第12話 伊東市、海風と鶏油のきらめき
中伊豆で出会った峠子の影は、帰りの駅のホームまで、半歩だけついてきた。
店を離れられないはずの妖精が、なぜ。
メンちゃんの警戒レベルは上がり、家系法度は今日も増える。
麺ノ家の暖簾の端には、山の熱が残っている。
今回の舞台は伊東市。
海風、温泉街、観光客の足音。
横浜でも中伊豆でもない土地で、俺とメンちゃんは、抜けのいい鶏油をまとった、新しい家系妖精と出会う。
中伊豆から帰って三日目の朝、俺は自分の部屋で、白いテープの線の内側に立たされていた。
線の向こうでは、メンちゃんが腕を組み、机の上をにらんでいた。
机の上には、麺ノ家のあの布切れ。
中伊豆の湿り気を吸ってから、引き出しにしまっても、そこだけ部屋の温度が少し違う布だ。
「ご主人様、線から出ないで」
「ここは俺の部屋だが」
「今は検証現場」
「何のだ」
「峠子の件」
メンちゃんの声は、いつもより半音低かった。
あの日、麺乃峠からの帰り。
駅のホームで、峠子の影は、俺たちに半歩だけついてきた。
店の中にいるはずの一杯が、店を出て、ホームまで来た。
半歩。
ほんの少し。
けれどその半歩は、喉に刺さった小骨みたいに、ずっと俺の中に残っていた。
「妖精は、店から離れられないはず。それが基本」
「お前は俺の家にいるが」
「私は丼ごと引っ越した正規ルート。峠子のは、はみ出し」
「正規ルートがあるのか」
メンちゃんは布に向き直った。
「実験その一。呼びかけ。――峠子さん、いますか」
布は動かない。
ただ、皿のふちが、ほんのり温かくなった気がした。
「実験その二。距離」
メンちゃんは皿ごと布を持ち、廊下の一番奥まで往復した。
「離れると、ぬるくなる。近づくと、あったかい」
「つまり」
「本体は来てない。でも、声の届く範囲が、店の外まで広がってる」
彼女は段ボールの切れ端に、みみずが行進したような字で大きく書いた。
警戒レベル、二から四。
「三は」
「飛ばした。事態は深刻」
「あと、これ」
メンちゃんは机の上に、一枚の紙をばんと置いた。
「家系法度、第十二条」
「まだ増えるのか」
紙には、こう書いてあった。
第十二条・妖精が「抜けのいい」と言ったら、ご主人様は「でも芯はメンちゃん」と三回唱えるべし。
「唱えないと透けるのか」
「透けない。でも、私が安心する」
「警戒レベルと関係あるのか」
「大あり。よその声が店の外まで届くなら、うちの声は、ご主人様の芯まで届かせる」
妙に真剣な顔で言うので、俺は笑えなかった。
半歩の件を、この子は俺よりずっと重く受け取っている。
翌週の休日。
ノートには、次の行き先が書いてある。
伊東市。
海沿いの家系ラーメン屋。
候補の店名は「横浜家系 潮ノ屋」。
店名からして、もう海風が吹いている。
「ご主人様」
「何だ」
「今日は海だよ」
「ラーメンだ」
「海ラーメンデート」
「また混ぜたな」
「海苔は海から来るから、今回は私の理論が強い」
「海苔を切り札にするな」
メンちゃんは白いブラウスに、うすい青のカーディガンを羽織っていた。
赤いリボンはいつも通りだが、今日は少しだけ海に寄せているらしい。
鞄には携帯用の海苔ケース。
その隣に、なぜか小型の携帯用鶏油ボトルまで入っていた。
「それは何だ」
「濃度の予備。向こうの店が薄かったら、現地で濃くする」
「店の味に勝手に足すな」
出発前、俺はその布切れを巾着袋に入れる。
その瞬間、布がかすかに震えた。
中伊豆の時ほどではない。
だが、確かに反応している。
「伊東市って書いただけじゃ光らないのに、持つと震えるんだね」
メンちゃんが横からのぞき込む。
「向こうから来る味の記憶って、こういうことなのかもな」
「向こうって、海?」
「さあな」
「家系、泳げるかな」
「スープに海水を混ぜるな」
電車に乗ると、窓の外の緑が少しずつ開けていった。
山の湿り気が遠ざかり、空の色が明るくなる。
やがて、車窓の向こうに海が見えた。
メンちゃんが小さく息をのむ。
「海」
「海だな」
「スープより広い」
「比べるな」
「でも、鶏油みたいに光ってる」
窓の外で、海面が金色に揺れていた。
朝の光が、波の細かいでこぼこに触れている。
俺がそう思った瞬間、メンちゃんがこちらを見た。
「今、ちょっと家系っぽいこと考えた?」
「海を見て鶏油を思い出した」
「重症」
「お前が言うな」
その時、メンちゃんの赤いリボンが、なぜか一段濃い赤に染まった。
対抗心のメーターが上がると、色まで濃くなるらしい。
俺の周りだけ湯気がふわりと立ちのぼり、前の座席の観光客が鼻をひくつかせて振り返った。
伊東市に着くと、空気が違った。
中伊豆の山の湿り気ではない。
潮の匂いに、温泉街のゆで卵みたいな匂い。
観光客の足音、干物屋の煙。
家系ラーメンから遠いようで、これもまた腹が減る空気だった。
「旅先っぽい」
メンちゃんが歩きながら言った。
「ああ」
「でも、ご主人様の顔はラーメン屋を探す顔」
「旅先で目的地を見失わない顔だ」
「言い方」
潮ノ屋は、駅から海へ向かう途中の通りにあった。
赤い看板。
横浜家系の文字。
その下に、小さく「旅の途中の一杯」と書かれている。
店の扉の向こうから、豚骨醤油の香りがもれていた。
だが、重くはない。
潮風にほどけるような香りだった。
鞄の中で、布が震える。
中伊豆の時とは違う。
熱ではなく、表面をなでるような振動。
まるで布の中を、細い風が抜けていくようだった。
「来たね」
メンちゃんの声は少し硬い。
「入るぞ」
「うん」
店内は明るかった。
カウンターの奥に大きな窓があって、海の光が入ってくる。
家系ラーメン屋にしては風通しがよくて、観光客らしい客も多い。
券売機の横には、手書きで「油少なめもおすすめ」とあった。
メンちゃんがその札を見て固まった。
「油少なめもおすすめ」
「書いてあるな」
「おすすめ」
「落ち着け」
「家系で油を少なくすることを、おすすめ」
「旅先の身体には合うんだろう」
「ご主人様、今、敵側の理屈を理解した顔した」
「敵じゃない」
メンちゃんは、むっと頬をふくらませた。
鞄から例の携帯用鶏油ボトルを取り出したので、俺は無言で取り上げた。
俺は券売機の前に立つ。
海の近くで海苔増し。
ベタだが、ベタなものほど、時々強い。
「ご主人様」
「胃袋の余力だろ」
「あと、海苔増しは感情が出てる」
「現地調査だ」
結局、ラーメン、ライス、海苔増し。
好みは、少し迷った。
店主が食券を受け取る。
「好みは?」
俺は海の光を見た。
中伊豆では、硬め、濃いめ、油普通。
今日はどうする。
メンちゃんが隣で、何も言わずに待っている。
待てるようになった。
それだけで、少し胸があたたかくなる。
迷った末、口から出たのは、結局いつもの並びだった。油は、普通。
メンちゃんの肩が少しだけ下りた。
「普通」
「今日も普通だ」
「うん」
だが、店主は少し笑った。
「海見た後なら、油少なめも合いますよ」
メンちゃんのリボンが、本当にぴんと立ち、先端から湯気が一筋のぼった。
同時に、店の照明がふっと暗くなり、俺の丼の置き場所だけ、鶏油色の光がスポットライトのように差す。
換気扇が、きゅうう、と小さく悲鳴を上げた。
「メンちゃん、店を家系空間にするな」
「してない。油少なめの気配がしたら、身体が勝手に濃くなる」
「体質にするな」
「普通でお願いします」
俺が言うと、店主はうなずいた。
「はいよ」
照明がもとに戻り、換気扇の悲鳴もやんだ。
メンちゃんが小声で言う。
「今、ちょっと危なかった。少なめの誘惑」
「健康的だろ」
「健康と浮気は紙一重」
「雑に危険なことを言うな」
麺がゆでられる。
寸胴から湯気が上がる。
そこに海の光が差しこむ。
湯気が白く広がり、その中に金色の筋が走った。
丼が置かれた。
潮ノ屋のラーメンは、見た目だけなら王道だった。
豚骨醤油、太麺、ほうれん草、チャーシュー、海苔。
ただ、鶏油の光が違う。
重く膜を張るのではなく、波のようにうすく揺れている。
メンちゃんが口を開く前に、レンゲへ手が伸びた。一口目はスープ。もう身体が覚えている。
熱い。
重さの後に、抜けがある。
気づいたら、二口目だった。
「うまい」と言うより先に、レンゲが二度目のスープをすくっていた。
どこかで、波の音がした――気がした。
窓は閉まっている。
なのに、丼の湯気が横へ流れた。
その中から、少女が現れた。
淡い青の髪。
鶏油の金を散らした瞳。
白い上着は海風に揺れるシャツのようで、赤いリボンだけが家系の暖簾を思わせる。
彼女は軽やかに笑った。
「ようこそ、潮ノ屋へ。潮風子です。重いだけが家系じゃありませんよ」
メンちゃんがすぐに身構える。
「軽い。あと、名乗りが早い」
「海沿いでは、名前も風通しがいい方がいいんです」
潮風子は、それ以上は店を語らなかった。
代わりに、指先でカウンターを、とん、とん、と軽く叩いた。
ざあ、と寄せて、すっと引く。
波と同じ間合いだった。
すすって、置いて、またすする。
三度目で気づいた。
俺の箸が、あの指のテンポで動いている。
すするのが波の寄せ。
置くのが波の引き。
一口が浅く、間が短く、箸が止まらない。
こん。
メンちゃんが、目の前に水のグラスを置いた。
グラスの底が鳴る、その一音で、箸が半拍止まる。
止まった分だけ、俺の間合いが戻った。
「ご主人様、もぐもぐしてから次」
「してる」
「してなかった。波の速さで食べてた」
「いい耳ですね」
「うちのご主人様のテンポは、私が一番知ってるので」
その間も、とん、とん、は止まらない。レンゲがまた浅く、速くなる。
「どうですか。抜けのいい鶏油でしょう」
「抜ける」
そう答えた瞬間、メンちゃんの肩がびくっとした。
俺は家系法度の第十二条を思い出し、小声で「でも芯はメンちゃん」と三回唱えた。
メンちゃんの湯気が、少しだけおさまる。
だが潮風子は、うれしそうに目を細めた。
「ほら、もうレンゲが波と同じ」
すくって、口へ、戻して。
ざあ、寄せて、すっと引く。
ぴたりだった。
どこまでが俺のペースか、境目が分からない。
分からないことが、少しも嫌じゃない。
それが一番まずい――そう思うより先に。
こつ。
丼が、わずかに回された。
メンちゃんの指が、丼のふちに触れている。
海苔の位置が、俺の手前に来た。
「海苔、そろそろ」
角度が変われば箸の入りが変わり、リズムが崩れる。
崩れた拍の隙間に、俺のいつもの間合いが、とん、と着地した。
「今、何かしたか」
「丼の向き、直しただけ」
「配置も家系」
「なるほど、音で来ますか」
「そっちが先に、音で来た」
そこからは、静かな攻防だった。
潮風子がカウンターを、とん、と叩けば、波が寄せて、俺の箸が軽くなる。
メンちゃんがグラスを、こん、と置き直せば、拍が割れて、俺の箸が俺に戻る。
とん、ざあ。
こん、もぐ。
観光客のざわめきの下で、誰にも聞こえないリズム戦が続いていた。
やがて、潮風子の指が速くなった。波が二拍、続けて寄せる。
俺のレンゲが浮きかけた、その時。
メンちゃんの背後の湯気が、ぼわりとふくらんだ。
カウンターの上で白い湯気がゆっくり渦を巻き、細い竜巻になって立ちのぼる。
その中で、メンちゃんのリボンがいちだんと濃く、暗い赤に染まった。
「私の鶏油は、抜けない。ずっといる。逃がさない」
湯気の膜が横へ広がり、海の光も券売機の白も、みるみる真っ白に沈んだ。
音まで、こもった。
「メンちゃん、視界。俺の視界がない」
「これが濃さ。音ごと包んだ」
「濃さで人の耳まで奪うな」
「休ませただけ」
たしかに、白い静けさの中で、俺の箸は俺の速さに戻っていた。
湯気の向こうから、くすくすと笑い声。
「濃いですねえ。でも、その濃さ、帰り道まで背負いますか?」
湯気の膜が、す、と横に流れて薄れる。
窓から入る海風が、家系の湯気をやさしく外へ押し出していく。
視界が戻ると、メンちゃんは息を切らし、潮風子はけろりと笑っていた。
その視線に気づいて、俺は言葉を選んだ。
「重さが抜けるのは分かる。でも、薄いわけじゃない。芯はある」
潮風子はうれしそうに笑った。
メンちゃんは、ちょっとほっとした顔をした。
「濃いメンちゃんも、海風みたいな一杯も、別々にうまい」
言ってから、少し照れた。
メンちゃんはまばたきをする。
「今の、褒め方としては悪くない」
「採点するな」
「でも、濃いメンちゃんって言い方はちょっと重い」
「お前が濃いんだ」
俺は少し考えて、言い直した。
濃い、と言われて不安になるのなら、言い方を変えればいい。
彼女が消えそうになった夜のことを思えば、一言の重さは分かる。
「濃いは撤回する。芯があるメンちゃんだ」
メンちゃんの目が、ぱちくりと開いた。
「今の、すごくよかった。不安が三ミリ減った」
「単位が細かいな」
でも、そう言うメンちゃんの湯気は、もう立っていなかった。
濃い、と重ねるより、芯がある、と置く。その方が、この子は安心する。
俺は少しだけ、褒め方が分かってきた。
海苔をスープにひたし、ライスを巻く。
海の近くで食べる海苔ライス。当たり前のようで、妙にうまい。
「海苔は、海の記憶を持っていますから」
「分かってるじゃん……じゃなくて。家系法度、第十三条・海苔で気を許すな」
「自分に効く法度を作るな」
「自戒も家系」
最後のスープは、ゆっくりすくった。
潮風子はもう叩かず、少しだけ物足りなそうに笑っていた。
こん、と、メンちゃんが空のグラスに水を注ぎ足す。
その音を締めの一拍にして、俺は丼を置いた。
食べ終える頃には、身体が軽かった。
家系ラーメンを食べた後なのに、背中に潮風が通っているような感覚がある。
重い満足ではない。
歩ける満足。
店を出ると、海が近かった。
潮風子は店の外までは出てこない。
だが、俺の耳元に、まだ彼女の声が残っていた。
「この軽さを好きになれば、帰り道も軽くなります」
波の音が、その言葉の後ろに重なる。
ざあ、と寄せて、すっと引く。
その引いていく音の中に、潮風子の笑い声が一瞬だけ混ざった気がした。
振り返っても、店の暖簾が揺れているだけだ。
彼女はいない。
いないのに、背中のあたりだけが軽い。
その軽さが、逆に離れがたかった。
俺は海の方へ歩き出した。
メンちゃんが隣にいる。
だが、ほんの一瞬、俺の歩幅は潮風子の声に合った。
軽い。
帰り道も軽くなる。
この店の一杯を好きになれば、疲れた休日の終わりも、少し楽になるのかもしれない。
そう思った瞬間、俺の足が、すっと軽くなった。
自分の歩幅より、半歩だけ広くなる。
その半歩は、潮風子の声のリズムにぴたりと合っていた。
その瞬間、メンちゃんが俺の前に回りこんだ。
手には水のペットボトル。
「飲んで」
「急だな」
「余韻は、飲みこむ前に薄めよう」
「名言っぽいが、水分補給だな」
「どっちも」
俺はペットボトルを受け取った。
冷たい水を飲む。
潮風と鶏油の余韻が消えるわけではない。
ただ、足が自分の歩幅へ戻る。
半歩広かった足が、とん、と自分のリズムに着地した。
メンちゃんが俺をじっと見ていた。
「今、ちょっと持っていかれた」
「そうか」
「ご主人様の歩き方が、軽くなりすぎてた」
「軽いのは悪いことじゃないだろ」
「悪くない。でも、帰り道まで全部あの子の軽さにするのは違う」
彼女は水のボトルを両手で抱えたまま、少しだけ声を落とした。
「濃さで視界を奪ったのは、やりすぎた。ごめん。でも、水で薄めるのは、やめない」
「それはいい」
「濃くして張り合うより、こっちの方が、ご主人様に効く」
俺は海を見た。
金色の光が、波に散っている。
潮風子の鶏油みたいな光。
きれいだった。
うまかった。
また来たい。
だが。
俺は何も言わず、飲みかけのペットボトルをメンちゃんに差し出した。
彼女は一度まばたきをして、両手で受け取り、同じ水を一口だけ飲んだ。
それで、たぶん、全部伝わった。
海風が吹いた。
鞄の中の布が、ふわりと揺れた。
中伊豆の時のような熱ではない。
布の中を風が通ったような感触。
その風の奥に、山道の土色とは違う、淡い青の影が一瞬だけ混ざった。
メンちゃんも気づいたらしい。
「ご主人様」
「見えた」
「今度は、影じゃなくて風だった」
「店の外まで、声が来たな」
「うん」
彼女は海の方を見る。
「次から、もっと気をつけよう」
「ああ」
「あと、濃度で対抗するのは、たまにでいい」
「たまにもやめてほしいが」
「たまには、やる。家系の意地なので」
駅へ戻る道で、俺は巡礼ノートに、店の名と、歩幅が少し軽くなりすぎたことと、芯があるのはメンちゃんの方、とだけ短く書きつけた。
のぞき込んだメンちゃんの湯気が、また少しだけ、ほわりとゆるんだ。
うれしいと湯気、対抗しても湯気。この子は、感情がぜんぶ湯気で出る。
「次は?」
「次の店選びだな」
「ご主人様、限定トッピングに弱いから心配」
「そんなことはない」
「券売機の前で目が泳ぐ」
「見てるな」
「家系ヒロインなので」
電車の窓から、海が遠ざかっていく。
その布切れは、巾着袋の中で静かだった。
だが、完全には静かじゃない。
山の熱と、海の風。
二つの記憶が、布の奥で重なっている。
最寄り駅で電車を降りると、空はもう夕方の色だった。
「帰ったら麦茶だね」
「家系妖精の締めがそれでいいのか」
「うちの締めは自由」
いつもの帰り道。
いつもの角。
家は、右だ。
そのはずだった。
俺の足が、すっと左へ出た。
半歩。
自分の歩幅より軽い、あの歩幅で。
左は、線路沿いに南へ下る道。
ずっと行けば海に出て、あの赤い看板に着く。
見下ろすと、足はもう普通に右を向いていた。
今のは、何だ。
水で薄めて、歩幅は自分のリズムに戻ったはずだ。
「ご主人様?」
前を歩いていたメンちゃんが振り返る。
「どうしたの」
「……いや」
「靴に石?」
「そんなところだ」
言えなかった。
余韻はちゃんと薄めた、と安心している横顔に、今の半歩を言えなかった。
波の音はもう聞こえないのに、耳の奥で、ざあ、と何かが引いた気がした。
俺は右へ曲がった。
自分の足で。
――自分の足だと、思いたかった。
伊東市の家系ラーメン屋「潮ノ屋」と、その一杯に宿る妖精・潮風子の話でした。
潮風子の一杯は、重さを残しすぎず、楽しかった身体をそのまま帰り道へ送り出す家系。
俺は本心から「うまい」と思い、少しだけ歩幅を持っていかれた。
メンちゃんは水を差し出して、余韻をうすめることで俺を戻した。
戻った——はずだった。
次は券売機。
限定トッピングと食券の光が、また別の危うさを連れてくる。




