第12話 国王と勇者が『しらゆき』に来る
昼を少し過ぎた頃、しらゆきの前に一台の馬車が止まった。普段、この時間に馬車でやってくる客はほとんどいない。王都から離れたこの辺りまで、わざわざ食事をするためだけに来る人間も少ない。俺は厨房から窓の外を眺め、少しだけ首を傾げた。馬車そのものは、それほど目立つものではない。ただ、こんな田舎まで馬車で来る客というだけで、少し珍しかった。
馬車から降りてきたのは二人の男だった。一人は五十代くらい。落ち着いた雰囲気で、身なりもきちんとしている。派手な服装ではないが、生地の質や仕立ての良さは、普段から安い服を着ている俺にもなんとなく分かった。もう一人は、20代後半かそれより若い。こちらは見るからに体を鍛えている。肩幅が広く、立っているだけでも身体の芯がしっかりしているのが分かる。腰には剣があり、旅人というより探索者に近い印象だった。二人とも周囲を軽く見回してから、店のほうへ歩いてくる。
店の戸が開いた。からん、と小さな音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、二人は店内を見回した。
「二人ですが、大丈夫ですか?」
年上の男が尋ねる。
「もちろんです。お好きなところへどうぞ」
二人はカウンターへ並んで座った。二人以外には誰もいない。これならゆっくり食べてもらえそうだった。
「こちらの町は初めてですか?」
「ええ。近くを通ったので、少し休ませてもらおうかと」
「ありがとうございます」
俺は緑茶を二つ用意して、それぞれの前へ置いた。湯気が細く立ち上り、茶葉の香りがふわりと広がる。
「ご注文が決まったら声をかけてください」
「ありがとうございます」
二人はメニューを眺め始めた。メニューといっても、それほど品数は多くない。焼き魚、煮物、炒め物、汁物。あとはいくつかの一品料理と酒。都会の店ならもっと種類を増やすのだろうが、俺一人で切り盛りするには、これくらいがちょうどいい。品数を増やせば仕込みも増えるし、食材の管理も難しくなる。何より、一つ一つの料理に手をかけられなくなる。
「おすすめはありますか?」
若い男が聞いてくる。
「今日は焼き魚があります。大根の煮物と、ほうれん草のおひたし。それと味噌汁。定食にもできますよ」
「じゃあ、定食を二つお願いします」
「分かりました」
二人の注文を聞いて、俺は厨房へ戻った。まずは焼き魚。火を起こし、網を温める。魚を乗せると、皮が熱に反応して小さく縮んだ。しばらくすると、じゅう、と脂の落ちる音がする。俺は火加減を見ながら、鍋の蓋を開ける。朝から煮込んでいた大根は、箸を入れれば崩れそうなくらい柔らかくなっている。煮汁もしっかり染み込んでいて、表面は薄く色づいていた。
味噌汁を温める。出汁の香りが立つ。ご飯をよそう。炊き上がった米から、ほのかに甘い香りが漂ってくる。魚を裏返すと、焼けた皮がぱりっと音を立てた。魚の脂が火に落ちるたび、じゅう、と音が鳴った。香ばしい匂いが店内へ広がっていく。
「……いい匂いですね」
若い男が呟いた。
「ありがとうございます。魚は今朝仕入れたものです」
「この辺りで獲れるんですか?」
「川魚もありますけど、これは少し離れた市場から仕入れてます」
「なるほど」
俺は魚の焼き具合を確認しながら答える。皮は十分に焼けている。身にも火が通っている。これなら満足してもらえるだろう。
料理を盛り付ける。白いご飯。焼き魚。大根の煮物。ほうれん草のおひたし。漬物。それに味噌汁。特別な料理ではない。俺が普段作っているものを、そのまま定食にしただけだ。だからこそ、変に飾る必要もないと思っている。
「お待たせしました」
二人の前へ料理を並べる。
「ありがとうございます」
「どうぞ、ゆっくり食べてください」
二人は料理を見下ろした。俺は二人の様子を少しだけ確認してから、厨房へ戻った。
「いただきます」
二人は手を合わせてから箸を取った。年上の男が最初に味噌汁を口へ運ぶ。ほんの少しだけ目を細めた。
「……美味しい」
短い言葉だったが、料理人としては、それだけで十分嬉しい。俺は小さく頭を下げた。
続いて焼き魚へ箸を伸ばす。皮を箸で割り、身をほぐす。若い男も黙々と食べている。二人とも、最初のうちはほとんど話さなかった。俺も無理に話しかけない。食事中の客へ必要以上に声をかけるのは好きではない。
やがて、年上の男が顔を上げた。
「この店は、いつからやっているんですか?」
「一年くらいですね」
「一年ですか。もっと長くやっているのかと思いました」
「そうですか?」
「ええ。なんだか落ち着きます」
「建物が古いからじゃないですかね」
俺は笑った。
「元々は倉庫みたいな建物だったらしいですよ。少し手を入れて店にしました」
「そうですか」
男は店内を見回した。柱も床も新しいものではない。ところどころ傷もある。俺自身、最初から全部を綺麗にするつもりはなかった。使えるものは使えばいい。壊れたところだけ直していけばいい。そう考えていた。
「静かな場所ですね」
「そこが気に入ってます」
「王都とは大違いです」
「王都は人が多いですからね」
俺も昔は王都に住んでいた。探索者として活動していた頃は、依頼を受けるためにギルドへ向かい、装備を整え、道具を買い、必要なら仲間と酒場で情報を集めた。活気のある街だった。便利でもあった。必要なものは大抵揃っていたし、探索者として名を上げたいなら、王都を拠点にするのが一番だった。若い頃は、ああいう場所が好きだった。人が多いことも、仕事が次々に舞い込んでくることも、毎日何かが起きることも嫌いではなかった。
今は、ここくらい静かなほうが落ち着く。
「王都へ戻るつもりはないんですか?」
「たまに買い物へ行くくらいですね。住むつもりはありません」
「どうしてです?」
「ここが気に入っているからですよ」
俺は庭へ目を向けた。店の裏には小さな畑がある。大根、白菜、長ネギ、葉物野菜。季節によって植えるものも変えている。朝起きれば畑を見て、土の状態を確認する。葉が少し萎れていれば水をやるし、虫がついていれば取る。収穫できるものがあれば、その日の料理に使う。
「畑もありますし」
「畑まで?」
「ええ。自分で食べる分くらいは育てたいと思って」
「料理にも?」
「もちろん。今日の大根も自分で育てたものです」
二人が料理へと視線を落とす。さっきまで何気なく食べていた大根が、自分で育てたものだと知って、少し見方が変わったらしい。
「それは贅沢ですね」
「そうですか?」
「自分で育てたものを、自分で料理する。なかなかできませんよ」
「まあ、楽しみながらやってます」
毎日やっていると、それが当たり前になってくる。
「昔は探索者だったんですが、料理人の方が向いてるみたいで」
「有名だったんですか?」
若い男が尋ねた。
「いやいや。全然ですよ」
俺は苦笑した。
「B級なんて、そこまで珍しくもありません」
「でも、B級まで行くのは大変でしょう?」
「まあ、それなりには」
「A級には?」
「いえいえ」
俺は軽く手を振った。
「目指さなかったんですか?」
その質問に、俺は少し考えた。B級になった頃には、A級が現実的に見えていた。周囲から期待されることもあった。俺自身、もっと上へ行けるかもしれないと思った時期もある。A級になれば受けられる依頼も増える。報酬も上がる。名前も知られるようになる。探索者として生きていくなら、当然目指すものだと思っていた。
ただ、長く続けているうちに、少しずつ考え方が変わっていった。
「推薦を受けたことはあります」
二人が、お互いの顔を見合わせる。
「それなら、どうして断ったんです?」
俺は焼き魚の火加減を確認しながら答えた。
「俺が冒険してたときは、若い奴らと組むことが多かったんです。新人もいました」
「新人を連れて?」
「ええ」
思い出す。最初は誰だって危なっかしい。魔物を前にして動けなくなる。罠を見落とす。仲間が怪我をすると焦る。自分の力を試したくて、必要以上に前へ出る。少し腕に自信がついた頃が、一番危ない。自分ならできると思い始める頃だからだ。
「若い奴らって、自分の限界が分からないんですよ。自分ならできると思ってしまう。俺も昔はそうでしたから」
俺は苦笑した。
「だから、そういう奴らが死なないように面倒見る方が大事だなって」
「それで、A級への昇格よりも?」
俺はうなずく。別に格好いいことを言っているつもりはなかった。ただ、昔のことを思い出しているだけだ。探索に出れば、何が起こるか分からない。強い魔物が出ることもある。予想外の罠に引っかかることもある。誰かが怪我をすることもある。そんな場所で、一番大事なのは何か。俺にとっては、最後まで全員が生きて帰ることだった。
「後悔は?」
年上の男が尋ねた。
「ありません」
俺は即答した。
「俺が一つ二つ功績を取ったところで、大したことじゃない。でも、若い奴らが死んだら、取り返しがつかないでしょう?」
二人は黙っていた。俺は少しだけ視線を落とす。
「若いのには、先がありますから」
若い探索者が失敗するのは珍しくない。俺だって何度も失敗した。判断を間違えたこともある。怪我をしたこともある。死ぬかもしれないと思ったことだって、一度や二度じゃない。だからこそ、若い奴らには同じ思いをしてほしくなかった。
「でも今思うと、臆病だっただけかもしれません」
俺は笑った。年上の男は、少し考えてから首を横に振った。
「私は、それを臆病だとは思いません」
「そうですか?」
「ええ」
男はそれ以上何も言わなかった。食事を再開する。俺もそれ以上は何も言わず、厨房の片付けを始めた。
やがて二人の皿が空になる。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
俺は食器を下げる。
「とても美味しかったです」
「そう言ってもらえると嬉しいですよ」
「特に大根が美味しかった」
「朝から煮込んでおいたんですよ」
「なるほど。だからあれほど柔らかかったんですね」
俺は笑って食器を厨房へ運んだ。
二人は席を立った。代金を支払い、入口へ向かう。俺は受け取った代金を確認し、軽く頭を下げた。俺はもちろん、そのまま帰るのだと思っていた。
ところが、戸に手をかけたところで、年上の男が足を止めた。
「グレイさん」
「はい?」
俺は顔を上げた。なぜ俺の名前を? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎる。
「少しだけ、時間をいただけますか?」
俺は首を傾げた。
「構いませんけど」
男は店内へ戻ってきた。さっきまでの客としての柔らかな表情が、少しだけ変わっている。笑みは残っているものの、その目には先ほどまでとは違う真剣さがあった。隣にいた若い男も、こちらへ向き直った。
「まず、黙っていて申し訳ありませんでした」
「……はい?」
何のことか分からない。俺は思わず二人の顔を見比べた。年上の男は一度だけ息を吐き、俺をまっすぐ見た。
「実は私は、この国の国王です」
「…………」




