第9話 ラーメンじゃない朝、消えない湯気
麺ノ家の一杯で、メンちゃんは戻ってきた。
ただし、左手の小指の先だけは、琥珀色のまま戻らなかった。
返しきれていない分——借りが、そこに残っている。
赤い食券、濡れた海苔、一口目のスープ。
それらは、俺とメンちゃんの間にあった危うい約束を、もう一度結び直すための儀式になった。
けれど、奇跡の夜が終わった後にも、朝は来る。
ラーメン屋じゃない部屋、スープを炊く寸胴じゃない普通の鍋、豚骨醤油じゃない匂い。
そこでメンちゃんが消えないか。
俺が、ラーメンじゃないものを本心からうまいと言えるか。
今回は、派手な決戦ではない。
ラーメンじゃない朝を、二人で越える話である。
味噌汁の湯気は、静かだった。
豚骨醤油みたいに部屋を乗っ取ることもない。
ニンニクみたいに鼻の奥まで攻めこんでもこない。
スープの表面で金色に光る鶏の脂——鶏油みたいな派手さもなかった。
ただ、白い湯気が、食卓の上でまっすぐ立っている。
俺は箸を持ったまま、その湯気を見ていた。
向かいにメンちゃんが座っている。
金色のツインテール、赤いリボン、琥珀色の瞳。
昨日の夜、海苔の湯気の中から戻ってきたときと同じ姿だ。
だが、今朝のメンちゃんは、いつものように胸を張っていなかった。
「どう?」と小さく聞いてくる。
「まだ飲んでない」
「飲んでから感想言って」
「なら聞くな」
「だって、緊張するんだもん」
メンちゃんは両手を膝の上で握っていた。
右手で左手を包みこむ、少しだけ不自然な握り方だった。
左手の小指を、隠している。
昨日の夜、海苔の湯気の中から戻ってきたメンちゃんの左手は、小指の先だけが琥珀色のまま戻らなかった。
湯気を透かしたような淡い色で、痛みはないらしい。
けれど彼女は、ずっとその指を隠そうとしている。
——戻ってきたもんには、返しきれてねえ分が残る。
店主は昨夜、短くそう言った。
——慌てて返すな。日々の中で返すもんだ。
日々の中で、と言われても、その最初の一食は家系ではなく味噌汁だった。
家系ラーメンを出すときの彼女は強い。
麺の硬さにもスープの濃さにも迷いはない。
海苔を沈める秒数にいたっては、もはや信仰に近い。
だが、味噌汁の前では、少しだけ不安そうだった。
俺は椀を持ち上げた。
湯気が顔に触れる。
味噌、出汁、少しだけ豆腐、わかめ。
そして、ほんのわずかに海苔の香り。
「海苔、入れたな」
「ちょっとだけ」
「家系の未練か」
「魂って言って」
俺は味噌汁を一口飲んだ。
あたたかい。
濃厚ではない。
重くない。
米を強引に呼ぶような圧もない。
けれど、胃の奥にすとんと落ちる。
昨日の夜の一杯とは、まるで違う。
違うのに——
「うまい」
声に出すと、メンちゃんの肩が小さく揺れた。
その拍子に、膝の上で隠されていた左手がほどけた。
小指の先の琥珀色が——ほんの少しだけ、薄くなっていた。
見間違いではない。
湯気が一枚ぶん晴れたくらいの、わずかな、けれど確かな変化だった。
「メンちゃん。指」
「え?」
彼女は自分の左手を見て、固まった。
「……薄くなってる?」
「なってる」
「味噌汁だよ? 家系じゃないんだよ?」
「俺の本心なら、種目は問わないんじゃないのか」
メンちゃんは小指と椀を交互に見た。
「借りって、家系で返すものだと思ってた」
「店主も、家系で返せとまでは言ってなかった」
あの言葉の「日々」には、味噌汁の朝も入っているらしい。
メンちゃんは胸に手を当てた。
「あったかい」
「昨日も言ってたな」
「うん」メンちゃんは少しだけ笑った。「ラーメンじゃないのに、ぽかぽかする」
「よかったな」
「うん」
笑っているのに、泣きそうな顔だった。
昨夜、海苔の湯気から戻ってきた直後、メンちゃんはぽつりと言っていた。
いつか家系じゃない自分になっちゃったら、それでもわたしなのかな、と。
俺は、まだその答えを持っていない。
けれど、ラーメンじゃない味噌汁を「うまい」と言われただけで泣きそうになるこいつは、たしかにメンちゃんだった。
俺は白飯を食べ、その上に小さく切った海苔を乗せた。
スープに沈めない。
ただの海苔。
けれど、箸で持ち上げると、メンちゃんが少しだけ目を輝かせた。
「海苔、雑に扱わないでね」
「味噌汁の朝でも言うのか」
「海苔はいつでも本気だよ」
「重いな」
「ご主人様に似たんだよ」
反論できなかった。
俺は海苔を乗せた飯を食べた。
うまい。
ラーメンではない。
でも、うまい。
それを言葉にしようとしたとき、食卓の端が淡く光った。
赤い食券の半分。
昨夜、メンちゃんと分けた半券だ。
もう赤くはない。
琥珀色に、ほんの少しだけ光っている。
メンちゃんもそれを見た。
「まだ、光ってる」
「悪い光か?」
「分かんない」彼女は指先で半券に触れた。「でも、昨日みたいに怖くない」
「ならいい」
昨日までの赤は、どこか命令に似ていた。
食べろ、選べ、失う前に決めろ。
そんな色だった。
だが、今朝の琥珀色はせかしてこない。
次にうまいと言う日まで、静かに待っていてくれる。
最後の一杯は、いつか来る。だが、今日じゃない。
だから今日も、俺は自分で選べる。
そういう色だ。
テーブルの下で、メンちゃんの左手が、また右手の中へ戻っていった。
同じ琥珀色でも、半券と小指は別物だ。
半券は、約束がまだ生きている印。
小指は、まだ返し終えていない印。
「ご主人様」
「何だ」
「今日、お昼どうするの?」
来た。
俺は味噌汁の椀を置いた。
今朝の一番大きな問題は、実はそこだった。
「会社で食う」
「ラーメン?」
「たぶん違う」
メンちゃんの表情が、ほんの少しだけ固まった。
「そっか」
声は明るい。
明るくしようとしている。
俺はその顔を見た。
あの夜、俺はメンちゃんを取り戻した。
だが、取り戻したからといって、すべてが終わったわけではない。
好きなものを長く好きでいるために、距離を選ぶ。
その言葉は、夜のラーメン屋では格好よかった。
だが朝の部屋では、ただの日常になる。
昼飯をどうするか。
それだけの話になる。
それが、意外と難しい。
「メンちゃん。昼にラーメン食わなくても、俺はお前を忘れない」
彼女は目を丸くした。
「うん」
「ただ、夜にラーメン食わない日もある」
「うん」
「それでも、来週は麺ノ家に行く」
メンちゃんの指が、半券の上で止まった。
琥珀色の小指と半券が、一瞬だけ並んだ。
「約束?」
「予定だ」
「予定?」
「約束より、現実的だ」
メンちゃんは少し考え、それからふっと笑った。
「ご主人様らしいね」
「褒めてるのか」
「たぶん」
「たぶんか」
味噌汁の湯気が、二人の間で揺れた。
近すぎず、離れすぎず。
海苔をスープに浸す前の、一瞬みたいな距離だった。
会社へ向かう道は、いつもと同じだった。
駅前のコンビニ、濡れたアスファルト、信号待ちの人混み、朝の電車の少し湿った空気。
だが、俺のポケットには赤い食券の半分が入っている。
それだけで、いつもの通勤が少し変わって見えた。
会社に着くと、後輩が俺を見て首をかしげた。
「あれ?」
「何だ」
「今日、ラーメン臭しませんね」
「朝は味噌汁だった」
「えっ」後輩は本気で驚いた顔をした。「大丈夫ですか? 体調悪いんですか?」
「失礼だな」
「いや、先輩が朝ラーメンじゃないって、わりと事件ですよ」
「事件にするな」
俺は席に着き、パソコンを開いた。
画面には、昨日から残っている資料修正のメールが並んでいた。
上司からの件名は、相変わらずふわっとしていた。
「至急」「念のため」「軽く確認」。
どれも軽くない。
俺は深く息を吐いた。
こういうとき、以前の俺なら、頭の中にラーメン屋の暖簾が浮かんでいた。
仕事が終わったら家系。
硬め、濃いめ、多め。
ニンニク、ライス、海苔。
それで一日を取り戻す。
その考えは、今もある。
消えていない。
だが、今日の俺は、それを今すぐ握りしめていなかった。
ポケットの中の半券に触れる。
琥珀色の光は見えない。
だが、少しだけ温かい気がした。
昼が近づくと、後輩がそわそわし始めた。
「先輩、今日こそ社食行きましょうよ」
「社食?」
俺は嫌な予感がした。
先週あたりから、うちの会社の社食は、なぜか少しずつ家系に寄っている。
味噌汁は妙に白く濁り、頼んでもいない海苔が小鉢に沈む。
誰も原因を知らないらしい。
そして後輩は、もう手遅れだった。
トレーの上に、海苔を三枚きれいに重ねている。
「先輩、海苔って、二枚目からが本番なんですよ」
「誰に教わった」
「分かりません。気づいたら、知ってました」
目が据わっている。
家系中毒の目だ。
俺はメンちゃんの顔を思い出した。
まさか、こいつにまで移ったのか。
「後輩。お前、今朝、何食った」
「ニンニ……納豆です」
「今、ニンニクって言いかけたな」
「言ってません」
言った。
このままだと、俺だけじゃなく、会社ごと家系に沈む。
今日の昼くらいは、ちゃんと逃げよう。
「悪い。今日は外で食う」
昼休み、俺は会社近くの定食屋へ入った。
ラーメン屋ではない。
看板には、焼き魚定食と書かれている。
入口で一度だけ足が止まった。
店の二軒隣にはラーメン屋があり、昼時の匂いが流れてくる。
醤油、鶏ガラ、少し焦げたネギ。
普通にうまそうだった。
俺はその匂いを吸い込んだ。
食べたい、と思った。
思ったが、今日は違う。
違うというより、今日は焼き魚定食を食べたいと思った。
それも、嘘ではなかった。
「いらっしゃい」と定食屋の店主が言う。
俺は券売機の前に立った。
焼き魚定食、ご飯普通、味噌汁つき。
ボタンを押すと、食券が出てくる。
白い食券だ。
赤くない。
俺はそれを見て、少し笑った。
「何笑ってんだ、俺は」
赤い食券ではない。
ただの昼飯の食券。
それでも、俺は少しだけ救われた。
食券は、全部が契約になるわけではない。
選び方を間違えたときだけ、食券は重くなる。
カウンターに座り、水を飲む。
隣の客が唐揚げ定食を食べている。
うまそうだ。
世界には、ラーメン以外にもうまそうなものが多すぎる。
昔の俺なら、それを少し裏切りみたいに感じたかもしれない。
今は、そう思わなかった。
焼き魚定食が運ばれてくる。
鮭、白飯、味噌汁、小鉢、漬物。
派手ではない。
濃厚でもない。
だが、湯気が立っている。
俺は箸を取った。
その瞬間、カウンターの端で、箸立てがかすかに揺れた。
ことん。
箸が一本、きれいに向きを変えた。
その隣で、醤油差しも小さく鳴った。
ことん。
メンちゃんと暮らし始めた頃、キッチンの棚で鳴った醤油差し。
あのときはただの怪異だと思った。
だが今なら分かる。
あれは、しょう子の気配だった。
「まずは基本に戻りましょう」
声がした気がした。
しょう子。
姿は見えない。
だが、背筋の伸びた気配が、箸の先にあった。
「焼き魚定食にも基本があるのか」と俺が小さくつぶやくと、隣の客がちらりと見た。
俺は咳払いをした。
焼き魚をほぐし、白飯に乗せ、味噌汁を飲む。
順番。
基本。
なるほど、悪くない。
味噌汁の湯気がふわりと上がった。
その湯気の中に、味噌色のリボンが見えた気がした。
家の棚で、誰も触っていない味噌のパックが開いていた朝。
あれも、きっとこの子だったのだろう。
俺とメンちゃんがラーメン以外の食卓へ向かえるように、ずっと端で温度を残していた。
「寒い日は、我慢しちゃだめだよ」
みそまるの声。
俺は味噌汁をもう一口飲んだ。
あたたかい。
今日は寒い日ではない。
それでも、温かいものは必要だった。
社食の白く濁った味噌汁とは、まるで違う。
これは、ちゃんと味噌汁だった。
焼き魚を食べ、白飯を食べる。
うまい。
ラーメンではない。
だが、うまい。
その言葉を、俺は心の中だけで終わらせなかった。
「うまい」
小さく言うと、ポケットの中で半券が少しだけ温かくなった。
赤くはならない。
琥珀色のまま、じんわり温まる。
ラーメンではない「うまい」は、メンちゃんを消さない。
あの日透けたメンちゃんの指先への答えが、焼き魚定食の湯気の中にあった。
俺は目を閉じた。
メンちゃん。
消えていないか。
不安が胸をよぎる。
だが、すぐにスマホが震えた。
メッセージ。
メンちゃんからだった。
『ご主人様、お昼なに食べてる?』
俺は少し迷って、焼き魚定食の写真を撮って送った。
すぐに返信が来る。
『海苔ない』
俺は笑いそうになった。
『そこか』
『そこだよ』
続けて、もう一つ届く。
『でも、美味しそう』
俺は画面を見つめてから、短く返した。
『うまい』
少し間があった。
『じんわりした』
続けて、写真が一枚届いた。
メンちゃんの左手。
小指の琥珀が、今朝より、また少しだけ薄くなっている。
『焼き魚でも薄くなった』
『家系じゃないのに』
俺は少し考えてから返した。
『本心のうまいなら、全部返済に入るんだと思う』
銀行みたいな言い方だが、間違ってはいない気がした。
画面の中の琥珀を見て、俺は息を吐いた。
大丈夫だ。
少なくとも、今は。
定食屋のカウンターで、焼き魚を食べながら笑っている。
そんな自分を、少し前の俺は想像もできなかったはずだ。
午後の仕事は、いつも通り重かった。
上司の「軽く確認」は、やはり軽くなかった。
修正は増え、会議は伸びた。
会議室に戻ると、後輩がまだ社食のトレーを抱えて海苔を食べていた。
「先輩、社食の海苔、今日で品切れになったらしいです」
「食い尽くしたのはお前だろ」
「僕だけじゃないです」
海苔をくわえたまま言うな。
そして定時を過ぎた。
会社を出る頃には、空が少し暗くなっていた。
駅へ向かう道で、俺は自然とラーメン屋の前を通った。
昼に匂いを感じた店とは別の店。
赤い看板、券売機、湯気。
腹は空いている。
食べようと思えば食べられる。
だが、今日は違った。
俺は暖簾の前で足を止めた。
中から、スープの匂いがする。
うまそうだ。
間違いなく、うまそうだ。
「入らないの?」
声がした。
振り返ると、ジロ子がいた。
大きめのパーカー、山盛り野菜みたいな髪、ニンニク色のヘアピン。
相変わらず圧が強い。
夕方の歩道が、彼女の前だけ少し狭く見える。
「お前、どこにでも出るな」
「量があるからね」
「意味が分からん」
ジロ子はラーメン屋の暖簾をあごで示した。
「逃げ?」
「違う」
「じゃあ入れば?」
「今日は入らない」
ジロ子はにっと笑った。
「食いたくない?」
「食いたい」
「なのに入らない?」
「来週、麺ノ家に行く」
「ふうん」ジロ子は腕を組んだ。「我慢?」
俺は少し考えた。
我慢。
たしかに、そう見えるかもしれない。
だが、胃袋の奥にある感覚は、ただの我慢とは違った。
「楽しみにしてる」と俺は言った。
ジロ子の目が、少しだけ細くなる。
「いいじゃん」
「ついでに聞くが」と俺は言った。「うちの社食、なんか家系に侵食されてるんだが。心当たりないか」
「あー」ジロ子は軽く笑った。「好きなやつが一人本気だと、匂いってうつるんだよ。会社まで染みてんなら、そりゃ本物だ」
「迷惑な話だ」
「でも、悪い匂いじゃないだろ」
否定できなかった。
そのとき、ラーメン屋の窓ガラスに、もう一人の影が映った。
長い髪をきっちり結んだ少女。
麺の白、つけ汁の焦げ茶。
つけみ。
彼女は俺と暖簾の間に、指一本分の隙間を作るように立っていた。
「浸すのは、食べる瞬間だけでいい」
シンクの水面で初めて聞いたあの言葉が、ようやく腹に落ちた。
距離を置くことは、冷めることではない。
次に浸す瞬間を、美味しくするための間だった。
「偉そうだな」
「偉いからね」
「何が」
「向き合ってるやつには、ちょっとだけ優しい」ジロ子は笑った。「残すなとは言わない。でも、向き合いな」
「もう聞いた」
「何回でも言うよ。大事だから」
そう言って、彼女は歩き出した。
人混みに消える直前、振り返る。
「来週の一杯、逃げじゃないなら食い切れるよ」
「全部飲み干すとは言ってない」
「そこまで覚えたなら上出来」
ジロ子は消えた。
つけみの影も、窓ガラスの中で静かに消えた。
俺はラーメン屋の暖簾をもう一度見て、そして、通り過ぎた。
家に帰ると、部屋は静かだった。
ラーメンの匂いはしない。
代わりに、何かを焼いた匂いがする。
「ただいま」
「おかえり」
メンちゃんがキッチンから顔を出した。
エプロン姿、いつも通りの髪、赤いリボンもちゃんとある。
透けていない。
俺はそれだけで、少し安心した。
「消えてないな」
「第一声がそれ?」
「大事だ」
「大事だけど、もうちょっとロマンチックにしてほしい」
「無事でよかった」
メンちゃんは一瞬黙って、それから頬を赤くした。
「それは、まあ、合格」
「採点制なのか」
「ご主人様は減点が多いから」
「厳しいな」
「あと、ひとつ報告」メンちゃんは目をそらしながら言った。「今日、会社の社食が家系寄りになってたでしょ」
「知ってたのか」
「私は関係ないよ」
目をそらすな。
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんか」
「好きすぎると、ちょっとだけ滲み出ちゃうの」メンちゃんは小さく口をとがらせた。「後輩さん、素質あるね」
「巻き込むな」
テーブルには、焼き魚があった。
「昼と被った」
「えっ」メンちゃんが固まった。「ごめん、写真見て、美味しそうだなって思って」
「いや」俺は椅子に座った。「悪くない」
俺の昼飯を見て、自分でも作りたくなったのだろう。
ラーメンではないものを。
家系ラーメンの化身としては、たぶん異端だ。
だが、一緒に暮らす相手としては、たまらなく嬉しかった。
「ほんと?」
「ああ」
「海苔もあるよ」
「それは分かってた」
「ご主人様、私を何だと思ってるの」
「海苔にうるさい家系ラーメン」
「正解」
胸を張るな。
俺は箸を取った。
メンちゃんは向かいに座る。
だが、箸を持たずに俺を見ていた。
「食わないのか」
「ご主人様が先」
「一口目はスープじゃないぞ」
「今日は焼き魚だから、基本はご飯と一緒」
「しょう子みたいなこと言うな」
「しょう子に教わった」
「いつの間に」
メンちゃんは得意げに笑った。
「さっき、箸の向きが曲がってるって怒られた」
俺はテーブルの箸を見た。
たしかに、きっちり揃っている。
しょう子の影響力、地味に怖い。
あの朝の醤油差し。
閉店前夜に揃えられた箸。
そして今夜の食卓。
基本に戻る、というしょう子の言葉は、家系を捨てろという意味ではなかった。
何を食べるときも、まず本心で向き合えという意味だった。
味噌汁の椀を持つと、湯気が立つ。
朝より少しだけ濃い。
「みそまるにも教わったのか」
「冷めないうちに出すのが大事だって」
「なるほど」
「あと、落ち込んでるときは手を温めるといいって」
そう言って、メンちゃんは俺の左手にそっと触れた。
指先が温かい。
ラーメンの湯気とも、味噌汁の湯気とも違う。
ただ、手の温度だった。
あの路地で、味噌色のリボンの少女が遠くから湯気を送ってきた。
閉店前夜に、みそまるはメンちゃんの透けかけた指先を包んだ。
その温度が、今夜はメンちゃんの手から俺へ移っている。
伏線というには、少しあたたかすぎる回収だった。
俺はその左手を取り、指先を見た。
小指の琥珀は、朝より、昼より、また少しだけ薄くなっていた。
それでも、消えてはいない。
「まだ、あるね」とメンちゃんが言った。
「ある」
「一気には返せないんだね」
「店主の言った通りだな」
「ご主人様」
「何だ」
「今日、ラーメン食べなかった?」
「食べなかった」
「食べたかった?」
「食べたかった」
メンちゃんの指が、少しだけ強くなる。
「でも、食べなかった」
「ああ」
「私のため?」
俺は首を横に振った。
「俺のためだ」
メンちゃんが目を見開いた。
「俺が、来週の麺ノ家をちゃんとうまいと思いたいから。お前のためでもある。でも、それだけじゃない」
メンちゃんは黙っていた。
俺は続ける。
「お前を消さないために食うのは、もうやめる」
「うん」
「お前を消さないために食わない、も違う。俺がうまいと思える日に、うまいと思える一杯を食う」
メンちゃんは、俺の手を握ったままうつむいた。
肩が小さく震えている。
「泣くな」
「泣いてない」
「味噌汁の湯気か」
「そう」
「便利だな、湯気」
メンちゃんは笑った。
涙を浮かべたまま。
「ご主人様」
「何だ」
「来週、麺ノ家に行くとき。私、少し怖い」
その言葉は、静かだった。
俺は箸を置いた。
「何が」
「麺ノ家、閉まっちゃうんでしょ。店主さん、アカネさんのこと、まだ苦しそうだった。あの夜、私たちは戻れた。でも、店主さんはまだ戻れてない気がする」
メンちゃんは、テーブルの端に置かれた半券を見た。
琥珀色の光。
今朝より、少しだけ強い。
「この食券、まだ光ってる。私たちの問題だけじゃないのかも」
俺は黙った。
あの夜、アカネの影は笑った。
だが、それは本当に救いになったのか。
店主は、まだ「うまかった」と言えていないのではないか。
過去を悔やむ言葉ではなく、今も残る味へ向けた言葉として。
俺は半券を手に取った。
温かい。
だが、少しだけ震えている。
社食の湯気でも、後輩の海苔でも、こんなふうには震えない。
これは、まだ答えの出ていない問いの震えだ。
「来週、麺ノ家に行く。ただ食いに行くだけじゃない。店主にも、決着をつけさせる」
メンちゃんは少し不安そうに笑った。
「ご主人様、言い方がハードボイルドだね」
「性格だからな」
「自分で言うと安くなるって、前にも言ったよ」
「知ってる」
俺は焼き魚を食べ、味噌汁を飲み、白飯を食べる。
海苔を一枚だけ乗せる。
うまい。
今日は、ラーメンではない。
だが、メンちゃんは消えていない。
俺も、ラーメンを忘れていない。
食べない日が、好きなものを薄めるわけではない。
むしろ、次の一杯の輪郭を濃くすることもある。
そのことを、俺たちは今日、少しだけ覚えた。
夜、寝る前に、メンちゃんがカレンダーを持ってきた。
「ご主人様」
「何だ」
「来週の麺ノ家の日、丸つけていい?」
「好きにしろ」
「赤?」
俺は少し考えた。
赤い食券。
不吉だった色。
契約だった色。
危険だった色。
だが、今は違う。
「赤でいい」
メンちゃんは嬉しそうにペンを持ち、来週の日付に丸をつけた。
ぐるり。
少しゆがんだ赤い丸。
その横に、小さく文字を書く。
家系の日。
「字、丸いな」
「味噌汁の日も作る?」
「増やすな」
「焼き魚の日は?」
「管理しようとするな」
「じゃあ、海苔の日」
「毎日になるだろ」
「社食の日は?」
「会社を巻き込むな」
メンちゃんは笑った。
その笑い声が、部屋の中に残る。
ラーメンの湯気ではない。
けれど、消えない湯気みたいだった。
俺はカレンダーを見た。
家系の日。
その赤い丸は、命令ではない。
義務でもない。
楽しみにしている予定だった。
そして、返済の続きでもあった。
日々の「うまい」で、琥珀は少しずつ薄くなる。
けれど最後のひと押しは、たぶんあの暖簾の向こうにある。
ポケットではなく、テーブルの上に置いた半券が、琥珀色に光っている。
まだ、完全には終わっていない。
麺ノ家、店主、アカネ、最後ではない一杯のその次。
赤い食券をめぐる答えは、もう少し先にある。
だが、今夜の俺は焦っていなかった。
来週。
俺たちは、もう一度あの暖簾をくぐる。
食べるために。
逃げるためでも、消さないためでもなく、うまいと言うために。
そして、まだ返し終えていないものを、返しに行くために。
ラーメンではない朝と昼と夜を描いた。
味噌汁、焼き魚、白飯、海苔。
強い匂いのない食卓にも、メンちゃんは座っている。
赤い食券はまだ、琥珀色に光っている。
そしてメンちゃんの小指の琥珀は、本心の「うまい」のぶんだけ、少し薄くなった。
返済の続きは、来週の麺ノ家で。
次の「家系の日」まで、あと少し。




