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家系ラーメンが好きすぎて、擬人化してしまった!?  作者: 源三郎


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12/32

第11話 中伊豆、湯気の向こうの家系

麺ノ家の暖簾は下りた。


赤い食券は琥珀色になり、俺とメンちゃんは、好きなものを長く好きでいるために、食べる日も、量も、距離も選ぶことを覚えた。


けれど、味は終わらない。


店主から渡された暖簾の端は、まだ知らない湯気に反応している。


そして、麺ノ家の最後の日に湯気の向こうへ立った、見知らぬ少女の影。


「これからは、見えるぞ」という店主の言葉を確かめに、休日の家系巡礼が始まる。


舞台は中伊豆。


横浜ではない土地で、俺とメンちゃんは、店ごとの一杯に宿る新しい家系妖精と出会う。

カレンダーの赤い丸は、今月もそこにあった。


ただし、前より少しだけ意味が違う。


家系の日。


メンちゃんの丸い字で書かれた四文字は、相変わらず赤い。


だが、その赤はもう俺を急かさなかった。


食べろ、飲み干せ、選べ、背負え、と命令してこない。


ただ、休日の朝の壁で、静かに湯気を立てているように見えた。


俺はテーブルの上に巡礼ノートを開いていた。


行き先は中伊豆方面。


候補は三軒。


営業時間、定休日、移動時間、駐車場があるかどうか。


券売機か口頭注文か、ライスの扱い、スープの評判。


そして、俺の胃袋の余力。


最後の項目だけ、やけに現実的だった。


だが、この遠征には、ノートに書いていない目的がもう一つある。


麺ノ家の、最後の日。


小指の琥珀が抜けた直後、カウンターの湯気の向こうに、見知らぬ少女の影が一瞬だけ立った。


メンちゃんじゃない。


アカネさんでもない。


誰でもない、知らない影だった。


店主は短く言った。


「琥珀が抜けた体は、湯気に近くなる。これからは、見えるぞ」


見える、と言われてしまった以上、確かめたくなるのが人間だ。


あの影は、何だったのか。


知らない土地の、知らない湯気の向こうでなら、もう一度会えるんじゃないか。


休日の巡礼に、俺はその確認を一枚だけ重ねていた。


ノートの端に「中伊豆」と書いた瞬間、机の引き出しがかすかに鳴った。


最初は木がきしんだのかと思った。


だが違う。


引き出しの中にしまってある布切れが、薄い琥珀色の光を漏らしていた。


飴玉みたいな、茶色がかった金色だ。


麺ノ家で受け取ったときより、少しだけ温度が高い。


「まだ何も食ってないぞ」


俺は思わずつぶやいた。


台所の音が止まった。


「ご主人様」


台所からメンちゃんの声がした。


「何だ」


「今、光った?」


「光った」


メンちゃんが台所から顔を出す。


手にはしゃもじ。


深刻な顔をしているのに、武器が米をよそう道具なので緊張感が少し負けていた。


「まだ家系の日、始まってないよ」


「だよな」


「始まる前に湯気が立つの、ちょっと怖いね」


「ああ」


俺は引き出しを閉めた。


布切れの光は隙間から消えたが、手のひらに残った温度だけは消えなかった。


メンちゃんは少し黙り、それからいつもの声に戻した。


「遠征って、デート?」


「巡礼だ」


「じゃあ巡礼デート?」


「混ぜるな」


「混ぜた方が濃くなるよ」


「全部足せばいいわけじゃないって、お前が一番知ってるだろ」


メンちゃんは一瞬黙った。


それから、台所の向こうで小さく笑った。


「うん。知ってる」


その声が少し柔らかかったので、俺はペンを止めた。


麺ノ家の暖簾が下りてから、俺たちの日常は確かに一度区切られた。


麺ノ家は閉店した。


店主は最後の一杯を出し、アカネさんへ「うまかった」と言った。


赤い食券は琥珀色に変わり、俺とメンちゃんはそれぞれ半分ずつ持っている。


麺ノ家の暖簾の切れ端は、小さな布として俺の机の引き出しに入っていた。


それで何もかも終わったわけではない。


終わったのは、毎日食べなければ消えるという恐怖だ。


始まったのは、食べる日を選ぶ面倒くささだった。


「ご主人様、朝ごはんできたよ」


「ラーメンじゃないだろうな」


「おにぎり」


「よし」


「具は海苔」


「具とは」


「海苔は具にもなれるし、器にもなれるし、ハグにもなれる」


「朝から海苔に人生を背負わせるな」


テーブルに置かれたのは、小さなおにぎりと味噌汁だった。


海苔は当然のように巻かれていたが、ラーメンではない。


メンちゃんはそれを少し誇らしげに見ている。


「遠征だから、胃袋は空けておかないとね」


「成長したな」


「褒めて」


「偉い」


「もっと濃く」


「偉い、濃いめ」


メンちゃんは満足そうにうなずいた。


褒め言葉にも好み指定があるらしい。


面倒だ。


だが、面倒だと思いながらおにぎりを食べる朝は、悪くなかった。


出発前、俺は机の引き出しを開けた。


半分の食券は財布の中にある。


持ち歩くと決めたわけではないが、気づけば入れていた。


琥珀色の半券。


もう赤くない。


やらされる色じゃなくて、自分で選ぶ色。


その布切れは、今日は小さな巾着に入れて鞄へしまった。


メンちゃんがその手元を見た。


「持っていくの?」


「反応するかもしれないからな」


「店主さん、味の記憶が向こうから来るって言ってたね」


「面倒な言い方だったな」


「でも、ちょっと楽しそうだった」


「お前もか」


「だって、知らない家系があるんだよ」


メンちゃんはそう言って、胸元の赤いリボンを整えた。


それから、鞄からいそいそと一枚のクリップボードを取り出した。


見覚えのない紙が挟まっている。


「それは何だ」


「判定シート」


「判定」


「今日から新しい巡礼だから、書式を新調したの」


俺はのぞき込んだ。


『家系巡礼・現地審査票』と、丸っこい字で表題がある。


その下に、細かい項目が並んでいた。


スープの正統性、海苔の枚数、店主の無口さ、そして──「出現する妖精の危険度」。


「最後の項目は何だ」


「念のため」


「何の念だ」


「知らない家系には、知らない子がいるかもしれない」


俺は少し黙った。


麺ノ家のメンちゃんは、麺ノ家の一杯だった。


なら、他の店には、他の店の何かがいてもおかしくない。


その理屈が、朝の台所で急に現実味を帯びた。


「深読みだ」


「浅読みで火傷するより、深読みで無事がいい」


「格言みたいに言うな」


「家系法度・第十一条」


「今、作ったろ」


「第11話だから第十一条。ちょうどいいでしょ」


「章と条を勝手に揃えるな」


メンちゃんはクリップボードを胸に抱えて、得意げにうなずいた。


止めても無駄だと、俺はもう知っていた。


今日の服は、白いブラウスに薄手のカーディガン、歩きやすそうな靴。


金色のツインテールは少しだけ低めに結ばれている。


旅行に行く少女のようで、ラーメンの化身には見えない。


ただし、鞄から携帯用の海苔ケースと、さっきの審査票がのぞいていた。


「海苔ケースの方は何だ」


「非常用」


「何の非常だ」


「海苔が足りない非常」


「そんな災害はない」


「ご主人様はまだ伊豆の海苔事情を甘く見てる」


「海苔に事情を背負わせるな」


俺たちは家を出た。


休日の朝の電車は、平日のそれとは違っていた。


満員電車のじめっとした疲れはなく、かわりに旅行鞄、子どもの声、駅弁の紙袋、少し浮かれた空気がある。


俺は座席に腰を下ろし、窓の外を見た。


街の建物が少しずつ低くなり、緑が増えていく。


メンちゃんは隣で、審査票を何度ものぞき込んでいた。


「一軒目は?」


「中伊豆の『横浜家系 麺乃峠』」


「みね?」


「たぶん山道の峠だろうな」


「家系なのに山」


「横浜だけが家系じゃない」


自分で言って、少し不思議な気分になった。


少し前の俺なら、家系という言葉を聞くと、まず横浜を思い浮かべた。


麺ノ家の赤い看板、券売機、店主の低い声、硬め濃いめ多め。


それが俺の心の実家だった。


だが、店は閉まった。


味は終わらない。


その言葉が本当なら、俺はこれから、閉じた暖簾の外にある家系を見に行かなければならない。


「ご主人様」


「何だ」


「緊張してる?」


「してない」


「嘘」


「少ししてる」


「正直でよろしい」


「この前と同じ採点をするな」


メンちゃんは笑った。


だが、その指先は俺の袖をつまんでいた。


強くはない。


沈めすぎた海苔みたいに崩れる力ではなく、乾いた海苔みたいに遠い力でもない。


少し湿った瞬間の、あの加減だった。


中伊豆の駅で降りると、空気が変わった。


横浜の潮と油の匂いではない。


山の湿り気、川の音、温泉街へ向かう観光バスの排気ガス、どこかで売っているわさびの匂い。


家系ラーメンからは遠いようで、腹はちゃんと減る空気だった。


「山だね」


「山だな」


「家系は山でも家系かな」


「食えば分かる」


「名言っぽい」


「店主の影響だ」


「ご主人様、最近ちょっと店主さん化してる」


「やめろ」


「タオル巻く?」


「巻かない」


「腕組む?」


「しない」


「『来たか』って言って」


「誰にだ」


メンちゃんは楽しそうだった。


俺も、少しだけ楽しかった。


麺乃峠は、駅から少し歩いた先にあった。


観光地の派手な店構えではない。


木目の古い外壁に、赤い看板。


横浜家系の文字。


暖簾は深い赤で、端が少し風に揺れている。


店の前には小さな駐車場があり、地元ナンバーの車と、観光客らしいレンタカーが並んでいた。


その光景を見た瞬間、鞄の中で何かが震えた。


俺は立ち止まった。


「ご主人様?」


鞄を開ける。


巾着の中の暖簾の端が、ほんの少しだけ琥珀色に光っていた。


「反応してる」


メンちゃんは目を丸くした。


「麺ノ家の暖簾が?」


「ああ」


風が吹いた。


麺乃峠の暖簾が揺れる。


俺の鞄の中の布切れも、同じように少し揺れた。


店と店の暖簾が、遠い親戚みたいに挨拶しているようだった。


「味の記憶、向こうから来たね」


「こっちから歩いてきた気もするがな」


「細かい」


「大事だ」


メンちゃんは審査票を素早く取り出し、店の前で一項目チェックを入れた。


「暖簾、正統。駐車場、あり。店主の無口さは、まだ未確認」


「玄関で採点を始めるな」


「入国審査は玄関でするものだよ」


「入国て」


「知らない家系は、外国。パスポートは、ご主人様の胃袋」


「胃袋に判子を押すな」


俺たちは暖簾をくぐった。


店内は、思ったより静かだった。


カウンター席が十ほど、奥に小さなテーブル席。


壁には観光地のポスターと、手書きの「ライスあります」の札。


券売機は入口の右側にある。


赤いボタン、白いボタン、少しくたびれた表示。


違う店なのに、どこか懐かしい。


「券売機」


「挨拶みたいに言うな」


「家系の玄関だよ」


俺は券売機の前に立った。


ラーメン、チャーシューメン、ほうれん草増し、海苔増し、ライス。


迷う。


遠征の一軒目だから抑えるべきだ。


だが、初めての店で海苔増しを外すのは、海苔に失礼な気もする。


「ご主人様」


「何だ」


「胃袋の余力」


メンちゃんが小声で言った。


俺は、自分で決めておいた言葉を思い出した。


無理しない。


美味しく終われる量。


「ラーメンとライス」


「海苔増しは?」


「今日は通常の海苔を見る」


メンちゃんは真剣な顔でうなずいた。


「現地調査だね」


「そういうことにしておく」


食券を買い、カウンターに座る。


店主らしき男が食券を受け取った。


白いタオル、無口な顔。


麺ノ家の店主とは違う。


だが、湯気の向こうで手を動かす姿には、同じ種類の重さがあった。


「好みは?」


その言葉に、背筋が少し伸びた。


俺は自分の腹と相談した。


移動で少し疲れている。


だが、せっかくの一軒目だ。


中伊豆の山道を歩いた後の身体は、濃い味を求めている。


「硬め、濃いめ。油は普通で」


メンちゃんのリボンが少し揺れた。


「普通」


「今日も普通だ」


「うん。今日のご主人様の一杯」


この前の麺ノ家で聞いた言葉が、そのままここに来ていた。


俺は少しだけ息を吐いた。


変わっていない。


たぶん、こういうことだ。


同じ言葉を繰り返すのではなく、別の場所でも同じ加減を選べること。


店主が麺をゆで始める。


寸胴から湯気が上がる。


醤油ダレが丼に入る音、スープが注がれる音。


そして、鶏油が表面に流れる光。


スープの上で、細かな光の粒がきらきらしている。


横浜とは違う。


麺ノ家とも違う。


だが、確かに家系の手順だった。


メンちゃんは隣で、やけに静かだった。


審査票を膝に置き、ペンをかまえたまま、まだ一文字も書いていない。


「どうした」


「見てる」


「何を」


「この店の家系」


声に嫉妬は少なかった。


少なくとも、以前の巡礼で別の家系を食べた時のような、上書きされる恐怖は見えない。


代わりに、知らない親戚を初めて見るような緊張があった。


丼が置かれた。


豚骨醤油のスープ。


表面に浮いた金の筋は派手ではないが、光を受けて細くきらめいている。


海苔三枚、ほうれん草、チャーシュー、太麺。


見た目は王道だ。


だが、香りが少し違う。


醤油の立ち方が強い。


山の空気の中で負けないように、味の輪郭を少し深く刻んでいる感じがした。


「一口目は」


「スープ」


メンちゃんが言う前に答えた。


レンゲでスープをすくう。


湯気の向こうに、麺ノ家の最後のカウンターが一瞬よぎった。


店主、アカネさん、半分の食券、巾着の布。


全部飲み干さなくても、うまかったことは消えない。


その記憶を抱えたまま、俺は中伊豆の一口目を飲んだ。


熱い。


骨の厚みがある。


醤油が強い。


けれど、とがっているだけではない。


山道を歩いて少し冷えた身体に、どんと腰を下ろすようなスープだった。


鶏油は普通で頼んだのに、鼻の奥にふっと甘く残る。


横浜の夜ではなく、中伊豆の昼に合う家系。


「うまい」


声に出した瞬間、丼の湯気が揺れた。


いや、揺れる、なんてものではなかった。


丼の湯気が、いきなり天井へ向かって立ち上がった。


一本の白い柱になり、根元でくるりと巻いて、細い竜巻になる。


寸胴の湯も、鍋の湯も、換気扇に吸われるはずの湯気も、全部その一点へ集まっていく。


天井の照明が、その渦に押しのけられて一瞬まばたきした。


かわりに、丼の中の鶏油が光を放った。


スープの表面に散っていた金色の脂が、細い光の粒になって浮き上がる。


それが集まって、一本の光の筋になり、湯気の竜巻の中心を、真上から射抜くように照らした。


まるで、誰もいない舞台に、スポットライトが一本だけ落ちたようだった。


俺は思わずレンゲを置いた。


店主は湯気の竜巻をちらりと見て、また手元へ視線を戻した。


慣れているのか、見えていないのか、たぶんその両方だった。


そして、その光の柱の真下に、影が立った。


湯気と暖簾の影のあいだから、少女がゆっくりと現れる。


深い緑の髪を、低い位置でひとつに結んでいる。


瞳は醤油ダレのような濃い茶色で、その奥に鶏油の金が細く光る。


服は赤い暖簾を思わせる上着に、山道の土色をしたスカート。


派手ではない。


顔立ちは、むしろ落ち着いている。


だが、立っているだけで、店の空気が一段ぐっと濃くなった。


湯気の竜巻は、少女の背中でふわりとほどけ、ゆっくりと天井へ散っていく。


スポットライトだけが、彼女の足元に金色の丸を残していた。


湯気の向こうに立つ、見知らぬ少女。


麺ノ家の最後の日、カウンターの湯気の奥に見えた影が、頭の中で重なった。


ああ、あの影は、これだったのか。


見えるぞ、と店主は言っていた。


言っていたが、竜巻とスポットライト付きだとは聞いていない。


メンちゃんが固まった。


膝の審査票が、ぱさりと床に落ちた。


「誰」


少女は、落ち着いた声で言った。


「この店の一口目です」


「一口目がしゃべった」


俺は思わずそう言った。


メンちゃんが床の審査票をひろい上げ、俺の袖をつかむ。


「ご主人様、今の感想、かなり正確だけど危機感が薄い」


「すまん」


「湯気が竜巻になって、鶏油がスポットライトになって、知らない女の子が出てきたんだよ。もっと驚いて」


「驚いてる。ただ、腹も減ってる」


少女は小さく頭を下げた。


「麺乃峠の家系妖精です。名前は、峠子と呼ばれています」


「そのままだな」


「山道では、分かりやすさが命です」


「家系妖精にも土地柄があるのか」


峠子はうなずいた。


「あります。この店のスープは、観光帰りの身体を引き戻すために少し骨を強くしています。醤油は、山の湿り気に負けないよう立たせています。鶏油は派手にしすぎない。ここでは金色に浮かれるより、腹の底で温まる方がいいからです」


説明なのに、食レポではなかった。


声に店の誇りがあった。


店主の手の動き、常連らしい客の背中、観光客が少し疲れて暖簾をくぐる瞬間。


そういうものが、彼女の言葉の奥に沈んでいる。


その間に、メンちゃんは審査票を胸の高さにかまえていた。


もう、緊張で固まってはいなかった。


かわりに、目つきが係員のそれになっている。


「そこの妖精さん、いくつか質問があります」


「はい」


「氏名。今、聞きました。峠子ですね」


「はい」


「出身。麺乃峠。中伊豆。ここも聞きました」


「はい」


「では、渡航目的を。うちのご主人様の胃袋に、何をしに来ましたか」


峠子は少しだけ首をかしげた。


「ご挨拶に、と申しますか」


「挨拶に、湯気を竜巻にしてスポットライトを焚く必要は?」


「あれは、私が出るときに勝手にそうなるものでして」


「勝手に。つまり、意図的な過剰演出ではない、と」


「はい」


「一応、審査票の『妖精の危険度』欄には、そう書いておきます」


メンちゃんはペンを走らせた。


俺はその紙をのぞいた。


『危険度・保留。ただし登場が派手すぎる。要監視』


「入国審査官みたいだな」


「入国審査官だよ。勝手に官職に就いた」


峠子は、その様子をじっと見ていた。


そして、少しだけ困ったように言った。


「あの、私はこの店から出られないので、渡航はできないのですが」


「言葉のあやです」


「はあ」


「知らない家系には、知らない審査が要るの。それだけ」


峠子は、少しだけ笑った。


俺は麺をすすった。


硬めの太麺は、噛むとしっかり芯がある。


スープが強い分、麺の小麦が負けていない。


海苔を一枚、スープに軽く浸す。


メンちゃんの視線が、審査票越しに鋭くなる。


「沈めすぎない」


「分かってる」


「山の店だからって、遭難させないで」


「海苔は登山者じゃない」


「でも沈めすぎたら戻ってこない」


「それは審査項目か」


「重要事項」


その理屈は少し分かるのが嫌だった。


海苔でライスを巻いて食べる。


醤油の強さが米を呼ぶ。


ピリ辛の豆板醤を少しだけ乗せると、山の空気の中に赤い熱が通った。


「うまい」


二度目の言葉が出た。


その瞬間、峠子の足元のスポットライトが、ふっと一段明るくなった。


金色の丸が、床の上で少し広がる。


そして、峠子の輪郭が、ほんの少し濃くなった気がした。


俺は瞬きをした。


見間違いかと思ったが、メンちゃんも気づいたらしい。


袖をつかむ指先に力が入る。


審査票を持つもう片方の手も、少し震えていた。


その震える指先が、ほんの一瞬、カウンターの木目を透かした。


金色のツインテールの先が、湯気みたいに薄くなる。


峠子が濃くなっていくのと、ちょうど逆の方向に。


俺が瞬きをすると、指先はもう元どおりだった。


それでも、確かに一度、メンちゃんは透けた。


嫉妬なのか、不安なのか、たぶんその両方の重さで。


「ご主人様」


「何だ」


「今、この子、ちょっと濃くなった」


「スープの話か」


「存在の話」


峠子は黙っていた。


だが、その足元の影が、スポットライトの金色の中で、はっきりと床へ落ちている。


現れた瞬間には、まだ影なんてなかったはずだ。


それが今は、山道の土色をした細い影になって、木の床に貼りついている。


俺の鞄の中で、巾着の布がまた小さく震えた。


「あなたが本心でうまいと言ってくれたからです」と峠子が言った。


「それで現れるのか」


「はい」


「濃くなるのも?」


峠子は少しだけ目を伏せた。


「この店の一杯を、また食べたいと思ってくれたから」


俺は箸を止めた。


確かに思った。


また来たい。


その言葉は、自然に胸の中へ浮かんでいた。


横浜から遠い。


移動も面倒だ。


休日を一日使う。


それでも、この山の空気で、この醤油の強いスープをもう一度飲みたいと思った。


それは悪いことではないはずだ。


だが、峠子の影は確かに濃くなっている。


さっきまで宙に浮いていた妖精が、俺の「また来たい」で、少しずつ床に足をつけ始めている。


メンちゃんは、審査票を膝に戻した。


もう、官職の顔ではなかった。


俺の袖を離さないまま、俺の横顔を見ている。


「ご主人様」


「分かってる」


「まだ何も分かってない顔してる」


「そうか」


「うん。ラーメンを前にしたご主人様は、だいたい顔が素直」


「嫌な信用だな」


「素直なのは、いいことだよ。でも今は、ちょっとだけ危ない」


メンちゃんは少しだけ唇をとがらせた。


それでも、声を荒げなかった。


少し前の彼女なら、ここで「私の方が家系だよ」と張り合っていたかもしれない。


いや、今もかなり張り合ってはいる。


審査票まで作って、入国審査官まで名乗って、全力で張り合っている。


だが、それだけではない。


彼女は、俺の感情の温度を見ていた。


竜巻でも、スポットライトでもなく、俺の胸の中を。


「また来たいは、言っていいと思う」


「いいのか」


「うん。だって、うまいんでしょ」


「うまい」


「なら言っていい。でも」


メンちゃんは、審査票を一度置いて、丼の横の水のコップを俺の方へ少し寄せた。


「今すぐ全部を渡さないで」


峠子が、静かにメンちゃんを見た。


「全部?」


「次の休日も、その次も、ずっとこの店に来たいって思うところまで行くと、沈めすぎ」


「海苔の話ですか」


「愛の話」


「同じなんですか」


「かなり近い」


俺は水を飲んだ。


冷たい水が、口の中のスープを少しだけ落ち着かせる。


味が消えるわけではない。


余韻は残っている。


ただ、熱に飲み込まれずに済む。


「また来たい」と俺は言った。


メンちゃんの指が少し強くなる。


峠子の足元のスポットライトが、また一段濃くなる。


「でも、今日の帰り道はお前と帰る」


その言葉で、メンちゃんの肩が少し下りた。


峠子の影は、それ以上濃くならなかった。


だが、薄くもならなかった。


床に落ちた細い影は、そのままそこにあった。


スポットライトも、消えなかった。


「それでいいのですか」と峠子が聞いた。


誰に聞いたのか分からなかった。


俺か、メンちゃんか、自分自身か。


俺は丼を見た。


「今の俺には、それでいい」


「今の」


「次に来た時は、その時の俺に聞く」


メンちゃんが隣で小さく笑った。


「それ、私の台詞」


「使い勝手がいい」


「著作権あるよ」


「ラーメンに著作権を持ち込むな」


「じゃあ海苔一枚」


「請求が具体的だな」


峠子が、初めてはっきり笑った。


その笑顔は、派手ではなかった。


湯気の竜巻でも、金色のスポットライトでもない。


山道の途中で見つけた灯りみたいな、小さな笑みだった。


俺は食べ進めた。


麺、スープ、海苔、ライス、ほうれん草。


ニンニクは途中で少しだけ入れた。


メンちゃんは「少しだけ」を見て、審査票に『ニンニク、常識的な量。加点』と書き足した。


「加点」


「ちゃんと見てるからね」


全部は飲み干さなかった。


けれど、レンゲで最後に一口だけスープを飲んだ。


醤油の強さ、骨の厚み、鶏油の余韻。


中伊豆の空気が、その一口の奥にあった。


「ごちそうさまでした」


店主が低くうなずく。


「ありがとうございました」


峠子は湯気の向こうへ少しずつ戻っていく。


戻るときにも、湯気がふわりと立ち上がって、彼女の背中を細い柱で包んだ。


来たときほどの竜巻ではない。


だが、スポットライトの金色は、消える瞬間まで彼女の足元に残っていた。


完全に消える直前、彼女は俺たちへ言った。


「この店の一口目を覚えていてください」


「覚えてる」と俺は言った。


「海苔の沈め方も」とメンちゃんが言った。


「それはあなたの担当では」


「家系全体の重要事項だから」


峠子はまた少し笑い、湯気の中へ溶けた。


金色のスポットライトも、湯気の竜巻の名残も、ゆっくりと天井へ散っていく。


だが、床に落ちた細い影の記憶だけが、俺の目に残っていた。


すぐには立ち上がれなかった。


店内には、まだ峠子の声のかたちが残っていた。


「この店の一口目」という言葉が、寸胴の低い音に混ざって、カウンターの木目に沈んでいる気がした。


俺は空になりきっていない丼を見た。


スープの表面に、鶏油の細い光が浮いている。


さっきまでスポットライトになっていた金色が、今はただの脂の粒に戻っていた。


その揺れの中に、深い緑の髪の影が一瞬だけ映った。


瞬きをすると、もうない。


ただのスープだ。


醤油の強い、中伊豆の家系ラーメンのスープ。


だが、ただのスープに戻るまでに、ほんの一呼吸だけ時間がかかった。


メンちゃんも、それを見ていたらしい。


何も言わず、水のコップを俺の方へ寄せた。


審査票は、もう膝の上でぱたんと閉じられていた。


俺は飲んだ。


冷たい水が、喉を通っていく。


ようやく箸を置いて、席を離れた。


店を出ると、中伊豆の風は少し冷たくなっていた。


腹は満ちている。


苦しくはない。


ちょうどいい。


美味しく終われる量。


メンちゃんは店の暖簾を振り返った。


「いい店だったね」


「ああ」


「悔しいけど」


「悔しいのか」


「だって、ご主人様が本当にうまそうな顔した」


「うまかったからな」


「知ってる」


メンちゃんは少し黙った。


それから、審査票をぱらりとめくって、俺に見せた。


一番下の欄に、丸っこい字でこう書いてあった。


『総合判定・入国許可。ただし、永住は認めない』


「永住」


「一杯ずつ、そのつど審査する。住み着かせはしない」


「厳しい審査官だな」


「優しい審査官は、ご主人様を沈めすぎるから」


メンちゃんは審査票を鞄にしまい、俺の隣に並んだ。


「でも、嫌じゃなかった」


「そうか」


「ちょっと嫌だった」


「正直でよろしい」


「採点しないで」


俺は笑った。


駅へ戻る道、鞄の中の布切れがまだかすかに温かかった。


麺ノ家のものなのに、今は中伊豆の山の湿り気を少し吸っているように感じる。


味は終わらない。


終わらないというのは、同じ場所に残り続けることではないのかもしれない。


別の土地で、別の暖簾で、別の店主の手で、少し違う一杯として立ち上がることなのかもしれない。


そして、そのたびに、湯気が竜巻になり、鶏油がスポットライトになり、誰かが一人、湯気の向こうから現れるのかもしれない。


「ご主人様」


「何だ」


「巡礼ノート、書く?」


「書く」


駅前のベンチに座り、俺はノートを開いた。


横浜家系 麺乃峠。


中伊豆。


山の空気。


醤油強め。


骨感あり。


油普通で十分。


ライスとの相性良し。


海苔は沈めすぎない。


峠子。


店の一口目。


湯気が竜巻になった。


鶏油がスポットライトになった。


影が少し濃くなった。


そこまで書いて、ペンが止まった。


メンちゃんがのぞき込む。


隣で、審査票を並べて置いている。


ノートと審査票、二冊がベンチの上に並んだ。


「どうしたの?」


「書くべきか迷ってる」


「何を」


俺は少し考えてから、ノートに一行足した。


また来たい。


メンちゃんはそれを見た。


何も言わなかった。


審査票のペンも、動かさなかった。


だから俺は、さらに一行書いた。


ただし、次の休日を全部渡さない。


メンちゃんの指先が、俺の袖をそっとつまんだ。


「それなら、よし」


「採点するな」


「正直でよろしい」


「お前も使い勝手のいい言葉を覚えたな」


メンちゃんは得意げに笑った。


それから、自分の審査票にも、丸っこい字で一行書き足した。


のぞくと、『ご主人様、また来たいと言った。要・継続監視』とあった。


「監視されてる俺」


「大事な入国者だからね」


帰りの電車を待つホームで、俺たちは並んで立った。


山の向こうから風が吹く。


遠くで川の音がした。


観光客の笑い声、バスのエンジン、駅員のアナウンス。


その全部の隙間に、まだ豚骨醤油の湯気が残っている。


メンちゃんがふと、海の方角を見た。


「次は、伊東市だっけ」


「予定ではな」


「海風と家系」


「合うのか?」


「食べれば分かる」


「俺の台詞を取るな」


「使い勝手がいい」


電車が来た。


俺は鞄の中の布切れに触れた。


少しだけ温かい、と思った。


違った。


中伊豆へ来る前より、明らかに熱い。


火傷するほどではない。


だが、布の奥に小さな寸胴があるみたいに、指先へじわりと熱が返ってくる。


財布の中の半分の食券は静かだった。


だから余計に、その布切れだけが何かを覚えているように感じた。


ホームの足元に、細い影が伸びた。


俺の影ではない。


メンちゃんの影でもない。


電車のライトが差し込む一瞬、巾着からのぞいた赤い切れ端から、山道の土色をした細い影が半歩だけ外へ出た。


さっき、店の床に落ちていたのと、同じ形の影だった。


「ご主人様」


メンちゃんの声が低くなった。


審査票を持つ手に、また力が入る。


影はすぐに消えた。


だが、俺たちは二人とも見ていた。


赤ではない。


琥珀色。


待つ色、選ぶ色、次の一杯を楽しみにする色。


中伊豆の一杯は、俺を縛らなかった。


けれど、忘れられない湯気を残した。


竜巻になった湯気も、スポットライトになった鶏油も、消えた。


それでも、床に落ちた小さな影だけは、鞄の中の布切れに、少しだけついてきていた。


そこで、ふと引っかかった。


峠子は、自分で言っていた。


私はこの店から出られないので、渡航はできない、と。


なら、ホームまでついてきた、この半歩は何だ。


「……妖精は、店から離れられないはずじゃ、ないのか」


つぶやきは、電車の音に半分さらわれた。


メンちゃんは答えなかった。


ただ、審査票を抱える腕に、ぎゅっと力がこもるのが見えた。


メンちゃんは隣にいる。


少しやきもちを焼いて、審査票まで作って、少し学んで、少しだけ強くなった顔で。


俺たちは電車に乗った。


窓の外で山の緑が流れていく。


その向こうに、まだ見ていない海がある。


まだ知らない家系がある。


そしてたぶん、湯気の向こうには、また別の誰かが立っている。


そのことを、俺は少し怖いと思った。


同時に、少し楽しみにしていた。

中伊豆の家系ラーメン屋「麺乃峠」と、その一杯に宿る妖精・峠子を描いた。


俺は本心から「うまい」と言い、「また来たい」と思う。


だが、次の休日を全部渡すわけではない。


メンちゃんはやきもちを焼きながらも、ただ拒むのではなく、俺の気持ちが沈めすぎた海苔みたいに崩れないよう見張り始めた。


けれど、峠子の影は店の外まで半歩だけついてきた。


妖精は、店から離れられないはずなのに。


次は伊東市。


山の湯気の向こうに、海風と鶏油のきらめきが待っている。

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