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家系ラーメンが好きすぎて、擬人化してしまった!?  作者: 源三郎


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8/32

第7話 閉店前夜の決断

店主の記憶をたどり、世界は麺ノ家のカウンターから横浜の街へと広がった。


ラーメンたちは丼の中だけにいるわけではない。


店の跡地、港の風、夜勤明けの客、閉店後のカウンター。


そうした場所と記憶が重なったとき、味は人の姿を取る。


そして店主は言った。


「次の場所で、名前を言う」と。


彼が昔、愛しすぎて消してしまった擬人化ラーメンの名前を。


今回は、その閉店した店へ向かう。


そこに集まるのはメンちゃんだけではない。


しおりん、ジロ子、そして他のラーメンたち。


すべての味を足せば、彼女は救えるのか。


それとも、それはメンちゃんをメンちゃんじゃないものに変えてしまうのか。

閉店した店は、商店街の奥にあった。


前に見た最初の跡地とは違って、そこはもっと古く、もっと静かだった。


表の看板は外され、ガラス戸にはひびが入っている。


内側に貼られた色あせた紙には「貸店舗」とあり、その文字だけが妙に新しかった。


だが店の前に立った瞬間、俺には分かった。


ここは空っぽではない。


匂いがする。


豚骨、醤油、焦げた油、濡れた木の床、古い券売機。


実際には何も匂わないはずだった。


店は閉まっている。


厨房も、スープを炊く大きな寸胴ずんどうもない。


それでも鼻の奥に、スープの記憶が残っていた。


メンちゃんが俺の袖をつかんだ。


「ご主人様」


「ああ」


「ここ、濃い」


しおりんが前に立っていた。


白いフリルが夕方の風に揺れる。


「ここは濁っています」


「濃いじゃなくて?」とメンちゃんが聞く。


しおりんは小さくうなずいた。


「濃さと濁りは違います」


「分かるような、分からないような」


「味も愛も、場合によります」


「またそれ」


メンちゃんが少しむくれた。


こんな場面でも、二人の会話はどこか柔らかい。


その柔らかさに、俺は少し救われていた。


店主は黙っていた。


胸ポケットに入った赤い食券が淡く光っている。


その光は夕焼けよりも暗く、けれど血よりは温かかった。


「ここが、最後の店だったんですか」と俺が聞くと、店主はうなずいた。


「あいつが消える前、俺が店を出そうとしていた場所だ」


「麺ノ家の前?」


「ああ」店主はガラス戸を見た。「俺はここで、自分の店を始めるつもりだった」


「でも、始めなかった」


「始められなかった」


短い言葉だったが、それだけで十分だった。


しおりんがガラス戸の前に立ち、小さな手をひびの入った戸に触れた。


すると赤い食券が強く光り、ガラスの向こうにぼんやりと店内が浮かび上がる。


空っぽのはずの床、ないはずのカウンター、外されたはずの厨房。


それらが湯気のように輪郭を持ち始めた。


「入れます」しおりんが言った。


「入れるって」俺はガラス戸を見た。鍵は閉まっている。


店主が古い鍵束を取り出した。


「昔の鍵だ」


「まだ持ってたんですか」


「捨てられなかった」


店主は鍵を差して回した。


かちり、と音がして、扉が開いた。


中へ入ると、そこはただの空き店舗ではなかった。


古いカウンター、並んだ赤い丸椅子、奥の寸胴、壁の色あせた短冊メニュー。


チャーシュー麺、ライス、味玉、海苔増し。


ありえなかった。


外から見たときは空だったのに、今は店がある。


いや、店の記憶がある。


メンちゃんが俺の隣で息をのんだ。


「すごい」


「見えるのか」


「うん」


「俺にも見える」


「ご主人様にも?」


「ああ」


俺はカウンターに触れた。


指先に木の感触があった。


冷たいが、確かにそこにある。


「記憶が濃くなると、見える人には見えます」としおりんが言った。


「便利だな」


「不便です。忘れたくても、見えてしまうので」


店主がカウンターの真ん中に立ち、そこに一枚の食券を置いた。


赤い食券。


店内の空気が震え、メンちゃんの胸元にも同じ赤い光が灯る。


「メンちゃん」


「大丈夫」彼女は胸を押さえた。「でも、すごく熱い」


「無理するな」


「うん」


そう言いながらも、彼女は下がらなかった。


店主は赤い食券を見つめた。


「名前を言う」


誰も声を出さなかった。


外では商店街のシャッターがきしむ音がする。


だがこの店の中だけは、時間が別の場所にあるようだった。


店主は深く息を吸い込み、その名を落とした。


「アカネ」


瞬間、寸胴のない厨房から湯気が立った。


古いカウンターの向こうに、少女の影が現れる。


赤茶色の髪、醤油ダレのような深い瞳、少し大きめの白い前掛け。


顔ははっきり見えないのに、そこにいるとだけは分かった。


カウンターの端では、しょう子が箸を揃えようとして指を止めていた。


揃えられないのだ。


感情が、順序を壊している。


彼女は唇を結び、それでも箸を握り直した。


その手は、少しだけ震えていた。


「この人が」メンちゃんが震える声で言う。


店主がうなずいた。


「俺が愛しすぎて、消したラーメンだ」


アカネ。


豚骨醤油の香りがかすかに漂った。


家系とは違うが、遠くもない。


骨の濃さ、醤油の赤、人を帰らせない重さ。


そのすべてが、店の空気に染み込んでいた。


アカネの影は、店主を見ているようだった。


店主は目をそらさなかった。


「悪かった」


謝罪というより、長い年月を削った石みたいな声だった。


「俺は、お前を守りたかった。でも、守るって言いながら、お前を俺の一杯に閉じ込めた。うまいって言えば、お前が笑うと思った。食えば、お前が残ると思った。でも俺はだんだん、お前を見なくなった」店主の声が少し揺れた。「見てたのは、消えないでほしいっていう俺の都合だけだった」


俺は黙って聞いていた。


その言葉は、俺にも刺さった。


メンちゃんを消したくない、隣にいてほしい、俺の前で笑っていてほしい。


その気持ちは本物だ。


だが本物だからこそ危ない。


守ることと閉じ込めることは似ている。


あの港で考えたことが、胸の中でまた熱を持った。


メンちゃんが俺を見る。


俺は小さくうなずいた。


大丈夫、とは言えなかった。


大丈夫かどうかなんて分からない。


ただ、逃げない。


それだけは決めていた。


そのとき、店の入口で鈴が鳴った。


古い店に鈴などついていなかったはずだ。


振り返ると、ジロ子が立っていた。


大きめのパーカー、山盛り野菜みたいな髪、ニンニク色のヘアピン。


「来たよ」


「お前」


「呼ばれた」ジロ子は店内を見回した。「うわ。重いね、ここ」


「お前が言うな」とメンちゃんが即座に突っ込む。


ジロ子はにっと笑った。


「褒めてる」


「絶対違う」


次に入ってきたのは、白くにごった香りをまとった少女だった。


白、黒、紅しょうが色の衣装。


しなやかな動き、余裕のある笑み。


「一杯で終わるなんて、もったいないよ」


そう言いながら、彼女はどこからともなく小さな麺の玉を取り出した。


話が終わった瞬間に、もう一玉を差し出してくる距離感だ。


メンちゃんが俺の袖を引いた。


「ご主人様、その人、替え玉みたいに距離を増やしてくる」


「分かりやすい危険だな」


トンちゃん。


豚骨ラーメンの擬人化だ。


さらに、深い茶色とオフホワイトをまとった大人っぽい少女が続く。


胸元では、鶏油チーユの金色が静かに光っていた。


スープの表面できらきら光る、あの鶏の脂の色だ。


「濃いだけじゃ、最後まで飲めないでしょ」


トンしょう姉さん。


豚骨醤油ラーメンの擬人化。


メンちゃんが分かりやすく身構えた。


「あなた」


「そんな顔しないの」トンしょう姉さんは微笑む。「近い味同士、仲良くしましょう?」


「近いからこそ複雑なの!」


「ふふ。かわいい」


「かわいいって言わないで!」


店内に、さらに気配が増える。


制服のようにきちんとした服の少女。


琥珀こはく色の瞳。


なるとの髪飾り。


「まずは基本に戻りましょう」


彼女は店に入るなり、カウンターの箸を一本ずつ揃えた。


閉店前夜の空気まで、きちんと整列させるような手つきだった。


しょう子。


醤油ラーメンの擬人化だ。


ふわっとしたニットを着た少女が、その後ろから顔を出す。


味噌色のリボン、コーンのような黄色い飾り。


「寒い日は、我慢しちゃだめだよ」


みそまるはメンちゃんの手をそっと包んだ。


一瞬、メンちゃんの透けかけた指先に、あたたかい色が戻る。


みそまるは自分の手を見た。


メンちゃんを温めた指先が、少しだけ冷えている。


温めるたびに、自分の温度が減るのだ。


それでも彼女は笑った。


「大丈夫。味噌はね、冷めても温め直せるから」


みそまる。


味噌ラーメン。


最後に、長い髪をきっちり結んだクールな少女が入ってきた。


麺の白、つけ汁の焦げ茶。


「浸すのは、食べる瞬間だけでいい」


つけみ。


つけ麺。


気づけば、閉店した店の中にラーメンたちが集まっていた。


塩の透明なしおりん。二郎系の圧がすごいジロ子。豚骨の香りをまとったトンちゃん。


メンちゃんに近い血筋のトンしょう姉さん。醤油の真面目なしょう子。


味噌のあたたかいみそまる。距離感にうるさいつけみ。


そして、メンちゃん。


店主が顔をしかめた。


「ずいぶん集まったな」


「赤い食券が呼びました」としおりんが静かに言う。


「余計なことを」


「必要なことです」


トンしょう姉さんがカウンターに近づいた。


「この子を救うんでしょう?」彼女はメンちゃんを見た。


「家系の子」


メンちゃんは少し警戒した顔をする。


「私はメンちゃん」


「ええ。メンちゃん」トンしょう姉さんはうなずいた。「でも、このままだとあなたの中の味は揺らぎ続ける。家系だけで支えきれないなら、私たちの味を足せばいい」


メンちゃんが目を見開いた。


「足す?」


トンちゃんが小さな替え玉を指先で転がし、みそまるがメンちゃんの手に湯気を送る。


しょう子は箸を揃え、ジロ子は腕を組み、つけみは一歩分の距離を測った。


それぞれが、自分の味を差し出そうとしている。


香り、温度、輪郭、量、距離。


足せば、確かに強くなる。


だが、その強さがメンちゃんを残すとは限らない。


「距離感は私が調整する」しおりんが最後に口を開いた。「濁りを抑えるなら、私の透明さも使えます」


店内の空気が変わった。


それは、救いの提案だった。


全員の味を少しずつ足す。


濃さ、香り、温かさ、基本、量、距離、透明さ。


それらを混ぜれば、メンちゃんは安定するかもしれない。


消えずに済むかもしれない。


トンちゃんが手を伸ばし、指先がメンちゃんの肩に触れる。


その瞬間、メンちゃんの身体が変わった。


輪郭がはっきりし、透けかけていた指先に色が戻り、髪の艶が増す。


存在感が、一段濃くなった。


「メンちゃん!」


「すごい」彼女は自分の手を見つめた。「消えない。透けない。すごく安定してる」


しおりんが近づいて透明さを加え、みそまるが温度を送り、しょう子が輪郭を整える。


だが、一人が足すと、もう一人も足したくなるらしかった。


「もっと濃くできる」とトンちゃんが替え玉を放る。


「温度が足りない」とみそまるが湯気を重ねる。


「基本が抜けてます」としょう子が箸で拍子を刻む。


「量だよ、量」とジロ子が腕まくりをした。


「待て、足しすぎ——」


俺の声は、間に合わなかった。


味と味がぶつかり合い、店の空気がぐわりとふくらむ。


閉店したはずの厨房で、寸胴ずんどうが一つ、二つ、三つと勝手に増えていく。


どこにもなかったはずの鍋が、床から生えるように並んだ。


湯気が柱になって天井を突き、ないはずの天井の向こうへ抜けていく。


古い換気扇が、回ってもいないのに悲鳴を上げた。


きゅうん、きゅうんと、助けを呼ぶような音だった。


鶏油チーユの金色、醤油の赤、味噌の茶、豚骨の白、塩の光。


色という色が混ざり合い、店じゅうがぐるぐると光り出す。


「ちょっと、これ」ジロ子が一歩下がる。「盛りすぎた」


「あなたが量を出すからでしょう!」とつけみが叫ぶ。


「こんなときに距離を測るな!」


しおりんだけが、透明な手を前に出して踏ん張っていた。


「濁ります。濁りが、あふれます」


湯気の柱がぐらりと傾いて、赤い丸椅子が一斉に浮いた。


壁の短冊メニューがはがれ、宙で渦を巻く。


チャーシュー麺、ライス、味玉、海苔増し——文字までが混ざっていく。


このままでは、味が混ざりきって、何もかもが一つの巨大な丼になる。


店ごと、ぐつぐつ煮込まれる。


そんな、ありえない予感がした。


その渦の真ん中で、メンちゃんの身体は、今まで見た中で一番はっきりしていた。


もう揺らがない。


もう透けない。


こんなに簡単に——


「ご主人様、見て。もう大丈夫だよ」


メンちゃんが笑った。


だが俺は、その笑顔を見て息が止まった。


目の色が違う。


琥珀色じゃない。


醤油の赤、味噌の茶、塩の透明、豚骨の白いにごり。


いくつもの色が混ざって、何色でもなくなった、名前のない色だった。


綺麗だった。


綺麗だが、メンちゃんの目ではなかった。


巡礼の一軒目で見た、あの上書きが頭をよぎる。


あのときは一瞬で戻った。


だが今は、戻っていない。


「メンちゃん」と俺が呼ぶ。


「なあに、ご主人様?」


声は同じだ。


笑顔も同じだ。


でも、瞳の奥から俺を見ている何かが、少しだけ遠かった。


「お前、今の自分が好きか」


メンちゃんは一瞬黙り、それから笑顔のまま言った。


「分かんない」


その「分かんない」が、いつものメンちゃんの「分かんない」より、ずっと静かだった。


俺は、その可能性に一瞬だけすがりそうになった。


安定している、消えない、壊れない。


でも、この目は、俺が好きになった目じゃない。


港でメンちゃんの口から漏れた、アカネの寂しそうな声を思い出す。


店主はアカネを守ろうとして、アカネではないものにしてしまった。


俺は今、同じことをしようとしている。


「やめろ」と俺は言った。


トンちゃんの手が止まる。


しおりんが目を細めた。


「やめてくれ」声が震えた。「戻してくれ」


ラーメン少女たちが、少しずつ手を引いていく。


増えた寸胴が湯気に溶け、床から生えた鍋が音もなく消えた。


天井を突いていた湯気の柱が、ゆっくりとほどけていく。


浮いていた丸椅子が、一つずつ元の場所へ戻る。


換気扇の悲鳴がやみ、渦を巻いていた短冊メニューが、静かに壁へ戻った。


嵐のあとみたいに、店が急に静かになる。


全部を足せば店ごと煮込まれるところだった、と俺は思った。


足すことは、救いじゃなかった。


メンちゃんの身体から足された味が薄れ、輪郭が少し揺らぎ、指先がまた、わずかに透けた。


だが——目の色が戻った。


琥珀色。


鶏油みたいに揺れる、あの光。


メンちゃんが瞬きをした。


「ご主人様?」


「戻ったか」


「何が?」


「目の色」


メンちゃんは首をかしげた。


分かっていない。


自分の目が変わっていたことを。


俺だけが見ていた。


あの巡礼の一軒目と同じだ。


俺だけが見て、俺だけが怖がっている。


だが今度は、嘘をつかなかった。


「メンちゃん。さっき、お前の目が変わった。琥珀色じゃなくなって、全部の味が混ざった色になった。安定はしてた。消えなかった。でも、お前じゃなかった」


メンちゃんは自分の目に触れた。


「私の目、今は?」


「琥珀色だ」


「ご主人様の好きな色?」


「俺が好きな、お前の色だ」


メンちゃんの目が潤んだ。


「それ、怖い」


「ああ」


「安定しても、私じゃなくなるの?」


「そうだった」


「じゃあ、私はどうしたらいいの」彼女は胸を押さえた。「消えるのも怖い。でも、私じゃなくなるのも怖い」


誰もすぐには答えなかった。


トンしょう姉さんの表情が少し曇り、しょう子が目を伏せる。


しおりんは、透明な瞳でメンちゃんを見ていた。


ジロ子が小さく舌打ちをする。


「やっぱ、そこか」


俺は、あの港の海風を思い出していた。


世界は丼の中だけではない。


だが、丼の中を軽く見てはいけない。


メンちゃんは、他の味を知っていい。


他のラーメンたちと出会っていい。


俺だけのものではなくていい。


だが、だからといって、全部を混ぜて彼女を救うのは違う。


それはメンちゃんを広い世界へ出すことではなく、味の都合で作り替えることだ。


「ご主人様」メンちゃんが俺を見た。琥珀色の瞳が、鶏油みたいに揺れている。「私、消えたくない」


「ああ」


「でも、私じゃなくなるのも嫌」


「ああ」


「わがままかな」


「違う」俺は即答した。声は低く、自分でも驚くくらい迷いがなかった。「それは、わがままじゃない。消えたくないのも、お前じゃなくなりたくないのも、当たり前だ」


「でも」


「でもじゃない」


俺はカウンターの赤い食券を見た。


そこには、店主の過去がある。


アカネの消えた記憶がある。


メンちゃんの未来を縛る赤がある。


「兄ちゃん」と店主が言った。


「はい」


「全部足せば、たぶん一時的には安定する。味は保てる。形も保てる。だが、それは嬢ちゃんかどうか分からねえ」


メンちゃんが小さく息をのむ。


店主は続けた。


「俺は昔、逆のことをした。あいつを俺の味だけに閉じ込めた。他の味を拒んだ。俺が作る一杯だけが、あいつを残すと思った」赤い食券が揺れる。「それで消した」店主の声は苦かった。「全部拒んでもだめだ。全部足してもだめだ」


「じゃあ、どうすれば」と俺が聞くと、店主は俺を見た。


「それを決めるのは、お前だ」


「俺が」


「いや」店主は首を振った。「お前と、メンちゃんだ」


店内が静かになる。


他のラーメンたちも、俺たちを見ていた。


俺はメンちゃんの手を取った。


冷たい。


けれど、そこにある。


「メンちゃん。俺は、お前に消えてほしくない」


「うん」


「でも、俺のために違うものになってほしくもない。だから、全部足すのはやめる」


メンちゃんの指が震えた。


「でも、それで私が消えたら」


「その時は」俺は言葉を止めた。消える。その可能性を口にするのは怖かった。喉が乾く。それでも、逃げるわけにはいかない。「その時は、俺が間違えたんじゃなくて、俺たちで選んだことにする」


メンちゃんの目に涙が浮かんだ。


「それ、怖いよ」


「俺も怖い」


「ご主人様でも?」


「俺はラーメン以外には弱い」


「ラーメンにも弱いよ」


「それはそうだ」


メンちゃんは泣きながら、少し笑った。


その笑顔を見た瞬間、俺は決めた。


カウンターに置かれた赤い食券へ手を伸ばす。


店主は止めなかった。


しおりんも、ジロ子も、他のラーメンたちも。


俺は赤い食券を持ち上げた。


紙なのに、重い。


これまでの食券の重さではない。


後悔、執着、嘘の「美味しい」、消えた一杯。


そういうものが、全部染み込んでいる。


「食券は、もう切られた」——店主が最初に言った言葉だ。


今なら少し分かる。


食券とは、注文じゃない。


選択だ。


何を食べるか。どう食べるか。誰と食べるか。


何を愛として残すか。


俺は赤い食券を両手で持った。


そして、半分に破った。


乾いた音がして、店内の湯気が一斉に揺れる。


メンちゃんの胸元の赤い光が強くなった。


「ご主人様!」彼女が叫ぶ。


だが俺は、食券を完全には捨てなかった。


破れた半分をメンちゃんに差し出し、もう半分を自分の手に残す。


「これは、お前だけの食券じゃない。俺だけの食券でもない」


メンちゃんは、震える手で半分を受け取った。


「半分?」


「ああ」


「これで、どうするの?」


「最後の一杯じゃない」俺は店主を見た。「一緒に生きるための一杯を作る」


店主の目が、わずかに見開かれた。


「兄ちゃん」


「メンちゃんを救うために食べる一杯じゃない」俺はメンちゃんを見た。「俺が本当に美味しいと思えて、お前が自分のままでいられる一杯だ」


メンちゃんは、破れた食券を胸に抱いた。


「そんなの、作れるの?」


「分からん」


「分からないんだ」


「ああ」


「でも、作るの?」


「作る」


「どうして」


俺は少し考えた。


答えは、たぶん格好よくない。


ハードボイルドらしくもない。


でも、嘘ではなかった。


「お前と、次の家系の日を迎えたいからだ」


メンちゃんは、しばらく俺を見ていた。


それから、泣きそうな顔で笑った。


「それ、美味しい言葉」


「言葉を食うな」


「でも、胸の奥がじんわり温かい」


彼女の胸元の赤い光が、少しずつ薄くなっていく。


消えるのではない。


熱が、彼女の中へ戻っていくように見えた。


アカネの影が、カウンターの奥で揺れた。


「アカネ」店主がその名をもう一度呼ぶ。


アカネの影は、初めて少しだけ笑ったように見えた。


はっきりとは見えない。


だが、店主には見えたのだろう。


彼の顔が、少しだけ崩れた。


「そうか」店主はつぶやいた。「俺も、半分にすりゃよかったのかもな」


誰も答えなかった。


答えられなかった。


過去は戻らない。


消えた一杯は、もう戻らない。


でも、名前を呼ぶことはできる。


後悔を次の一杯に混ぜない選択は、できる。


「透明になりました」としおりんが静かに言った。


「誰が」と店主が聞く。


「少しだけ、あなたが」


「うるせえ」店主は顔を背けた。


ジロ子が笑う。


「向き合ったじゃん」


「黙れ、二郎」


「名前で呼びなよ。ジロ子」


「うるせえ、ジロ子」


「よし」


何がよしなのか分からない。


だが、店内の空気は少し軽くなった。


トンしょう姉さんがメンちゃんへ近づいた。


「全部足すのはなし、ね」


メンちゃんは警戒しながらうなずく。


「なし」


「でも、困ったら相談しなさい」


「相談はする。でも、家系は譲らない」


「もちろん」トンしょう姉さんは微笑んだ。「濃いだけじゃ最後まで飲めないけど、濃くなきゃ始まらないものね」


メンちゃんの目が少し輝いた。


「分かってるじゃん」


「少しはね」


「では、次は基本に戻るべきですね」としょう子が真面目に言う。


「基本?」と俺が聞くと、しょう子はうなずいた。


「一口目のスープです」


その言葉で、全員の視線が店主へ向いた。


店主は腕を組む。


「ここで作れってことか」


「ここではありません」としおりんが言う。


「じゃあどこだ」


しおりんは、閉店した店の入口を見た。


「麺ノ家です」


店主は黙った。


「閉店前夜の麺ノ家で、最後ではない一杯を作る」つけみが静かに言った。「距離を決めるには、戻る場所が必要」


「あったかい場所で作ろうよ」とみそまるがうなずく。


トンちゃんが笑う。


「一杯で終わらせないためにね」


ジロ子が腕を組んだ。


「量は任せな」


「任せたら危険だ」と俺が言うと、ジロ子は笑った。


「分かってるじゃん」


メンちゃんが、破れた赤い食券の半分を見つめる。


俺も、自分の手の中の半分を見た。


完全ではない。


一枚でもない。


だが、それでいい気がした。


俺たちは一つの丼に閉じ込められる関係ではない。


同じ食券を、半分ずつ持つ関係だ。


近すぎず、離れすぎず。


スープに浸した海苔みたいに。


「行こう」と俺は言った。


「うん」とメンちゃんがうなずく。


店主はアカネの影を見た。


影は少しずつ薄くなっていく。


消える、というより、ようやく湯気に戻るように。


「アカネ」店主は静かに頭を下げ、もう一度名前を呼んだ。「うまかった」


その言葉に、嘘はなかった。


アカネの影は、今度こそ笑った。


俺には、そう見えた。


そして、湯気のように消えた。


赤い食券の破れた端が、少しだけ白く戻る。


店主はそれを見て、小さく息を吐いた。


「行くぞ」


「麺ノ家へ?」


「ああ」店主はいつもの顔に戻った。「仕込みをしなきゃならねえ」


「何の仕込みですか」と俺が聞くと、店主は少しだけ笑った。


「最後じゃない一杯の仕込みだ」


閉店した店を出ると、外は夜になっていた。


商店街の灯りは少なく、シャッターの隙間から冷たい風が吹く。


だが、俺たちは一人ではなかった。


メンちゃんが隣にいて、店主が前を歩く。


しおりんが静かについてきて、ジロ子が少し後ろであくびをしている。


トンちゃんが笑い、トンしょう姉さんがメンちゃんに何か話しかけている。


しょう子が姿勢よく歩き、みそまるが寒そうに手をこすり、つけみが一定の距離を保っている。


奇妙な一団だが、不思議と悪くない。


俺の世界は、ずいぶん広くなった。


仕事帰りに一人で券売機の前へ立っていた頃には、想像もしていなかった広さだ。


それでも、俺の手の中には半分の食券があり、メンちゃんの手の中にも半分の食券がある。


全部を背負わなくていい。


全部を渡さなくてもいい。


半分ずつ持つ。


たぶんそれが、今の俺たちにできる一番繊細な約束だった。


麺ノ家の赤い看板が、遠くに見えてきた。


閉店前夜の店。


最後ではない一杯。


その一口目を、俺はまだ知らない。


だが今度は、逃げるためでも消さないためでもなく、メンちゃんと次へ行くために食べるのだ。

閉店した店で、店主はようやくアカネの名前を呼んだ。


赤い食券は破れて、半分ずつの約束になった。


次は、麺ノ家で「最後ではない一杯」を作る。

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