第1話 B級探索者、第二の人生を始める
46歳。それが、俺が探索者として生きた最後の年だった。俺ことグレイ・ラッセルの等級はB級。何年やっても、そこから上には行けなかった。若い頃は、もっと上へ行けると思っていた。あと少し強くなればA級に届く。A級になれば、その先にS級だって見えてくる。そんなふうに考えていた時期もあった。けれど、現実は思っていたよりずっと厳しかった。
もちろん、B級が弱いわけじゃない。ダンジョンの深い階層まで潜れるし、そこそこの魔物なら1人で倒せる。普通の人間からすれば、十分すぎるほど強い。それでも探索者の世界では、B級という肩書きは中途半端だった。強い。でも、最強ではない。優秀ではある。でも、誰もが知る英雄にはなれない。
上を見ればA級がいる。さらにその上には、ほんの一握りしか存在しないS級がいる。A級ともなれば国から依頼が来ることもあるし、S級ともなれば名前を知らない人間のほうが少ない。ダンジョン攻略の映像がテレビ(魔法技術で動く映像装置)で流れ、新聞にも顔が載る。
俺が若かった頃は、いつか自分もそこへ行けると思っていた。才能がないなんて考えたこともなかった。努力すれば届く。死ぬ気で鍛えれば追いつける。そう信じて、何度もダンジョンに潜った。朝から晩まで体を鍛え、休日も剣を振った。手のひらの皮がむけても、足を痛めても続けた。
それでも、届かなかった。
気づけば46歳。体は若い頃のようには動かない。昔なら朝まで動けたのに、今では少し無理をしただけで腰が痛む。古い傷は、雨が降る前になると決まって疼いた。若い頃は、それすら勲章みたいに思っていた。今では、ただの足かせだ。
……要するに、引退である。
ところで俺の人生には、少し変わったところがある。俺は、この世界の生まれじゃない。前世の俺は日本人だった。ごく普通の家庭に生まれ、高校に通っていた。そしてある日、死んだ。死んだ理由は、もう細かく覚えていない。最後の瞬間の記憶は、ぼんやりしている。
気づいたときには、この世界で赤ん坊になっていた。
知らない家。知らない両親。見たことのない町。そして、魔法とダンジョンが当たり前に存在する世界。魔物がいて、魔法があって、探索者という仕事まである。前世の日本しか知らなかった俺にとっては、何もかもがありえないものだった。
自分が死んで、生まれ変わったのだと理解するまでには時間がかかった。それでも、前世の記憶だけは残っていた。
幸いだったと思う。前世の実家は、和食料理屋だった。小さな店で、父親が料理を作り、母親が店を手伝っていた。俺も物心がついた頃から店を手伝っていた。
米を研ぐ。魚を焼く。野菜を切る。だしを取る。皿を洗う。
子供の頃は面倒だと思っていたことも多い。冬の朝は水が冷たくて、洗い物をするだけで指先が痛くなった。それでも毎日店に立っているうちに、料理の匂いや音が当たり前になっていった。
味噌汁の匂い。炊きたての米の湯気。焼いた魚の香ばしさ。包丁がまな板を叩く音。
それらは、この世界で生きてきた俺にとって、心のよりどころだった。
だから探索者を引退したとき、自然と思いついた。
料理をやろう。今度は自分の店を持とう。
剣を握る手が衰えても、包丁なら握れる。命を懸けてダンジョンに潜らなくても、誰かに飯を食べてもらうことはできる。それに、自分の店を持ってみたかった。
そうして俺は、都会から離れた田舎町にやって来た。山と田んぼと畑しかないような小さな町だ。都会ほど便利じゃない。大きな店もない。けれど、俺にはそれくらいがちょうどよかった。
そこで古い家を買い取り、店に改装した。壁を直し、床を張り替え、厨房を作った。金に余裕がなかったから、自分でできるところは自分でやった。
店の名前は「しらゆき」。
実家の店名だ。白井が俺の苗字だった。「ゆき」は母親の名前で、漢字は由紀。それで「しらゆき」だと聞いていた。
子供の頃は、なんとなく綺麗な名前だと思っていただけだった。でも、自分の店を持つと決めたとき、真っ先に頭に浮かんだ。俺にとって料理と家族を思い出す、大切な名前だった。
店は小さい。カウンターが8席。座敷が1つ。客が10人も入ればいっぱいになる。立派な看板もないし、派手な内装もない。それでも俺は、この店が気に入っていた。
朝は早い。まだ外が暗いうちに起きて、かまどに火を入れる。水を張った鍋に昆布を入れ、鰹節を削る。包丁を研ぎ、魚をさばき、季節の野菜を切る。
窓の外が少しずつ明るくなる中、厨房に包丁の音が響く。鍋から立ち上る湯気が顔に当たり、冷えた体が少しずつ温まっていく。
やることは毎日ほとんど同じだ。でも、不思議と飽きなかった。
ダンジョンにいた頃は、朝起きた瞬間から緊張していた。今日の戦う相手は何か。どこまで潜るか。自分は今日も生きて帰れるか。そんなことばかり考えていた。
今は違う。
朝になれば料理を作り、昼になれば客を迎え、夜になれば店を閉める。料理を食べた客が「うまかった」と言ってくれれば、それで十分だった。
誰かと競争する必要もない。上の階級を目指す必要もない。
俺には、このくらいがちょうどいい。
そう思えるようになったことだけでも、探索者を辞めた意味はあったのかもしれない。
昼を少し過ぎた頃、店の戸が開いた。
「いらっしゃい」
俺はいつものように声をかけた。入ってきたのは、若い男だった。黒いコートを着ている。背が高く、妙に姿勢がいい。この辺りの客じゃない。旅行者だろうか。
「1人です」
「はい。こちらへどうぞ」
男はカウンターの端に座った。俺は水を出す。男は黙ってコップを見つめていた。どこか緊張しているようにも見える。
俺は注文を取るため、男の前へ立った。
「何にします?」
「……師匠」
男が小さく呟いた。
「はい?」
聞き間違いかと思った。男は顔を上げる。その目を見た瞬間、俺は固まった。
見覚えがある。いや、違う。見覚えがあるなんてものじゃない。
俺がまだ30代だった頃。探索者として、まだ上を目指していた頃。ダンジョンの入口で震えていた少年。
何をやらせても不器用で、魔物を見るだけで足がすくんで、それでも毎日俺のところへ来ていた。剣を持つ手は震え、何度教えても動きはぎこちなかった。
それでも、少年は諦めなかった。俺が初めて面倒を見た弟子だった。
「……お前」
男は立ち上がった。そして、深く頭を下げた。
「お久しぶりです。師匠」
確信した。あの頃の少年が、目の前にいる。ただし、俺の記憶にある少年とは何もかもが違っていた。もちろん背丈も違う。体つきも違う。何より、あの頃にはなかった自信がある。ダンジョンの入口で震えていた少年と同じ人間とは思えないほどだった。
「ロイド・アシュフォードです」
そうだ、どこかで見たことがあると思ったら。超有名人じゃねえか。
この男は、俺でも知っているほど有名な探索者だった。世界で最も深いダンジョンを攻略した男。史上最年少でA級になり、今ではS級候補とまで呼ばれている。
ロイド・アシュフォードは、あのロイドだったのか!
テレビをつければ特集が組まれていることもあった。新聞にも載っていた。街を歩けば、巨大な広告に顔が出ていることだってある。
そんな男が、俺の小さな店の中にいる。俺とは、もう住んでいる世界が違う。
「ロイド……、なんでお前がここに?」
男は少しだけ笑った。
「決まっているじゃないですか。師匠に、恩返しをするためです」




