第8話 盗賊、師匠を見守る
●盗賊・リリアン・モンゴメリ視点
ぼくはリリアン・モンゴメリ。女だ。そして盗賊だ。そして、師匠の弟子でもある。……まあ、師匠本人は認めてくれていないけど。
ここ数日、ぼくはずっと師匠を見ている。朝早くから店の前を掃除しているところも見ていた。畑を耕しているところも見た。魚を釣っているところも見た。料理をしているところも見た。
昨日は、大魔導師のアルバ・ミルフォードが店に来ていた。それから、グランドボアとかいう巨大な魔獣まで現れた。師匠は剣を取りに戻ろうとしていたけど、その前にアルバが出ていった。
そして、一撃。グランドボアは丸焼きになった。
「……ほおほお」
ぼくは木の上から、その光景を見ていた。そのあと、師匠はそのグランドボアでシシ汁を作った。すごく美味しそうだった。
「師匠、今日も元気そうだな」
師匠は自分では大したことがないと思っている。でも、ぼくは知っている。師匠は、B級よりもずっとすごい人だ。
だから、ぼくは今日もこうして師匠を見ている。
木の枝に腰を下ろし、葉の隙間から双眼鏡で店の庭を覗く。師匠は湯飲みを持っていた。どうやら、自分で育てた茶葉を使って、お茶を淹れたらしい。
「お茶かぁ」
なんだか楽しそうだ。師匠は庭に植えた茶の木を眺めながら、お茶を飲んでいる。その顔は、とても穏やかだった。昔の師匠とは全然違う。
ダンジョンに潜っていたころの師匠は、いつも周囲を警戒していた。魔物がいないか。罠がないか。常に何かを考えていた。
ぼくは少しだけ笑った。
師匠は、ぼくに気づいていない。当然だ。ぼくの職業は盗賊だから。気配を消すことには、それなりに自信がある。師匠に気づかれないようにするためなら、ぼくはかなり本気だ。
そもそも、ぼくがどうしてこんなことをしているのか。それには、ちゃんと理由がある。
ぼくと師匠が出会ったのは、今から何年も前のことだった。当時のぼくは、まだ15歳だった。親はいなかった。住む場所もなかった。毎日、腹を空かせていた。
だから、盗んだ。パンを盗んだ。果物を盗んだ。財布を盗んだ。
生きるためには、それしかなかった。もちろん、盗みが悪いことだというのは分かっていた。でも、腹が減っていると、そんなことを考えている余裕なんてない。
今日をどうやって生きるか。それだけだった。
そんなある日、ぼくはダンジョンの入口近くにいた。そこは探索者が集まる場所だった。武器を持った人。大きな荷物を背負った人。魔法使い。商人。いろんな人間が行き交っていた。
ぼくにとっては、獲物を探すには都合のいい場所だった。
そこで見つけたのが、師匠だった。当時の師匠は、今よりずっと若かった。それでも、ぼくからすれば十分に大人だった。腰には剣。使い込まれた防具。大きな荷物。見るからに探索者だった。
「……この人にしよう」
理由なんてなかった。
人の流れを見る。師匠の歩く速度を見る。周囲に仲間がいないことを確認する。それから、少しずつ距離を詰める。足音を消す。相手の死角へ入る。師匠のすぐ後ろまで近づく。あと少し。あと少しで財布に手が届く。ぼくは手を伸ばした。その瞬間だった。
「何してる?」
「…………」
手首を掴まれた。驚いて顔を上げる。師匠が、ぼくを見ていた。
「……」
「……」
目が合う。終わった。失敗した。殴られる。そのあと衛兵に突き出される。そんなことを考えた。けれど、師匠は何もしなかった。
ただ、ぼくの顔をじっと見ていた。それから少し眉を寄せる。
「腹でも減ってるのか?」
「…………え?」
予想していた言葉と全然違った。師匠は、ぼくの手首を離した。そして、自分が持っていた食べ物を取り出した。
「食うか?」
「……いいの?」
「ああ」
差し出された食べ物を見る。焼いた肉の入ったおにぎり。
ぼくは食べた。夢中で食べた。気づけば、涙が出そうになっていた。すごく美味しかった。あのときのぼくにとっては、世界で一番美味しい食事だった。今でもそうだ。
師匠は何も言わず、ぼくが食べ終わるのを待っていた。
「美味いか?」
「……うん」
「そうか」
終始、僕を責めなかった。盗んだことについて説教もしなかった。
「お前、盗賊か?」
ぼくは黙っていた。すると師匠は、少し考えてから言った。
「だったら、その才能をまともなことに使え」
「まともなこと?」
「ああ。探索者になればいいんだよ」
「ぼくが?」
「お前は、気配を消すのが上手い」
その言葉が、胸に残った。ぼくのことを、初めてちゃんと見てくれた人だった。盗人。泥棒。クズ。それまで、ぼくはそんなふうに呼ばれてきた。
でも師匠は違った。
「……探索者になったら、食べていける?」
「もちろん」
「じゃあ、なる」
師匠は苦笑していた。その日から、ぼくは師匠についていくようになった。
「師匠。ぼくを弟子にしてよ」
「俺は弟子を取ってない」
「でも、教えてくれるんでしょ?」
「最低限のことを教えてやるだけだ。あとは自分で何とかしろ」
ぼくは気にしなかった。だって、ぼくにとって師匠は師匠だったから。師匠から教わったのは、盗賊の技術そのものじゃない。
師匠は剣士だった。だから、鍵の開け方とか、細かい盗賊の技術なんかは教えてもらっていない。でも探索者として生き残るために必要なことは、たくさん教えてくれた。
「敵を見つけても、無理に戦うな」
「逃げていいの?」
「当たり前だ。死んだら何もできない。盗賊なら、敵に勝つ必要なんてない。見つからなければそれでいい」
なるほど……。
「それと、逃げ道は必ず確認しておけ」
「うん」
「将来仲間ができたら、仲間たちの位置も常に把握しておけ」
「分かった」
「罠を見つけたら、自分だけ知って終わりにするな。必ず仲間に伝えろ」
「うん!」
そんな感じで、色んな事を少しずつ教えてもらった。ダンジョンでの歩き方。敵の見つけ方。音の聞き分け方。仲間との距離感。危険を感じたときの判断。
そして、一番大切なこと。
「生きて帰れ」
師匠は、何度もそう言った。
「強さなんて後からついてくる。まず生き残れ」
その言葉を、ぼくはずっと覚えている。だから、絶対に無理をしなかった。危険だと判断したらいつも逃げた。
そうやって少しずつ、ぼくは盗賊として成長していった。そして、いつの間にか周りから一人前の盗賊として認められるようになった。仲間もできた。今では、勇者パーティーの一員として活動している。
お金にも困ってない。いつでも好きなものを食べられるようになった。
師匠がいなかったら、今のぼくはいない。だから師匠が引退したと聞いたとき、ぼくはすぐに会いに行こうと思った。でも会えなかった。ぼくには、会う勇気も資格もなかった。




