結界の内側
若い男は女性の刀を見たまま、寝癖のついた髪をかき上げた。
教会の玄関口から地面へ片足を下ろす。
「寝起きの相手に、ずいぶん元気だな」
女性は答えなかった。
教会を古い石造りの建物に見せていた幻術は、さっきの一太刀で消えている。
それでも、教会と隣のビルとの狭い隙間では、夜風に飛ばされた紙片が空中で折れ曲がり、こちらへ戻ってきた。
通りを走る車の音も、門を越えたところで少し遠くなる。
「まだ別の結界があるんですね」
紙片が地面に落ちる。
女性は門と教会の間を見渡し、口元を上げた。
「これならそこそこ暴れてもよさそうですね!」
「おい、何を――」
刀を握ったまま、女性は左手で印を結んだ。
女性の足元から赤い火筋が伸び、男の周囲で次々に火柱になった。
門へ向かう側にも、教会へ戻る側にも炎が立つ。
くたびれた玄関扉の表面が熱でめくれた。
男は一番広い隙間へ身を寄せる。
「っ、火まで使うのかよ」
女性は左手を口元へ寄せ、印を結び直した。
口から、穂先の形に絞られた水が撃ち出される。
一本目を男が避けたところへ、もう一本。
その後も水槍は間を置かずに飛んできた。
頬をかすめた一発が、背後の教会の壁を深く抉った。
男は腕を上げかけ、壁の傷を見てやめた。受け止められる威力ではない。
火柱の間で身をかがめ、次の水槍をかわす。
水槍の一本が火柱にぶつかり、白い蒸気が噴き上がる。
男はそこへ飛び込んだ。
炎が水に削られた隙間を抜け、中庭へ走り出す。
門は女性の向こうにある。
立ち止まれば水槍が胸を貫く。
男は蒸気が消える前に、女性の脇を抜けようと走った。
女性は連射を止め、蒸気の陰で左手を地面につけた。
小さな印を残すと、その脇へ移る。
男には手元が見えない。
左右に新たな火柱が立ち、門へ向かう道が一本だけ残った。
男はその道へ踏み込む。
足元が爆ぜた。
男は体ごと吹き飛ばされ、地面を転がった。
止まったときには靴底が裂け、左足首に石片が刺さっていた。
男が顔を上げる。
次の瞬間、男は爆発でえぐれた地面の脇に立っていた。
靴底の裂け目はなく、足首にも傷がない。
地面の穴だけが残っていた。
「むむ? なにかしましたね?」
女性は傷の消えた足首を見て、それでも攻撃を止めなかった。
地面を走る火筋が中庭のあちこちで火柱を立てる。
女性は再び口元で印を結び、水槍を広く撃ち散らした。
男が門へ向かおうとするたび、火か水のどちらかが道を塞ぐ。
外れた水槍は壁を削り、炎に当たったものは蒸気を増やした。
さっき男を助けた白い蒸気が、今度は女性の姿を隠す。
男は足音を探した。
見つけたときには、女性が蒸気の中を走り抜けて目の前にいた。
男が身をひねるより早く、刀が左肩を切った。
服が裂け、血が腕を伝う。
男はさっきと同じことを試みた。
だが、裂けた服は戻らず、肩の傷から血が流れ続けた。
「……これはやばいな」
門へ続く道を、女性が塞いでいる。
表から結界の外へ出る道はそこしかない。
強引に抜ければまた斬られ、離れて粘れば火と水に削られる。
長引かせた時点で、こちらの負けだった。
男は火の弱まった教会側へ向き直り、玄関口へ走った。
「むむっ! 逃がしませんっ!!」
女性も追う。
男は先に教会へ飛び込み、玄関扉を閉めた。
すぐ脇の板壁を押すと、地下へ続く階段が現れる。
狭い階段を駆け降りた男は、分厚い扉を閉めた。
地下の壁には、あらかじめ仕込んだ起爆装置がある。
男はレバーを引き、扉とは反対側へ延びる通路を走った。
女性が教会の玄関口に達したとき、床下で重い音が続けて鳴った。
「……っ!」
彼女は足を止め、中庭へ飛び退く。
最初の爆発が床を持ち上げた。
窓が内側から吹き飛び、次の爆発で屋根と外壁が崩れる。
残った壁も続く爆発に砕かれ、教会の地上部分はすべて瓦礫になった。
石片が結界に叩きつけられるものの、破片は行く手を阻まれ中庭に落ちていく。
女性は刀を手に、崩れた教会を見つめた。
男の姿はどこにもない。
瓦礫の下にいるのか、別の場所へ消えたのかも分からなかった。
教会から離れた裏通りで、地下へ通じる扉が開いた。
男は左肩を押さえ、夜の空気を吸う。
刀で切られた傷は、まだ熱を帯びていた。
◇
教会の跡では、崩れ残った床が瓦礫の下へ落ち込んでいた。
女性は玄関口があった場所まで近づき、暗い穴を覗き込む。
男が先に教会へ飛び込んでから、爆発までにわずかな間があった。
門を抜けた姿も見ていない。
「むむむ、これは逃げられましたかぁ」
瓦礫の下に埋まった可能性もある。
だが、自分ごと建物を吹き飛ばすためだけに、男がわざわざ奥へ走ったとは思えなかった。
女性は刀を下ろし、連絡用の携帯電話を取り出す。
呼び出しに相手が応じると、女性は背筋を伸ばした。
さっきまで伸びていた語尾を収め、報告を始める。
「教会は全壊です。相手の左肩に傷を負わせましたが、姿を見失いました。地下から逃げた可能性があります」
門側は自分が塞いでいたことも告げる。相手の返事を聞き、女性は通話を切った。
地下の道がどこへ通じているのか、今は分からない。
◇
同じ夜、アレクサンダーとカフェで会った男の携帯電話に、報告が届いた。
教会の全壊、相手の肩の負傷、そして地下経路から逃走した可能性。
文面に現場の人員の名前はない。
男が画面を隣の女に向けると、彼女は最後まで読んでから顔を上げた。
「拠点を自分で壊したのね」
「ああ。朝は『化物には化物』なんて言ったが、捕まえきれなかった」
女はすぐには答えず、もう一度、肩の負傷を伝える行を見た。
「教会を捨てて逃げたのなら、追い詰めたのは確かよ。でも、次は相手が場所を選べる」
男もそこを考えていた。
「俺はアレクサンダーのところへ行く。押さえの人員を向かわせたと言ったのは俺だ。逃したことも、俺から伝える」
「私は追跡隊を動かすわ。教会の周りで地下から出られる場所と、肩を負傷した男の目撃情報を当たらせる」
女はその場で連絡役へ指示を送り、男は上着を取った。
アレクサンダーは既に館の警備を強めている。
男は返事を待つ女を残し、ロダン家へ向かった。
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