イージス
シオがロンドンで初めての生配信を終えた、その日の夜。
《ロダン・ホール》の書斎で、アレクサンダー・ロダンは1人、机に向かっていた。
開いたままの書類には、米国から届いた返還要請の写しが重なっている。
昼間に何度読み返しても、長針の中にある物の名は変わらなかった。
《フロンティア・コンパス》の針。
弟に話したことまで「知らない」と言い切り、真壁遼を帰したのは自分だ。
あの場でそう答えなければならない理由も、今になって消えたわけではない。
塔にある針を動かせば、影響は時計だけでは済まない。
それでも、真壁が針の所在を探り当てた事実を、紙の上から追い払うことはできなかった。
窓の向こうには、門から屋敷へ続く並木道が暗く伸びている。
その先の湖は夜の空に溶け、岸辺の灯だけが水面に映っていた。
壁に掛かった古い海図へ目をやる。
その下に並ぶ帆船模型の影が、暖炉の火に揺れていた。
海図を見たまま、アレクサンダーは書斎の隅にもう1人いると気づいた。
扉の開く音はしなかった。
廊下に控える者の声も、警報もない。
顔は動かさず、視線だけをその隅へ滑らせる。
そこに立っていた人物を見て、椅子の背へ預けていた体を起こす。
侵入者なら、机の下にある呼び鈴に手を伸ばすところだ。
だが、その顔には見覚えがあった。
「お前は昨日の……」
「どうやってここまで……」
訪問者は答える代わりに、左手を上げた。
手の甲に浮かぶ刻印を見た途端、アレクサンダーは机に置いた指へ力を込めた。
イージスの一員だけが示せる印だった。
ロダン家はその組織の構成員ではない。
最大の支援者として協力してきた家の当主だからこそ、アレクサンダーには刻印の意味が分かる。
「まさか、お前が」
アレクサンダーは椅子から立ち、扉のほうを一度見た。
「この《ロダン・ホール》には、侵入者のための罠も結界もいくつも張ってある。門から書斎まで、1つも触れずに来たのか」
問いは半ば感嘆だった。
館の警備を知る者でも、正面から通るには手順がいる。
目の前の人物は、その手順を求めることさえしなかった。
見慣れた書斎に相手がただ立っているだけで、アレクサンダーには屋敷の守りを一つずつ見直す必要が生じていた。
訪問者は懐から薄い金属製のプレートを取り出し、机の上へ差し出した。
アレクサンダーはそれを受け取る。
冷たい金属が手のひらに収まった瞬間、声が頭の中に響いた。
耳を通っていないのに、言葉の一つ一つが聞き落とせないほどはっきりしている。
アレクサンダーは途中で何も言わなかった。
自分が拒んできた件について、いま何を求められているのかを最後まで聞く。
声の主を問い返すことはできない。
手の中の金属から指を離せば途切れるのかも分からず、彼は力を抜けなかった。
声が途切れた後もしばらくプレートを握っていたが、指の間で金属の感触が変わった。
縁から暗く変色し、腐った鉄のように脆くなる。
慌てて手を開くと、プレートは形を失い、机の上へ細かな塵となって落ちた。
「確かに指令は伝えましたよ」
訪問者はそれだけ告げ、扉へ向かった。
扉が閉まっても、廊下の見張りから声は上がらない。
アレクサンダーは追わなかった。
机には返還要請の写しと、金属だったものの塵が残っている。
彼はどちらにも手を伸ばさず、憮然とした表情のまま立っていた。
◇
翌朝、アレクサンダーは《ロダン・ホール》からほど近い繁華街のカフェを訪れた。
空いているテラス席に腰を下ろし、新聞を広げる。
紙面を読んでいると、店に入ってきた男女が店員に声をかけた。
「テラス席、けっこう空いてるね。適当に座っていいかい」
「ええ、どこでもどうぞ」
店員の返事を受け、2人は空席をいくつも通り過ぎて、アレクサンダーの隣に腰を下ろした。
アレクサンダーは新聞を持つ高さを変えない。
男が連れの椅子を引き、向かいではなく自分の横へ座らせる気配がした。
遠目には、朝の街へ買い物に出た2人が空いた席を選んだだけに見える。
注文を聞きに来た店員が戻っていくと、隣の卓で硬いものを置く音がした。
新聞の端から見えたのは、昨夜受け取ったものと同じ形のプレートだった。
「8」
「2」
「7」
「4」
「9」
「1」
「6」
男とアレクサンダーは互いを見ず、順に数字を言い終えた。
そこで初めて、アレクサンダーは新聞を少し下げる。
男の隣にいる女とも、一度目が合った。
「ひさしぶりだな」
「そうだね。私が4年間あっちにいたから、それぶりかな」
男は、何年も離れていた相手に会うためだけにこの席を選んだかのように、落ち着いていた。
間を埋める近況話は要らなかった。
「お前の息子が来たぞ」
「ああ。私も驚いているよ」
男の答えは短かったが、新聞の陰から見える手は、置かれたプレートへまだ触れていない。
アレクサンダーは新聞を畳まず、膝の上へ下ろした。
「……イージスの意向は分かった。もちろん、我々も反対するつもりはない。だが」
「分かっている。こちらでも、ロダン家が懸念していることは重々承知しているつもりだ」
「だったら、なぜ?」
声は、隣の卓にしか届かない程度に抑えていた。
アレクサンダーが守ってきたものを、この2人なら知っている。
だからこそ「分かっている」だけでは足りなかった。
針を動かす話だけなら、男もここまで急いで来ないはずだった。
答えるまでの間に、隣の店で荷を下ろす車の音が通りを埋める。
「……WBが動き始めている」
「なに?」
「どうも《フロンティア・コンパス》の針について、早々に漏れたようでね」
アレクサンダーは膝の新聞を押さえた。
塔のことまで知られたのか。
「……どこから漏れたのだ? あれはアメリカでも、かなり情報制限が課されているだろう?」
「ああ、そうだ。向こうのほうが1枚上手だったんだろう」
「呑気なことを……」
男はアレクサンダーの非難を受け流さなかった。
テーブルのプレートを、2人の席の境まで滑らせる。
「すでにWBがロンドンに入っていることが確認されている。詳しくは、これを」
アレクサンダーがプレートへ触れると、昨夜と同じように声が脳内に届いた。
通りの音は聞こえているのに、その声だけはほかの音と重ならない。
彼は途中で一度、男の顔を見た。
声が告げる相手を、男がなぜ先に口で説明しなかったのか分かった。
男は何も補わず、アレクサンダーが最後まで聞くのを待っている。
声が消えると、金属は指の下で崩れた。
テーブルに残った塵を見て、アレクサンダーはゆっくり手を離す。
「……また厄介なやつが」
「最近は大人しくしていたんだけどね」
「まあいい。こいつは私が押さえよう」
館の警備レベルを引き上げ、ロダン家の精鋭も呼び集める。
アレクサンダーがそう考えて顔を上げると、男は首を横に振った。
「すでに押さえの人員は向かわせてるよ」
「なに? 相手は世界有数の化物だぞ。あれに対抗する者を、もう差し向けているのか?」
男は笑った。
先ほど息子の話をした時より、ずっと気安い笑い方だった。
「ははは。そのとおりさ。化物には化物、昔から言うじゃないか」
それまで黙っていた隣の女が、男の言葉を引き取った。
「毒をもって毒を制す、よ」
◇
その夜、ロンドンのオフィス街に1人の女性が姿を現した。
店や会社の明かりが落ちた通りを進むと、両側の新しい建物の間に、古い石造りの建物が挟まっている。
窓はどれも暗く、鉄の枠に木板を組み合わせた門の向こうにも人の動く気配はなかった。
女性は足を止め、建物を見上げる。
「ここかぁ」
門をたたく。
乾いた音が返るのを待ち、女性は通りの車の音に負けない声を出した。
「ごめんくださぁい!」
返事はない。
もう一度門をたたき、今度は間を置かずに呼ぶ。
「ごめんくださぁい! 誰かいませんかぁ!」
女性は門から半歩下がり、首を傾けた。
「うーん。そうくるかぁ」
空いていた手に、刀の柄が現れる。
握る指に合わせて刃が形を取り、女性は門の内側へ向けて振り抜いた。
鉄も木も斬る音はしない。
代わりに、建物の輪郭へ細い裂け目が走る。
窓、壁、屋根へと裂け目が広がり、古い石造りの建物に見えていたものが、薄い布を引きはがすように消えた。
門の奥を塞いでいたのは建物そのものではなく、その場所を別の姿に見せる仕掛けだった。
その奥にあったのは、寂れた教会だった。
色の抜けた扉と欠けた外壁は、それまで見えていた建物よりも古い。
通りから見えていた窓の位置には、縦長の窓枠が並んでいる。
女性は刀を下ろして門を押し開け、教会の入口へ歩いていく。
「おっじゃましまーす」
教会の入口に、若い男が立っていた。
乱れた髪とくたびれた服のまま、片手で目元をこすっている。
呼び声と、偽装が破れる音で起きたらしい。
「人が気持ちよく寝てたっていうのに……誰だよ」
「寝ていたとこ、ごめんね!」
女性は明るく答え、刀を持つ手を隠さなかった。
男の目が、そこでようやく刃に止まる。
「んで、お前、何者?」
「あなたを狩りにきました!」
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