3話 白銀の騎士と黒い悪魔
神聖ヴェルディア王国、王都セレスティア。
魔王討伐十周年を祝う式典から、一夜が明けた。
しかし、王都は依然として騒然としていた。
「聞いたか? 昨夜の王宮襲撃事件」
「ああ。黒冠の悪魔が現れたんだろう?」
「財務大臣の汚職を暴いたって話だぞ」
「でも、犯罪者には違いないだろう?」
王国最悪の犯罪組織、悪の晩餐会。
その首領、黒冠の悪魔ことヴァレイン・クロイツ。
彼が王宮へ侵入し、英雄たちに宣戦布告した事件は、王国全土を揺るがしていた。
そして今。
王国聖騎士団本部では、緊急会議が開かれていた。
*
「アストレア・リュミエール」
「はい!」
凛とした声が会議室に響く。
王国聖騎士団長グレゴール・ファルケンは、一人の女性騎士を見据えていた。
アストレア・リュミエール。
二十二歳。
蜂蜜色の金髪を後頭部で束ね、澄んだ青い瞳を持つ女性だった。
白銀の胸当てと肩当てを組み合わせた聖騎士の装備。
白い軍服の襟元には金糸の刺繍が施され、肩から流れる青いマントには王国の聖紋章。
腰には聖剣が下げられている。
「貴殿に特別任務を命じる」
グレゴールは机に一枚の書類を置いた。
そこには、銀白色の髪と深紅の瞳を持つ男の似顔絵。
「ヴァレイン・クロイツ。王宮襲撃事件の首謀者だ」
「黒冠の悪魔……」
「昨夜、奴は近衛騎士たちを制圧し、勇者ローデリック卿の肖像画を破壊した」
「勇者様の……?」
アストレアの瞳が揺れた。
ローデリック・ヴァルハルト。
幼い頃、魔物から彼女を救ってくれた英雄。
アストレアが騎士を志した理由だった。
「必ず捕らえてみせます」
「相手は危険だ。無理な交戦は避けろ」
グレゴールは地図を広げる。
「王都南西部の旧市街、《灰色区》を調査してもらう。現在、悪の晩餐会の実質的な支配下にある地区だ」
「承知いたしました」
アストレアは胸元に右手を当て、騎士の礼を取った。
会議室を出た彼女は、小さな礼拝堂へ向かう。
白い祭壇の前で、聖剣を掲げた。
「私は、弱き人々を守るために剣を振るう」
目を閉じると、幼い日の記憶が蘇る。
燃える村。
魔物の咆哮。
そして、自分を助けてくれた白銀の騎士。
『怖かったな。もう大丈夫だ』
ローデリックの優しい声。
あの日から、騎士は彼女にとって希望そのものだった。
「……必ず、平和を守ってみせます」
アストレアは祈りを終え、礼拝堂を後にした。
*
昼過ぎ。
アストレアは灰色区へ足を踏み入れた。
そこには王宮周辺とはまるで違う景色が広がっていた。
崩れかけた建物。
ひび割れた壁。
雨水の溜まる路地。
擦り切れた服を着た住民たちが、重い荷物を抱えて歩いている。
「……こんな場所が、王都に」
貧困問題については知っていた。
しかし、実際に灰色区の奥まで入るのは初めてだった。
しばらく歩くと、広場に長い列ができていることに気づいた。
大きな鍋から湯気が立ち上り、香草の香りが漂う。
「次の方、どうぞ!」
「ありがとうございます!」
「子どもにはパンを一つ多く渡して!」
列の先頭では、黒い腕章をつけた人々が食事を配っていた。
腕章には、銀色の王冠と黒薔薇の紋章。
悪の晩餐会の印だった。
「……犯罪組織が、食料を配っている?」
アストレアは目を疑う。
「お姉ちゃん!」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、栗色の髪を二つに結んだ少女が立っていた。
少し大きすぎる灰色のワンピースを着て、両手にはパンを抱えている。
「お姉ちゃん、騎士様?」
「ええ、そうよ」
「わあ! 鎧がきらきらしてる!」
アストレアは微笑んだ。
「ありがとう。あなたのお名前は?」
「エマ!」
「エマちゃんね。私はアストレアよ」
「アストレアお姉ちゃん!」
エマは嬉しそうに笑う。
「そのパンは、あそこで貰ったの?」
「そうだよ!」
少女は元気に頷いた。
「前はね、お腹がすいて眠れない日もあったんだ」
アストレアの表情が曇る。
「……そうだったの」
「でも、今は違うよ!」
エマはパンを掲げた。
「黒いお兄ちゃんが、食べ物をくれるようになったの!」
「黒い……お兄ちゃん?」
「うん! 銀色の髪で、赤いお目々の人!」
アストレアは息を呑んだ。
ヴァレイン・クロイツ。
「その人は……怖くないの?」
「怖いよ?」
「……え?」
「悪いことした人をすっごく怒るもん。でも、私には何もしないよ」
エマは笑った。
「お母さんは悪魔って呼ぶけど、私は嫌いじゃない!」
アストレアは何も言えなかった。
王国最悪の犯罪者。
そんな男が、飢えた子どもに食事を与えている。
*
エマに案内され、アストレアは診療所を訪れた。
古い建物を改装した室内には、十数人の患者がいた。
彼らを診察していたのは、黒髪に深緑色の瞳を持つ男性だった。
白いシャツの袖をまくり、暗緑色のベストの上から白い前掛けを着けている。
エドガー・ヴァイス。
悪の晩餐会に所属する闇医者だった。
「……王国の騎士か」
エドガーは眉をひそめる。
「何の用だ?」
「この診療所は、悪の晩餐会が運営しているのですか?」
「ああ」
「なぜ、犯罪組織が医療を?」
エドガーは患者に包帯を巻きながら答えた。
「王国が診ない患者を、私たちが診ている。それだけだ」
「王国の治療院でも、貧しい方への支援は行っているはずです」
「身分証明書のない者や、治療費を払えない者は後回しだ。書類すら持たない人間は門前払い」
「そんな……」
「知らなかったのか?」
アストレアは唇を噛んだ。
「……私は、すべてを知っているわけではありません」
「だろうな」
エドガーは新しい包帯を手に取る。
「ここでも金は必要だ。払える者からは貰う。払えない者には、できる仕事をして返してもらう」
「それは……」
「慈善活動だと思ったか?」
彼はアストレアを見た。
「薬も食料も、無限に湧いてくるわけじゃない」
アストレアは診療所を見渡す。
そこには確かに、治療を受ける人々がいた。
*
診療所を出ると、一人の男性に呼び止められた。
「騎士様……少し、お話を聞いていただけませんか」
四十代半ばほどの商人だった。
くたびれた茶色の上着を着て、痩せた顔には深い皺が刻まれている。
「私はダリオと申します。この先で雑貨店を営んでおります」
「何かお困りですか?」
ダリオは周囲を見回し、声を潜めた。
「この街は、確かに以前より暮らしやすくなりました。ですが……あの連中に逆らえば、商売ができなくなるんです」
アストレアの表情が引き締まる。
「詳しく聞かせてください」
「悪の晩餐会は、店を守る代わりに管理費を徴収します。勝手に大きな取引をすることも許されません」
「払えない場合は?」
「猶予をくれることもあります。しかし、命令に従わなければ店を閉めさせられる」
「……それは、支配ではありませんか」
ダリオは俯いた。
「そうです。王国は私たちを見捨てた。けれど、あの連中も決して善人ではありません」
その言葉が、アストレアの胸に重くのしかかる。
救済と支配。
感謝と恐怖。
相反するものが、この街には同時に存在していた。
そのとき。
「離せ! 俺は何も盗んでねえ!」
広場から怒鳴り声が響いた。
アストレアが駆けつけると、黒い腕章をつけた構成員たちが男を拘束していた。
「何をしているのです!」
「この男は管理費を滞納しているうえ、倉庫から物資を盗んだ疑いがある」
「証拠は?」
「それは……」
構成員が言葉に詰まる。
「証拠もないのに拘束するのですか?」
アストレアが聖剣の柄に手をかけた、そのとき。
「何の騒ぎだ?」
野太い声が響いた。
現れたのは、巨大な男。
黒灰色の短髪に、左頬を走る古傷。
琥珀色の瞳。
黒い戦闘服の上に銀色の軽装鎧をまとい、背には大剣を担いでいる。
ザイラス・グレイヴ。
「ザイラス隊長!」
構成員たちが頭を下げる。
「何をやった?」
「管理費の滞納と、窃盗の疑いです」
「証拠は?」
「……まだ確認できておりません」
ザイラスの眉が吊り上がる。
「だったら勝手に罪人扱いしてんじゃねえ!」
構成員たちが肩を震わせた。
「まず調べろ。盗みが本当なら償わせる。違うなら謝れ」
「は、はい!」
アストレアは少し驚いた。
しかし、ザイラスは彼女を睨む。
「で? 王国の騎士様が何の用だ?」
「私は王国聖騎士、アストレア・リュミエールです」
「へえ。聖騎士様ね」
ザイラスは鼻で笑った。
「じゃあ聞くが、こいつらが飢えてたとき、お前ら騎士団は何をしてた?」
「私は……」
「答えられねえか」
ザイラスは肩をすくめる。
「ここは英雄様が見捨てた街だ。邪魔するなら容赦しねえぞ」
アストレアは拳を握った。
「だからといって、あなた方の行為がすべて許されるわけではありません!」
「……あ?」
ザイラスの瞳が鋭くなる。
その瞬間だった。
「随分と賑やかだな」
静かな声が響いた。
*
石畳の道の向こうから、一人の男が歩いてきた。
銀白色の髪。
血のような深紅の瞳。
漆黒の軍服風ロングコート。
高い襟元には銀糸の刺繍が施され、胸元では銀鎖が揺れている。
腰には黒剣。
整った顔立ちには冷たい気品が漂い、薄い唇には皮肉げな笑み。
ヴァレイン・クロイツ。
黒冠の悪魔。
「大将」
ザイラスが顔を上げる。
「何を騒いでいる?」
「王国の聖騎士様が、うちの仕事に口出ししてきやがった」
「……ほう」
ヴァレインの深紅の瞳が、アストレアを捉えた。
「これは珍しい客だな」
アストレアは聖剣の柄を握る。
「ヴァレイン・クロイツですね?」
「ああ。黒冠の悪魔。その名前のほうが聞き慣れているか?」
「あなたを王宮襲撃、および数々の犯罪の容疑で拘束します」
ヴァレインは楽しげに笑った。
「ははっ。随分と真面目な騎士様だ」
「笑い事ではありません!」
「そう怒るな。せっかくの美しい顔が台無しだぞ?」
「……ふざけないでください!」
アストレアは一歩前へ出る。
「あなたは、この街の人々を支配しているのですね」
「支配? 面白い言い方だな」
「食料と医療を与える一方で、住民から金を徴収し、自由を制限している」
「それが?」
「人を助けるというなら、なぜ見返りを求めるのですか!」
「見返りのない救済など、長続きしない」
「だからといって、恐怖で従わせることが正しいとは思えません!」
「正しい?」
ヴァレインの笑みが深まる。
「お前は随分と、その言葉が好きらしいな」
「私は騎士です。正義を守るために剣を振るいます!」
「なるほど」
ヴァレインは配給所を指差した。
「あの子どもたちが飢えていたとき、お前の正義はどこにあった?」
アストレアは息を呑む。
「……それは」
「王宮の中か? それとも英雄様の足元か?」
「私は、すべての人を救えるわけではありません」
「そのとおりだ」
ヴァレインは頷いた。
「俺も同じだ。だから俺は、救える人間を選ぶ」
「……だからといって!」
アストレアは聖剣を抜いた。
「あなたの犯罪を見逃すわけにはいきません!」
「……いいだろう」
ヴァレインの右手が黒剣の柄へ伸びる。
「ならば、剣で語るとしようか」
「大将。俺がやるか?」
ザイラスが尋ねる。
「いや。少し興味が湧いた」
黒剣が抜き放たれた。
「来い、騎士様」
*
アストレアが地面を蹴った。
「はあっ!」
聖剣が白い光を放つ。
ガキンッ!
しかし、ヴァレインは黒剣で軽々と受け止めた。
「……速いな。だが、素直すぎる」
「くっ……!」
アストレアは連続で剣を振るう。
縦斬り。
横薙ぎ。
踏み込みからの突き。
しかし、すべて受け流される。
ヴァレインの動きは、まるで舞踏会で踊っているかのように優雅だった。
「どうした? それで終わりか?」
「まだです!」
アストレアは距離を取る。
「《黎明の聖域》!」
金色の魔法陣が広がった。
半透明の光の結界が周囲を包み、住民たちを戦闘区域から隔てる。
ヴァレインは目を細める。
「……ほう。攻撃より先に周囲を守るか」
「当然です!」
「悪くない判断だ」
アストレアが再び踏み込む。
聖剣と黒剣が激突し、火花が散った。
ヴァレインは攻撃を受け流し、後方へ軽く跳ぶ。
「お前の正義は綺麗だな」
「何ですって?」
ヴァレインは冷たい笑みを浮かべた。
「血を見たことがないみたいに」
アストレアの表情が変わる。
「……私は、これまで何人もの人を守ってきました!」
「だろうな。だが、お前が守れなかった人間の顔を、覚えているか?」
「……っ!」
動きが一瞬止まる。
その隙に、ヴァレインの黒剣が閃いた。
ガキンッ!
聖剣が弾かれ、アストレアは数歩後退する。
「覚えておけ、騎士様。正義を掲げるだけでは、誰も救えない」
「……あなたに、何が分かるのですか!」
アストレアは剣を構え直す。
「私は、守れなかった人のことも忘れていません!」
ヴァレインの笑みが、わずかに止まった。
「だからこそ、今度こそ守りたいんです!」
青い瞳が真っすぐ彼を見据える。
「恐怖で人を従わせることを、私は正義だとは思いません!」
ヴァレインはしばらく彼女を見つめていた。
そして、小さく笑う。
「……面白い」
彼は右手を持ち上げた。
「ならば、少し試してみるか」
――ジャラリ。
黒い霧が足元から広がる。
霧の中から現れたのは、漆黒の鎖。
「これは……!」
「《罪喰い》」
ヴァレインが告げた。
「人間の罪を、鎖として具現化する能力だ」
黒い鎖が地面を這い、アストレアへ迫る。
彼女は聖剣を構えた。
しかし。
鎖は身体に触れる直前で動きを止めた。
ジャラ……。
「……え?」
黒い鎖が力を失い、地面へ落ちる。
そして霧となって消えた。
ヴァレインも、わずかに目を細める。
「……ほう」
再び右手を動かす。
別の鎖が伸びた。
しかし、それも彼女を拘束することなく消えてしまった。
「……なるほど」
ヴァレインの唇が吊り上がる。
「面白いな、お前」
「何が……?」
「俺の《罪喰い》は、罪を犯した人間を縛る」
深紅の瞳が、アストレアを見据えた。
「だが、お前には反応しないらしい」
アストレアは自分の両手を見下ろす。
「それは……」
「少なくとも、今のお前には俺の鎖が捉える罪がないということだ」
ヴァレインは黒剣を鞘へ納めた。
「……今日はここまでだ」
「待ちなさい! まだ決着はついていません!」
「そうだな。だが、俺はお前を殺しに来たわけじゃない」
「あなたを逃がすわけには……!」
「なら、追ってこい」
ヴァレインは背を向けた。
「ただし、次に会うときまでに覚えておけ」
アストレアが剣を握り直す。
ヴァレインは振り返り、深紅の瞳を細めた。
「この世界には、お前の信じる正義では救えない人間がいる」
そして、静かに問いかける。
「それを知ったとき、お前は何を選ぶ?」
答えを待たず、ヴァレインは歩き出した。
「大将、もういいのか?」
ザイラスが尋ねる。
「ああ。少し、面白いものを見つけた」
二人の姿が路地の奥へ消えていく。
アストレアは追おうとした。
しかし、背後から小さな声が聞こえる。
「お姉ちゃん……」
振り返ると、エマが立っていた。
「黒いお兄ちゃん、悪い人なの?」
「…………」
アストレアは答えられなかった。
犯罪組織が救った命。
犯罪組織が奪った自由。
どちらも、確かに存在している。
「……私は」
小さく呟く。
「何を守っているの……?」
夕暮れの光が、白銀の鎧を赤く染めていた。
アストレアは聖剣を鞘へ納める。
そして、ヴァレインが去った路地を見つめた。
黒冠の悪魔。
王国最悪の犯罪者。
しかし、彼の《罪喰い》は自分を拘束しなかった。
それは、自分が完全な人間だからではない。
ただ、今の自分には、あの鎖が捉える罪がなかっただけ。
ならば。
英雄と呼ばれる人々には、あの鎖は反応するのだろうか。
ふと浮かんだ考えに、アストレアは息を呑んだ。
「……そんなはず、ない」
自分に言い聞かせる。
だが、一度生まれた疑問は消えなかった。
正義とは何か。
悪とは何か。
そして、自分が信じてきた英雄たちは、本当にすべての人々を救ってきたのだろうか。
アストレアは夕焼けの空を見上げる。
その青い瞳には、初めて迷いが宿っていた。
白銀の騎士と黒い悪魔。
二人の出会いは、やがて王国全土を揺るがす運命の始まりとなる。
――第3話「白銀の騎士と黒い悪魔」完。




