第3話 のどかな暮らし
翌朝。空がまだ薄暗いうちに目を覚ました。顔を洗い、簡単に朝飯を済ませる。それから作業着に着替えて、店の裏へ出た。
朝の空気は冷たい。頬に当たる風で眠気が一気に吹き飛ぶ。吐いた息が白く広がり、すぐに朝の冷たい空気へ溶けていった。
店の裏には、小さな畑がある。店で使う野菜を育てるために、引っ越してきたときに自分で作ったものだ。土は朝露で少し湿っている。靴の裏が土に沈むたび、ぐっと足へ重さが返ってくる。俺は畑の端まで歩くと、壁に立てかけていた鍬を手に取った。
「さてと」
柄を握る。乾いた木の感触が手のひらに伝わってくる。ダンジョンで剣を握っていた手が、今は農機具を握っている。若い頃の俺では想像すらしなかった。
若い俺なら、この時間には剣を振っていた。朝一番に体を動かし、汗を流してからダンジョンへ向かう。それが当たり前だった。
「……今はこっちのほうが、しっくりくるんだよなぁ」
小さく笑って、鍬を振り下ろす。
ザクッ。
刃先が土へ食い込み、湿った土が持ち上がる。土の塊を鍬で崩し、足で軽く踏んでならす。もう1度。ザクッ。さらにもう1度。ザクッ。同じ動作を何度も繰り返す。鍬を振り下ろすたびに、土の匂いが濃くなる。冷たい朝の空気の中に、湿った土の匂いが混ざって鼻へ入ってくる。
最初は冷たかった指先も、鍬を振っているうちに少しずつ温かくなってきた。額には、うっすら汗が浮かぶ。昔なら、これくらいの運動は準備運動にもならなかった。でも、今はすぐに息が上がる。でも、これはこれでいい。
コツは、足で踏ん張って、体全体を使うこと。腕だけじゃダメだ。そこは剣と同じ。
「……よし」
ようやく畑全体を耕し終えた。腰を伸ばす。背中が少し張っている。
「いてててっ」
腰は痛いが、頭はすっきりしていた。
畑を耕し終えると、今度は雑草を抜く。しゃがみ込み、土の間から顔を出している草を見つける。葉をつかんで、そのまま引っ張る。
「……んっ」
簡単には抜けない。根がしっかり土へ食い込んでいる。無理に引っ張れば途中で切れてしまう。指先で周りの土を少し掘る。根が見えたところで、もう1度つかんで引っ張る。
スポッ。
今度はきれいに抜けた。土のついた根を眺めてから、端へ放る。地味な作業だ。土を耕して、雑草を抜いて、野菜を育てる。
なんというか、こういう生き方も悪くない。
土をならす。手のひらで表面を軽く押さえ、種をまく場所を決める。指で浅い溝を作り、その中へ種を1粒ずつ落としていく。
大根。
白菜。
ネギ。
料理に使うことが多い野菜を選んでいる。種をまいたら、上から薄く土をかぶせる。厚くかぶせすぎれば芽が出にくい。薄すぎれば種が乾いてしまう。その加減を確かめながら、指先で土をならしていく。
最後に水をやる。じょうろから流れた水が土へ染み込んでいく。そうやって畑全体を濡らしていく。水を吸った土から、少しだけ土の匂いが立ち上った。俺はじょうろを置き、畑を眺める。
「ちゃんと育ってくれよ」
野菜は、世話をした分だけ返ってくる。そこが楽しい。
朝は畑。昼は店。夜は片付けと仕込み。俺の日常は、そんな作業を淡々と繰り返す。
それから何日か経った。最初は何もなかった土の上に、小さな芽が顔を出した。日を追うごとに、小さかった芽が少しずつ伸びていく。葉が増える。茎が太くなる。昨日より、ほんの少しだけ大きくなっている。その変化を見るのが、俺は好きだった。新人の探索者が成長するのを見守るのに似ている。若い奴は成長が早いからな。
「……お」
思わず声が出る。大根の葉が、昨日より明らかに大きくなっていた。俺はしゃがみ込み、葉を傷つけないように指先でそっと触れる。
「順調だな」
誰に言うわけでもなく呟く。
ある日には、味噌も仕込んだ。
大豆を水で洗う。ざるへ入れて、傷んでいる豆がないか1粒ずつ確認する。水を張った鍋へ大豆を入れ、火にかける。しばらくすると、鍋から白い湯気が立ち上ってきた。大豆の甘い匂いが厨房へ広がる。
火を弱め、柔らかくなるまでじっくり煮る。
時間をかけて煮た大豆を指でつまむ。
「うん」
簡単に潰れる。これならいい。鍋から大豆を取り出し、熱いうちに潰していく。木べらで押しつぶすたび、柔らかくなった大豆が形を失っていく。
ある程度まで潰したら、麹と塩を加える。手を洗ってから、両手でしっかり混ぜ合わせる。大豆の温かさ。麹の少し乾いた感触。塩のざらつき。それらを確かめながら、全体が均一になるまで何度も混ぜる。
「まだだな」
混ざり方を見て、もう1度手を入れる。塊になっているところを崩し、全体を練るように混ぜ合わせる。
やがて、全体がまとまってきた。
今度は空気を抜く。手のひらで丸めて、容器へ押し込む。ぎゅっ。隙間が残らないように、上からしっかり押さえる。すべて詰め終えたら、表面をきれいにならす。
最後に蓋を閉める。
「よし」
あとは時間に任せるだけだ。味噌はすぐには完成しない。何か月も待つ必要がある。今日作ったものが、明日には味噌になっているわけじゃない。時間をかけて、少しずつ味が変わっていく。焦っても仕方がない。
料理も、畑も同じだ。手をかけるところでは手をかける。あとは、待つ。
俺は仕込んだ味噌の容器を棚へ置いた。容器の横に日付を書いた紙を貼っておく。これで大丈夫だ。
また別の日。
「……寒いな」
襟を少し上げる。俺は店を休んで、近くの川へ向かった。釣り竿を1本持って、川沿いを歩く。朝の川は静かだった。山から流れてきた水が、石と石の間を勢いよく抜けていく。さらさらという音が途切れることなく続いている。
水面には朝の光が反射して、揺れるたびに細かく形を変えていた。木々の葉が風に揺れる。遠くで鳥が鳴く。川岸の草には朝露が残っていて、歩くたびに靴へ冷たい水がかかった。
俺は魚がいそうな場所を探しながら、川岸をゆっくり歩く。
「さてさて、今日はどこにするか」
水の流れが少し緩くなっている場所。大きな石の陰。水深が少し深くなっているところ。そういう場所には魚がいる。
俺は足場を確認してから、川岸へ腰を下ろした。餌をつける。糸を確認する。竿を構える。そして、ゆっくりと針を水へ落とした。
ぽちゃん。
小さな音を立てて、仕掛けが水面へ沈んでいく。
「……」
水面が流れに合わせてゆっくり揺れている。竿を握ったまま待つ。若い俺ならこの時間に耐えられなかっただろう。1分でも多く動いたほうがいい。そんなことばかり考えていた。剣を振れば、振るだけ強くなれる。今は違う。何も起こらない。だからこそ、いい。
川を眺めながら、ぼんやりと時間が過ぎていく。鳥の鳴き声を聞き、水の流れる音を聞く。ときどき風が吹いて頬を撫でていく。そんな時間が心地いいのだ。
なにせ焦って竿を動かせば、魚が逃げてしまう。
動かない。ただ水面を見る。魚が近くを通れば、ほんの少しだけ糸が動く。その小さな変化を見逃さないように、じっと待つ。
しばらくして、手元の竿が小さく揺れた。
「……お?」
竿の先が、ぴくっと動く。俺は姿勢を正した。もう1度、揺れる。今度ははっきり分かった。魚がかかっている。
「来たか」
俺は竿を握り直した。すぐには引かない。魚が逃げようとする力を感じながら、少しずつ糸を引いていく。竿が大きくしなる。水面の下で魚が暴れた。
ばしゃっ。
水が跳ね、朝の光が細かく砕ける。
「まだだ」
慌てず、竿を少し倒す。魚が走れば糸を出す。動きが弱くなったら、また引く。何度か繰り返して、ようやく魚の動きが鈍くなった。
「よし」
最後に一気に引き上げる。魚が水面から飛び出した。銀色の体が光を反射し、尾びれを激しく動かしている。
「おお、結構大きいな」
魚をつかみ、針を外す。手の中で魚がびくびくと動く。その感触を確かめてから、持ってきた籠へ入れた。
「今日は焼き魚だな」
俺は満足して立ち上がった。竿を片付け、籠を持つ。それから俺は、来た道をゆっくりと戻っていった。
その日の夕方。
畑で採れた野菜を洗う。土を水で落とし、傷んでいる葉がないか確認する。釣ってきた魚をまな板の上へ乗せる。包丁を入れ、腹を開く。内臓を取り除き、水で洗う。
水気を拭き取ってから、軽く塩を振る。
味噌汁には、畑で採れたネギを入れる。鍋から湯気が立ち上り、だしと味噌の匂いが厨房へ広がっていく。焼き網へ魚を乗せる。火を入れると、すぐに魚の脂が落ちた。
じゅうっ。香ばしい匂いが立ち上る。皮が少しずつ焼けていく。俺は魚を見ながら、火加減を調整する。焦がさないように。でも、皮はしっかり焼く。
頃合いを見て、魚を裏返す。ぱちぱちと音が鳴る。炊きたての米を茶碗によそう。味噌汁を椀へ注ぐ。焼き上がった魚を皿へ乗せる。最後に漬物を添える。
自分で育てた野菜。自分で仕込んだ味噌。自分で釣った魚。
どれも特別なものではない。それでも、こうして並べてみると最高に気分があがる。
「……うん」
俺は1人で頷いた。
46歳。B級探索者としての人生は終わった。けれど、俺の人生そのものが終わったわけじゃない。剣を置いたあとにも、やることはある。
畑を耕す。料理を作る。魚を釣る。そんな毎日も、案外悪くない。
俺は食事を終えると、店の外へ出た。日が沈み、辺りは少しずつ暗くなっている。昼間は暖かかった空気も、夕方になると冷たくなっていた。
店の戸を閉めようとした、そのときのことだった。
「……師匠?」
女の声が聞こえた。
俺は手を止めた。ゆっくりと顔をあげる。そこには、1人の女が立っていた。
「師匠ぉおおおおっ……!」




