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4話 毒姫は優雅に微笑む

 王都セレスティアの夜は、美しい。


 黄金の魔導灯が街路を照らし、貴族街には豪華な馬車が行き交う。


 その光の裏側で、どれほどの人間が涙を流しているのか。


 貴族たちは、きっと考えたこともないのだろう。


「……相変わらず、吐き気がするほど美しい街ですこと」


 鏡の前で、イザベル・ヴェスパーは静かに微笑んだ。


 二十四歳。


 腰まで伸びた黒紫色の髪を片側へ流し、銀細工の髪飾りで留めている。


 紫水晶のような瞳には、冷たい知性が宿っていた。


 今夜の装いは、漆黒の絹で仕立てられたイブニングドレス。


 肩を露出させた優雅なデザインで、裾には深紫色の薔薇が刺繍されている。


 両腕には黒いレースの手袋。


 耳元には紫水晶のイヤリング。


 そして胸元には、母から贈られた紫色の宝石が輝いていた。


 イザベルは首飾りを握りしめる。


「……お母様」


 脳裏に、十年前の光景が蘇る。


 燃え上がる屋敷。


 連行される父。


 泣き叫ぶ母。


 そして、すべてを奪った男の笑顔。


「今夜こそ……」


「今夜こそ、何?」


 背後から明るい声が響いた。


 振り返ると、一人の女性が立っていた。


 ミレーヌ・カーヴェル。


 二十八歳。


 身長百七十二センチ。赤褐色の短髪に、猫を思わせる金色の瞳。


 普段の戦闘服とは異なり、今夜は深紅のサテンで仕立てられた細身のドレスをまとっている。


 背中が大きく開いた大胆なデザインで、腰には金色のチェーンベルト。


 黒いヒールを履き、耳元では赤い宝石が揺れていた。


 悪の晩餐会《ノクス・バンケット》諜報部隊長。


 《紅月の蜘蛛》の異名を持つ女だった。


「ノックくらいなさってください」


「あら、したわよ? 返事がなかっただけ」


 ミレーヌは楽しげに笑う。


「それにしても綺麗ね。今夜の主役はあなたで決まりじゃない?」


「遊びに行くわけではございませんわ」


「分かってるって」


 ミレーヌは窓際へ歩み寄る。


「アルブレヒト侯爵。十年前、あなたの家を潰した男」


「…………」


「無理してない?」


 イザベルはゆっくりと振り返った。


「ご心配には及びませんわ」


「そう。なら、私も遠慮なく働けるわね」


 そのとき、扉が開いた。


「二人とも、準備はできたか?」


 現れたのは、ヴァレイン・クロイツ。


 銀白色の長い髪を後ろへ流し、血のような深紅の瞳を持つ男。


 漆黒の軍服風ロングコートには銀糸の刺繍が施され、胸元では細い銀鎖が揺れている。


 腰には黒剣《レクイエム》。


 悪の晩餐会の首領。


 黒冠の悪魔《ノクス・レガリア》。


「随分と華やかだな」


「今夜は夜会ですもの」


 イザベルが優雅に一礼する。


「私は楽しみで仕方ないわ」


 ミレーヌが笑う。


「退屈な貴族たちを楽しませてあげないとね」


「遊びすぎるなよ」


 ヴァレインは机に書類を置いた。


「標的はディートリヒ・アルブレヒト侯爵。ヴォルフガング・アイゼンに違法な魔導兵器を供給している疑いがある」


「必要なのは取引記録ですわね」


「ああ。原本を確保しろ」


 ヴァレインはイザベルを見つめた。


「今回の標的が誰なのか、分かっているな?」


「……もちろんですわ」


「無理なら別の人間を送る」


「必要ございません」


 その返事は、あまりにも早かった。


「……分かった。通信魔導具は忘れるな」


「承知いたしました」


 ミレーヌが片手を上げる。


「それじゃ、行ってくるわ」


「二人とも、生きて戻れ」


 その言葉に、イザベルの瞳がわずかに揺れた。


     *


 アルブレヒト侯爵邸。


 白い石造りの屋敷には黄金の装飾が施され、広間からは優雅な音楽が流れていた。


 今夜は王国軍への支援を称える慈善夜会。


 有力貴族や軍関係者が集まっている。


「エリザ・ノワール様でございますね」


 門番が招待状を確認する。


「ええ。今宵はお招きいただき、光栄ですわ」


 イザベルは優雅に微笑んだ。


 今夜の彼女は、地方商会の令嬢エリザ・ノワール。


 一方、ミレーヌは軍需商人の未亡人、マリアンヌ・ルージュを名乗っていた。


「じゃ、私は軍人たちを相手にしてくるわ」


「ほどほどになさってくださいませ」


「分かってるって」


 ミレーヌは人混みの中へ消えていった。


 イザベルもワイングラスを手に、貴族たちの輪へ加わる。


「ごきげんよう。初めてお目にかかりますわね」


 声をかけてきたのは、カトリーヌ・フェルゼン伯爵夫人。


「エリザ・ノワールと申します」


「まあ、ノワール家の方ですの?」


「ええ。地方で商会を営んでおりますの」


 イザベルは微笑む。


「それにしても、アルブレヒト侯爵は大変なご活躍ですわね」


「最近では王国軍との契約をほとんど独占していらっしゃるとか」


「まあ……ほかの貴族の皆様は、不満をお持ちではありませんの?」


 伯爵夫人は声を潜めた。


「それはもう。侯爵ばかり利益を得ていると、陰で噂になっておりますわ」


「そうでしたのね」


 イザベルは静かにグラスを傾けた。


「秘密が多い方ほど、敵も多いものですわね」


     *


 一方、ミレーヌは軍服姿の将校たちに囲まれていた。


「いやあ、マリアンヌ夫人。実にお美しい!」


「ふふ。お上手ね」


 甘い酒を口にしながら、彼女は笑う。


「ところで、最近は軍需品の取引が盛んなのでしょう?」


「ああ。総司令官閣下のおかげでな」


「へえ。そんなに景気がいいの?」


「侯爵家との取引は特に――」


 将校がそこまで話した瞬間、隣の男が肘で小突いた。


「おい。余計なことを喋るな」


 ミレーヌは笑みを崩さない。


「残念。もっと聞きたかったのに」


 その足元。


 影の中で、細い糸が静かに伸びていた。


 《影糸》。


 影に魔力の糸を張り巡らせ、監視や拘束を行う能力。


 糸は将校たちの影を伝い、二階の廊下へ伸びていく。


 やがて、小さな会話が届いた。


『例の品は、明日の夜には搬出できるな?』


『はい。総司令官閣下への納品記録も、侯爵の書斎に保管しております』


 ミレーヌの金色の瞳が細められる。


「……見つけた」


 彼女は通信魔導具へ触れた。


『イザベル。書斎よ。二階の東側』


『承知いたしました』


『護衛は私が片づけるわ』


『お願いいたします』


 ミレーヌは楽しげに笑った。


「さあ、お仕事の時間ね」


     *


 その頃。


 イザベルの前に、一人の男が現れた。


「おや。見慣れないお嬢さんだ」


 ディートリヒ・アルブレヒト侯爵。


 五十八歳。


 銀灰色の髪を整え、濃紺の礼服には黄金の勲章。


 口元には穏やかな笑み。


 だが、瞳には人間を値踏みする冷たさがあった。


 イザベルの心臓が強く脈打つ。


 十年前。


 この男はヴェスパー家を反逆者として告発した。


 父は処刑され、母も命を奪われた。


 彼女自身も処刑される寸前だった。


「エリザ・ノワールと申します」


 イザベルは優雅に一礼する。


「お目にかかれて光栄ですわ」


「どこかで会ったことがあるかな?」


「……いいえ」


 指先がわずかに震えた。


「きっと、人違いでございましょう」


 侯爵の視線が、彼女の首元で止まる。


「その首飾り……珍しい品だな」


「母の形見でございます」


「……ほう」


 侯爵は目を細めた。


 イザベルは微笑みを保ち、その場を離れた。


     *


 庭園へ出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。


 薔薇の香り。


 遠くから聞こえる音楽。


 そのすべてが、十年前の夜を思い出させる。


『イザベル! 逃げなさい!』


 母の悲鳴。


『ヴェスパー家には反逆の疑いがある!』


 兵士たちの怒号。


 そして、侯爵の冷たい笑顔。


『残念だ。君の父君は王国を裏切ったのだよ』


「……よくも」


 イザベルは首飾りを握りしめる。


「よくも、私の家族を……」


 足元に紫色の魔力が滲み出す。


 庭園の薔薇が、次々と黒ずみ始めた。


 《毒薔薇の葬送》。


 怒りに呼応し、毒の魔力が広がろうとしていた。


 そのとき。


『イザベル』


 通信魔導具が震えた。


「……ヴァレイン様?」


『状況は?』


「問題ございません。まもなく資料を確保いたします」


『嘘が下手だな』


 イザベルは息を呑む。


『魔力が乱れている』


「……申し訳ございません」


 沈黙。


 やがて、ヴァレインが告げた。


『復讐は好きにしろ。ただし、生きて帰ってこい』


 イザベルの瞳が揺れる。


『俺はお前の復讐を止めるつもりはない。だが、ここでお前を失う気もない』


「……どうして、そこまで」


『お前がいなければ、あの騒がしい連中を誰がまとめる?』


 イザベルは思わず微笑んだ。


「……本当に、困った方ですこと」


『それはお互い様だろう』


 通信が切れる。


 イザベルは息を吐いた。


「……ええ。必ず、生きて帰りますわ」


     *


 二階の東側。


 ミレーヌは壁際に立ち、指先を動かした。


 影から伸びた魔力の糸が、二人の護衛の足首へ絡みつく。


「なっ……!?」


 声を上げるより早く、糸が動きを封じた。


「ごめんなさいね。少し眠っていてちょうだい」


 護衛を物陰へ引き込み、眠りの魔導具を使う。


 やがて、イザベルが姿を現した。


「お見事ですわ」


「当然でしょ? これでも元暗殺者なのよ」


 イザベルは侯爵の書斎へ向かう。


 魔導錠はミレーヌの《影糸》によって解除された。


 室内には高価な調度品と大量の書類。


 イザベルは机の引き出しを開き、記録簿を取り出す。


『王国軍特別軍需品取引記録』


 違法な魔導兵器。


 未登録の魔力結晶。


 秘密裏に行われた武器取引。


 そして。


『納品先――王国軍総司令官ヴォルフガング・アイゼン』


「……見つけましたわ」


 だが、その瞬間。


「やはり、君か」


 背後から声が響いた。


 扉の前にはアルブレヒト侯爵が立っていた。


「ヴェスパー家の娘だな?」


 イザベルは振り返る。


「……思い出してくださいましたのね」


「十年前、処刑されたと聞いていたが」


「残念でしたわね」


 彼女は微笑んだ。


「こうして、生きておりますの」


 侯爵が衛兵を呼ぼうとする。


 しかし、声は出なかった。


 紫色の霧が足元を這っていた。


「な、何をした……!?」


「少しだけ、喉を休ませて差し上げました」


 イザベルが歩み寄る。


「十年前、私の父は何度も無実を訴えました」


 その声は静かだった。


「母も、私を助けてほしいと懇願しました」


 笑みが消える。


「けれど、あなたは笑っていらした」


 侯爵が後ずさる。


 イザベルの指先に、紫色の毒針が現れた。


 あと少し。


 ほんの少し力を込めれば、復讐は終わる。


「……っ」


 そのとき。


『生きて帰ってこい』


 ヴァレインの声が蘇った。


 イザベルは目を閉じ、毒針を下ろした。


「……やめましたわ」


 侯爵が驚いたように顔を上げる。


「な……?」


 イザベルは微笑む。


「あなたには、もっとふさわしい結末がございます」


     *


 その頃、夜会の大広間では騒ぎが起きていた。


「これは……!」


「違法な軍需品の取引だと!?」


「アルブレヒト侯爵が……!」


 魔導スクリーンに、侯爵の秘密取引記録が映し出されていた。


 ミレーヌが《影糸》を通じて会場の通信装置を操作し、記録を公開したのだ。


 さらに、ヴェスパー家を告発した際の偽造証言記録も映し出される。


 貴族たちは騒然となった。


「我々を騙していたのか!」


「王国軍への不正な資金提供など、許されるはずがない!」


 侯爵は震えながらイザベルを見上げる。


「ま、待ってくれ……!」


 イザベルは彼の前に膝を折り、目線を合わせた。


「あなたは、私の家族からすべてを奪いました」


 紫水晶の瞳が冷たく細められる。


「ですから今度は、あなたのすべてを奪わせていただきますわ」


「た、頼む……!」


「ご安心ください」


 彼女は優雅に微笑んだ。


「命まではいただきません」


 そして、耳元で囁く。


「失ったものを数える時間が、あなたには必要でしょうから」


 侯爵は床に崩れ落ちた。


 イザベルは立ち上がり、ドレスの裾を整える。


 廊下ではミレーヌが待っていた。


「終わった?」


「ええ」


「殺さなかったのね」


「殺すより、ふさわしい罰を思いつきましたの」


 ミレーヌは笑った。


「いいじゃない。そういうの、嫌いじゃないわ」


 そして、金色の瞳を細める。


「悪党には悪党の流儀があるのよ。覚えておきなさい」


 イザベルも小さく笑った。


「ええ。まったく、そのとおりですわ」


     *


 深夜。


 《黒薔薇宮》へ帰還した二人を、ヴァレインが迎えた。


「お帰り」


 漆黒のロングコートを羽織り、苦い紅茶を片手に座っている。


「ただいま戻りました、ヴァレイン様」


 イザベルが頭を下げる。


「首尾は?」


「問題ございません」


 彼女は記録簿を差し出した。


 ヴァレインは内容を確認し、頷く。


「よくやった」


 その一言に、イザベルの瞳が揺れた。


「……ありがとうございます」


 ミレーヌは隣で大きく伸びをする。


「あー、疲れた! でも楽しかったわ。あの侯爵、明日から大変ね」


「お前もご苦労だった」


「ふふ。じゃあ、ご褒美に甘いお酒でも頂こうかしら」


「ロザリアに頼め」


「やった!」


 ミレーヌは嬉しそうに笑い、部屋を出ていった。


 ヴァレインは再び記録簿へ目を落とす。


 違法な魔導兵器。


 秘密の資金移動。


 ヴォルフガングの署名。


 そして、十年前の記録。


『軍用焼却魔導兵器・試験運用記録』


『実施区域――エルムガルド』


『作戦名――灰燼の夜』


 ヴァレインの指が止まった。


「……これは」


 イザベルが表情を引き締める。


「十年前の作戦に使用された兵器の記録ですわ」


 さらに書類には、王国軍の特殊部隊が民間人の退避を禁じられていたことも記されていた。


 ヴァレインは記録簿を閉じる。


 深紅の瞳が冷たく光った。


「……なるほど」


 そして、ゆっくりと笑う。


「これで、奴を追い詰める材料が増えた」


 イザベルは頭を下げた。


「次のご命令を」


 ヴァレインは黒剣《レクイエム》の柄へ指を添える。


「ヴォルフガング・アイゼン」


 その名を、噛みしめるように呟いた。


「十年前、お前が焼いた街のことを忘れたとは言わせない」


 赤い魔導灯が、銀白色の髪を妖しく照らす。


「まずは、その勲章を一つずつ剥がしてやろう」


 イザベルは優雅に微笑んだ。


「かしこまりました、我が首領」


 悪の晩餐会《ノクス・バンケット》。


 その復讐は、また一歩進んだ。


――第4話「毒姫は優雅に微笑む」完。

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