第13話 券売機前の三角関係
中伊豆では、峠子の影が半歩だけ店の外へ出た。
伊東市では、潮風子の声が帰り道の歩幅を軽くした。
メンちゃんは、ただやきもちを焼くだけじゃなく、俺の気持ちの温度まで見張るようになっている。
一方の俺は、あの帰り道の「足の件」を、まだ彼女に言えずにいる。
今回の舞台は券売機前。
限定トッピング、食券、無料券。
押す前から始まる家系ラーメンの誘惑に、俺とメンちゃんは向き合う。
潮ノ屋から帰って以来、メンちゃんは券売機を見る目が少し鋭くなった。
正確には、俺が券売機を見る目を見張るようになった。
当然だ、と思う。
でも、俺には言っていないことが一つある。
潮ノ屋からの帰り道、俺の足が一瞬だけ、勝手に店の方へ向いたこと。
あれは道を間違えただけだ。
そう決めて、今日まで黙っている。
黙っているせいで、券売機という言葉が、少しだけ後ろめたい。
休日の朝。
テーブルに着くと、メンちゃんが隣に座る。
「ご主人様」
「何だ」
「今日は先に言っておくね」
「何を」
「限定トッピングは、味変ですか。浮気ですか」
「朝一番に問い詰めるな」
「大事」
彼女は真剣だった。
前回の潮風子は、俺の歩幅を少しだけ軽くした。
中伊豆の峠子は、影を半歩だけ外へ出した。
その危険を、メンちゃんは覚えた。
俺も覚えた。
覚えたはずだった。
それでも、券売機は危険だ。
赤いボタン。
白いボタン。
トッピングの小さな誘惑。
人間の決意というものは、券売機の前でかなり薄くなる。
「今日はどこ?」
「伊豆の帰り道で見つけた店だ。横浜家系 券ノ助」
「名前からして券売機が強そう」
「店名に券が入っている時点で、覚悟はしている」
「覚悟って、海苔増しの?」
「場合による」
「ほら」
メンちゃんが俺を見る。
「今の顔、もう少し危ない」
「まだ店にも着いてない」
「券売機は距離を超えてくる」
「名言っぽく言うな」
言い返しながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
距離を超えてくるのは、券売機だけじゃない。
あの日の足も、そうだった。
言うなら今だ、と思ったのに、俺の口は「そろそろ出るぞ」としか言わなかった。
かばんには、暖簾の端。
財布には半分の食券。
記憶には、中伊豆と伊東市の味。
山の熱。
海の風。
どちらも、もう布の中に残っている。
今日の店で、何が残るのか。
俺は少しだけ緊張していた。
券ノ助は、駅から少し離れた、道路ぞいの店だった。
駐車場が広い。
看板が大きい。
入口の横に、なぜか券売機の写真が貼ってある。
メンちゃんがそれを見て言った。
「券売機を推してる」
「普通はラーメンを推す」
「この店、強い」
店に入る。
最初に目に入ったのは、やはり券売機だった。
大きい。
ボタンが多い。
ラーメン、チャーシューメン、海苔増し、ほうれん草増し、味玉、白髪ねぎ、限定燻製チャーシュー、特製三枚海苔、ライス、半ライス、大ライス。
情報量が多い。
家系ラーメン屋の券売機というより、小さな戦場だった。
「ご主人様」
「待て」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる」
俺の視線は、限定燻製チャーシューに吸い寄せられていた。
見ているあいだに、ボタンが一つ増えた。
限定燻製チャーシューの隣に、限定二枚燻製チャーシュー。
その隣に、限定三枚燻製チャーシュー、限定燻製チャーシュー気分の日。
さっきまで無かったはずのボタンが、ぽこ、ぽこ、と増えていく。
覚えのある感覚だった。
中伊豆では、影が半歩。
伊東市では、歩幅が半分。
あとから思えば、どれも小さかった。
今日は、目に見えて増える。
速さも、数も、前より強い。
積もってるんだ、と俺は思った。
言えなかった足の件と、たぶん同じ場所に。
「増えた」
「気のせいだ」
「ご主人様、今二回まばたきした。その間に四つ増えた」
メンちゃんが静かに言う。
「これ、増えてるんじゃない。ご主人様の欲が、券売機に映ってる」
たしかに、俺が「あれも」と思うたびに、ボタンが一つ光る。
「これも」と思うと、また一つ増える。
券売機が俺の胃袋の願望を、律儀に表示していた。
「一回、深呼吸して」
メンちゃんに言われて、息を吸って、吐く。
ボタンは、減らなかった。
「もう一回」
二度目の深呼吸で、増えていたボタンは、ようやく、すう、と数を減らした。
前なら、一回で戻った気がする。
その差が、静かに怖かった。
限定燻製チャーシューだけが、まだ光っている。
その光は、増殖したまがいものと違って、本物だった。
俺は深呼吸した。
今日は一軒だけ。
胃袋の余力はある。
だが、選びすぎるとおいしく終われない。
そして何より、ボタンを押すという動きには、妙な重みがある。
食券は、もう切られた。
店主の声が頭をよぎる。
俺は基本のラーメンとライスを押した。
そこで止まるつもりだった。
指が、限定燻製チャーシューのボタンの前で止まる。
メンちゃんの視線が刺さる。
「ご主人様」
「現地調査だ」
「便利な言葉を悪用してる」
「限定は一度きりかもしれない」
「ご主人様、限定に弱い」
「限定は一期一会だ」
「言い訳のスープが濃い」
押した。
食券が出た。
白い紙が三枚。
ラーメン。
ライス。
限定燻製チャーシュー。
その瞬間、券売機の取り出し口が光った。
赤でも、こはく色でもない。
食券の白が、内側からぱっと明るくなる。
そして、三枚の白い紙が、ふわりと宙に浮いた。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が、食券の中から響いた。
一枚目の食券が、くるんと丸まって、少女の形になる。
栗色の髪を高い位置で結び、胸元には小さな食券ホルダー。
服は店員さんのエプロン風。
でも、ボタンの色みたいな赤や白や黄色のリボンが、あちこちについている。
目がやけに商売上手な光をしていた。
「券ノ助の家系妖精、けん子です!」
「名前の圧が券売機」
俺が言うと、けん子はにこっと笑った。
「分かりやすい方が売れますから!」
ところが、けん子はそこで終わらなかった。
二枚目の食券が、ぱっと開いて、もう一人のけん子になる。
三枚目の食券からも、けん子が出てきた。
「いらっしゃいませー!」
同じ顔が三人、券売機の横にずらりと並ぶ。
「増えた」
三人のけん子が、声をそろえて言う。
「私たち、注文の数だけ出ます! 三枚買えば、三人。お得です!」
「どこがお得なんだ」
メンちゃんが俺の袖をつかむ。
「ご主人様、これ危ない。食券を買うほど、この子が増える」
券売機の取り出し口が、また光った。
四枚目の食券が、勝手に、するりと出てきそうになる。
「押してないぞ」
「ご主人様が、心の中で押しました」
図星だった。
メンちゃんが、券売機とけん子たちのあいだに、すっと立った。
「ストップ。ご主人様の心の押しボタンは、数えない」
四枚目の食券が引っこみ、俺が深く息を吐くと、三人いたけん子は、すう、と一人に戻った。
「本体は、一人です。でも、たくさんいた方がにぎやかなのに」
メンちゃんが俺の袖をつかむ。
「売る気が強い」
「売るためにいます!」
けん子は胸を張った。
「うちはスープもいい。麺もいい。もちろん鶏油もいい。でも、券売機で迷う時間まで含めて一杯なんです」
「迷う時間まで」
「はい! ラーメンは、押す前から始まっています!」
少し腹が立つほど説得力があった。
けん子は食券をひらひらさせる。
「限定燻製チャーシュー、いい選択です。香りが残ります。帰り道でも思い出します。次に来た時も、あのボタンを探します」
「セールストークがうまい」
「ありがとうございます!」
「褒めてない」
メンちゃんの声が低くなった。
「帰り道でも思い出すって、ちょっと危ない」
けん子は首をかしげる。
「危なくないですよ。次の休日も、私の食券を買えばいいだけです」
空気が少し変わった。
俺の財布の中で、半分の食券がかすかに熱を持つ。
メンちゃんも気づいた。
「今、何て言った?」
「次の休日も、私の食券を買えばいいだけです」
けん子は悪気なく笑っている。
悪気がないから、よけいに危うい。
しかも、けん子は言葉を重ねるたびに、手のなかの食券を一枚、また一枚と増やしていた。
「次の休日も、その次の休日も、そのまた次の休日も」
けん子の手のなかで、まだ来てもいない休日の食券が、扇のようにずらりと広がっていく。
「先に、全部買っておけば安心ですよ」
「全部?」
俺の声がかすれた。
「はい。来週も、再来週も、来月も。ぜんぶ券ノ助でどうぞ」
食券の扇が、俺の目の前にすっと差し出される。
ラーメン屋は、また来てほしい。
妖精は、自分の一杯を好きでいてほしい。
その願い自体は、間違っていない。
だが、次の休日も。
その次も。
その言葉は、少し前にメンちゃんが警戒した「全部」に近かった。
いや、けん子はもう「全部」を紙にして、手に持っていた。
券売機のボタンが、いっせいに戻ってきて点滅した。
さっき深呼吸で消したはずの、まがいものたちまで全員そろっている。
券売機ぜんぶが、押せ、押せ、と言っていた。
俺の指が動きそうになった。
まだ一口も食べていないのに。
もう一度、同じボタンを押したくなる。
いや、全部のボタンを押したくなる。
予備の食券を買う意味はない。
だが、ボタンがそこにある。
押せる。
買える。
次も選べる。
券売機の光が、俺の休日を先に全部確保してくれる気がして、それが妙に安心する。
安心した分だけ、けん子の輪郭が濃くなった。
俺が「次も」と思ったぶんだけ、彼女の手の食券が、ぱらぱらと数を増やしていく。
俺の未来の休日が、白い紙になって次々こぼれ出しているみたいだった。
「ご主人様」
メンちゃんの声がした。
彼女は財布から、自分の半分の食券を取り出していた。
こはく色の半券。
それを、差し出された食券の扇の上に、そっと重ねる。
「今おいしいのと、次の休日を全部渡すのは別」
声は静かだった。
怒ってはいない。
だが、止めている。
けん子が目を丸くした。
手の中の食券の扇が、ぴたりと止まる。
「全部、ですか?」
「そう。ご主人様が今日この店を好きになるのはいい。限定燻製チャーシューを覚えるのもいい。でも、次の休日まで食券で縛るのはだめ」
「縛るつもりは」
けん子は言いかけて、黙った。
券売機のボタンの光が、いっせいに弱くなる。
増えていたボタンが、また一つ、また一つと消えていく。
けん子の手の中の食券の扇も、しゅるしゅると閉じて、一枚に戻った。
俺は深く息を吐いた。
指先の熱が、少し冷めていく。
券売機の点滅も、いつのまにか止まっていた。
「また来たい」と俺は言った。
メンちゃんが俺を見る。
「でも、次の休日はその時に決める」
半券のこはく色が、少しだけ明るくなる。
けん子は食券ホルダーを見下ろした。
一枚だけ残った食券を、そっとなでる。
「食券って、先に買うものだと思ってました」
「今日食べる分はな」
俺は手の中の三枚を見た。
「次の休日の食券は、次の俺が買う」
メンちゃんが小さく笑った。
「その日のご主人様に聞く、だね」
「便利な言葉だ」
「著作権」
「海苔一枚だったな」
けん子はしばらく黙っていた。
それから、券売機の方を見て、少しだけ笑った。
「じゃあ、次に来た時も迷ってください」
「迷うのはいいのか」
「はい。迷って、押す時にちゃんと今日の自分で押してください」
けん子は少し照れたように、券売機をぽんと叩いた。
「あの増えたボタンは、私が欲張った分です。一杯は、一杯ぶんだけ」
メンちゃんが少しうなずく。
「それなら、よし」
「採点するな」
「今日の採点は重要」
カウンターに座り、食券を出す。
店主は手際よく受け取り、麺をゆで始めた。
好みを聞かれ、俺はいつもの呪文を短く唱えた。今日は、油だけ普通に落とす。
メンちゃんが小さくうなずく。
「普通」
「今日は普通だ」
「よし」
けん子は券売機の横に立ったまま、もう何も売らなかった。
それからのことは、正直、あまり覚えていない。
濃いスープ。硬めの麺。表面で光る鶏油。燻製チャーシューの、煙の記憶。
一口目がどこだったのかも、思い出せない。
気がつけば、丼は空だった。
スープは全部は飲み干さず、燻製の香りの余韻だけ残して、箸を置く。
「ごちそうさまでした」
覚えているのは味の細部より、券売機の前の攻防の方だった。
それでも、燻製の香りはたしかに、帰り道でも思い出しそうだった。
けん子の予言は、たぶん半分当たる。
けん子は券売機の横で頭を下げた。
「またのご来店を」
少し間を置いて、付け足す。
「いつかの休日に」
その言い方なら、悪くなかった。
けん子の姿が、券売機の光へ戻っていく。
最後に、彼女の食券ホルダーから白い紙が一枚だけ舞った。
床に落ちる前に、その紙はこはく色に光り、ふっと消えた。
直後、限定燻製チャーシューのボタンが一度だけ赤く点滅する。
押せ、と言っているようにも見えた。
またね、と手を振っているようにも見えた。
メンちゃんは無言で俺の袖をつまんだ。
店を出ると、風は穏やかだった。
かばんの中の暖簾の端に触れる。
山の熱。
海の風。
そして、紙が擦れるような小さな音。
券売機の光が、布の奥で一瞬だけ反射した気がした。
メンちゃんが俺を見る。
「今度は音?」
「たぶんな」
「山、海、券売機」
「だんだんラーメンから離れてないか」
「でも、全部ラーメンに戻ってくる」
それは少し怖かった。
俺が巡礼ノートを出す前に、メンちゃんが鞄から審査票を取り出した。
『家系巡礼・現地審査票』。例の、勝手に就任した入国審査官の道具だ。
「今日は、ご主人様のノートより先にこっち」
丸っこい字が、さらさらと欄を埋めていく。
『横浜家系 券ノ助。妖精・けん子。危険度、券売機込みで高め』
『ご主人様、店内で「また来たい」と発言。ただし食券は当日購入を条件に、入国継続を許可する』
「許可制なのか、俺の休日は」
「審査官なので」
それから彼女は、審査票のすみに一行書き足した。
『家系法度、第十三条。心の中でボタンを押しても、券は出ない』
帰り道、彼女は少しだけ機嫌がよかった。
店の妖精を完全に拒んだわけではない。
俺の選択を全部疑ったわけでもない。
ただ、危ないところで半分の食券を重ねた。
それが効いた。
中伊豆では、水を飲んだ。
伊東市でも、水を飲んだ。
今日は、食券を重ねた。
メンちゃんの抵抗は、少しずつ形を変えている。
そしてたぶん、次は胃袋そのものを止めることになる。
なぜなら、巡礼ノートの次の候補欄に、俺は見つけてしまっていた。
ライス無料。
おかわり自由。
メンちゃんがその文字を見て、目を細める。
「ご主人様」
「何だ」
「次、戦争かも」
「ラーメンは平和だ」
「ライス無料は、平和を乱すよ」
俺は否定できなかった。
家に着く。
上着を脱いで、椅子の背にかける。
メンちゃんは台所で、明日の味噌汁の豆腐を賽の目にするか手でちぎるかで、もう真剣だった。
平和な夜だった。
だから、俺は気づかない。
上着の内ポケットの奥で、白い紙が一枚、静かに折り目を伸ばしていることに。
券ノ助の食券。
買った覚えのない、四枚目。
あの時、引っこんだはずの一枚。
それは押し売りのような顔ではなく、忘れ物のような顔をして、次の休日を待っていた。
券売機の光から現れる妖精・けん子を描きました。
限定燻製チャーシューの香りは、帰り道にも残る。
俺は次の休日の食券まで買いそうになるけれど、メンちゃんが半分の食券を重ねて止めた。
今おいしいことと、次の休日を全部渡すことは違う。
次はライス無料。
おかわり自由という、家系ラーメン好きにはかなり危険な言葉が待っています。




