1話 英雄が笑う夜
神聖ヴェルディア王国。
その中心に位置する王都セレスティアは、今宵、祝福の光に包まれていた。
白亜の王宮へと続く大通りには、金糸で刺繍された純白の旗が掲げられ、街路樹には無数の魔導灯が飾られている。
石畳を行き交う人々は華やかな衣装を身にまとい、子どもたちは木製の剣を振り回しながら歓声を上げていた。
「見て、お母さん! 勇者様の剣だよ!」
「ふふ、立派な勇者様になれるといいわね」
「僕、大きくなったらローデリック様みたいになるんだ!」
少年の無邪気な声に、母親が優しく微笑む。
通りの露店には五人の英雄を模した人形が並び、吟遊詩人たちは十年前の偉業を歌い上げていた。
――魔王討伐十周年記念祭。
かつて世界は、魔王によって滅亡の危機に瀕していた。
各地で魔物が暴れ、人々は家族を失い、国々は次々と滅びかけた。
その絶望を打ち砕いたのが、神々に選ばれし五人の英雄だった。
聖剣の勇者、ローデリック・ヴァルハルト。
慈愛の聖女、エレオノーラ・セラフィス。
不敗の騎士、ヴォルフガング・アイゼン。
救世の賢者、アルヴィス・レグナード。
そして、神託の王子、ルシアン・エルディオス。
彼らは魔王を討ち、世界に平和を取り戻した。
以来、五人の名は正義の象徴として語り継がれている。
誰もが英雄を称えた。
誰もが英雄に感謝した。
誰もが、彼らこそが世界を救ったと信じていた。
――ただ一人を除いて。
*
王都を一望できる時計塔の屋上。
夜風が、男の銀白色の髪を静かに揺らしていた。
男は二十代半ばほど。
身長は百八十八センチ。細身に見える長身の身体には、無駄なく鍛えられた筋肉が備わっている。
身にまとっているのは、漆黒の軍服を思わせる仕立てのよいロングコートだった。
高い襟元には銀糸の刺繍。
肩には黒い飾緒が垂れ、胸元には銀の鎖が幾重にも重なっている。
腰には黒革のベルトが巻かれ、そこから一振りの剣が下がっていた。
黒剣。
刃から柄に至るまで漆黒に染まったその剣は、まるで夜そのものを鍛え上げたかのような不気味な存在感を放っている。
黒い革手袋に包まれた指先が、胸元から一枚の古びた写真を取り出した。
写真には、銀白色の髪をした少年と、幼い少女が写っていた。
二人とも、幸せそうに笑っている。
しかし、写真の右端は焼け焦げていた。
「……十年、か」
低く、よく通る声。
男の瞳は、血を溶かしたような深紅だった。
整った顔立ちには冷たい気品が漂い、薄い唇には皮肉げな笑みが浮かんでいる。
ヴァレイン・クロイツ。
二十六歳。
王国最悪の犯罪組織を率いる男。
人々は彼を、畏怖を込めてこう呼んでいた。
――黒冠の悪魔。
「ずいぶんと盛大な祝いだな」
眼下には、英雄の名を叫ぶ民衆。
笑顔。
歓声。
祝福。
そのすべてが、ヴァレインには滑稽に映った。
「世界を救った英雄、ね」
彼は写真に視線を落とす。
焼け焦げた端を親指でそっと撫でた。
ほんの一瞬だけ、深紅の瞳から笑みが消える。
『お兄ちゃん!』
記憶の奥で、幼い声が響いた。
『見て! お花、いっぱい咲いてるよ!』
小さな手。
柔らかな笑顔。
そして――。
炎。
悲鳴。
崩れ落ちる建物。
鼻を突く焦げた臭い。
『お兄ちゃん、助けて――!』
「…………」
ヴァレインは静かに目を閉じた。
数秒後、再び瞳を開いたときには、いつもの冷たい笑みが戻っていた。
「安心しろ」
誰にともなく呟く。
「今夜から、すべてを始める」
胸元に写真をしまい、革手袋の指先で通信魔導具に触れた。
『――ボス? 聞こえる?』
耳元に、明るい青年の声が響く。
「聞こえている。準備は?」
『もちろん完璧! 王宮の魔導回線は全部押さえたよ。あとはボスが合図するだけ』
「警備の配置は?」
『東側に近衛騎士が十二人。南側の回廊に八人。大広間には二十人以上かな。あ、ちなみに勇者様もいるよ』
「そうか」
『ねえねえ、本当に一人で行くつもり?』
「何か問題でも?」
『いや、問題しかないでしょ! 相手は王宮だよ?』
ヴァレインは喉の奥で笑った。
「だから面白いんだろう?」
『うわあ、出た。ボスの悪い癖』
「余計な口を叩く暇があるなら仕事をしろ、フィン」
『はーい。千の嘘を持つ道化、フィン・アルカナ。今夜も最高の舞台を用意してあげる』
通信が切れる。
ヴァレインは王宮を見つめた。
そして、楽しげに唇を吊り上げる。
「さあ――開演だ」
*
王宮《黎明の大広間》。
そこは、王国の富と権威を象徴する場所だった。
高い天井からは巨大な魔導水晶のシャンデリアが吊り下げられ、無数の光が大理石の床を照らしている。
柱には黄金の装飾が施され、壁際には赤い薔薇が飾られていた。
貴族たちは絹や宝石で飾られた豪華な衣装をまとい、ワイングラスを片手に談笑している。
会場正面には、五人の英雄を描いた巨大な肖像画。
その中央には、聖剣を掲げる勇者ローデリックの姿が描かれていた。
「皆様!」
壇上に立った男が、大きく両手を広げる。
王国財務大臣、バルドゥイン・ヘルツ。
五十四歳。
丸々とした身体を深紅の礼服に包み、胸元には宝石を散りばめた黄金の勲章をいくつも飾っている。
指には大粒の宝石がはめられ、額には薄く汗が浮かんでいた。
「本日は、我らが英雄たちの偉業を称える記念すべき夜でございます!」
割れんばかりの拍手。
「十年前、世界は魔王の脅威にさらされておりました! しかし、神々に選ばれし英雄の皆様が、我らに平和をもたらしてくださったのです!」
会場が歓声に包まれる。
「そして今、王国はかつてない繁栄を迎えております! 貧しき者には救いの手を! 飢える者には豊かな食卓を!」
大臣は誇らしげに胸を張った。
「この神聖ヴェルディア王国には、もはや飢えに苦しむ者など存在しないのでございます!」
再び拍手が鳴り響いた。
だが、会場の隅で銀盆を抱えていた若い使用人は、そっと視線を伏せた。
少女の腕は細く、手首には古い傷が残っている。
その傷を隠すように、彼女は袖口を引き下ろした。
壇上の大臣は、そんなことには気づかない。
「すべては、英雄の皆様のおかげでございます!」
拍手の中心に、一人の男が立っていた。
ローデリック・ヴァルハルト。
四十七歳。
金色の髪を後ろへ整え、鋼青色の瞳を持つ堂々たる騎士。
白銀の礼装鎧には金の装飾が施され、肩には深紅のマントが掛けられている。
腰には、魔王討伐に用いた聖剣が下げられていた。
十年の歳月を経ても、その威厳は衰えていない。
「ローデリック卿」
隣から穏やかな声がした。
振り向くと、ルシアン・エルディオスが立っていた。
三十六歳の王子は、濃紺の長い髪を銀の留め具で束ね、黒と白を基調とした王族の礼服に身を包んでいる。
襟元には金糸の刺繍。
胸元には王家の紋章が輝き、その黄金の瞳には穏やかな光が宿っていた。
「十年という月日は、あっという間ですね」
「……ああ」
「何か、気になることでも?」
ローデリックは壇上の肖像画を見つめた。
「いや。ただ……少し昔を思い出していた」
「過去、ですか」
ルシアンは柔らかく微笑む。
「過去は変えられません。しかし、我々は世界を救いました。それだけは揺るぎない事実です」
「……そうだな」
ローデリックの返事は短かった。
その様子を、ルシアンは静かに観察していた。
やがて、大臣の演説が締めくくられる。
「それでは皆様! 英雄たちの偉業と、我らが王国の永遠なる繁栄に!」
貴族たちがグラスを掲げた。
「乾杯!」
その瞬間だった。
――パチン。
何かが弾けるような小さな音。
次の瞬間。
会場のすべての明かりが消えた。
「……え?」
「何だ!?」
「灯りをつけろ!」
大広間が闇に包まれる。
貴族たちの悲鳴が上がり、椅子が倒れる音が響いた。
「落ち着け! 全員、その場を動くな!」
近衛騎士が叫ぶ。
しかし、闇の中では誰がどこにいるのかも分からない。
バルドゥインは震える手で椅子の背を掴んだ。
「な、何事だ……!?」
そのとき。
「……楽しんでいるか?」
耳元で、低い男の声がした。
「ひっ!?」
大臣は慌てて振り返る。
だが、そこには誰もいない。
「だ、誰だ! 誰かいるのか!?」
返事はなかった。
代わりに。
コトリ。
何かが置かれる、小さな音。
数秒後。
シャンデリアの光が一斉に戻った。
「明かりが……!」
「何だったんだ、今のは?」
騒然とする会場。
バルドゥインは、自分の椅子を見た。
そこには――。
一通の黒い封筒が置かれていた。
「…………?」
漆黒の封筒。
封蝋には、銀色の王冠と黒薔薇の紋章。
見覚えがあった。
王国の高官たちの間で、密かに噂されていたもの。
それを受け取った者は、必ず何かを失うという。
大臣の指先が震え始める。
「ま、まさか……」
ゆっくりと封蝋を剥がす。
中に入っていたのは、一枚の黒いカード。
銀色の文字が、魔力を帯びて淡く輝いていた。
『今宵、あなたを晩餐会へ招待する』
その下に記された名前。
――悪の晩餐会。
「ひ、ひいいっ……!」
大臣は椅子から転げ落ちた。
「どうなさいました、大臣!?」
「く、黒の……いや、悪の晩餐会だ……!」
その名を聞いた瞬間、近くにいた貴族たちの顔色が変わる。
悪の晩餐会。
王国の裏社会を支配する犯罪組織。
暗殺、脅迫、密輸、情報操作。
数々の犯罪に関与しながら、王国軍ですらその全貌を掴めていない。
そして、組織を率いるのは一人の男。
黒冠の悪魔。
「警備兵! 早く会場を封鎖しろ!」
バルドゥインが絶叫する。
その直後。
――ブン。
正面の巨大な魔導スクリーンが光を放った。
映し出されたのは、一枚の文書。
『王国貧民救済基金・支出報告書』
「な……?」
大臣の顔が引きつる。
画面が切り替わる。
『救済基金からの不正送金』
『孤児院補助金の着服』
『王国備蓄食料の横流し』
『貧民街住民への違法な立ち退き命令』
次々と映し出される記録。
そのすべてに、バルドゥインの署名があった。
「これは……どういうことだ?」
「大臣が救済基金を盗んでいたというのか?」
「そんな馬鹿な……!」
ざわめきが広がる。
「で、でたらめだ!」
バルドゥインは叫んだ。
「偽造だ! すべて偽造に決まっている!」
その瞬間。
スクリーンに新しい文字が浮かび上がった。
『では、実物をご覧いただこう』
続いて映し出されたのは、秘密金庫の所在地と文書番号。
さらに、横領した金貨を保管している地下倉庫の見取り図。
「なっ……!?」
大臣が絶句する。
監査官の一人が記録番号を確認し、青ざめた。
「こ、これは……正式な財務記録の番号です……」
「何だと!?」
「大臣、本当なのですか!?」
バルドゥインは後ずさった。
「違う……! 違うんだ……!」
そのとき。
パチ。
パチ。
パチ。
二階の観覧席から、ゆっくりと拍手が聞こえてきた。
全員が顔を上げる。
そこに、一人の男が立っていた。
「いやあ、実に見事な演説だった」
銀白色の髪。
深紅の瞳。
漆黒の軍服風ロングコート。
銀の飾緒が胸元で揺れ、磨き上げられた黒革のブーツが観覧席の床を踏みしめている。
男は手すりに片肘をつき、楽しげに微笑んでいた。
「貧しき者には救いの手を、だったか?」
その低く美しい声が、大広間に響く。
「素晴らしい。思わず涙が出そうになったよ」
バルドゥインが震えながら叫んだ。
「き、貴様……何者だ!?」
男は首を傾げた。
「おや。招待状を受け取ったというのに、差出人の顔も知らないのか?」
「ま、まさか……!」
男は手すりの上へ軽やかに立つ。
そして、躊躇なく身を躍らせた。
黒いロングコートが、巨大な翼のように広がる。
次の瞬間。
男は音もなく大理石の床へ降り立った。
貴族たちが後ずさる。
騎士たちが剣を抜く。
しかし男は一切気にした様子もなく、胸元に右手を当てた。
貴族の礼法に従った、優雅な一礼。
「初めまして、紳士淑女の皆様」
深紅の瞳が、楽しげに細められる。
「悪の晩餐会首領――」
一拍。
「ヴァレイン・クロイツと申します」
静寂。
そして。
「く、黒冠の悪魔……!」
誰かが叫んだ。
悲鳴が上がる。
「逃げろ!」
「どうして王宮に!?」
「騎士は何をしている!」
ヴァレインは騒然とする会場を見渡し、満足そうに笑った。
「おやおや。歓迎されていないようだな」
バルドゥインが必死に騎士たちへ叫ぶ。
「そいつを捕らえろ! 今すぐだ!」
近衛騎士たちがヴァレインを取り囲んだ。
「動くな!」
「武器を捨てろ!」
ヴァレインは小さく息を吐いた。
「……まったく」
そして、ゆっくりと右手を持ち上げる。
「せっかくの晩餐会だ。もう少し優雅に楽しもうじゃないか」
――ジャラリ。
金属が擦れる音が響いた。
黒い霧が、ヴァレインの足元から広がっていく。
霧の中から現れたのは、無数の黒い鎖。
「なっ……!?」
鎖は生き物のように床を這い、バルドゥインの両腕へ巻きついた。
「ひぎゃああっ!?」
大臣の身体が椅子ごと引きずられる。
黒い鎖は腕だけでなく、足首、胴体へと絡みついた。
「た、助けろ! 誰か!」
ヴァレインはゆっくりと近づいた。
「安心しろ。すぐに殺すつもりはない」
「な、何なんだ、その鎖は……!」
「俺の魂装術だ」
ヴァレインは微笑む。
「《罪喰い》――シン・イーター」
黒い鎖の表面に、赤い文字が浮かび上がる。
横領した金額。
奪われた物資。
命を落とした人々の記録。
バルドゥインの顔が恐怖で歪んだ。
「相手が犯した罪を、形にする」
ヴァレインはしゃがみ、大臣と目線を合わせた。
「面白いだろう? お前が重ねた罪が、そのままお前を縛っている」
「ち、違う……! 私は……!」
「何が違う?」
笑みを浮かべたまま、声だけが冷たくなる。
「孤児院に送られるはずだった金を盗んだな?」
「そ、それは……!」
「飢えた住民のための食料を、貴族に売ったな?」
「わ、私は命令されて……!」
「命令?」
ヴァレインは小さく笑った。
「便利な言葉だな」
そして大臣の耳元へ顔を寄せる。
「なら、その命令を出した人間の名前を教えてもらおうか」
「ひっ……!」
「言えないのか?」
鎖がわずかに締まる。
「や、やめろ! 分かった! 話す! 何でも話すから!」
「結構」
ヴァレインは立ち上がった。
「いい子だ」
その瞬間、背後から騎士が斬りかかる。
「覚悟!」
ガキンッ!
ヴァレインは腰の黒剣を抜き、攻撃を受け止めた。
「……無粋だな」
剣を弾き、相手の手首を柄で打つ。
騎士の剣が床に落ちる。
続けて二人目が突進する。
ヴァレインは半身になって回避し、足を払った。
さらに三人目。
背後から迫る刃を黒剣で受け流し、相手の鎧の継ぎ目へ蹴りを叩き込む。
「ぐあっ!」
騎士たちが次々と倒れる。
ヴァレインの動きに無駄はなかった。
優雅で、正確で、恐ろしく速い。
まるで舞踏会で踊っているかのように。
「どうした?」
黒剣を肩に担ぎ、彼は挑発的に微笑む。
「王国の騎士とは、この程度なのか?」
「き、貴様……!」
次の瞬間。
「そこまでだ」
低く、威厳のある声が響いた。
騎士たちが一斉に動きを止める。
人々が道を開けた。
そこに立っていたのは、白銀の鎧をまとった勇者。
ローデリック・ヴァルハルト。
彼は腰の聖剣に手をかけ、ヴァレインを見据えていた。
「これ以上の狼藉は許さん」
ヴァレインの瞳が細められる。
「……ほう」
その唇に、ゆっくりと笑みが広がった。
「ようやく主役のお出ましか」
「ヴァレイン・クロイツ」
勇者は鋭く告げる。
「貴様の目的は何だ?」
「目的?」
ヴァレインは首を傾げた。
「随分とつれないな、英雄様」
「ふざけるな」
「十年前のことを覚えているか?」
その言葉に、ローデリックの表情がわずかに変わった。
「……何?」
「燃える街」
ヴァレインは一歩近づく。
「泣き叫ぶ子ども」
さらに一歩。
「黒く焦げた家々。助けを求める人々」
ローデリックの指が、聖剣の柄を強く握った。
「……何が言いたい」
「さあ?」
ヴァレインは楽しげに笑う。
「英雄様には、忘れたいことも多いだろう?」
「貴様……!」
ローデリックが聖剣を抜こうとした、そのとき。
「そこまでにしてください」
穏やかな声が割って入った。
ルシアン・エルディオス。
神託の王子は、落ち着いた足取りで二人の間へ進み出る。
「ヴァレイン・クロイツ」
「これはこれは。王子殿下まで直々にお出迎えとは」
「あなたの目的は、単なる金銭ではないのでしょう?」
「察しがいいな」
「ならば、要求を聞きましょう」
ヴァレインは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
そして。
「……ははっ」
小さく笑った。
「ははははっ!」
大広間に、愉快そうな笑い声が響く。
ルシアンの眉がわずかに動く。
「何がおかしいのです?」
「いや、失礼」
ヴァレインは笑みを収め、深紅の瞳で王子を見据えた。
「どうやら勘違いしているようだからな」
「……勘違い?」
「俺は交渉に来たんじゃない」
黒剣をゆっくりと持ち上げる。
「宣戦布告に来たんだ」
その一言で、大広間の空気が凍りついた。
ルシアンの黄金の瞳が細くなる。
ローデリックは無言で聖剣を抜いた。
しかし、ヴァレインは二人に背を向けた。
向かった先は、会場正面。
五人の英雄を描いた巨大な肖像画だった。
その中央には、聖剣を掲げて微笑むローデリック。
ヴァレインは足を止める。
しばらく、絵を見つめていた。
「……立派な絵だな」
誰も答えない。
「世界を救った英雄たち。平和をもたらした救世主。神々に愛された偉大なる存在」
ゆっくりと振り返る。
深紅の瞳が、会場にいるすべての人間を見渡した。
「十年前、お前たちは世界を救ったそうだな」
その声から、笑みが消えていた。
「人々はお前たちを称え、神々は祝福し、歴史はその名を永遠に刻んだ」
一歩。
また一歩。
ヴァレインは肖像画へ近づく。
「だがな……」
彼の脳裏に、焼け落ちる故郷が浮かんだ。
炎。
瓦礫。
悲鳴。
伸ばされた、小さな手。
――お兄ちゃん。
唇が、わずかに震える。
だが、その感情はすぐに冷たい笑みへと変わった。
「お前たちの正義に、踏み潰された命があったことを――」
黒剣を握る手に力がこもる。
「俺は、一日たりとも忘れたことがない」
「ヴァレイン!」
ローデリックが叫ぶ。
だが、ヴァレインは止まらない。
「英雄が救った世界?」
彼は鼻で笑った。
「笑わせるな」
そして、黒剣を振り上げる。
「だったら今度は――」
深紅の瞳が、憎悪と愉悦に染まった。
「俺がお前たちの世界を壊してやる」
ザシュッ!
黒剣が、勇者ローデリックの肖像画を貫いた。
額縁が砕け散る。
絵が大きく裂け、描かれた勇者の笑顔が真っ二つになった。
悲鳴が上がる。
「貴様あああっ!」
ローデリックが聖剣を振り上げた。
眩い光が大広間を照らす。
しかし。
――パチン。
ヴァレインが指を鳴らした。
再び照明が消える。
同時に、会場のあちこちから笑い声が響いた。
『あははっ! はい、ここまでー!』
聞き覚えのない、若い男の声。
次の瞬間、暗闇の中に複数のヴァレインが現れた。
「何っ!?」
「分身だと!?」
騎士たちが混乱する。
ローデリックが聖剣を振るうと、ヴァレインの姿は霧のように消えた。
幻術。
その隙に、本物のヴァレインは窓際へ移動していた。
「さて」
彼は割れた窓枠に片足をかける。
「今宵の晩餐会は、ここまでだ」
ローデリックが振り返る。
「待て!」
「お断りする」
ヴァレインは優雅に一礼した。
「次の招待状が届かないことを、神に祈っておけ」
黒い外套が翻る。
そして男は、夜の闇へと身を投げた。
*
数分後。
王宮から離れた建物の屋上。
ヴァレインは黒い革手袋を直しながら、王宮の方角を見つめていた。
遠くでは警鐘が鳴り響き、騎士たちが街中を駆け回っている。
『ボスー! お疲れさま!』
耳元の通信魔導具から、フィンの声が聞こえてきた。
『どうだった? 僕の幻術! 最高だったでしょ?』
「……少々派手すぎる」
『えー! 絶対気に入ってたくせに!』
「仕事は終わったのか?」
『もちろん! 大臣の不正記録は王都中の魔導掲示板に流しておいたよ。朝には大騒ぎだね!』
「上出来だ」
『わっ、褒められた! 今の録音しておけばよかった!』
ヴァレインは小さく息を吐いた。
続いて、別の声が割り込んでくる。
『ヴァレイン様』
落ち着いた、美しい女性の声。
イザベル・ヴェスパーだった。
『お怪我はございませんか?』
「ない」
『本当に?』
「疑り深いな」
『あなた様の場合、無傷とおっしゃって血まみれでお帰りになることがございますので』
「今回は本当に無傷だ」
『でしたら結構です。帰還後、エドガーに確認させます』
「……まったく。お前は俺の母親か?」
『いいえ。もっと厄介な女でございます』
ヴァレインは思わず笑った。
「それは違いない」
通信を終える。
夜風が吹き抜けた。
ヴァレインは懐から一枚の紙を取り出す。
そこには、五人の英雄の名が記されていた。
ローデリック・ヴァルハルト。
エレオノーラ・セラフィス。
ヴォルフガング・アイゼン。
アルヴィス・レグナード。
ルシアン・エルディオス。
ヴァレインはその中の一つに、黒い線を引いた。
ヴォルフガング・アイゼン。
王国軍総司令官。
十年前、あの街に兵を送り込んだ男。
ヴァレインは静かに笑う。
「最初の獲物は、お前だ」
王宮の方角を見つめる。
あの建物の中では、英雄たちが今も自分たちの正義を信じているのだろう。
それで構わない。
むしろ、そうでなければ面白くない。
ヴァレインは黒剣の柄に指を滑らせた。
「せいぜい足掻け、英雄ども」
銀白色の髪が風に舞う。
深紅の瞳に、冷たい光が宿った。
「十年前、お前たちは俺からすべてを奪った」
そして、静かに告げる。
「今度は俺が、すべてを奪う番だ」
漆黒のロングコートを翻し、ヴァレインは夜の闇へと歩き出した。
世界を救った英雄たちは、まだ知らない。
自分たちが生み出した悪魔が、ついに動き始めたことを。
そして、この夜を境に――。
英雄たちの築いた平和が、少しずつ崩れ始めることを。
悪の晩餐会。
その首領、黒冠の悪魔。
ヴァレイン・クロイツ。
彼の復讐劇は、まだ始まったばかりだった。
――第1話「英雄が笑う夜」完。




