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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権の消滅

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107/210

[相殺と差押え]現場編 その差押え、ちょっと待った

挿絵(By みてみん)

 借金というものは、増えると人間関係まで増殖します。


 AさんがBさんに金を貸す。


 BさんがCさんからも金を借りる。


 そのうちCさんが怒って、Bさんの持っている債権を差し押さえる。


 すると突然、


「あなた、Bさんに払う予定だったお金、今日から私に払ってください」


 という知らない人が現れる。


 怖い。


 登場人物が一人増えただけなのに、急に昼ドラ感が出る。


 そして何より困るのは、


 ――誰に払えばいいんですか。


 という話でした。


「栞! 来客!」


 真壁さんの声が事務所に響いたのは、午後三時過ぎのことでした。


「今行きます!」


 私は帳簿から顔を上げました。


 昭和六十三年。


 大槻不動産で事務見習いを始めてから、私はだいぶこの時代にも慣れてきました。


 黒電話にも慣れた。


 コピー機の遅さにも慣れた。


 真壁さんの「FAXは文明の勝利だ」という発言にも慣れた。


 でも。


 差押命令だけは、何度見ても慣れません。


「……これ、です」


 応接机の向こうで、一人の男性が震える手で紙を差し出しました。


 五十歳くらい。


 油の染みた作業着姿。


 名前は佐伯隆三さん。


 町工場を営んでいる人で、大槻不動産が管理している倉庫を借りている。


 その佐伯さんが持ってきたのは、裁判所から届いた債権差押命令でした。


「昨日、これが工場に届きまして……」


 真壁さんが受け取り、眉間に皺を寄せます。


「債権差押命令……」


「はい」


「債務者は?」


「倉田商事です」


「債権者は?」


「東洋金融」


 真壁さんが低く唸りました。


「倉田か……」


 その名前には私も聞き覚えがありました。


 倉田商事。


 この辺りで建材や設備を扱っている会社です。


 景気がいい時は羽振りがよかったらしいけれど、最近どうも資金繰りが怪しい。


「で、佐伯さん」


 奥から出てきた大槻所長が、静かに尋ねました。


「倉田商事に、何の金を払うことになっているんです?」


「機械の代金です」


 佐伯さんが答えました。


「去年、工場に中古のプレス機を入れたんです。倉田さんから買って。まだ残代金が三百万円あります」


 なるほど。


 倉田商事は佐伯さんに対して三百万円の売掛金債権を持っている。


 そこへ倉田商事の債権者である東洋金融が、その三百万円を差し押さえた。


 つまり――。


 私は頭の中に三人を並べました。


 倉田商事。


 佐伯さん。


 東洋金融。


 差し押さえられたのは、


 倉田商事が佐伯さんに対して持っている三百万円の債権。


 だから佐伯さんは「第三債務者」になる。


「裁判所の紙には、倉田商事には払うな、と書いてあるはずです」


 私が言うと、佐伯さんが何度も頷きました。


「そうなんです。それで……どうしたらいいのかと思って」


 まあ、それは怖い。


 昨日まで、


 倉田さんに三百万円払えばいい。


 だったのが。


 今日いきなり、


 倉田さんには払うな。


 東洋金融が差し押さえた。


 です。


 お金の行き先に裁判所が割り込んできた。


 普通の人なら胃が痛くなる。


「まだ倉田には払ってないんですよね?」


 真壁さんが確認する。


「はい。ただ……」


 佐伯さんが言い淀みました。


「ただ?」


「実は私も、倉田さんに金を貸してるんです」


 私は顔を上げました。


 真壁さんも止まった。


 所長だけが、わずかに目を細めました。


「いくらです?」


「二百五十万円」


 ――来た。


 頭の中で、何かがカチリと噛み合いました。


「いつ貸したんですか?」


 私は思わず聞きました。


 佐伯さんが私を見る。


「え?」


「その二百五十万円です。いつ倉田商事に貸したんですか?」


「ええと……去年の十一月です」


「間違いないですか?」


「はい。プレス機を買った後です。倉田社長が、一時的に運転資金が足りないって言うから」


 私は差押命令の日付を見ました。


 二日前。


 つまり――。


 去年十一月。


 佐伯さんが倉田商事に二百五十万円を貸した。


 今年。


 東洋金融が、倉田商事の佐伯さんに対する三百万円の債権を差し押さえた。


 順番は、


 反対債権。


 その後に差押え。


「……真壁さん」


「なんだ」


「これ、相殺できるんじゃないですか」


 真壁さんがこちらを見た。


「相殺?」


「はい」


 私は紙を指差しました。


「佐伯さんは倉田商事に三百万円払う義務がある。でも同時に、倉田商事から二百五十万円返してもらう権利がある」


「ああ」


「だったら、対当額で消せる」


 佐伯さんが目を丸くしました。


「消せる……?」


「相殺です」


 私は頷きました。


「三百万円払う義務と、二百五十万円返してもらう権利をぶつけるんです。条件が整っていれば、二百五十万円分は消せます」


 佐伯さんの顔に、一瞬だけ光が差した。


 でも。


 真壁さんが眉を寄せました。


「待て」


「はい?」


「もう差し押さえられてるだろ」


 さすが実務屋。


 一番怖いところをちゃんと踏んでくる。


「差し押さえられた後で相殺したら、差押えを潰すことになるんじゃないのか?」


「……そこなんです」


 私は差押命令をもう一度見ました。


 ここが今回の肝。


 相殺と差押え。


 宅建の過去問で、ABCが大量発生して受験生を混乱させる分野です。


 私は前世で何度も思いました。


 民法の先生。


 AとBとCを使えば分かりやすいと思ってません?


 途中から誰が誰に金を貸してるのか、全員親戚みたいになるんですよ。


 でも今なら分かる。


 見るべきポイントは一つ。


「佐伯さんが反対債権を取得したのが、差押えの前か後かです」


 所長が静かに頷きました。


「続けろ」


 私は少し背筋を伸ばしました。


「差押えの前から、佐伯さんが倉田商事に対する債権を持っていたなら、その相殺は差押債権者にも主張できます」


「つまり?」


 佐伯さんが身を乗り出す。


「東洋金融が差し押さえたからといって、佐伯さんが元々持っていた二百五十万円の債権まで、なかったことにはできない、ということです」


「……!」


「だから、相殺できる可能性があります」


 佐伯さんの口が開いたまま止まりました。


 その瞬間。


 黒電話が鳴りました。


 ジリリリリリリリ!


 なんで昭和の電話って、毎回緊急事態みたいに鳴るんでしょう。


 真壁さんが受話器を取る。


「大槻不動産……はい」


 数秒後。


 真壁さんの顔が露骨に険しくなりました。


「……東洋金融?」


 佐伯さんの顔色が変わる。


 私は嫌な予感しかしませんでした。


「はい。佐伯さんなら今ここに……いや、ちょっと待ってください」


 真壁さんが受話器を押さえます。


「佐伯さん。東洋金融からだ」


「ええっ?」


「支払いの確認だと」


「わ、私は何て……」


 真壁さんが所長を見る。


 所長は一言だけ言いました。


「代われ」


 受話器を取った所長の声は静かでした。


「大槻です。佐伯さんの相談を受けています」


 向こうが何かまくしたてている。


 所長は黙って聞いている。


 怖い。


 怒鳴る人より、黙って聞いてる所長のほうが怖い。


「なるほど」


 所長が言いました。


「三百万円全額を御社へ払え、と」


 電話の向こうの声が、こちらにまで漏れています。


『当然でしょう! うちは裁判所から正式に差し押さえてるんですよ!』


 強い。


 声が強い。


『倉田への債権があるとか何とか言われても、そんなものはそちらの事情でしょう! もう差押えは済んでるんです!』


 私は眉をひそめました。


 その理屈だと。


 差押えさえ早ければ、それ以前から存在する相殺の期待まで全部吹き飛ばせる。


 そんなはずはない。


「所長」


 私は小声で言いました。


 所長がこちらを見る。


 私は紙に書きました。


 去年11月 佐伯→倉田 250万円貸付


 今年   差押え


 差押前取得。


 相殺可。


 所長がそれを見て、ほんの少し口元を上げました。


「東洋金融さん」


 受話器に戻る。


「一つ確認します」


『何ですか』


「佐伯さんが倉田商事に対して有している二百五十万円の貸金債権は、今回の差押えより前に取得したものです」


 向こうが黙った。


「ですので、当然に三百万円全額を御社へ支払う話にはなりません」


『……何を言ってるんですか』


「相殺の問題です」


『差押え後の相殺は認められないでしょう!』


「違います」


 所長の声が、一段低くなった。


「相殺の意思表示をした時期ではなく、反対債権を取得した時期をまず確認してください」


 電話の向こうが静かになった。


 うわ。


 所長の圧が電話線を通っている。


 たぶん向こう、今ちょっと姿勢を正した。


「差押えより前から第三債務者が反対債権を持っている場合まで、差押えによって相殺できなくなるわけではありません」


『……』


「資料を確認した上で、こちらから改めて連絡します」


 所長はそう言って、受話器を置きました。


 ガチャン。


 事務所に静寂が落ちる。


 佐伯さんが呆然としていました。


「……払わなくていいんですか」


 所長が首を振ります。


「全部払わなくていい、ではありません」


「あ……」


「三百万円のうち、二百五十万円を相殺できるなら、残るのは五十万円です」


 私は指で計算する。


 三百万円。


 マイナス二百五十万円。


 残り五十万円。


「もちろん」


 所長が続けました。


「貸金債権が本当に存在するか、弁済期なども含めて確認が必要です。契約書や領収証、振込記録はありますか」


「あります!」


 佐伯さんが勢いよく言った。


「借用書もあります!」


「それを持ってきてください」


「はい!」


 立ち上がりかけた佐伯さんを、私は呼び止めました。


「あの」


「はい?」


「念のため聞きますけど」


 私は嫌な予感に備えました。


「その二百五十万円、差押えが来た後に、倉田さんと相談して作った借金じゃないですよね?」


「え?」


「例えば、『東洋金融に取られそうだから、今から二百五十万円借りたことにして相殺しよう』とか」


「そんなことしてません!」


 佐伯さんが全力で否定した。


「去年ですよ! 本当に去年貸しました!」


「なら大丈夫です」


 私は胸を撫で下ろしました。


 真壁さんが笑います。


「お前、疑い方が不動産屋になってきたな」


「褒めてます?」


「半分な」


「残り半分は?」


「性格が悪くなった」


「返してください、その評価」


 でも、ここは大事です。


 もし順番が逆だったら。


 差押え。


 その後に佐伯さんが倉田商事への債権を取得。


 だったら、話はまったく違う。


 差押えを受けた後で第三債務者が反対債権を手に入れて、それで「相殺します」と言えるなら、差押えなんて簡単に骨抜きになります。


 だから法律は、そこを切る。


 差押え前に持っていた債権。


 守る。


 差押え後に取得した債権。


 原則として、それで差押債権者には対抗できない。


 日付が一日違うだけで、結論が変わる。


 法律って、ときどきカレンダーが判決を出すみたいです。


 翌朝。


 佐伯さんは、風呂敷いっぱいの書類を持ってきました。


「全部持ってきました!」


 全部。


 本当に全部でした。


 借用証。


 銀行の振込控え。


 倉田商事からの領収書。


 返済期日の書かれた覚書。


 なぜか町内会の回覧板まで入っていました。


「これは違いますね」


 私が回覧板を抜く。


「す、すみません」


「でも気持ちは伝わりました」


 真壁さんが横から覗き込んだ。


「お前、こういう時だけ優しいな」


「こういう時だけ、は余計です」


 確認すると、佐伯さんの貸金債権は確かに差押えよりずっと前に成立していました。


 所長は内容を整理した上で、専門家にも確認を取り、東洋金融へ連絡しました。


 昼前。


 今度は東洋金融の担当者が事務所へやってきました。


 四十代くらいの男。


 濃紺のスーツ。


 眼鏡。


 昨日の電話の勢いより、今日はだいぶ静かです。


「……資料は拝見しました」


 担当者は借用証を見ながら言いました。


「確かに、御社が把握している二百五十万円の貸付は、こちらの差押えより前ですね」


「はい」


 所長が答える。


「ですので、相殺可能な範囲について整理した上で対応します」


 担当者が佐伯さんを見る。


「ただ、残額については差押えの効力があります」


「もちろんです」


 佐伯さんは深く頭を下げました。


「払うものは払います」


 その言葉に、担当者も少しだけ表情を緩めました。


「こちらも、別に無理を言いたいわけではありません」


 いや昨日は結構無理を言ってましたけどね。


 とは思いましたが、私は黙ってお茶を置きました。


 大人には、引き際に逃げ道が必要です。


 全部暴くのが正義じゃない。


 着地点を作るのも仕事です。


 話は二十分ほどでまとまりました。


 三百万円の支払債務。


 そこから佐伯さんの二百五十万円の反対債権を相殺。


 残額五十万円については、差押えに従って処理する。


 佐伯さんは三百万円を丸ごと失わずに済んだ。


 もちろん、二百五十万円が丸ごと得になったわけではありません。


 本来、倉田商事から返してもらうはずだった金です。


 でも。


 倉田商事が資金難なら、その貸金二百五十万円は回収できなかったかもしれない。


 それを、自分の支払債務とぶつけることができた。


 佐伯さんにとっては、大きな違いでした。


「……助かりました」


 東洋金融の担当者が帰ったあと。


 佐伯さんは椅子に座ったまま、ぽつりと言いました。


「三百万円全部払えと言われた時は、もう工場を畳むしかないと思いました」


「そんなに厳しかったんですか」


 私が尋ねる。


「今月、材料代もあるし、従業員の給料もありますから」


 佐伯さんは笑いました。


「うちは五人しかいない小さい工場ですけどね」


 五人。


 たった五人。


 でもその五人には、それぞれ家がある。


 夕飯がある。


 子供がいるかもしれない。


 ローンがあるかもしれない。


 法律の問題では、


 AはBに三百万円の債務を負い、


 Bに対して二百五十万円の債権を有する。


 CがBのAに対する債権を差し押さえた。


 ――それだけです。


 でも現実では。


 Aにも生活がある。


 Bにも事情がある。


 Cにも回収しなければならない金がある。


 アルファベットは泣かないけれど、人間は泣く。


 だから法律は、人間関係を整理するためにある。


「栞ちゃん」


 帰り際、佐伯さんが私を呼びました。


「はい?」


「これ」


 渡されたのは、小さな紙袋でした。


「なんですか?」


「工場の近くのたい焼き屋。うまいんだ」


「えっ」


「みんなで食べて」


 中を見る。


 六個入っていました。


 私。


 真壁さん。


 所長。


 あと三個。


「多くないですか?」


「余ったら栞ちゃん食べな」


「私を何だと思ってます?」


「若いから食うだろ」


 昭和の人、若者への食欲信仰が強い。


「ありがとうございます」


 私が笑うと、佐伯さんも笑いました。


「本当にありがとう」


 今度は、その声が少し震えていました。


「法律なんて、俺みたいな人間には関係ないと思ってたよ」


 私は少し考えてから言いました。


「たぶん逆です」


「逆?」


「困った時に関係してくるから、知らないうちは関係ないように見えるんだと思います」


 佐伯さんはしばらく私を見て。


「……難しいこと言うねえ」


「今の、ちょっと格好よかったですよね」


「自分で言わなきゃね」


「はい」


 台無しでした。


 夕方。


 事務所でたい焼きを食べながら、真壁さんが聞きました。


「で、栞」


「はい」


「今日のやつ、試験に出たらどう覚える」


 私はあんこを飲み込んでから答えました。


「順番です」


「順番?」


「はい」


 私はメモ用紙に書きました。


 反対債権取得

    ↓

   差押え


「先に反対債権を持っていたなら、相殺できる」


 その下に書く。


   差押え

    ↓

 反対債権取得


「こっちは、差押債権者に相殺で対抗できない」


 真壁さんが腕を組んだ。


「ずいぶん単純だな」


「単純にしないと試験会場で死ぬんです」


「死ぬのか」


「心が」


「弱いな」


「宅建受験生の心はガラスです」


 所長が新聞をめくりながら、ぼそっと言いました。


「だったら、こう覚えればいい」


「何ですか?」


 所長がこちらを見ました。


「差押えは、後から作った逃げ道までは守らない」


 私は少し考えました。


 なるほど。


 差押え前から持っていた反対債権なら、それは元々あった関係だ。


 第三債務者には、


 いずれ相殺できるかもしれない。


 という期待がある。


 だから守る。


 でも差押え後に取得した債権なら。


 差押えを見てから、新しく逃げ道を作ったようなものになる。


 そこまで認めれば、差押えの意味がなくなる。


「……所長」


「なんだ」


「それ、分かりやすいです」


「だろう」


「悔しいです」


「なぜだ」


「私が言いたかった」


「知らん」


 真壁さんが吹き出した。


「栞。お前、法律より所長に勝つことが目的になってないか」


「違います」


「即答だな」


「九割くらい違います」


「一割あるじゃねえか」


 私は二個目のたい焼きに手を伸ばしました。


 すると真壁さんが言いました。


「それ俺のだぞ」


「六個ありますよ」


「一人二個だろ」


「所長も二個食べるんですか?」


 二人で所長を見る。


 所長は新聞から顔も上げずに言いました。


「食う」


「……」


「……」


 所長、意外と甘党でした。


 その日の帰り。


 私は机の上の紙をもう一度眺めました。


 差押え。


 相殺。


 第三債務者。


 自働債権。


 受働債権。


 教科書では、また難しい言葉が並びます。


 でも今日の私は、その裏に佐伯さんの工場を思い浮かべることができた。


 油の匂い。


 機械の音。


 五人分の給料。


 そして、紙一枚届いただけで青ざめた佐伯さんの顔。


 相殺という制度は、単なる引き算じゃない。


 先に積み重なっていた二人の債権債務関係を、あとから来た差押えがどこまで壊せるのか。


 その境目を決める仕組みなんだ。


 私はノートの端に書きました。


 ――差押えより前か、後か。


 それだけで、答えは変わる。


 そして、その下にもう一行。


 ――日付を侮るな。


 不動産も民法も。


 最後に人を救うのは、ときどき一枚の契約書と、一つの日付だったりします。


「栞、帰るぞ」


 真壁さんが事務所の電気を消す。


「はい」


「たい焼き、三個目持って帰るなよ」


「……何のことでしょう」


「鞄が膨らんでるぞ」


「証拠はありますか?」


「現行犯だ」


「民法じゃない!」


 所長が奥で笑っていました。


 昭和六十三年。


 差押命令は怖い。


 借金も怖い。


 でも、怖い紙が届いた時ほど、まず順番を見る。


 誰が。


 誰に。


 いつ。


 何を持っていたのか。


 法律は、ときどき難しい顔をしているけれど。


 ちゃんと整理してやれば、意外と人間の味方をしてくれる。


 私は鞄の中のたい焼きをそっと守りながら、そう思ったのでした。

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