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家系ラーメンが好きすぎて、擬人化してしまった!?  作者: 源三郎


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11/32

第10話 家系の日、約束の暖簾

俺とメンちゃんは、ラーメンではない一日を越えた。


味噌汁、焼き魚、白飯、海苔。


どれも家系ラーメンではなかった。


それでも、嘘ではない「うまい」はメンちゃんを温めた。


赤い食券は、命令でも契約でもなくなった。


次に本心から「うまい」と言える日を待つ、琥珀こはく色の約束になった。


けれど、メンちゃんの左手の小指には、まだ返しきれていない琥珀が残っている。


だが、まだ終わっていない。


麺ノ家、店主、アカネ。


あの店には、俺とメンちゃんだけでは終われない味が残っている。


今回は、赤い食券をめぐる最後の「家系の日」。


最後の一杯ではない。


逃げるための一杯でもない。


俺が、俺の体と心で選んだ一杯を食う日だ。

カレンダーの赤い丸は、一週間ずっとそこにあった。


家系の日。


メンちゃんの丸い字で書かれた四文字。


歯を磨くとき、ネクタイを締めるとき、冷蔵庫から麦茶を出すとき、俺は毎朝それを見た。


赤い丸は、俺を急かさなかった。


食べろ、と命令してこなかった。


ただ、今日が来るのを待っていた。


俺も、待っていた。


仕事帰り、俺は駅前で立ち止まった。


雨は降っていない。


空は少しだけ曇り、アスファルトには昼間の熱が残っている。


横浜の夕方は、潮の匂いと油の匂いが混ざる。


俺の隣にはメンちゃんがいた。


白いブラウス、赤いリボン、金色のツインテール。


今日はエプロンではない。


外を歩くための服だった。


それでも、髪の先から、ほんの少しだけ豚骨醤油の気配がした。


「ご主人様」


「何だ」


「緊張してる?」


「してない」


「嘘」


「少ししてる」


「正直でよろしい」


「採点するな」


メンちゃんは笑った。


だが、その指先は俺の袖をつかんでいた。


いつもより、少しだけ弱い力で。


袖をつかむ左手の、小指の先。


そこだけが、まだ琥珀こはく色をしていた。


湯気を透かしたような、淡い色。


痛くはない、と本人は言う。


けれど彼女は、いつもその指だけを軽く折り込んで隠す。


ポケットの半券の琥珀は、約束の印だ。


小指の琥珀は、まだ返しきれていない分の印。


同じ色をしているのに、意味はまるで違う。


俺の視線に気づいて、メンちゃんは小指をそっと折り込んだ。


俺は、見なかったふりをした。


「お前は?」と俺が聞くと、メンちゃんは前を向いたまま答えた。


「怖い」


「そうか」


「でも、楽しみ」


「そうか」


「あと、ちょっとお腹空いた」


「それは健康だ」


「家系ヒロインだからね」


俺は少し笑った。


その笑いが、自分でも思ったより自然だった。


麺ノ家へ向かう道は、何度も歩いた道だ。


仕事でぼろぼろになった夜、雨で靴下までぬれた夜、上司の「軽く確認して」が結局まるごとやり直しだった夜。


俺はこの道を歩き、暖簾のれんをくぐり、券売機の前に立った。


硬め、濃いめ、多め。


それが俺の合言葉だった。


いや、逃げ道だった。


救いでもあった。


どちらも本当だ。


どっちも本当のまま、俺は今日、同じ道を歩いている。


麺ノ家の赤い看板が見えた。


明かりはついている。


だが、いつもの営業中の光とは違って、どこか静かで、柔らかい。


店先には段ボールが積まれ、古いポスターがはがされている。


暖簾は、半分だけ外されかけていた。


「本当に閉めるんだね」とメンちゃんがつぶやいた。


「ああ」


「味は、閉まらないよね」


「たぶんな」


「たぶん?」


「店主に聞く」


俺がそう言うと、店の中から声がした。


「聞こえてるぞ」


引き戸が開く。


店主が立っていた。


腕組み、白いタオル、いつもの無愛想な顔。


だが、目の下の疲れは、いつもより濃かった。


「来たか」


「来ました」


「食うのか」


「食います」


店主は俺を見て、それからメンちゃんを見た。


「今日は消さないためか」


「違う」俺は言った。「うまいと言うためです」


店主は少しだけ目を細めた。


「そうかい」


その声は、いつもより小さかった。


店の中に入ると、カウンターはほとんど片づけられていた。


メニュー札は外され、壁の色あせた写真も何枚かはもうない。


だが、券売機だけは残っていた。


赤いボタン、白いボタン、少しくたびれた表示。


何度も押したボタンだ。


俺はその前に立った。


ポケットの中には半分の赤い食券。


メンちゃんの手にも、もう半分。


二つの半券が近づくと、琥珀こはく色の光がふわりと強くなった。


「ご主人様」


「ああ」


「今日は、ご主人様が選んで」


「いつも選んでる」


「好みの話」


俺は券売機を見た。


チャーシュー麺、ライス。


そこまでは迷わなかった。


指がボタンを押すと、食券が出る。


白い紙。


赤くない。


ただ、紙の端に、琥珀色の光が映った気がした。


店主がカウンターの向こうへ戻る。


「好みは」


その言葉を、俺は何百回も聞いた。


そして何百回も答えた。


かつての俺なら、迷わず「硬め、濃いめ、多め」と言った。


それは、仕事でけずられた自分を取り戻すための、俺なりの儀式だった。


だが、今日は少し違う。


俺は自分の胃の重さを確かめた。


今日の疲れ、今日の腹、今日の気分。


メンちゃんが横で、息をのむ。


俺は言った。


「硬め」


店主がうなずく。


「濃いめ」


メンちゃんのリボンが小さく揺れる。


「油は、普通」


店内が静かになった。


メンちゃんが俺を見た。


「普通」


「ああ」


「油、多めじゃない」


「今日は普通でうまい」


メンちゃんは目を丸くした。


その目に、不安が一瞬だけよぎる。


だが、すぐに消えた。


彼女は小さく息を吐いて、笑った。


「うん」


「いいのか」


「今日のご主人様の一杯だもん」


その言葉で、胸の奥がふっと軽くなった。


店主は何も言わず、麺をゆで始めた。


湯気が立つ。


麺上げの音、スープを炊く寸胴ずんどうの低いうなり、醤油ダレが丼に入る音。


鶏油チーユ、スープ、麺、チャーシュー、ほうれん草、海苔。


鶏油は、スープの表面できらきら光る、鶏の脂の層だ。


何度も見た手順なのに、今日は一つ一つがゆっくり見えた。


カウンターの端に、しおりんが立っていた。


白いフリル、透明な瞳。


「濁っていません」


短い言葉だった。


その隣で、しょう子が箸を一本ずつそろえる。


みそまるはメンちゃんの手を包み、けれどすぐに離した。


「あっためすぎても、のぼせちゃうから」


その後ろで、しおりんとしょう子が、どっちが海苔をそろえるかで小さく揉めた。


「私が」


「いえ、私が」


一秒でジロ子に「うるせえ」と流され、二人はぴたっと箸をそろえた。


短い、家系少女たちの最後のドタバタだった。


それだけで、みんな少し笑った。


つけみは入口の近くに立っていた。


俺たちに近づきすぎない。


「その距離でいい」


だが、つけみの足が一瞬だけ前に出かけて、すぐに戻った。


その半歩を見たとき、俺は初めて知った。


距離を保つことは、近づきたい気持ちの裏返しだった。


ジロ子は壁にもたれて腕を組む。


「逃げてないなら、食え」


「食う」


ジロ子は満足そうに笑った。


トンちゃんは、どこからともなく替え玉を取り出しかけ、俺の顔を見て、途中で引っ込めた。


彼女の手が、少し震えていた。


差し出したいのに、差し出さない。


量で勝負してきた少女の、初めての引き算だった。


「今日は一杯でいい顔してるね」


「珍しく分かってるな」


トンちゃんは楽しそうに笑った。


トンしょう姉さんが、メンちゃんの隣へ来る。


深い茶色とオフホワイト、鶏油の金色。


「濃さの設計、悪くないわ」


メンちゃんは少しだけ身構えた。


「普通の油でも?」


「ええ」トンしょう姉さんは微笑む。「濃いだけじゃ、最後まで飲めない。でも、濃さを選べるなら、それは強さよ」


メンちゃんは黙り、それから小さくうなずいた。


「私、今日の一杯も好き」


「でしょうね」


「姉さんみたいな顔しないで」


「近い味同士だから」


「そこが複雑なの!」


トンしょう姉さんがふと声を落とした。


「あなたが消えたら、私も寂しいわ」


メンちゃんが目を見開く。


トンしょう姉さんは何事もなかったように微笑んだ。


「近い味同士だから」


今度はその言葉が、ライバル宣言ではなく、姉の声に聞こえた。


「騒がしいな」と店主が低く笑った。


「見えてるんですか」


「この店の最後だからな」


店主は丼をカウンターに置いた。


チャーシュー麺、ライス。


硬め、濃いめ、油は普通。


いつものようで、少し違う一杯だった。


俺は箸を取る前に、丼を見た。


海苔が三枚、ほうれん草、チャーシュー、太麺、豚骨醤油のスープ。


表面の油は、いつもより少ない。


だが、光はある。


控えめに、ちゃんと光っている。


「一口目は」とメンちゃんが言う。


「スープ」と俺が先に答えた。


メンちゃんはうれしそうに笑う。


レンゲを持ち、スープをすくう。


一口。


熱い。


濃い。


豚骨醤油。


鶏油は普通。


それでも、足りないとは思わなかった。


今日の俺には、これがうまい。


「うまい」


声に出すと、メンちゃんの胸元が淡く光った。


赤ではない。


琥珀色。


食券と同じ、あめ玉みたいな色だった。


そして、彼女の左手の小指で、琥珀がほんの少しだけ薄くなった。


味噌汁の朝と、同じだ。


本心の一口のぶんだけ、借りが返っていく。


メンちゃんは気づかないふりをして、俺も指摘しなかった。


慌てて返すものじゃない。日々の中で返すものだ。


「じんわりする」


「だろうな」


「ラーメンだからね」


「それもある」


「それも?」


「嘘じゃないからだ」


メンちゃんは、目を細めた。


俺は麺を食べた。


硬めの太麺。


噛むと、小麦の芯が残る。


やっぱり硬めはいい。


そこは譲れない。


ライスを食べ、海苔を一枚、スープに浸す。


沈めすぎない。


乾きすぎてもいない。


ほんの一瞬。


引き上げて、米に乗せて、食べる。


「うまい」


二度目の言葉は、少し小さかった。


だが、メンちゃんには届いたらしい。


彼女は隣で、ほっと息を吐いた。


「海苔、ちょうどよかった」


「だろ」


「私の教育の成果」


「俺の経験だ」


「共同作業だね」


「そういうことにしておく」


食べ進める。


チャーシュー、ほうれん草、麺、ライス。


ニンニクは入れた。


少しだけ。


メンちゃんが驚く。


「少しだけ?」


「今日は少しでいい」


「ご主人様、本当に大人になったね」


「だから三十手前だ」


「そういう意味じゃないってば」


店主が黙って見ている。


その横、カウンターの奥に、赤茶色の影が立っていた。


アカネ。


閉店した店で見た影より、輪郭が少しはっきりしている。


だが、完全な姿ではない。


湯気の向こうにいる。


店主は、その影を見ていなかった。


いや、見ようとしていなかった。


俺は麺を飲み込んだ。


「店主」


「何だ」


「見えてるんでしょう」


店主の手が止まった。


「何の話だ」


「アカネさん」


店の空気が変わった。


ラーメン少女たちが静かになる。


メンちゃんも、俺の袖をつかんだ。


店主はしばらく黙っていた。


「見えてるよ」低い声だった。「ずっとな」


アカネの影は動かない。


カウンターの奥で、店主を見ている。


「なら」俺は言った。「言ってやればいいんじゃないですか」


「何を」


「うまかったって」


店主の顔がゆがんだ。


「言えるか」


「なぜ」


「俺は、あいつを消した」


その声は、怒りではなかった。


後悔だった。


何年も煮詰めた後悔。


鍋の底に焦げついて、はがれなくなったやつだ。


「うまいって言葉を、俺は汚した」店主は続ける。「消さねえために食った。守るために食った。最後には、うまいかどうかなんて考えちゃいなかった」


アカネの影が、少し揺れた。


「だから、今さら言えねえ」


俺は丼を見た。


まだスープは残っている。


全部飲もうと思えば飲める。


だが、飲み干す必要はない。


俺はレンゲを置いた。


「俺は、全部飲み干してないです」


店主が俺を見る。


「でも、うまかった。全部を完璧にしなくても、うまかったことは消えない」


あの一杯で、俺が覚えたこと。


ラーメンじゃない朝と夜で、確かめたこと。


そして今日、麺ノ家で言えること。


「店主が間違えたことは、消えないと思います」俺は言った。「でも、アカネさんがうまかったことまで、消さなくていい」


店主は、何も言わなかった。


カウンターの奥で、アカネの影が一歩近づく。


メンちゃんが小さく息をのむ。


しおりんが目を伏せ、しょう子が箸をそろえ、みそまるが店主の手元へ湯気を送る。


誰も急かさない。


ただ、言葉の順番が戻るのを待っている。


その沈黙を破ったのは、ジロ子だった。


「逃げんな」


「近づくのは、今だけでいい」とつけみが入口のそばで言う。


トンちゃんは黙っていた。


トンしょう姉さんも、ただ見守っている。


店主は、ゆっくりと顔を上げた。


アカネを見る。


今度は、逃げずに。


「アカネ」声が震えていた。


アカネの影が、少しだけ笑ったように見えた。


店主は唇を噛み、それから息を吐いた。


そして初めて、名前と一緒に、その言葉を口にした。


「アカネ、うまかったな」


短い言葉だった。


過去の話をしているのに、その声は、今、目の前で味わっているみたいだった。


店主は、もう一度言った。


「お前の一杯は、うまかった」


アカネの影が、湯気に包まれる。


赤茶色の髪、醤油ダレみたいな深い色、どこか懐かしい、夕焼けに似た気配。


完全に戻ったわけではない。


けれど、消えもしなかった。


店主の横に、ただ立っていた。


「遅えよ」と店主がつぶやいた。


アカネは、声にならない声で笑った気がした。


遅くても、言わないよりは、ずっといい。


俺はそう思った。


メンちゃんが俺の袖を握る。


「ご主人様」


「何だ」


「今、胸の奥があったかくなった」


「ラーメン食ってるからな」


「それだけじゃないよ」


「分かってる」


俺は残った麺を食べた。


最後に、スープを少しだけ飲む。


飲み干さない。


丼の底は見えない。


けれど、俺は箸を置いた。


「ごちそうさまでした」


店主が俺を見る。


「残すのか」


「残します」


「いいじゃん」とジロ子が笑う。


店主も、少しだけ笑った。


「昔のお前なら、意地でも飲んでたな」


「たぶん」


「今は?」


俺は丼を見て、それからメンちゃんを見た。


「うまかったから、終われます」


メンちゃんの目に、涙が浮かんだ。


「終わるの?」


「今日の一杯はな」


「次は?」


「次の家系の日に考える」


メンちゃんは泣きながら笑った。


「うん」


ポケットの中の半券が光った。


メンちゃんの手の中の半券も光る。


二つの琥珀色が、カウンターの上で重なった。


赤ではない。


もう、急かす色ではない。


待つ色、選ぶ色、次の一杯を楽しみにする色だった。


そのときだった。


メンちゃんが、小さく「あ」と言った。


左手を持ち上げる。


小指の先。


味噌汁の朝から、少しずつ薄れてきた琥珀色。


それが、湯気にほどけるように、すうっと抜けていった。


派手な光はなかった。


音もない。


ただ、指先に元の色が戻ってくる。


「……抜けた」


メンちゃんの声は、少し震えていた。


「返し終わったんだ」


「ああ」


「さっきの。うまかったから終われます、ってやつ」


「ああ」


「あれが、最後のひとくちだったんだと思う」


メンちゃんは自分の小指を、両手で包んだ。


宝物みたいに。


もう琥珀色じゃない、ただの指を。


店主がカウンターの向こうから、ちらりとそれを見た。


「言ったろ。日々の中で返すもんだって」


「うん」


「慌てなかったな」


「ご主人様が、慌てさせなかったの」


カウンターの上では、二つの半券が、まだ琥珀色に光っている。


こっちは、消えない。


借りの琥珀は抜けて、約束の琥珀は残る。


それでいいのだと、俺は思った。


——そのとき。


寸胴の湯気が、ふわりと膨らんだ。


湯気の向こうに、誰かが立っていた。


少女の影。


アカネじゃない。


メンちゃんでもない。


しおりんでも、ジロ子でも、トンちゃんでも、家系の誰でもない。


見たことのない輪郭が、湯気の中で一瞬だけこっちを向いて——消えた。


「今の」


俺とメンちゃんの声が重なった。


家系少女たちも、湯気の跡を見ている。


誰ひとり、心当たりのある顔をしていなかった。


店主だけが、静かに湯気を見ていた。


「琥珀が抜けた体は、湯気に近くなる」


寸胴の火を落としながら、店主は言った。


「これからは、見えるぞ」


「見えるって、何がですか」


「今みたいなのがだ」


「誰なんですか、今の」


「知らねえ」店主は肩をすくめた。「この店のもんじゃねえ。それだけは分かる」


メンちゃんが俺の袖を、ぎゅっとつかんだ。


怖がっている力では、なかった。


店主は棚の下から、小さな缶を取り出した。


古い缶。


あの日見た、赤い食券が入っていた缶だ。


その中から、一枚の紙を出す。


赤かったはずの食券。


今は、淡い琥珀色に変わっている。


端には、薄く文字が残っていた。


アカネ。


店主はそれを見て、苦笑した。


「食券は、もう切られた」


懐かしい言葉だった。


けれど、今は少し違って聞こえた。


「でも、切られた食券を、どう食うかは自分で決めりゃいい」


「今さら名言っぽいこと言いますね」


「うるせえ」


メンちゃんが笑った。


アカネの影も、つられたように揺れた。


夜が深くなる。


麺ノ家の片づけは、静かに進んだ。


店主は暖簾を外した。


何年も油と湯気を吸ってきた暖簾。


赤い文字は少し色あせている。


横浜家系 麺ノ家。


その文字を、メンちゃんがじっと見つめる。


「この暖簾、もう使わないの?」


店主は少し考えた。


それから、暖簾の端をつまみ、古くなってほつれた場所を、はさみで切った。


小さな布切れ。


店主はそれを俺に渡した。


「持ってけ」


「いいんですか」


「捨てるよりましだ」


「重いですね」


「軽い暖簾なんざ、店にかける意味がねえ」


俺は布切れを受け取った。


油の匂い、スープの匂い、雨の日の湿気、行列の熱。


何年分もの味が、そこに染みている。


メンちゃんがそっと触れた。


「あったかい」


「布だぞ」


「味がある布だよ」


「それは分かる」


店主は店の中を見回した。


空になった棚、片づけられたカウンター、まだかすかに熱の残る寸胴。


「店は閉める」店主は言った。「でも、味は終わらねえ」


アカネの影が、店主の横に立っていた。


今度は、店主も目をそらさない。


「そうだろ」と店主が小さく言う。


アカネは答えない。


でも、その沈黙は冷たくなかった。


俺たちは麺ノ家を出た。


看板の明かりが消える。


赤い光が、夜の中でふっと小さくなる。


完全に消える直前、布切れが俺の手の中でかすかに震えた。


俺は立ち止まった。


「どうしたの?」とメンちゃんが聞く。


「いや」


布切れを見ると、琥珀色の光が、ほんの一瞬だけ走った。


半券ではない。


暖簾の端が光ったのだ。


そして、風に乗って、知らない匂いがした。


家系ではない。


味噌でも、醤油でも、塩でも、二郎系でも、豚骨でも、つけ麺でもない。


もっと遠い。


海の向こうから来たような、スパイスと湯気の匂い。


俺は眉をひそめた。


「今の」


メンちゃんも同じ方向を見ていた。


「ラーメン?」


「分からん」


「でも、麺の気配がした」


メンちゃんの声は、不安よりも好奇心のほうが少しだけ勝っていた。


「さっきの影も」と彼女が続ける。


「ああ」


「この匂いの先に、いるのかな」


「分からん」


「でも、これからは見えるんでしょ」


「らしいな」


そのとき、背後でしおりんが言った。


「まだ、知らない味があります」


ジロ子があくびをし、トンちゃんが目を細める。


しょう子は黙って姿勢を正し、みそまるは少し冷えた手をこすった。


つけみだけが、一歩離れた場所から言う。


「まだ浸すときではありません」


トンしょう姉さんは、夜の先を見て微笑んでいた。


店主が後ろから声をかけた。


「おい」


振り返ると、店主は閉めた店の前に立っていた。


アカネの影が、その横にいる。


「その暖簾が反応したなら、いずれ向こうから来る」


「何が」


「味の記憶だ」


「面倒ですね」


「好きなもんを持ち歩くってのは、そういうことだ」店主は笑った。「ただし、今夜は帰れ」


「いいんですか」


「今夜の一杯は、もう終わった」


メンちゃんが吹き出した。


俺も少し笑った。


店主は外した暖簾を畳み、シャッターの横に置いた。


俺はポケットの半券に触れた。


熱くはない。


ただ、手のひらの温度になじんでいる。


「帰るぞ」と俺はメンちゃんを見た。


「うん」


「明日の朝は?」


メンちゃんは少し考えた。


「味噌汁」


「海苔は?」


「ある」


「だろうな」


「でも、来月の家系の日も丸つける」


「勝手に増やすな」


「予定だよ。約束より現実的でしょ?」


俺は言葉に詰まった。


メンちゃんは勝ち誇った顔をする。


「覚えた」


「余計なことを」


「ご主人様から教わったんだよ」


夜風が吹いた。


布切れが、俺の手の中で静かに揺れる。


半分の食券は、もう赤くない。


琥珀色のまま、ポケットの中で温かい。


俺たちは歩き出した。


麺ノ家の看板は消えた。


けれど、俺の隣にはメンちゃんがいる。


そして、次のカレンダーには、赤い丸が一つ増える予定だ。


風は、まだあの遠い匂いを運んでいた。


海の向こうの、まだ知らない湯気の気配。


そして、湯気の向こうに一瞬だけ立った、あの誰でもない少女の影。


琥珀が抜けた体は、湯気に近くなる。


これからは、見える。


なら、あの影が誰なのか、確かめに行けばいい。


最後の一杯ではない。


最初の一口でもない。


これから続いていく、いくつもの一杯の中の一つ。


俺はそれを、少しだけ楽しみにしていた。


赤い食券編 完


赤い食券は、もう俺を縛る命令ではない。


メンちゃんも、毎日食べ続けなければ消えてしまう味ではない。


好きなものを好きでい続けるために、距離を選ぶ。


日を選ぶ。


量を選ぶ。


それでも隣にいることを選ぶ。


麺ノ家の暖簾は下りた。


けれど、味は終わらない。


ポケットの中で、半券の琥珀色が、まだかすかに息をしている。


いつか来る最後の一杯は、まだ今日じゃない。


俺とメンちゃんの次の一杯は、カレンダーの赤い丸の先で、静かに湯気を立てている。


その、もっと先には——まだ名前も知らない味が、こっちへ向かって湯気を立てはじめている。


だから、これは終わりじゃない。


俺たちは、次の湯気へ歩き出す。

麺ノ家での家系の日を終え、赤い食券をめぐる物語は完結した。


赤い食券は琥珀色になり、カレンダーには次の「家系の日」が残った。


小指の琥珀は抜け、借りは返し終わった。


そして、琥珀が抜けた体は、湯気に近くなる——湯気の向こうに立った、あの誰でもない少女の影。

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