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家系ラーメンが好きすぎて、擬人化してしまった!?  作者: 源三郎


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第8話 最後ではない一杯、最初の一口

閉店前夜、主人公は赤い食券を半分に破った。


メンちゃんを救うために食べる一杯ではなく、メンちゃんを自分だけの丼に閉じ込める一杯でもなく。


同じ食券を、半分ずつ持つ。


それが、俺とメンちゃんの選んだ距離だった。


近すぎれば崩れ、離れすぎれば味が染みない。


スープに浸した海苔のように、ほんの一瞬の加減を探すために。


今回は、麺ノ家で「最後ではない一杯」を作る。


赤い食券、濡れた海苔、一口目のスープ、店主の過去、アカネの名前、他のラーメンたちの味。


そのすべてを丼の中へ戻す。


けれど、全部は混ぜない。


これは終わりの一杯ではない。


俺とメンちゃんが、次の朝へ進むための最初の一口だ。

麺ノ家の赤い看板は、夜の中で静かに光っていた。


少しくたびれたのれん、曇った窓、カウンターの向こうに見える寸胴。


寸胴ってのは、スープを炊きつづける、あのばかでかい鍋のことだ。


何度も来た場所だ。


仕事で削られた夜も、雨に濡れた夜も、上司の言葉を飲み込めなかった夜も。


俺はこののれんをくぐり、硬め、濃いめ、多めを告げてきた。


それだけで、自分に戻れる気がした。


だが今夜は違う。


俺は一人ではなかった。


隣にはメンちゃんがいる。


俺の手の中には、破れた赤い食券の半分。


メンちゃんの手にも、もう半分がある。


背後には、しおりん、ジロ子、トンちゃん、トンしょう姉さん、しょう子、みそまる、つけみ。


塩、二郎系、豚骨、豚骨醤油、醤油、味噌、つけ麺。


それぞれの味を背負ったラーメンたちだ。


そして前には、店主がいる。


店主はのれんを見上げ、短く息を吐いた。


「入るぞ」


俺たちはうなずいた。


店主が鍵を開ける。


営業は終わっている。


いや、今日は営業していない。


それでも店内に入った瞬間、ラーメン屋の匂いがした。


豚骨、醤油、それから鶏油チーユ


スープの上できらきら光る、あの鶏の脂の匂いだ。


洗われた丼、濡れたカウンター。


救いの匂い。


そして、少しだけ怖い匂い。


店に入ったとき、ほんの一瞬、妙なことが起きた。


閉まっているはずの寸胴から、細い湯気が一筋、ひとりでに立ちのぼったのだ。


その湯気の向こうに、いくつもの気配がよぎった気がした。


巡礼で回った店々。


そこにいた娘たちの、遠い気配。


ジロ子のような量の圧、しおりんのような静けさ、名も知らない直系の娘たちの匂い。


まるで、この夜のために店の記憶がそっと集まってきたようだった。


だが、それも一瞬だった。


湯気はすっと引いて、店内はまた静かになった。


メンちゃんが小さく鼻を鳴らす。


「今、誰かいた?」


「気のせいだ」


「気のせいにしては、濃かったよ」


「濃いのはお前だけでいい」


メンちゃんは少しだけ笑った。


店主が照明をつけると、蛍光灯が一つずつ灯った。


カウンター、券売機、調味料、寸胴。


全部がいつも通りに見えた。


だが、店内の空気は少し違っていた。


まるで、店そのものが何かを待っているようだった。


メンちゃんが俺の袖をつまんだ。


「ご主人様」


「何だ」


「怖い」


「ああ」


「でも、お腹も空いてる」


「正直だな」


「ラーメンだからね」


彼女は少し笑った。


その笑顔が、今夜はやけに大切に見えた。


店主はカウンターの中へ入った。


「まず確認する」


「何をですか」


「今夜作るのは、最後の一杯じゃねえ」店主は俺を見た。「そうだな」


「最後ではない一杯です」と俺はうなずいた。


「なら、食券を出せ」


俺は手の中の半分を見た。


赤い食券。


破れた断面は白い。


メンちゃんも、自分の半分を見ている。


二人でカウンターに置いた。


半分と半分。


合わせれば一枚になる。


だが、破れ目は消えない。


店主はそれを見て、小さく笑った。


「悪くねえ」


「食券としては最悪では」


「店主が受け取れば食券だ」


「雑ですね」


「ラーメン屋は細けえところと雑なところの両方でできてる」


メンちゃんが真剣にうなずく。


「分かる」


「お前は分かるんだな」


「舌が、覚えてるから」


「濁っていません」としおりんが静かに言った。


「食券が?」


「関係が」


俺は返事に困った。


相変わらず、しおりんは短い言葉で、いちばん深いところに塩を振ってくる。


店主は寸胴へ向かった。


「今夜の一杯は、普通の家系じゃねえ」


メンちゃんの肩がびくりと動いた。


「だが、家系を捨てる一杯でもねえ」


メンちゃんが少しだけ息を吐く。


「どういう一杯ですか」と俺が聞くと、店主は火を入れた。寸胴の底で、眠っていた音が目を覚ます。ごく低い、煮える前の音だった。


「兄ちゃんが、本当にうまいと思える一杯」火が強くなる。「嬢ちゃんが、自分のままでいられる一杯」鶏油の缶が開けられる。「それ以上でも、それ以下でもねえ」


「量は?」とジロ子が腕を組んだ。


「普通」


「えー」


「普通。少なめじゃないだけ感謝しな」店主が即答する。


ジロ子は不満そうに唇をとがらせた。


「普通も、あったかいよ」とみそまるが笑う。


しょう子が眼鏡を直すような仕草をした。


眼鏡はかけていないが、そういう雰囲気がある。


「まずは基本ですね」


「ああ。基本に戻る」と店主がうなずく。


「でも、香りは大事だよ」とトンちゃんがカウンターにひじをつく。


「分かってる」


「濃さの設計もね」とトンしょう姉さんがほほ笑む。


「分かってる」


少し離れた席に座ったつけみが言う。


「距離も」


店主はちらりと見た。


「それも分かってる」


「透明さも」としおりんが言う。


「お前ら、注文が多いな」店主はぼやいた。だが、声は少し楽しそうだった。


メンちゃんはカウンターの端に座り、じっと店主の手元を見ている。


俺は彼女の隣に座った。


いつもの席ではない。


いつもの俺なら、券売機で食券を買い、カウンターに座り、硬め、濃いめ、多めを告げる。


今夜は、半分の食券を出した。


好みはまだ言っていない。


それが、妙に落ち着かなかった。


「ご主人様」メンちゃんが小さく言った。「硬め、濃いめ、多めって言わないの?」


「言わない」


「いいの?」


「よくはない」


「よくないんだ」


「落ち着かない」


メンちゃんは少し笑った。


「ご主人様らしい」


「だが、今日は違う」俺はカウンターの上の半分の食券を見た。「今日は、俺一人の好みで決める日じゃない」


メンちゃんの指が、食券に触れる。


「じゃあ、私の好みも入れる?」


「入れる」


「硬め濃いめ多め」


「お前もそれか」


「そこは、私も同じ」


「だが、今日はそれだけじゃない」


メンちゃんは黙った。


俺は言葉を探した。


こういうとき、気のきいたことを言えればいいのだが、俺はラーメン以外の言語に弱い。


「硬めは、いい」


「うん」


「でも、濃いめは少しだけ控える」


メンちゃんの肩が少し揺れた。


「油も」


「少なめ?」


「普通」


「普通」メンちゃんはその言葉を、初めて聞いた料理名みたいに繰り返した。


「嫌か」と俺が聞くと、彼女は首を横に振った。


「ちょっと怖い。でも、ご主人様が無理しないなら、それがいい」


「俺だけじゃない」


「え?」


「お前も無理するな」


メンちゃんは目を見開いた。


「私も? 家系なのに?」


「家系でも」俺は言った。「濃くなきゃいけない日ばかりじゃない」


メンちゃんは少し泣きそうな顔をして、それから笑った。


「それ、ちょっと薄いけど美味しい言葉」


「薄いのか」


「でも、ちゃんと味がする」


「ならいい」


店主が麺箱を開けた。


太麺。


いつものように頼もしい麺だ。


「麺は硬めでいいな」と店主が聞く。


俺とメンちゃんは同時に言った。


「硬めで」


「硬め」


店主は笑った。


「そこは譲らねえのか」


「そこは」


「ゆずれない」


俺とメンちゃんの声が重なり、少しだけ店内が笑った。


ラーメンたちが笑う。


しおりんだけは表情が薄いが、たぶん少し笑っている。


寸胴からスープがすくわれ、丼に醤油ダレ、鶏油、スープ。


湯気が立ち、香りが広がる。


白い湯気が、カウンターの明かりを受けてゆっくりと立ちのぼる。


その一本一本が、今夜はいつもより優しく見えた。


濃厚だ。


だが、暴力的ではない。


豚骨の芯はあり、醤油のキレもあり、鶏油のまろやかさもある。


けれど、どこか余白があった。


俺の胃袋が少し安心し、同時に心が少し寂しがる。


俺は本当に面倒な男だ。


濃いものを求めている。


でも、濃すぎると壊れることを、もう知ってしまった。


麺が湯へ入る。


湯切りの音。


店主の手元に迷いはない。


だが、その横顔はいつもより少しだけ静かだった。


アカネの名前を呼んだ後の店主。


その背中には、長い後悔がまだ残っている。


けれど今夜の彼は、過去を作っているのではなく、次の一杯を作っていた。


麺が丼へ入り、チャーシュー、ほうれん草、海苔。


海苔は三枚。


メンちゃんが少しだけほっとした顔をした。


「三枚」


「そこは減らさねえ」と店主が言う。


「海苔は命だから」とメンちゃんが真顔で言う。


「そこは同意する」と俺も真顔で返した。


最後に、店主は小さな皿を置いた。


刻み生姜、少量のニンニク、豆板醤。


「味変は別皿だ」


「局地的味変」メンちゃんの目が光る。


丼の一部分だけ味を変えて、残りはそのまま楽しむ。あの遊びだ。


「ああ」店主はうなずいた。「戻れなくなる味変は、今日はなしだ」


その言葉が、妙に胸に残った。


戻れなくなる味変。


たぶん、ラーメンだけの話ではない。


目の前に、丼が置かれる。


湯気が立つ。


その湯気は、俺とメンちゃんのあいだで、ゆらゆらと揺れていた。


まるで、二人の顔をつなぐ細い橋のように。


その向こうで、メンちゃんが俺を見ている。


メンちゃんが初めて現れた朝と同じだ。


でも、違う。


あのときは、俺は状況に振り回されていた。


今は、自分でここに座っている。


メンちゃんを消さないためでもなく、自分の味に閉じ込めるためでもなく、二人で次へ行くために。


「食え」と店主が言った。


俺はレンゲを取った。


メンちゃんが小さく息をのむ。


他のラーメンたちも静かになる。


湯気だけが、しずかに立ちつづけていた。


一口目はスープ。


これは礼儀だ。


店が出した完成形を、まず受け止める。


レンゲを口へ運ぶ。


熱い。


豚骨のうま味が舌に広がり、醤油のキレが後から追いかけ、鶏油が全体を包む。


濃い。


でも、重すぎない。


足りないわけではない。


逃げているわけでもない。


ただ、続けられる濃さだった。


俺は目を閉じた。


うまい。


言葉にする前に、身体がそう思った。


義務じゃない。


嘘でもない。


誰かを消さないための一口でも、もうなかった。


俺はレンゲを置き、メンちゃんを見た。


彼女は、少し震えていた。


「ご主人様」


「うまい」


その瞬間、店内の湯気が一斉に揺れた。


丼から立つ湯気も、寸胴から漏れる湯気も、みんな同じ方へ、ふわりとなびいた。


メンちゃんの胸元に灯っていた赤い光が、ふっとほどける。


消えるのではない。


赤が、琥珀色に変わっていく。


鶏油みたいにあたたかい、金色に近い色だ。


湯気がその光を受けて、ほんのりと金色に染まった。


メンちゃんの目から、涙がこぼれた。


「胸の奥が温かい」彼女は胸を押さえた。


「すごく、ぽかぽかする」


俺は何も言えなかった。


言えば、たぶん変なことになる。


だから、麺をすすった。


硬めの太麺。


ちゃんと硬い。


小麦の甘み、スープの絡み。


うまい。


メンちゃんが笑う。


「いい顔」


「見るな」


「見るよ」


「恥ずかしい」


「その顔から、私は生まれたんだもん」


以前なら、その言葉は少し怖かった。


今は、少し違う。


俺の顔からだけではない。


店、街、店主、客、記憶。


そして、メンちゃん自身。


彼女は、いろんなものからできている。


俺だけのものではない。


だからこそ、隣にいてほしい。


海苔を一枚取り、スープに沈める。


一秒、二秒。


引き上げて、白飯を巻く。


今日は豆板醤をつけない。


まずはそのまま、口へ運ぶ。


米、海苔、スープ。


世界が完成する。


だが、完成した世界は、閉じていなかった。


隣にメンちゃんがいる。


メンちゃんは食べない。


ラーメンの化身だから、自分自身は食べられない。


でも、俺が食べるのを見ている彼女の顔は、確かに何かを味わっていた。


湯気がその頬をなでて、ゆっくりとほどけていく。


その顔を見ているのが、たぶんこの一杯で一番うまいところだった。


カウンターの向こうに店主がいて、他のラーメンたちもいて、アカネの記憶も、たぶんどこかにいる。


俺は海苔ライスを飲み込んだ。


「メンちゃん。海苔、ちょうどいい」


彼女は一瞬きょとんとして、それから泣きながら笑った。


「それ、告白?」


「違う」


「違うの?」


「海苔の話だ」


「ご主人様らしい」


彼女はそう言って、破れた食券の半分を胸に当てた。


俺の手元にある半分も、淡く光る。


赤ではない。


琥珀色。


それは、メンちゃんの瞳の色だった。


メンちゃんは、涙を左手の甲でぬぐった。


そのとき、気づいた。


彼女の左手の小指。


その先だけが、琥珀色のままだった。


胸の赤い光は、もうほどけて消えた。


食券は、あたたかい琥珀に変わった。


なのに、小指の先——爪の半分ほどのところだけ、色が残っている。


丼の湯気がその指先を通るとき、光がすっと透けた。


湯気を透かしたような、淡い琥珀だった。


「メンちゃん」


「なあに?」


「左手」


メンちゃんは自分の左手を見た。


一瞬、動きが止まる。


それから、すっと手をカウンターの下へ隠した。


「なんでもない」


「なんでもなくは、ないだろ」


「痛くないよ」彼女は早口で言った。「ほんとに、ぜんぜん痛くないの」


「見せてくれ」


「……やだ」


「メンちゃん」


「せっかく、いい夜なのに」


その声が少しだけ震えていて、俺は言葉に詰まった。


彼女は、怖がっているんじゃない。


俺に心配をかけたくないのだ。


戻ってきたばかりの、この夜に。


カウンターの向こうで、店主が静かに言った。


「嬢ちゃん。隠すな」


メンちゃんの肩が跳ねる。


「隠したもんは、濁る。スープと同じだ」


メンちゃんはしばらくうつむいて、それから、ゆっくりと左手をカウンターの上に出した。


小さな手。


小指の先だけが、湯気の色をした琥珀に光っている。


食券の琥珀と、同じ色。


でも、同じではなかった。


食券の琥珀は、約束が生きている印だ。


見ていると、胸のあたりが温かくなる。


小指のそれは——まだ終わっていない色だった。


「消えるよね、これ」とメンちゃんが小さく聞いた。


店主は、寸胴の湯気を見たまま答えた。


「戻ってきたもんには、返しきれてねえ分が残る」


「返しきれてない、分」


「兄ちゃんの本心のうまいで、嬢ちゃんは戻った。だがな、うまいってのは、一杯で払いきれるもんじゃねえ」


俺は、自分のレンゲを見た。


さっきの一口。


嘘のない、うまい。


あれでメンちゃんは戻ってきた。


でも、あの一口だけでは、まだ足りないということか。


「じゃあ、どうすれば」と俺が聞くと、店主は首を振った。


「慌てて返すな」


「え」


「慌てて返す借りは、また嘘になる。義理のうまいを百杯並べたって、その色は抜けねえ」


店主は、メンちゃんの小指を見た。


「日々の中で返すもんだ」


「日々の中で」


「今日みてえな一杯を、これから何度も食う。ラーメンでも、そうじゃなくても。本心のうまいを、暮らしの中で重ねていく。それだけのことだ」


メンちゃんは、自分の小指をじっと見た。


湯気が、その先を透かして揺れる。


「宿題、みたい」


「宿題だ」と店主が言った。「期限のねえ、うまい宿題だな」


メンちゃんは少しだけ笑った。


まだ不安そうだったけれど、隠すのはやめたようだった。


俺は、その小指を見た。


痛みはないという。


なら、これは傷じゃない。


しるしだ。


戻ってきたことの。


そして、まだ途中だということの。


「メンちゃん」


「うん」


「その指、これからは隠すな」


「……隠したら?」


「怒らない」


「怒らないんだ」


「ただ、勝手に心配する」


「それは、ずるい」


メンちゃんはそう言って、小指をちょんと立てた。


「ゆびきりみたいだね」


「ゆびきり?」


「約束の指に、約束が残ってるの」


うまいことを言われた気がして、俺は返事の代わりに麺をすすった。


しおりんは透明な瞳でうなずき、ジロ子は満足そうに笑った。


トンちゃんは替え玉を引っ込め、しょう子はそろえた箸から手を離す。


みそまるの湯気がメンちゃんの指先を包み、つけみは少し離れた席で静かに目を伏せた。


それだけで十分だった。


全員が、同じことを言っている。


これでいい、と。


店主は、何も言わなかった。


ただ、カウンターの奥で腕を組んでいる。


だが、その目は少し赤かった。


「店主さん」と俺が呼ぶ。


「何だ」


「うまいです」


店主は顔を背けた。


「知ってる」


「アカネさんも。たぶん、うまいって言うと思います」


店主の肩が止まった。


しばらく黙って、やがて小さく言う。


「そうだといいな」


その声は、今まで聞いた中で一番柔らかかった。


一杯を食べ終えるまで、俺は急がなかった。


スープは全部飲まなかった。


以前の俺なら、飲み干していただろう。


丼の底が見えるまで飲みほしていた。


身体に悪いと分かっていながら、「今日は必要なんだ」と言い訳しながら。


だが今夜は、レンゲを置いた。


少しだけスープを残す。


丼の中で、湯気がまだ細く立っている。


メンちゃんが俺を見る。


責める目ではなかった。


寂しそうでもなかった。


ただ、俺の顔を見ていた。


「残すの?」


「ああ」


「美味しくなかった?」


「うまかった」


「じゃあ」


「だから、残す」


メンちゃんは黙った。


俺は丼を見た。


「全部飲まなくても、うまかったことは消えない」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥が軽くなった。


メンちゃんの目が大きく開く。


「うん」彼女はゆっくりうなずいた。「消えない」


「ああ」


「食べない日があっても?」


「消えない」


「他のラーメンを美味しいって言っても?」


「消えない」


「私が、家系以外のことを知っても?」


「消えない」


メンちゃんは涙をこぼした。


その涙を、丼の湯気がそっと温めた。


「じゃあ、私、ここにいていい?」


「ああ」


「毎日ラーメン作らなくても?」


「週一から相談しよう」


「週一」


「まずは」


「少ない」


「相談だ」


「じゃあ、週二」


「相談だ」


「硬め」


「何が」


「交渉」


「うまいこと言うな」


メンちゃんは笑った。


俺も、少し笑った。


その笑いは、湯気に混ざって店内へ広がる。


すると、カウンターの端に置かれていた海苔が一枚、ふわりと浮いた。


いや、浮いたように見えた。


スープを吸って濡れた海苔。


家系ラーメンが俺の日常に入り込んできた、あの朝の景色。


赤い食券の横にあった、濡れた海苔。


それが今、俺の目の前にある。


だが、意味は違う。


あのときは、不吉な残りものに見えた。


今は、ちょうどいい距離の証だった。


スープを吸いすぎて破れたわけでもなく、乾いたままでもない。


飯を巻ける。


まだ次へ行ける。


メンちゃんが海苔を見つめる。


「ご主人様」


「何だ」


「明日、朝ごはん作っていい?」


俺は一瞬、身構えた。


「何を」


メンちゃんは少し考えた。


「お味噌汁」


店内が静かになった。


みそまるが小さくガッツポーズをする。


「勝った」


「勝ってない」メンちゃんが慌てて言う。


「家系じゃないのか」と俺が聞くと、彼女はうなずいた。


「うん。明日は、軽く。でも、海苔は入れる」


「そこは譲らないのか」


「家系だからね」


俺は笑った。


明日の朝食は家系ラーメンではない。


メンちゃんが現れた夜、俺の胃袋は未来に絶望していた。


だが今は、少しだけ明日の朝が楽しみだった。


食べ終えた丼を、店主が下げる。


赤い食券の半分は、俺とメンちゃんの手元に残ったままだ。


「それ、持ってろ」と店主が言った。


「いいんですか」


「もう店の食券じゃねえ」店主はカウンターを拭く。「約束だろ」


俺は半分の食券を見た。


破れた紙。


だが、そこに不吉な赤はもうない。


琥珀色の光が、ほんの少しだけ残っている。


メンちゃんの半分も同じだった。


「ご主人様」


「何だ」


「これ、なくしたら怒る?」


「怒る」


「どれくらい?」


「海苔を沈めすぎた時くらい」


メンちゃんは真顔になった。


「それは重罪だよ」


「だから大事にしろ」


「うん」


メンちゃんは食券を大切そうに胸にしまった。


店の外では、夜が深くなっている。


けれど、店内は少し暖かかった。


ラーメンたちは、それぞれの気配を薄め始めていた。


しおりんは透明な湯気のように。


ジロ子は大きな影のように。


トンちゃんは濃い香りの残りのように、トンしょう姉さんは醤油ダレの深い光のように。


しょう子は昔ながらのだしの線のように、みそまるは溶けたバターの温度のように。


つけみは、スープ割りの最後の香りのように。


みんな、少しずつ店内から離れていく。


「また会えるのか」と俺が聞くと、しおりんはうなずいた。


「美味しいと思えば」


「向き合えばね」とジロ子が笑う。


「替え玉したくなったら呼んで」とトンちゃんが手を振る。


「焦らなくていいわ。濃さは、育てるものだから」とトンしょう姉さんがメンちゃんを見る。


「基本を忘れずに」としょう子が言う。


「寒い日は、ちゃんとあったまってね」とみそまるが笑う。


つけみが言った。


「距離は、悪者ではない」


それから、しおりんの透明な瞳が、メンちゃんの左手の小指で止まった。


「その琥珀は、濁っていません」


メンちゃんは左手をきゅっと握って、それから、ゆっくり開いた。


「うん」


「だから、ゆっくりでいい」


メンちゃんは、全員に向かって小さく頭を下げた。


「ありがとう」


それは、メンちゃんが初めて他のラーメンたちへ素直に言った言葉だった。


彼女たちは、湯気のように消えた。


その湯気が天井へのぼっていくのを、メンちゃんは最後までじっと見送っていた。


店内には、俺とメンちゃんと店主だけが残る。


店主は、寸胴の火を落とした。


音が静かになる。


「閉店だ」と店主が言った。


「麺ノ家、閉めるんですか」と俺が聞くと、店主は首を振った。


「今日はな」


「今日は」


「明日は開ける」店主は俺を見た。「ただ、少し変える」


「何を」


「券売機に、新しいボタンを増やす」


メンちゃんの目が輝いた。


「家系ラーメン?」


「それは元からある」


「じゃあ、何?」


店主は少し考えた。


「半券定食」


「何ですか、それ」


「まだ決めてねえ」


「決めてないのにボタン作るんですか」


「名前から入ることもある」


俺は少し笑った。


店主も少し笑った。


アカネの名前を呼んだ店主は、少しだけ変わったように見えた。


過去が消えたわけではない。


だが、過去に閉じ込められているだけでもない。


俺たちは店を出た。


夜風が頬に触れる。


メンちゃんが隣にいて、いつものように袖をつまもうとして、途中でやめた。


俺はそれに気づいた。


「つままないのか」


「つまんでいい?」


「聞くのか」


「距離感、大事だから」


「そうだな」


俺は少し考えてから、自分から袖を差し出した。


メンちゃんは嬉しそうに、ほんの少しだけつまんだ。


つまんだのは、右手だった。


左手は、体の横で軽く開かれている。


小指の先の琥珀が、夜道でほんのりと光った。


街灯よりずっと小さい。


でも、消えない光だった。


強く握らない。


離れすぎない。


それで十分だった。


駅へ向かう道を歩く。


夜の横浜。


看板、商店街、遠くの港、電車の音。


世界は広い。


ラーメン屋の外にも、味はある。


だが、俺は家系ラーメンが好きだ。


それは変わらない。


メンちゃんが好きだ。


それも、たぶん変わらない。


ただ、その好きは以前より少しだけ静かになった。


薄くなったわけではない。


最後まで飲める濃さになったのだと思う。


「ご主人様」


「何だ」


「今日の一杯、何点?」


「点数はつけない」


「えー」


「点数をつけたら、終わる気がする」


「じゃあ、言葉で」


俺は少し考えた。


「また食べたい」


メンちゃんは立ち止まった。


「それ」


「何だ」


「最高の褒め言葉かも」


「そうか」


「うん」彼女は笑った。「また、作ろうね」


「ああ」


「次は?」


「次?」


「次の家系の日」


俺は空を見上げた。


明日の朝は味噌汁。


その次は、たぶん普通の飯。


家系ラーメンは、少し先でいい。


少し先にあるから、楽しみになる。


「来週」と俺は言った。


メンちゃんは少しだけ頬を膨らませた。


「遠い」


「近すぎると崩れる」


「海苔みたいに?」


「海苔みたいに」


彼女は笑った。


「じゃあ、来週まで美味しく待つ」


「ああ」


駅の明かりが近づく。


俺たちは並んで歩いた。


袖を、ほんの少しだけつままれたまま。


メンちゃんが現れる前のあの夜、俺は空の丼に向かって、ずっと一緒にいたいと言った。


その願いは、思っていた形では叶わなかった。


毎日同じものを食べ続けることでも、誰かを自分だけの丼に閉じ込めることでもなかった。


それでも、次に一緒に食べる一杯を楽しみにできるなら。


俺は、それでいい気がした。


ポケットの中で、半分の食券がかすかに温かい。


隣で、メンちゃんが小さく鼻歌を歌っている。


家系ラーメンみたいに濃くて、海苔みたいに繊細で、鶏油みたいに少し甘い。


そんな、よく分からない鼻歌だった。


俺は笑いそうになって、こらえた。


ハードボイルドだからだ。


たぶん。


翌朝、台所から味噌汁の匂いがした。


豚骨醤油ではない。


ニンニクでもない。


だが、悪くない。


湯気が、朝の光の中をやわらかく立ちのぼっていた。


布団の中で目を開けると、メンちゃんの声が聞こえた。


「ご主人様、起きて。朝ごはんできたよ」


俺は少しだけ身構えた。


「ちなみに」


「お味噌汁とご飯」


「ラーメンは?」


「ないよ」


「本当に?」


「本当に」間があった。「海苔はあるけど」


「それは許す」


メンちゃんが笑う。


俺は布団から起き上がった。


食卓には、味噌汁と白飯、そして小さな皿に海苔。


味噌汁からは、細い湯気がまっすぐに立っている。


メンちゃんは少し不安そうに俺を見ている。


「どうかな」


俺は箸を取り、味噌汁を一口飲んだ。


あたたかい。


濃厚ではない。


重くもない。


でも、うまい。


「うまい」


そう言うと、メンちゃんは胸に手を当てた。


「じんわりする」


「ラーメンじゃなくても?」


「うん」彼女は嬉しそうに笑った。「ラーメンじゃなくても、嘘じゃない美味しいは胸に届くんだね」


俺は白飯に海苔を乗せた。


スープに浸してはいない。


ただの海苔だ。


それでも、今日はそれでよかった。


「メンちゃん」


「なあに?」


「来週、麺ノ家行くぞ」


彼女の顔がぱあっと明るくなる。


「硬め?」


「硬め」


「濃いめ?」


俺は少し考えた。


「その日の体調次第」


メンちゃんは一瞬驚いた顔をして、それから笑った。


「うん。体調、大事」


「油は」


「普通?」


「たぶん」


「たぶん」彼女はくすくす笑った。「ご主人様、大人になったね」


「三十手前だ」


「そういう意味じゃないよ」


「分かってる」


朝の光が、部屋に入ってくる。


味噌汁の湯気が、その光の中でゆっくりと溶けていく。


テーブルの端には、半分の食券が置いてある。


もう赤くはない。


琥珀色に、ほんの少しだけ光っている。


完全には、消えていない。


その光が消えないのは、いつか来る最後の一杯が、まだ来ていないからだ。


メンちゃんも、それに気づいていた。


胸に手を当て、食券の琥珀をなぞるように指を動かす。


「ご主人様」


「何だ」


「わたし、思ったんだけど」


彼女は味噌汁の椀を見て、それから自分の手のひらを見た。


「わたし、いつか“家系じゃない自分”になっちゃったら…」


「……」


「それでも、わたしなのかな」


俺は、すぐに答えられなかった。


昨日なら、「消えない」と言えた。


うまかったことは消えない、と。


でも、これは少し違う問いだった。


味が変わっても、お前はお前か。


家系から離れても、お前はメンちゃんか。


その答えを、俺はまだ持っていない。


「分からない」と俺は正直に言った。


メンちゃんは、少しだけ不安そうな顔をした。


「でも、いま飲んだ味噌汁は、うまかった」


「それ、答えになってる?」


「なってない」


「なってないんだ」


「でも、その答えは、これから一緒に探せる」


メンちゃんは、しばらく俺を見ていた。


それから、ふっと笑った。


「うん。じゃあ、探そうね」


彼女は、味噌汁の椀を両手で持ち直した。


左手の小指だけが、椀に触れないように、少しだけ浮いている。


その先は、まだ琥珀色だった。


朝の光の中で見ると、湯気と同じくらい淡い。


「メンちゃん」


「ん?」


「指、まだ光ってるな」


彼女は自分の小指を見て、今度は隠さなかった。


「うん。宿題だから」


「宿題」


「日々の中で返すんだって。店主さん、そう言ってた」


「そうだな」


「だからね」彼女は、小指をちょんと立てた。「来週の麺ノ家も、その先のごはんも、ぜんぶ宿題の続きなの」


「宿題が楽しみなのは、初めてだ」


「わたしも」


俺たちは朝食を食べた。


ラーメンではない朝食を、メンちゃんと一緒に。


それはとても普通で、だからこそ、少し奇跡みたいだった。


食卓の上を、湯気が二筋、ゆっくりのぼっていく。


その白の中に、小さな琥珀がひとつ、透けて光っている。


返しきれていないものが、まだここにある。


でも、それは取り立ての色じゃない。


明日も、明後日も、本心のうまいを探していい——そういう色だ。


そして俺たちは、この普通の、少しだけ宿題の残った日々の続きに何が待っているのか——その最初の一口を、まだ知らない。

麺ノ家で、赤い食券は半分ずつの約束になった。


濡れた海苔と一口目のスープは、もう不吉なものではない。


朝の食卓には、味噌汁の湯気が立っている。

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家系ラーメンを愛しすぎた男と、ラーメンの化身・メンちゃんの物語。
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