第9話 師匠に返せない恩
●盗賊・リリアン視点
その日も、師匠とダンジョンを探索していた。薄暗い洞窟の中を、ぼくたちは慎重に進んでいた。壁は湿っていて、ところどころに苔が生えている。魔物の気配はない。少なくとも、今のところは。
「……あ」
足元の石に、細い亀裂が走っている。周囲の地面と比べれば、ほんの少しだけ色が違う。ほんのわずかな違和感だったけれど、盗賊として慣れてきたころのぼくには、すぐに分かった。罠だ。
「師匠、罠を見つけた……」
後ろを歩く師匠へ声をかける。師匠は足を止め、ぼくが指差した場所へ視線を向けた。
「どんな罠だ?」
「たぶん、落とし穴。ここを踏むと地面が崩れると思う」
「解除できそうか?」
「うん」
ぼくなら解除できる。師匠に教えてもらった通り、まず周囲を確認する。罠は一つとは限らない。解除する前に、別の仕掛けがないか調べる。それが盗賊の基本だった。大丈夫みたいだ。
しゃがみ込む。腰のポーチから魔道具の工具を取り出し、石の隙間へ慎重に差し込む。指先へ意識を集中させる。小さな部品を一つずつ確認しながら、仕掛けの構造を探っていく。カチッ。小さな音がした。罠が解除される。
「……できた」
思わず笑みがこぼれた。ぼくだって、ちゃんと役に立てる。師匠に教えてもらったことが、ちゃんと身についている。そう思った。
「行こう、師匠」
「ああ」
罠を自分で解除できたことが嬉しくて、少しだけ足取りが軽くなっていた。師匠の役に立てた。それが嬉しかった。もっと認めてもらいたかった。もっと頼ってもらいたかった。だから、このときのぼくは気づかなかった。解除した罠の先に、もう一つ仕掛けがあることに。
しばらく進んだところで。
バキッ。
足元から嫌な音がした。
「え?」
次の瞬間、地面が崩れた。
「リリアン!」
身体が落ちる。視界が一気に暗くなる。何が起きたのか理解するより先に、腕を強く掴まれた。
「師匠!」
「離すな!」
師匠がぼくの腕を引く。
「うわっ!」
身体が持ち上がる。そのまま地面へ転がった。
「……っ」
全身を打った痛みが走る。でも助かった。師匠に救われた。
「師匠?」
目の前に、師匠がいない。さっきまでぼくの腕を掴んでいた手もない。僕を引き上げた反動で、師匠が穴へ落ちたのだと理解するまで、数秒かかった。
「……え?」
慌てて穴を覗き込む。底は暗くて、ほとんど何も見えない。そのときだった。穴の底から、何かが這う音が聞こえた。
ザリ……。ザリ……。
続いて、低い唸り声。
「グルルル……」
背筋が凍った。
「師匠!」
穴を覗き込む。ライトを照らす。暗闇の中で、師匠が剣を構えているのが分かった。その向かいには、牙を剥いた魔物。しかも、一体じゃない。二体。三体。暗闇の奥から、次々と姿を現していく。
「……嘘」
どれも単独で遭遇すれば命を落としてもおかしくない上位種。たぶん、A級に指定されている魔物たちだ。そんな魔物が、師匠を取り囲んでいる。
「師匠! 上がって!」
ぼくは叫んだ。
「そんな暇はない。助けを呼んできてくれ!」
魔物が飛びかかる。師匠の剣が閃いた。
ガキィンッ!
爪と剣がぶつかる。火花が散った。さらに別の魔物が横から襲いかかる。師匠は身体を捻ってかわし、そのまま剣を振り抜いた。
ぼくは動けなかった。助けを呼ばなきゃいけない。分かっている。師匠の言っていることも分かる。それでも、足が震えていた。目の前で師匠が戦っている。ぼくが原因で、師匠があそこにいる。
「行け!」
怒鳴られた。それでようやく体が動く。助けを呼ぶために走る。その間も、背後から戦闘音が聞こえていた。剣がぶつかる音。魔物の咆哮。石壁に何かが叩きつけられる音。
必死に走った。やがて、前方に人の姿が見えた。
「誰か!」
ぼくは叫んだ。
「師匠を助けて!」
息を切らしながら事情を説明する。探索者たちはすぐに武器を構え、ぼくと一緒に現場へ戻った。穴の近くまで戻っても、戦闘音は続いていた。
ガキィンッ!
グルァァッ!
剣と爪がぶつかる音。魔物の咆哮。ぼくは何度も師匠の名前を呼んだ。
「師匠!」
救援の探索者たちが穴へ降りていく。しばらくして魔物の咆哮が途切れ、師匠が引き上げられた。服は破れていた。全身に深い傷があり、血が流れている。顔にも小さな傷がいくつもあった。立っているだけでも辛そうなのに、師匠はぼくを見ると、最初に自分の傷を確認することすらしなかった。
「怪我は?」
師匠はぼくの心配をした。
「ぼくはないよ。それより、師匠が……」
「こんな傷、大したことはない」
「大したことあるよ!」
思わず声が大きくなった。師匠の身体は血だらけだった。剣を握る手も震えている。それなのに、師匠はいつものように落ち着いていた。ぼくは唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
声が震える。
「ぼくが……、ちゃんと解除できてれば。最初の罠は囮だって気づいてれば……」
最初の罠を見つけた。解除もした。だから大丈夫だと思った。自分はちゃんと役に立てたと思った。でも、あれは終わりじゃなかった。最初の罠に気を取られて、その先に仕掛けられた本当の罠を見落とした。
「……」
師匠はしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「盗賊の仕事は簡単じゃない。罠を一つ見つけたからって、それで終わりとは限らない。今回、それが分かっただけでも収穫だ。この経験を生かせ」
その言葉を聞いた瞬間、涙が出た。怒られると思っていた。責められると思っていた。師匠なら、もっと厳しく言われてもおかしくなかった。ぼくが失敗したせいで、師匠が傷ついたのだから。
「ごめんなさい」
涙が止まらない。
「本当に、ごめんなさい……」
師匠は何も言わず、ぼくを抱きしめた。血の匂いがした。その腕は優しかった。
「……」
店の中から師匠が出てくる。手には箒を持っていた。サッ、サッ。箒が地面を擦る音が鳴る。掃除が終わると、師匠はそのまま店の裏へ向かった。
畑へ出る。土を耕す。苗を眺める。葉についた小さな虫を見つければ取り除く。水をやる。泥のついた手で野菜を触っている。たまに、一人で笑っている。
「……よかった」
ぼくは小さく呟いた。師匠が笑っている。それだけで、なんだか安心した。
ぼくがここへ来たのは、師匠に渡したいものがあったからだ。懐へ手を入れる。指先に、紙の感触が触れた。白い封筒。国の紋章が入った、立派な封筒だった。
師匠への招待状。
王都にある探索者育成機関からの正式な依頼だ。講師として、若い探索者たちを指導してほしい。師匠の経験を、次の世代へ伝えてほしい。そんな内容だった。
最初にこの話を聞いたとき、ぼくは嬉しかった。やっぱり師匠は、ちゃんと評価されている。そう思った。
きっかけは、ぼくだった。少し前に、師匠の話を勇者にした。師匠から教えてもらったこと。ダンジョンで生き残るために必要なこと。仲間を守るために必要なこと。強くなることだけが探索者じゃないこと。生きて帰ることの大切さ。
そんな話をしていたら、勇者が国王へ師匠の話をしたらしい。その結果、この依頼が来た。
「師匠、喜ぶかな」
最初はそう思っていた。師匠が長年積み重ねてきた経験を、若い探索者たちに伝えられる。師匠の教えで助かる人も、きっとたくさんいる。国から頼られるということは、それだけ師匠の歩いてきた道が認められたということでもある。だから、早く渡したかった。
「師匠。これ、国からだよ」
そう言って渡す。師匠が封筒を開ける。内容を読んで驚く。それから、少し照れながら笑う。そんな姿を想像していた。実際に師匠の姿を見るまでは。
「……」
ぼくは封筒を握りしめる。師匠が王都へ行ったら、今の生活は変わる。朝から講義。昼は指導。夜には打ち合わせ。国から頼られるようになれば、別の仕事を頼まれることだってあるかもしれない。
そうなれば、畑に出る時間も減る。魚を釣る時間も減る。料理を作る時間も減る。自分で育てた茶葉で、ゆっくりお茶を飲む時間だって減ってしまう。というか、全部なくなる。
「……ぼく、何やってるんだろ」
封筒を見る。これは師匠のものだ。受けるか、断るか。それを決めるのも師匠だ。ぼくが勝手に決めることじゃない。渡さなければ、師匠は選ぶことすらできない。
「渡さないと」
そう言い聞かせる。
もし師匠が引き受けたら、また自分のことを後回しにしてしまうかもしれない。若い探索者たちのために。国のために。誰かのために。そうやって、自分の時間を削ってしまうかもしれない。あの日と同じように、自分のことは後回しにして。
「……」
ぼくは店を見る。厨房から、包丁の音が聞こえてくる。トントン。トントン。窓から師匠の姿が見える。まな板の前に立って、野菜を切っている。穏やかな顔をしている。その姿を見ていると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「これが師匠の今の生活なんだ」
誰かに命令されたわけじゃない。誰かに頼まれたわけでもない。自分で店をもって、自分で畑を耕して、自分で料理を作っている。師匠が選んだ生活だ。だから、その選択をぼくが勝手に変えていいはずがない。
それに師匠の前に立ったら、何を言えばいいのか分からない。「久しぶり」と言えばいいのか。「元気だった?」と聞けばいいのか。それとも、最初に謝るべきなのか。なのか、じゃなくて、謝るべきだ。
ぼくは何年も、師匠の前に立つことから逃げてきた。
「……ごめんなさい」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。昔の失敗なのか。今、招待状を渡せないことなのか。それとも、何年も会いに行かなかったことなのか。全部なのかもしれない。ぼくはしばらく『しらゆき』を見つめていた。そして、師匠の横顔を記憶に刻みつけて、静かにその場を離れた。




