですね。
「白い作業服の人たちが二人で来て、“今ここが動くのは決まってる”“判を押さないと、近所の工事の車の出入りで困るのはそっちですよ”って」
「それで」
「怖くて……」
声が小さくなります。
「その時の紙に、名前を書いたの」
「どんな紙でした?」
「売買の仮の覚え書き、みたいな……。でも向こうは契約だって言ってるらしいの」
真壁さんが小さく舌打ちしました。
「強引だな」
「その場でお金の話は?」
「手付を少し。50万円だけ」
「受け取った?」
「……ええ」
「まだ使ってませんか」
「怖くてそのまま封筒に入れてある」
よし。まだ動かしていない。大きいです。
ここまで聞いたところで、私は深く息を吸いました。
頭の中で、五つの論点がぐるぐるしています。
・冗談で言った三千万話 → 心裡留保
・名義だけ移転の親族話 → 虚偽表示
・再開発で上がるという口車 → 錯誤 or 詐欺
・夜の訪問で押した覚え書き → 強迫
・そしてその後に買主候補が出ている → 第三者問題
……なんか意思表示の総まとめみたいです。
「所長」
私はノートを所長の方へ向けました。
「まず、行為ごとに切り分けないと駄目です。“桜庭旅館跡地の件”として一つにすると、全部混ざります」
「同感だ」
所長が頷く。
「ハルさん、今から少し冷たい言い方をしますが、土地一つに対して、別の相手との別の紙が複数あるなら、法律上も全部別々に見ます」
「別々……」
「はい。“どれが本当に効いていて、どれが効いていないのか”を分けます」
私は順に指を置きました。
「まず、諸星さんへの3,000万円の話。これは、その場の流れや笑い、相手の反応次第では、冗談として無効方向です」
「ええ」
「次に親族への“名義だけ移す”話。これは本当に売るつもりがなく、相手もそれを知っていたなら、虚偽表示で当事者間無効です」
「はい……」
「再開発の話は、少し丁寧に見ます。自分で勘違いしただけなら錯誤、誰かが意図して嘘を言って乗せたなら詐欺。ただ、どちらでも“どういう前提で売る気になったか”が大事です」
「難しいわねえ……」
「難しいです。私もそう思います」
正直に言うと、ハルさんは少しだけ笑いました。
よかった。人は“難しいですよね”と言われると、少し息がしやすくなる。
「そして、夜に来て怖がらせた紙。これは強迫の可能性が高いです」
達郎さんが前のめりになりました。
「じゃあ、その紙は全部ひっくり返せるんですか」
「その紙については、かなり強いです」
私は答えました。
「強迫は、詐欺より被害者保護が強いので」
「どう違うんです?」
「そこ、今日の山場です」
真壁さんがぼそっと言いました。
「出たな、受験生の総まとめ」
「やめてください。緊張するので」
私はノートを一枚新しく開いて、簡単な表を書き始めました。
意思表示の総まとめ
・心裡留保:冗談
・虚偽表示:相手と組んだ嘘
・錯誤:大事な勘違い
・詐欺:だまされてその気になる
・強迫:怖がらされてその気になる
「まず、効果が違います」
私はハルさんたちに見えるように紙を回しました。
「心裡留保と虚偽表示は、無効の話です」
「無効……最初から駄目ってこと?」
「そうです。少なくともそういう方向です」
「で、錯誤と詐欺と強迫は?」
「有効だけど、あとで取り消せる話です」
ハルさんがぽかんとします。無理もない。
「えっと……騙されたのに、いったん有効なの?」
「はい」
「怖がらされたのに?」
「はい」
「なんだか嫌ね」
「私もそう思います」
でもそこが大事なんですよね。
「自分で“売る”と言ってはいるからです。意思と表示はある。でも、その作られ方がまずい」
達郎さんが腕を組みました。
「じゃあ、第三者が出たらどうなるんです」
「そこがもっと違います」
私は、ここからが本番だと思って、少しだけ背筋を伸ばしました。
「心裡留保と虚偽表示は、善意の第三者に対しては、こちらから“無効です”と言いにくくなります」
「善意って、知らない人?」
「そうです。事情を知らない人」
「じゃあ錯誤と詐欺は?」
「こっちはもう少し厳しくて、善意無過失の第三者です」
「無過失……」
「知らないだけじゃなくて、注意しても分からなかった人」
「心裡留保や虚偽表示より、第三者保護が強いんですね」
「そうです」
所長が頷きます。
「そこを混同すると危ない」
「で、強迫は?」
達郎さんが聞く。
「強迫は、一番被害者寄りです」
私ははっきり言いました。
「第三者が善意無過失でも、取消しを主張できる場面がある。少なくとも、取消し前に出てきた第三者については、強迫された側がかなり強く守られます」
ハルさんが小さく息を吐きました。
「じゃあ、あの夜の紙が一番怖かったけど、一番守られるのね」
「そういうことです」
その一言で、今日の説明の半分は届いた気がしました。
午後には、諸星不動産、親族の勝也さん、そして白い作業服の業者側へ、それぞれ確認を入れることになりました。
まず諸星。
『いやあ、あれは冗談半分じゃないですか』
おっ、珍しく素直。
「冗談と分かってました?」
私が聞くと、電話の向こうで少し笑う気配がしました。
『そりゃ、あの場の空気ならねえ』
はい、確定。相手方悪意。心裡留保で無効方向。お疲れさまでした。
次に勝也さん。
『名義だけのつもりだったよ! 本当に売るなんて話じゃない!』
おお、こちらも素直。
「代金も払っていない?」
『払ってないよ』
「戻すつもりだった?」
『もちろん』
はい。虚偽表示の教科書、開けなくてもよくなりました。
最後に白い作業服の業者。
こちらは当然、粘りました。
『脅してませんよ。説明しただけです』
『手付も払ってるし、本人もサインしてる』
『怖がったなんて知りません』
でもここは、強迫なので第三者保護との関係でもこちらがかなり強い。
真壁さんが電話を切って言いました。
「こう並べると、ほんと意思表示の総まとめだな」
「やめてください。試験みたいに聞こえるので」
「試験みたいな事件だろ、実際」
否定できません。
ただ、一つだけ厄介だったのは、再開発の口車でした。
松岡という男は、電話口でも要領を得ませんでした。
『いやあ、私は一般論として“駅裏は今後も注目ですね”って言っただけで』
「“絶対上がる”とは?」
『景気の話ですよ』
「それを前提に桜庭さんが売る気になった可能性は?」
『それは本人の判断でしょう』
出た。自己責任論。
ここは、錯誤と詐欺の境目が微妙です。
私は所長に言いました。
「これ、再開発話だけで単独に勝負するより、夜の強迫の方を軸にした方が早いですね」
「同感だ」
「錯誤・詐欺の線も消さないけど、主戦場ではないです」
「そうだな」
つまりこうです。
冗談の3,000万話 → 心裡留保で整理
名義だけ話 → 虚偽表示で整理
再開発話 → 補助的に錯誤・詐欺の余地
夜の契約書 → 強迫でメインに崩す
全部を全部、同じ力で殴らない。争点ごとに、勝ち筋の太いものを主にします。
私は少しだけ、今までの話をやってきた意味を感じました。それぞれの論点が、ただの暗記事項じゃなくなっています。
夕方、桜庭ハルさんに全体像を説明する時間を取りました。
私は、かなり噛み砕いて言います。
「結論から言うと、全部が全部同じ強さで契約になっているわけではありません」
「ええ」
「一番弱いのは、諸星さんへの冗談の話。これは、相手も冗談と分かっていたので、効きにくいです」
「はい」
「次に、親族への名義だけ話。これはそもそも本当に売るつもりがないので、当事者間では無効方向です」
「うん」
「夜の紙は、一番形になっていて怖い。でも一番、法律が守ってくれる可能性が高い。強迫だからです」
ハルさんは、しばらく黙っていましたが、やがてぽつりと言いました。
「私ねえ」
「はい」
「全部まとめて、“私がふらふらしたせいだ”って思ってたの」
……そうなりますよね。
でも実際には違います。
人は一つの土地をめぐって、相手ごとに違う顔を見せます。冗談を言う時もあれば、怖くなって折れる時もある。それを法律はちゃんと分けます。
「ふらふらした、というより」
私は少し考えてから言いました。
「相手ごとに、違うやられ方をしたんです」
ハルさんが、ふっと笑いました。
「嫌な言い方だけど、分かりやすいわ」
「すみません。でもわりと本質です」
真壁さんが横で吹きました。
「最近それ多いな」
「便利なんですよ、この言い回し」
数日後。
諸星の件は、本人が冗談だったと認めたことで立ち消え。
勝也さんの“名義だけ”話も、登記前だったため大事にならず終了。
夜の作業服業者の件は、強迫を理由に正式に取消通知を出し、手付返還を受ける方向でまとまりました。
再開発の口車を吹いた松岡は最後まで「私は一般論を言っただけ」で逃げましたが、少なくともそれ単独で土地が抜かれる事態は防げました。
つまり――
桜庭旅館跡地は、まだ桜庭ハルさんのものです。
事務所でその報告を受けた時、ハルさんは何度も何度も頷いていました。
「よかった……本当に」
「まだしばらくは、簡単に判を押さないでくださいね」
私が言うと、ハルさんは苦笑しました。
「ええ。もう、誰が来ても“まず大槻さんに聞く”って決めたわ」
「それが一番です」
達郎さんが頭をかきます。
「正直、俺も混乱してました。“冗談”“名義だけ”“だまされた”“怖かった”って、全部似たようなもんじゃないかと思って」
「似てます」
私は頷きました。
「でも、似てるからこそ分けるんです」
「今日の名言っぽいな」
真壁さんが言う。
「名言というより受験のコツです」
「出たよ受験生」
「もう半分業務です」
窓の外には、駅前の明かりがぼんやりと滲んでいました。
昭和六十三年。土地神話がまだ生きていて、皆が何かを掴みたがっていた時代。
その中で私は、ようやく一つのことを覚えた気がします。
土地のトラブルは、たいてい「おかしい」で始まります。でも、そこから先は一つじゃない。おかしさには種類がある。そして種類が違えば、救い方も違う。
覚えたのは――似た話を、似たままにしないこと。
たぶん、これが意思表示のいちばん大事なところです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




