第14話 元B級探索者、長官就任を考える
俺は一人で店を片付けていた。国王と勇者が座っていた席を拭く。空になった味噌汁の椀を洗い、箸を片付ける。いつもの仕事だ。手はいつも通り動いている。それでも、頭の中はずっと落ち着かなかった。
「……国王」
今まで、料理屋の客として国王を迎える日が来るなんて考えたこともなかった。しかも、相手が国王だと知らないまま料理を出して、世間話までしてしまった。
「普通に話しちゃったな……」
今更ながら、少しだけ緊張してきた。もっと畏まったほうがよかったのだろうか。言葉遣いも、態度も、料理の出し方も。思い返してみれば、かなり普通の客と同じように接していた気がする。
でも、正体を隠されてたのだから仕方がない。
俺はそう自分に言い聞かせ、洗い終わった皿をふいて棚へ戻した。最後に、国王から受け取った書類を持って椅子に座り、封を開ける。
中には、仕事内容、勤務条件、給与、住居、休日についてなど、細かな項目がびっしりと書かれていた。ざっと目を通しただけでも、王国側が本気でこの話を進めようとしていることが分かる。
「……本当に俺を長官にするつもりなんだな」
仕事内容だけなら、理解できる。探索者を育てる。講義をする。実地訓練を見る。指導者をまとめる。訓練内容を決める。昔、自分が若い探索者たちと一緒にやっていたことを、もっと大きな規模で行うようなものだ。
ただ、問題はそこではない。
「王都に行く必要があるよな」
書類には、勤務場所として王都が記されている。
王都へ通うか?
店はどうする。料理屋を閉めるのか。それとも誰かに任せるのか。畑はどうする。毎日手入れしなければならない。茶畑だってある。簡単には捨てられない。
「無理じゃないか?」
思わず呟いた。
俺は今の生活が気に入っている。
朝起きて、畑を見る。土の状態を確かめ、野菜の成長を見る。店を開け、料理を作る。客が来れば料理を出し、夕方になれば縁側で茶を飲む。
何も派手なことはない。それでいいと思っていた。
「それを捨ててまで、やることなのか」
俺は書類を閉じた。
答えは出ない。
長官になれば、若い探索者を育てることができる。自分がこれまで積み重ねてきた経験を、誰かの役に立てられる。それは確かに魅力的だった。
だが、今の生活を失うことも怖い。俺は46歳だ。ようやく見つけた穏やかな暮らしを、自分から手放す必要があるのか。
「……困ったな」
椅子へ深く座り込む。すると、ふと昔のことが頭に浮かんだ。
ロイド。アルバ。リリアン。
他にも、たくさんの若者たちがいた。最初に会った頃は、みんな未熟だった。魔物を前にして震えていた者もいた。自分の力を過信して、無茶をして怪我をした者もいた。
俺は、そのたびに言った。
「無理だと思ったら逃げろ」
特別な教えではない。探索者なら誰でも知っていることだと思っていた。だが、国王は、それを教えられる人間が少ないと言った。
「う~ん」
俺には分からない。自分では、当たり前のことをしていただけだ。
A級にならなかったのも、別に間違いではなかった。俺よりもっと強い人間はいくらでもいた。自分は大した探索者ではなかったと思っている。
それでも、ロイドは今も俺を師匠と呼ぶ。アルバもそうだ。リリアンも。
「……みんな、勝手に大きくなっただけなんだけどな」
俺は小さく笑った。
あいつらが頑張った。それだけだ。俺は少し背中を押しただけ。自分では、その程度のことだと思っている。
だが、もし同じような若者が今もいるなら。もし、自分の経験が役に立つのなら。
「……一度くらい、見てみてもいいのかもしれないな」
王都の育成機関。
そこがどんな場所なのか。どんな若者がいるのか。どんな指導をしているのか。実際に見てみなければ分からない。長官を引き受けるかどうかは、それから決めてもいい。
俺はそう考え、書類を棚の上へ置いた。
「今日はもう考えるのをやめよう」
そう呟いて、立ち上がる。
今夜ここで答えを出す必要はない。国王も、返事を急がせるつもりはないと言っていた。俺は店の明かりを落とし、戸締まりを確認してから自室へ戻った。
翌朝。
いつもと同じ時間に目を覚ました。外へ出ると、朝の冷たい空気が肌に触れる。眠気の残った頭が、少しずつ目を覚ましていく。
畑へ向かう。大根の葉を見る。白菜を見る。土に触れる。乾いている場所へ水をやる。昨日までと何も変わらない。
作業を終えると、縁側へ座って茶を淹れた。湯気がゆっくりと上へ昇っていく。鳥の声が聞こえる。木々の葉が風に揺れる。
湯呑みを口元へ運ぶ。いつもの味だった。
「……やっぱり、ここはいいな」
湯呑みを手にしたまま、庭を眺める。静かな朝だった。俺は庭を眺めながら、昨日の話を思い出した。
長官。王都。若い探索者。今の生活。どちらを選ぶべきなのか、まだ分からない。ただ、昨日より少しだけ気持ちは落ち着いていた。
朝の店内に、包丁の音が響き始める。
トントン、トントン。
いつもの音だ。俺の生活は、今日も変わらない。変わらないはずだった。ただ、頭の片隅には昨日の書類が残っている。
王国の探索者育成機関。
そこには、かつての自分と同じような若者がいるのだろう。失敗して、焦って、無茶をして。それでも強くなろうとしている若者たちがいるはず。
俺は鍋へ火を入れた。
「……一度、行ってみよう」
まだ、長官を引き受けると決めたわけではない。今の生活を捨てると決めたわけでもない。ただ、知ってみたいと思った。自分が何を教えられるのか。今の自分に何ができるのか。そして、昔と同じように誰かを生きて帰らせることができるのか。
それくらいなら、考えてみてもいい気がした。
ガラガラ。
今日の第一号のお客さんだ。
「いらっしゃいませ」
今は目の前の客を喜ばせる。それが俺の仕事だ。




