第7話 元B級探索者、茶を淹れる
今日はお茶を作ろうと思う。
きっかけは、庭の隅で育てていた茶の木だった。
店を始めたばかりのころ、せっかく田舎で暮らすのだから、自分で育てられるものは育ててみようと思った。大根やにんじん、長ねぎ。裏の小さな畑では季節ごとに違うものを試している。
その中に、茶の木もあった。
苗木を手に入れたときは、本当に小さかった。細い枝が何本か伸びているだけで、葉も数えるほどしかついていなかった。
「これがお茶になるのかねぇ」
当時はあまり期待せず、半分は冗談だった。けれど、植えてみると案外面白かった。
朝、店を開ける前に水をやる。
土が乾いていれば水を足す。雑草が生えていれば抜く。伸びすぎた枝があれば形を整える。暑い日には葉が萎れていないか確認し、寒い日には霜が降りていないか見に行く。
1日や2日で大きくなるわけじゃない。だから、最初のころは成長しているのかどうかも分からなかった。
それでも、何週間も、何か月も世話をしていると、ある日ふと気づく。
「……お?」
前より枝が増えている。葉も増えている。そんな小さな変化を見つけるたび、少し嬉しくなった。
それは、以前やっていた新人探索者の指導にも似ていた。
最初は何もできなかった若い奴が、何度も失敗して、何度も怒られて、それでも練習を続けているうちに、ある日突然、昨日までできなかったことができるようになる。
成長というのは、そういうものなのかもしれない。
毎日見ていると分からない。けれど、振り返ってみると、ちゃんと前へ進んでいる。
そして今日。
俺は庭の茶の木を眺めていた。朝の光が葉の上へ落ちている。昨夜の露がまだ少し残っていて、葉の先で小さな水滴が揺れていた。
風が吹く。さらさらと葉が擦れ合う。
「……そろそろだな」
新しく伸びた枝の先。そこに、柔らかな若い葉がついている。
色もいい。葉の張りもある。指先で触れると、まだ柔らかい。俺は茶の木の前へしゃがみ込んだ。
「育ってくれて、ありがとな」
俺はかごを用意する。そして、若い芽と、その下についた柔らかな葉を選んで摘んでいく。
プツッ。
小さな音がする。摘んだ葉を籠へ入れる。茶葉を傷つけないように、丁寧に摘んでいく。大きくなりすぎた葉は残す。傷のついた葉も避ける。虫に食われたものも使わない。
今日使うのは、今しか取れない柔らかな葉だ。
「……こうして見ると、結構あるな」
籠の底が見えなくなっていく。青々とした茶葉が重なっていく。朝露に濡れていた葉も、摘んでしまえばすぐに水気が抜けていく。
指先から、青い葉の匂いがする。
「いい匂いだ」
まだ、お茶の香りではない。少し草に似た、青々しい匂い。それでも嫌いじゃない。むしろ、これからお茶になっていくと思うと、その匂いすら楽しく感じた。
やがて、茶の木を一通り回り終える。
かごを持ち上げる。
「……よし」
思ったより重い。それだけちゃんと育ったということだ。俺は籠を持って店の裏へ戻った。
ここから、お茶作りが始まる。
まずは摘んだ茶葉を広げる。重ならないように薄く並べて、風が通るようにする。1枚1枚が重なっていると、熱がこもってしまう。
だから、できるだけ均等に広げる。朝の風が店の裏を抜けていく。茶葉が、かすかに揺れる。俺はその様子をしばらく眺めた。
探索者だったころは、とにかく時間が惜しかった。ダンジョンでは、立ち止まることが命取りになる。魔物の気配を感じたら、すぐに動く。仲間の様子を見る。足場を確認する。次の階層への道を探す。休める場所を見つけたとしても、完全に気を抜くことなんてできない。常に先のことを考えていた。
「……こういう時間も悪くないな」
横になって空を見上げる。少しウトウトしてしまう。
茶葉の水分が少し抜けたところで、次の作業へ移る。
俺は鍋に湯を沸かした。白い湯気が立ち上る。その湯気へ茶葉を当てる。蒸気が葉を包んだ。すると、さっきまで草のようだった香りが、少しずつ変わっていく。
青々しい匂い。その奥に、ほんのりと甘い香りが混ざる。
「……おお」
思わず顔を近づけた。茶の香りだ。まだ完成したお茶のような香りではない。それでも、確かにさっきまでとは違う。
俺は茶葉の状態を見ながら、蒸し加減を調整する。長すぎれば葉が柔らかくなりすぎる。短すぎれば、うまく仕上がらない。ここも、結局は火加減と時間だ。料理と変わらない。
「……もう少し」
湯気の中で茶葉がしんなりとしていく。葉の色も少し変わった。
「……よし。これくらいだな」
俺は茶葉を取り出し、広げる。まだ熱い。手で触れられるくらいまで冷ましていく。そして、ここから茶葉を揉む。
手のひらで押す。転がす。また押す。
茶葉から水分が少しずつ出てくる。それをまた揉み込んでいく。最初は葉の形がそのまま残っている。けれど、何度も揉んでいるうちに葉が細くなり、くるくると丸まっていく。
茶の香りが立つ。
「結構、手間がかかるな」
そう言いながらも、俺の手は止まらない。不思議と苦にならなかった。自分で育てた茶葉だからだろう。苗を植えたときのことを思い出す。
あんなに小さかった。雨の日もあった。風の強い日もあった。とんでもなく暑い日もあった。それでも枯れずに育った。
そして今日、俺の手の中でお茶になろうとしている。
「……頑張ったな」
十分に揉み終えた茶葉を、今度は乾燥させる。
弱い火にかける。焦がさないように、ゆっくりと混ぜる。茶葉の水分が抜けていく。最初は少し湿っていた葉が、だんだん乾いていく。
そして、厨房の中に香りが広がる。
「……いい匂いだ」
さっきまでの青臭さが消えている。代わりに、爽やかな香りが立っている。少しだけ香ばしい。でも、重くない。
俺は火を弱め、最後まで丁寧に乾かした。
やがて、茶葉がしっかり乾いた。
俺は火を止める。皿へ広げる。しばらく冷ましてから、細くなった茶葉を指先でつまんでみる。
「ちゃんと茶葉になったな」
初めて自分で作った。
売り物にするつもりなんてない。専門の茶農家が作ったものには、到底かなわないだろう。それでも、俺にとっては十分だった。
ここから、いよいよお茶を淹れる。
俺は急須を取り出す。茶葉を適量入れる。
やかんへ水を入れて、火にかける。しばらくすると、鍋の底から小さな音が聞こえてくる。やがて、ぐつぐつと湯が沸いた。
俺は一度、湯飲みへお湯を注ぐ。すぐに急須へ入れるのではない。熱すぎるお湯では、茶葉の味がうまく出ない。少しだけ温度を下げる。
そして、その湯を急須へ注いだ。
「……」
茶葉が湯の中でゆっくり開いていく。
くるくる。
くるくる。
葉が揺れる。
透明だった湯が、少しずつ色づいていく。淡い緑色。
湯気が立ち上る。その中に、爽やかな茶の香りが混ざっている。俺は急須を眺めながら、静かに待った。外から風が入ってくる。
庭の木々が揺れている。
さらさら。
鳥の声が遠くから聞こえる。
チチッ。チチチッ。
「……そろそろだな」
俺は急須を持ち上げる。
湯飲みへ、ゆっくりとお茶を注いでいく。
とく。とく。とく。
小さな音を立てながら、淡い緑色のお茶が湯飲みへ溜まっていく。最後の一滴まで注ぐ。湯気が立ち上る。
俺は湯飲みを両手で持った。まず、香りを楽しむ。爽やかな香り。その奥に、ほんの少し甘い香りがある。
「いい匂いだ」
そして、一口。
ごくっ。
「……」
思わず目を見開いた。
うまい。
口の中に、爽やかな香りが広がる。ほんの少しだけ渋みがある。むしろ、その渋みがあるからこそ、後に残る甘さが分かる。
喉を通ったあと、茶の香りがふわっと戻ってくる。
「美味い」
もう一口。
ごくっ。
自然と笑みがこぼれた。特別な茶葉じゃない。有名な産地のものでもない。高級品でもない。
それでもこれは、俺が育てた茶葉だ。そして今日、自分の手で摘んだ。蒸して。揉んで。乾かして。ようやく、この1杯になった。
「こんなに美味いんだな」
自分で育てたものを、自分で食べる。
自分で作ったものを、自分で味わう。
それだけのことが、こんなにも人生を豊かにしてくれる。
「悪くない」
ぽつりと呟く。
昔の俺は、何者かになりたかった。
A級になりたかった。
S級になりたかった。
もっと強くなって。
もっと深い階層へ行って。
もっと大きな仕事をして。
結局、俺はB級探索者で終わった。
それを悔しいと思ったこともある。自分には才能がなかった。努力が足りなかった。そう思ったことも何度もあった。
けれど、今こうして自分の店を持っている。畑を耕している。野菜を育てている。魚を釣っている。そして今日は、自分で育てた茶葉からお茶を作った。
「こういうのも、いいよな」
俺は庭を見る。
茶の木が風に揺れている。陽の光が葉の隙間から差し込み、地面へ細かな影を落としている。鳥が枝から枝へ飛び移る。俺は湯飲みを持ったまま、その景色を眺めた。
何も起きない。誰も来ない。ただ、静かな時間だけが流れていく。
「平和だ」
そう思ったときだった。ふと、誰かに見られているような気がした。
「……ん?」
湯飲みを口元で止める。
今のは何だ?
視線。いや、視線というほどはっきりしたものじゃない。何となく。本当に、何となくだ。誰かがいるような気がする。
庭を見回す。誰もいない。畑にもいない。茶の木の向こうにも、人影はない。
「……」
地面には俺が歩いた跡しかない。少し先の道にも、人の姿は見えない。山へ続く道。その先にも、何もない。
「気のせいか」
俺はそう呟いた。




