第2話 師匠の料理
「決まっているじゃないですか。師匠に、恩返しをするためです」
「恩返し……?」
俺は思わず聞き返した。
恩返しと言われても、いまいちピンとこない。確かに昔、こいつの面倒を少し見ていた。剣の握り方を教えたし、ダンジョンでの歩き方も教えた。魔物と戦うときの注意点だって教えた。
けれど、それだけだ。
俺はA級になれなかった。S級なんて夢のまた夢だった。そんな俺が、世界最深のダンジョンを攻略した男から恩返しをされる理由なんて、あるのだろうか。
「俺、お前にそんな大したことしたか?」
ロイドは少し驚いたように目を見開いた。それから、うつむいた。
●ロイド視点
あの日のことを、俺は今でも夢にまで見る。師匠に弟子入りしてから、まだ数週間しか経っていなかった頃。剣の握り方も、魔物との距離の取り方も、何もかもが未熟だった。それでも俺には、S級探索者になるという夢があった。
あの日も、俺と師匠は2人でダンジョンに潜っていた。まだ浅い階層だったから、大丈夫だと思っていた。実際、そこまでは何も問題がなかった。問題が起きたのは、帰ろうとしたときだった。
通路の奥から、魔物が飛び出してきた。俺が今まで見たこともない魔物だった。大きな牙を持った狼型の魔物、ブラッドウルフだ。師匠はすぐに剣を抜いた。でも、俺は動けなかった。
怖かった。
足がその場にくっついてしまったように動かない。手も震えている。体が言うことを聞かなかった。
ブラッドウルフが、こちらへ向かってくる。
師匠が叫んだ。
「ロイド! 下がれ!」
でも、俺は動けなかった。
次の瞬間、ブラッドウルフが俺に向かって跳びかかってきた。
師匠が、俺の目の前に瞬時に入った。
ブラッドウルフの爪が振り下ろされた。
師匠の左肩から脇腹にかけて、大きな傷が走った。服が裂け、血が噴き出す。師匠の体が、俺の目の前で崩れ落ちた。
地面に血が広がっていく。
その光景を見た瞬間、ようやく俺の体が動いた。
「師匠!」
俺は叫んだ。師匠は立ち上がれなかった。片手で傷口を押さえながら、それでも俺に向かって言った。
「……ロイド。俺を見てる場合じゃない。剣を持て」
「でも……!」
「お前ならできる。自分を信じろ。S級になるんだろ」
俺は泣きながら剣を握った。
何度も教えられた構えを取る。剣を握る手は汗で滑り、足は、やっぱり震えていた。ブラッドウルフが低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。さっきまでなら、その姿を見ただけで体が動かなくなっていた。でも、今は違う。背後には、俺を庇って倒れている師匠がいる。これ以上、師匠に守ってもらうわけにはいかなかった。
「俺ならできる……」
自分に言い聞かせるように呟く。
一歩、下がる。真正面に立たない。相手の動きを見る。焦って剣を振らない。何度も何度も繰り返し教えられたことを、頭の中で必死に思い出す。
ブラッドウルフが踏み込んでくる。師匠に教えられた通りに、ギリギリまで引きつけてから体を横へずらし、すれ違いざまに剣を振る。刃が魔物の体を切り裂いた。
「グルァッ!」
ブラッドウルフが怒りの声を上げる。確かな手応えがあった。荒い息を吐きながら、ブラッドウルフは去っていった。
「はぁ……、はぁ……」
勝った。
でも、師匠はその場に倒れたままだった。
師匠は震える手でポーションを取り出し、傷口にかけた。傷は完全には塞がらなかった。それでも、流れ続けていた血は少しずつ止まっていった。
俺は何度も謝った。
「ごめんなさい、師匠……。俺のせいで」
師匠は苦しそうに息をしながら、それでも俺を責めなかった。
「気にするな」
「でも……!」
「弟子を守るのは、師匠の仕事だ」
その言葉が、今でも胸に刺さっている。
結果的に師匠は助かった。けれど傷は残った。左肩から脇腹にかけて残った、大きな傷跡。俺が動けなかったせいでできた傷だ。俺が怖がって立ち止まったせいで、師匠の体に一生消えない傷を残した。
そして、その傷は後遺症にもなった。
実際、師匠の剣を振るう動きは、以前より少しだけ遅くなっていた。
でも師匠は、その後も俺に何も言わなかった。むしろ「ロイドの成長の手助けになったと思えば、こんな傷、安いもんだ」と笑っていた。
俺には、その言葉が一番つらかった。怒ってほしかった。殴ってほしかった。「お前のせいだ」と言ってほしかった。そうすれば、まだ楽だったのかもしれない。でも師匠は、一度も俺を責めなかった。
だから俺は決めた。
強くなる。
二度と、誰かに守ってもらうだけの人間にはならない。二度と、師匠を危険な目に遭わせない。そして、いつか必ず恩を返す。
そのために剣を振った。朝から晩まで鍛え続けた。師匠のもとを離れてからも、師匠から教わった基礎訓練を辞めなかった。
いつしか俺はA級になった。
そして、世界最深のダンジョンも攻略した。周りからは、最強の探索者だと言われるようになった。俺は、ようやく恩返しができると思った。
そして今日、俺は師匠の店にやって来た。
久しぶりに会った師匠は、昔より少しだけ老けていた。白髪も増えていた。それでも、俺にとっては昔と何も変わらない。俺の師匠だった。
「俺、お前にそんな大したことしたか?」
師匠は不思議そうな顔をした。
きっと俺に気を使っているのだ。あの傷のことは、もう気にしていないと。師匠は昔から、そういう人だった。
でも、師匠はきっと俺を恨んでいる。だって、本当ならA級になれた人だ。S級になれた可能性ももちろんある。それだけの実力があった。
俺が、師匠の未来を奪った。
あの日、俺が動けなかったせいで、師匠は大きな傷を負った。その傷は今も残っているはず。師匠が探索者を引退した責任の一端は俺にもある。
謝って済む話ではない。
だから、せめて……。
「師匠。俺がS級になったら、俺の人生を師匠に捧げさせてください」
「は?」
「師匠が好きな料理以外のことは、俺が全部やります。危険なことも、面倒なことも、金がかかることも、全部俺が引き受けますから」
それくらいしか、俺にはできない。
師匠は、自分を大した人間じゃないと思っているのかもしれない。B級止まりだったと笑うのかもしれない。
でも、本当はそうじゃない。
なにより俺が今こうして生きているのは、師匠があの日、俺の前に立ってくれたからだ。だったら今度は、俺が師匠の前に立つ番だ。師匠に困っていることがあれば、全部俺が解決する。
「俺に遠慮しないでください」
「いやいや、S級になったら世のため人のために働け。こんなど田舎でやってもらうことなんて、正直ねえよ」
「でしたら、師匠が必要なものは、俺が全部用意します。食材でも、道具でも、店の設備でも。何か困ったことがあったら、必ず俺に言ってください」
「いや、そこまでしてもらう理由は――」
「あります!」
俺は、師匠の目をまっすぐ見た。
「俺には、あります」
「……」
師匠は黙った。
確かに師匠は、器の大きい人だ。あの日の傷のことも「もう昔のことだ」と本気で思っているのかもしれない。
でも、俺にとっては違う。あの日からずっと、俺は師匠に借りがある。だから、返したい。返しても、返しても足りないくらいの恩を、これから少しずつ返していきたい。
それが俺にできる、せめてもの恩返しなのだから。
●グレイ視点
なぜロイドは、こんなにも必死なんだ。あまりに必死すぎて、こいつの好意をむげにするのは気が引ける。
でもなぁ、そんな大したことをしてやった記憶もないんだが。
確かに、基本的なことは教えた。基本は大事だ。基本ができていないやつは、すぐに死ぬ。だから弟子にしてやった。
とはいえ、ロイドが強くなったのはロイド自身の努力のたまものだ。ロイドは、真っすぐ俺を見ている。
店の中が静かになる。窓の外から、風で木の葉が揺れる音が聞こえてきた。俺は頭をかきながら、厨房へ目を向ける。
こういうのは苦手だ。どう返せばいいのか分からない。
「……とりあえず、飯食うか?」
「はい、是非」
ロイドの返事だけは、昔と変わらなかった。
俺は少しだけ笑って、厨房へ入った。まずは冷蔵庫から魚を1匹取り出した。まな板の上に乗せ、包丁を入れる。刃を滑らせるようにして身を開き、骨の位置を指先で確かめながら、1本ずつ丁寧に取り除いていく。身を崩さないように気をつけながら、最後に軽く塩を振った。塩が魚の表面に小さく光る。
「よし」
下ごしらえを終えた魚を網に乗せて火にかける。
すぐに、ぱちぱちと音がした。魚の脂が熱した網に落ちるたび、小さな炎が上がる。焼けた皮の香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がり、さっきまで静かだった店の中にも、食欲をそそる匂いが流れていく。
魚の表面が少しずつ色づいていくのを確認しながら、俺は火加減を調整する。強すぎれば焦げる。弱すぎれば皮がぱりっと仕上がらない。頃合いを見ながら、魚をそっと裏返した。
次に味噌汁を温める。鍋の中で味噌汁がゆっくりと温まり、だしと味噌の匂いが立ち上ってくる。火を弱めて、煮立たせないように気をつける。
それから炊飯器を開け、朝から炊いていた米を茶碗によそう。ふわっと白い湯気が立ち上がる。
焼き上がった魚を皿に乗せる。皮はぱりっと焼けていて、中の身はふっくらしている。そこへ味噌汁と白いご飯を添え、最後に漬物を置いた。
派手な料理じゃない。日本ではどこの家庭にでもあるような、普通の料理だ。それでも、この店のメインだ。
「ほら」
俺は出来上がった料理を、ロイドの前へ並べた。
ロイドは、目の前の料理をじっと見つめていた。
「……懐かしいです。師匠の料理」
「大したもんじゃないぞ」
「いただきます」
ロイドは箸を持った。そして、焼き魚を一口食べる。
「……」
動きが止まった。
「どうだ?」
しばらく黙っていたロイドの目から、涙がこぼれた。
おいおいおい。
「……美味しいです」
「そ、そうか」
「めちゃくちゃ美味しいです」
昔と同じだ。ロイドは、感情がすぐ顔に出る。
「それならよかった。ゆっくり食え」
「はい」
ロイドは再び箸を動かし始めた。そういえば、箸の使い方を教えたのも俺だったっけ。食が進むたびに、少しずつ表情が柔らかくなっていく。
俺はその様子を眺めながら、ふと思った。
世界最強候補の探索者も、飯を食っているときは普通の人間なんだな、と。




