2話 悪役たちの晩餐会
神聖ヴェルディア王国、王都セレスティア。
魔王討伐十周年を祝う夜は、たった一人の男によって混乱へと変えられた。
王国財務大臣の汚職を暴き、五人の英雄へ宣戦布告した男。
ヴァレイン・クロイツ。
王国最悪の犯罪組織、悪の晩餐会の首領。
人々は彼を畏怖を込めてこう呼ぶ。
――黒冠の悪魔。
王都の騎士たちが血眼になって彼を捜索している頃。
当の本人は、王都の地下深くへと続く石階段を悠然と下りていた。
「……まったく。騒がしい夜だ」
銀白色の髪が、地下通路を流れる冷たい風に揺れる。
身にまとっているのは、漆黒の軍服を思わせるロングコート。
高い襟元には銀糸の刺繍が施され、肩には黒い飾緒。胸元では細い銀鎖が揺れていた。
黒いベストの下には上質な白いシャツ。
腰には黒革のベルトが巻かれ、その傍らには黒剣が下げられている。
やがて、通路の最奥に巨大な鉄扉が現れた。
扉の中央には、銀色の王冠を囲む黒薔薇の紋章。
ヴァレインが右手をかざすと、紋章が赤く輝く。
重厚な扉が開いた。
その先に広がっていたのは、地下とは思えないほど壮麗な宮殿。
漆黒の大理石で造られた床。
銀の装飾が施された柱。
壁には赤い魔導灯が並び、天井からは黒水晶のシャンデリアが吊り下げられている。
その名は《黒薔薇宮》。
悪の晩餐会の本拠地だった。
*
「……遅いですわね」
宮殿の大広間。
長い食卓の右側で、一人の女性が静かに紅茶を口にしていた。
イザベル・ヴェスパー。
二十四歳。
腰まで伸びた黒紫色の髪に、紫水晶のような瞳。
漆黒のドレスには深紫色の薔薇の刺繍が施され、袖口には繊細なレースがあしらわれている。
悪の晩餐会の副首領。
《微笑む毒姫》と恐れられる女性だった。
「大将のことだ。どうせ英雄様をからかって遊んでんだろ」
向かい側から野太い声が返ってきた。
ザイラス・グレイヴ。
三十二歳。
百九十四センチの巨体を黒い戦闘服と銀色の軽装鎧に包み、左頬には古傷が走っている。
短い黒灰色の髪に、鋭い琥珀色の瞳。
椅子の背には大剣が立てかけられていた。
「ザイラス。ヴァレイン様をそのように呼ぶのはおやめなさい」
「ああ? 大将は大将だろ」
「敬意というものを学んでいただきたいですわ」
「へいへい。相変わらず口うるせえな」
「まあ。何かおっしゃいました?」
イザベルが微笑む。
「……いや、何でもねえ」
「あははっ! ザイラス、また負けてる!」
隣から楽しげな笑い声が上がった。
フィン・アルカナ。
十九歳。
無造作に跳ねた白い髪と、透き通った青緑色の瞳。
黒と紫を基調とした魔導師風の上着をまとい、指先では魔導カードを回している。
「ねえ、イザベル。ザイラスの紅茶に何か入れた?」
「いいえ?」
「本当?」
「もちろんですわ。まだ何も」
「おい! まだって何だ!」
ザイラスが声を荒らげる。
「食事の席で毒の話をするな」
呆れたように呟いたのは、闇医者エドガー・ヴァイス。
三十四歳。
整えられた黒髪に深緑色の瞳。
白いシャツに暗緑色のベストを着用し、傍らには医療器具の入った革鞄が置かれている。
「まったく。よくこれで組織が成り立っているものだ」
「そう言いながら、先生もここにいるじゃない」
赤褐色の短髪を揺らしながら、女性が笑った。
ミレーヌ・カーヴェル。
二十八歳。
身体に密着する黒い革製の戦闘服に、腰には二振りの短剣。
金色の瞳を猫のように細めている。
彼女は組織の諜報部隊長だった。
「私は給料分の仕事をしているだけだ」
「ふふ。相変わらず冷たいわね」
そのとき。
ギィィ……。
大広間の扉が開いた。
瞬間、全員が顔を上げる。
銀白色の髪。
深紅の瞳。
漆黒のロングコート。
ヴァレインが姿を現した。
「随分と賑やかだな」
イザベルが立ち上がる。
「お帰りなさいませ、ヴァレイン様」
「おう、大将!」
「ボス! おかえり!」
「堅苦しい挨拶はいらん。座れ」
しかし、イザベルが彼の前に立つ。
「お怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「疑り深い女だな」
「あなた様が信用ならないだけですわ」
彼女はヴァレインの袖口を確かめ、血痕がないか確認する。
「……今夜は本当に無傷のようですね」
「だから言っただろう」
「前回もそうおっしゃって、左肩に傷を負ってお帰りになりました」
「かすり傷だった」
「七針縫った」
エドガーが横から口を挟む。
ヴァレインはため息をついた。
「……お前たちは俺の母親か?」
「母親なら、もっと厳しくするだろうな」
フィンが吹き出す。
「ボス、怒られてる!」
「お前も黙れ」
ヴァレインは食卓の最奥へ向かい、黒い王冠を象った椅子へ腰を下ろした。
深紅の瞳が幹部たちを見渡す。
「さて」
その一言で空気が変わった。
「晩餐会を始めようか」
*
イザベルが指を鳴らす。
食卓の中央に、五枚の魔導映像が浮かび上がった。
「現在確認できている英雄たちの動向をご報告いたします」
最初は勇者ローデリック・ヴァルハルト。
「四十七歳。現在も王国の象徴として、国民から絶大な支持を集めております」
「今夜、顔を合わせた」
ヴァレインは鼻で笑う。
「相変わらず正義を背負った顔をしていたよ」
次に聖女エレオノーラ・セラフィス。
「四十二歳。王都北部で治療院と孤児院を運営しております」
「聖女様って、相変わらず大人気だよね」
フィンが頬杖をつく。
「表向きは、な」
三枚目はヴォルフガング・アイゼン。
「五十一歳。王国軍総司令官を務めています」
ザイラスの表情が変わる。
「……あの野郎か」
四枚目は賢者アルヴィス・レグナード。
「四十五歳。王立魔導研究院の最高責任者」
最後は王子ルシアン・エルディオス。
「三十六歳。政治と神殿の双方に強い影響力を持っています」
ヴァレインは五枚の肖像を見つめた。
「ボス? 誰から狙うの?」
フィンが尋ねる。
ヴァレインは右手を伸ばし、一枚の肖像に触れた。
ヴォルフガング・アイゼン。
「最初はこいつだ」
ザイラスが顔を上げる。
「……大将」
「十年前、エルムガルドへ兵を送り込んだ男だ」
静寂が落ちた。
エルムガルド。
その名がヴァレインにとって何を意味するのか、幹部たちは知っていた。
「忘れたことはねえよ」
ザイラスが拳を握りしめる。
「俺が騎士団を追われた原因を作った男だ」
「お前にはお前の因縁がある。だが、勝手に動くなよ」
「……分かってる」
イザベルが口を開く。
「ヴォルフガングは軍の最高責任者。暗殺だけなら手段はございますが、その後の混乱を考慮する必要があります」
「ああ。殺すだけでは足りん」
ヴァレインは椅子に深く身を沈める。
「地位も、名誉も、信頼も。奴が十年間積み上げてきたものを、すべて奪う」
フィンの瞳が楽しげに細められた。
「じゃあ、派手にやっていいんだ?」
「好きにしろ。ただし証拠は確実に押さえろ」
「了解!」
ヴァレインは幹部たちに命令を下した。
イザベルには軍需関係者の調査。
ミレーヌには側近と補給部隊の監視。
ザイラスには戦闘部隊の再編。
エドガーには医療体制の整備と過去の軍医記録の調査。
そしてフィンには、王国軍の通信網の監視を命じた。
「ただし、無関係な人間を巻き込むな」
全員が顔を上げる。
「俺たちは英雄じゃない。綺麗事を語るつもりもない」
深紅の瞳が細められる。
「だが、俺の復讐に関係のない人間まで殺す必要はない」
幹部たちが静かに頷いた。
そのときだった。
大広間の扉が慌ただしく開かれる。
「首領! ご報告がございます!」
若い構成員が駆け込んできた。
「下級構成員のルドルフが、貧民街の住民から金品を奪っていたことが判明しました!」
空気が凍りつく。
「……あ?」
ザイラスが低く唸る。
ヴァレインは無言で報告者を見つめた。
「詳しく話せ」
ルドルフ・ベルク。
三十一歳。
半年前に組織へ加入した男。
悪の晩餐会の名を利用し、貧民街の商人から金を脅し取っていたという。
拒否した者には暴力を振るい、奪った金は自分の懐に入れていた。
「……なるほど」
ヴァレインが呟く。
「大将。俺に任せろ。二度と悪さできねえようにしてやる」
「必要ない」
ヴァレインは立ち上がった。
「本人は?」
「地下の拘束室におります!」
「連れてこい」
その声は、恐ろしく静かだった。
「俺が話をする」
*
数分後。
ルドルフが二人の構成員に連れられてきた。
男は額に大量の汗を浮かべている。
ヴァレインは椅子に座ったまま、問いかけた。
「ルドルフ・ベルク」
「は、はい!」
「お前が何をしたか、分かっているか?」
「す、少し金を集めただけです!」
「誰から?」
「……住民からです」
「何のために?」
「組織の運営資金として……」
「嘘つくんじゃねえ!」
ザイラスが怒鳴る。
「てめえの懐に入れてただろうが!」
ヴァレインが片手を上げる。
それだけでザイラスは口を閉じた。
「俺がいつ、そんな命令を出した?」
「そ、それは……」
「答えろ」
「……出されていません」
「そうか」
ヴァレインは微笑んだ。
「なら、話は早い」
――ジャラリ。
ルドルフの足元から黒い霧が広がった。
霧の中から現れた漆黒の鎖が、男の両腕を拘束する。
「ひっ……!?」
「《罪喰い》」
ヴァレインは男を見下ろした。
「お前が犯した罪だ」
鎖の表面に赤黒い文字が浮かぶ。
奪った金額。
脅した商人の名前。
暴力を振るった日付。
「悪の晩餐会には、三つの掟がある」
ヴァレインは指を一本立てる。
「一つ。子どもを殺さない」
二本目。
「二つ。仲間を売らない」
そして三本目。
「三つ。罪のない者を、俺たちの都合で食い物にしない」
ルドルフが震える。
「お、お許しを……!」
「許し?」
ヴァレインは首を傾げた。
「お前は誰に許しを求めている?」
「しゅ、首領に……!」
「違うだろう」
笑みが消えた。
「お前が謝るべき相手は、俺じゃない」
ヴァレインは一歩近づく。
「俺たちは悪党だ。人を騙す。脅す。必要なら殺す」
深紅の瞳が冷たく光る。
「だがな――」
「誰でも食い物にする獣になるつもりはない」
誰一人、口を挟まなかった。
「奪った金品はすべて返せ。賠償金はお前の私財から支払わせる」
「は、はい……!」
「組織内の地位を剥奪する。武器の所持も禁じる。当分の間はザイラスの監督下で働け」
「ひっ……!」
ザイラスが獰猛に笑う。
「たっぷり鍛えてやるぜ」
「命だけは……!」
ルドルフが床に額を擦りつける。
ヴァレインは興味を失ったように背を向けた。
「命が残っただけ幸運だと思え」
イザベルが部下へ命じ、男を連行させる。
扉が閉まると、フィンが呟いた。
「……ボスってさ、変なところで優しいよね」
「優しい?」
「だって、殺さなかったじゃん」
ヴァレインは鼻で笑う。
「殺すほどの価値もなかっただけだ」
「ふうん。そういうことにしておくよ」
*
「まったく。こんな時間まで食事もせずに」
しばらくして、大広間に呆れた声が響いた。
ロザリア・ベルモント。
五十七歳。
銀灰色の髪をまとめ、黒いドレスの上に白いエプロンを身につけている。
彼女は料理を載せた台車を押しながら、ヴァレインを睨んだ。
「王宮を襲撃したそうですね」
「……耳が早いな」
「王都中が大騒ぎなんですから、当然でしょう」
ロザリアは腰に手を当てる。
「しかも、こんな時間まで夕食を召し上がっていないなんて」
「仕事が長引いただけだ」
「勇者様の肖像画を斬り裂くことが、お仕事ですか?」
フィンが吹き出した。
「ぷっ! ボス、怒られてる!」
ヴァレインは珍しく言葉に詰まった。
「……まったく」
「さあ、手を洗って席についてください」
「分かった」
食卓には香草を使った肉料理、温かなスープ、焼きたてのパンが並べられた。
ヴァレインの前には、砂糖を入れない濃い紅茶。
食事が始まると、大広間は再び賑やかになる。
「おい、フィン! 俺の肉を取るな!」
「えー、一個くらいいいじゃん!」
「自分の皿にもあるだろうが!」
ミレーヌが笑い、エドガーが呆れたように首を振る。
イザベルは優雅に紅茶を注ぎ足した。
その光景を、ヴァレインは静かに眺めていた。
ふと、遠い記憶が蘇る。
小さな家。
木製の食卓。
温かな料理。
『お兄ちゃん! 早く食べないと冷めちゃうよ!』
幼い少女の笑顔。
「…………」
十年前。
あの炎の夜を境に、すべてを失った。
家族も。
故郷も。
帰る場所さえも。
それでも今、自分の目の前には食卓がある。
決して善人とは呼べない者たち。
血に汚れた手を持つ者たち。
そんな連中が、くだらないことで笑い合っている。
「……悪くないな」
思わず言葉が漏れた。
イザベルが顔を上げる。
「何かおっしゃいました?」
「いや」
ヴァレインは紅茶を口へ運ぶ。
「何でもない」
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
*
晩餐が終わり、幹部たちが席を立ち始めた頃。
「ヴァレイン様」
イザベルが静かに声をかけた。
「最後に、一つご報告がございます」
「何だ?」
彼女は懐から薄い黒革の記録簿を取り出した。
「十年前の事件について、新たな資料が手に入りました」
その瞬間、ヴァレインの表情から笑みが消えた。
「……何?」
「ミレーヌの部隊が、王国軍の旧保管庫から入手したものです」
イザベルは記録簿を差し出す。
表紙には古い王国軍の紋章。
その下には、赤い封印印章が押されていた。
ヴァレインはゆっくりと受け取る。
ページを開いた。
『王国軍極秘作戦記録』
『作戦名――灰燼の夜』
『実施区域――エルムガルド』
指先が止まる。
エルムガルド。
十年前、炎に包まれた故郷。
燃え上がる家々。
逃げ惑う人々。
そして、幼い妹の声。
『お兄ちゃん――!』
「…………」
ヴァレインは次のページをめくった。
『現地部隊指揮責任者――ヴォルフガング・アイゼン』
『民間人退避措置――実施せず』
『作戦区域内の残留住民――敵性協力者として処理』
深紅の瞳が細められる。
「……やはり、お前だったか」
「ですが、問題はそれだけではございません」
イザベルが告げる。
「最後のページをご覧ください」
ヴァレインは記録簿をめくった。
そこには、作戦を承認した人物の署名欄があった。
しかし、名前の部分だけが鋭利な刃物で削り取られていた。
「……ほう」
ヴァレインの口元が吊り上がる。
「随分と念入りに隠したものだな」
「現地部隊を指揮したのはヴォルフガング。しかし、作戦そのものを命じた人物は別に存在する可能性がございます」
「だろうな」
ヴァレインは記録簿を閉じた。
「十年間、英雄の名誉を守るために隠されてきた記録か」
彼は小さく笑う。
「面白い」
だが、その笑みには一片の温かさもなかった。
「一人ずつ、引きずり出してやる」
イザベルは静かに頭を下げる。
「どこまでも、お供いたします」
ヴァレインは彼女を見つめた。
「後悔するぞ」
イザベルは優雅に微笑む。
「とうに覚悟しておりますわ」
ヴァレインは記録簿を手に立ち上がった。
漆黒のロングコートが静かに翻る。
彼は銀色の王冠と黒薔薇の紋章を見上げた。
十年前。
世界は五人の英雄を称えた。
その一方で、一つの街が歴史から消された。
罪のない人々が殺され、悲鳴も、涙も、存在した証さえも奪われた。
そして今もなお、英雄たちは正義の象徴として微笑んでいる。
「……待っていろ」
ヴァレインが呟く。
その瞳には、冷たい憎悪が燃えていた。
「お前たちが隠したものを、すべて白日の下にさらしてやる」
黒剣の柄へ、そっと指を添える。
「名誉も、地位も、信頼も……何もかも奪ってやる」
イザベルは何も言わず、その背中を見つめていた。
ヴァレインは静かに笑う。
「さあ、英雄ども」
赤い魔導灯が銀白色の髪を妖しく照らす。
「悪役たちの晩餐会は、まだ始まったばかりだ」
王都の地下深く。
英雄たちの栄光を喰らい尽くす、漆黒の宴が静かに幕を開けた。
――第2話「悪役たちの晩餐会」完。




