第6話 店主の過去と消えた一杯
麺ノ家のカウンターから横浜の街へ、物語の場所が広がった。
閉店した店、港の風、古い食券。
そこに残っている味は、まだ名前を取り戻しきれていない。
次に店主が呼ぶ名前は、赤い食券の奥にある。
翌日、俺は会社を休んだ。
理由は体調不良。
嘘ではない。
胃袋は重く、頭も重く、心はもっと重い。
社会人としては、たぶん十分な体調不良だった。
上司には短いメッセージだけ送った。
体調不良のため、本日休みます。
送信。
返事はすぐに来た。
了解。
資料の件、明日相談しましょう。
明日。
便利な言葉だ。
今日を生き延びた人間だけが、明日の相談ができる。
俺はスマホを伏せた。
部屋の中は静かだった。
いつもなら、メンちゃんが朝食を作っている時間だ。
湯気、スープを煮こむ寸胴のぐつぐつという音、豚骨醤油の香り。
だが、今日は何もない。
メンちゃんは、テーブルの前に座っていた。
俺の巡礼ノートを開いたまま、じっとページを見つめている。
「眠れたか」
俺が聞くと、彼女は顔を上げた。
「ちょっとだけ」
「そうか」
「ご主人様は?」
「寝た」
「嘘」
「少し寝た」
「じゃあ少し嘘」
「細かいな」
「こう見えて、細かいの」
いつもの返しだ。
だが、声には元気がなかった。
メンちゃんの胸元に赤い光は出ていないし、指先も透けていない。
それでも、何かが不安定だった。
見た目では分からない。
けれど、そこにいる彼女の輪郭が、昨日より少しだけ頼りない。
俺は着替えた。
黒いシャツ、暗い色のジャケット、履きなれた靴。
メンちゃんが首をかしげる。
「ご主人様、仕事じゃないよね。どこ行くの?」
「麺ノ家」
メンちゃんの表情が固くなった。
「店主さんに、聞くんだね」
「ああ」
「私も行く」
「分かってる」
「置いていかれると思った」
「一度言っただろ。お前のことを調べるのに、お前を置いていくのは筋が悪い」
メンちゃんは少しだけ笑った。
「ご主人様、そういうところマジメだよね」
「ハードボイルドだからな」
「自分で言うとちょっと安くなるよ」
「うるさい」
靴を履いてドアを開けると、朝の空気が入ってくる。
ラーメンの匂いはしない。
ただ、少しだけ潮の匂いがした。
横浜の街は、場所によって匂いが変わる。
駅前は人と電車とコンビニの匂い。
商店街は油と古い看板の匂い。
海に近づけば、潮と鉄と湿った風の匂いになる。
俺はこれまで、その違いをあまり気にしてこなかった。
俺にとって街は、ラーメン屋へ向かうための通路だった。
店の場所と最寄り駅と開店時間と、並んでいる人数さえ分かれば十分。
そう思っていた。
だが、メンちゃん達がラーメンの記憶から生まれるのだとしたら、大事なのはラーメン屋だけじゃないのかもしれない。
店へ向かう道、並んだ時間、雨の日の暖簾、食べ終えた後に歩いた夜道。
そういうもの全部が、味の一部なのかもしれなかった。
駅へ向かう途中、メンちゃんがふと立ち止まった。
「どうした」
「聞こえる」
「何が」
「音」
彼女は周囲を見回した。
住宅街、自転車、犬の散歩をする老人、ゴミ収集車の音。
普通の朝だ。
「ラーメン屋の音か」
「違う」メンちゃんは胸に手を当てた。「もっと遠い音。寸胴じゃなくて、波みたいな」
「波?」
「うん。スープが煮える前の、もっと大きい音」
意味は分からない。
だが、俺は何も言わなかった。
分からないことが増えすぎて、もう驚きの在庫が切れかけていた。
麺ノ家に着くと、暖簾はまだ出ていなかった。
開店前。
赤い看板は眠っているように見える。
シャッターは半分だけ開いていて、俺が近づくと、中から店主の声がした。
「入れ」
驚きはしなかった。
俺が来ることを、たぶん分かっていたのだろう。
俺とメンちゃんは、シャッターをくぐった。
店内は薄暗かった。
カウンター、椅子、券売機、寸胴。
いつもの店だ。
だが、営業前のラーメン屋には、客として見る店とは違う顔がある。
まだ火の入りきっていない空気、洗われた丼の冷たさ、スープになる前の沈黙。
救いの前の場所だった。
店主はカウンターの奥に立っていた。
昨日の古い缶が、カウンターの上に置かれている。
「座れ」
俺たちは座った。
メンちゃんは俺の隣。
店主は缶を開けた。
中には、古い食券が何枚も入っている。
白いもの、黄ばんだもの、端が焦げたもの、そして赤く染まった一枚。
「兄ちゃん。昨日、俺は昔にもいたって言ったな」
「はい」
「その話をする前に、見せたい場所がある」
「場所?」
「ああ」店主は赤い食券を缶から取り出した。「ここだけで話すと、ただの昔話になる」
食券をカウンターに置く。
「だが、あいつは店だけにいたわけじゃねえ」
「あいつ」メンちゃんが小さくつぶやいた。
店主は彼女を見た。
「お前さんと同じだ。ラーメンが、人の姿をしていた」
メンちゃんの指が、膝の上で固まる。
店主は券売機の横から古い鍵束を取った。
「ついてこい」
麺ノ家を出て、店主がシャッターを下ろす。
開店前の店を閉めるという、妙な光景だった。
「営業は」
俺が聞くと、店主は短く答えた。
「今日は休みだ」
「いいんですか」
「店を開けるより、大事な仕込みがある」
ハードボイルドな台詞だ。
ラーメン屋の親父が言うと、妙に重い。
俺たちは駅へ向かわず、細い路地を抜けた。
麺ノ家の裏手、普段は客として通らない道だ。
古いアパート、さびた室外機、使われなくなった看板、小さな神社。
横浜といっても、きらびやかな場所ばかりではない。
港町の影、商店街の裏側、油と雨水が混ざった路地。
そこにも、ラーメン屋はある。
あった。
だが、その路地は、思ったよりずっと長かった。
角を曲がる。
また、同じ角に出た。
さびた室外機、小さな神社、油と雨水の匂い。
さっき通ったばかりの景色だ。
「……ご主人様、ここ、さっきも通らなかった?」
「気のせいだろ」
もう一度、角を曲がる。
やっぱり、同じ角だった。
神社の賽銭箱の位置まで、寸分たがわず同じ。
「気のせいじゃないよね」
「気のせいだと思いたい」
三度目に同じ角へ出たところで、俺はもう数えるのをやめた。
店主は振り返らずに歩いていた。
「迷ってるんじゃねえ」低い声だった。「思い出してるんだ」
「思い出す?」
「この路地は、あいつの記憶でできてる。歩くたびに、あの頃に近づく」
俺は思わず足元を見た。
アスファルトの継ぎ目が、少し古くなった気がした。
そして、角を曲がるたびに、暖簾が一枚ずつ増えていく。
さっきまで何もなかった軒先に、色あせた暖簾が揺れている。
醤油色、味噌色、白い塩の暖簾。
どれも、今はもう無い店のものだ。
「増えてる」メンちゃんが小さくつぶやいた。
「暖簾がな」
「店が、帰ってきてるみたい」
理屈では説明できない。
だが、責める気にもならなかった。
この路地は、たぶん怒っているんじゃない。
忘れられたくない、とだけ言っているのだ。
やがて、店主がふっと足を止めた。
増えていた暖簾の列が、風もないのに一斉に消える。
同じ角が、急にほどけた。
「着いたか」店主は低く言った。「無駄足を踏ませたな。ここは、そういう道だ」
俺は息を吐いた。
一本の路地を抜けるのに、やけに歳を取った気がした。
「兄ちゃん」歩きながら、店主は言った。
「はい」
「昔、このあたりにはもっと店があった」
「ラーメン屋ですか」
「ラーメン屋、定食屋、飲み屋。夜になると、帰る場所のないやつらが集まった」
「帰る場所のないやつら」
「会社で削られたやつ。港で働いてたやつ。夢に負けたやつ。夢をまだあきらめてないやつ」店主は少し笑った。「そういうやつらは、腹が減る」
俺は黙って聞いていた。
妙に分かる話だった。
俺も、帰る場所があるのに、帰る前にラーメン屋へ寄る。
家に帰るためではなく、自分に戻るために。
「あいつは、そういう場所で生まれた」
「あいつの名前は」
俺が聞くと、店主は答えず、ただ赤い食券を胸ポケットにしまった。
「まだだ」
最初に着いたのは、古い商店街だった。
シャッターの閉まった店が多く、看板の文字は薄れ、店先のテントはところどころ破れている。
その中に、一軒だけ妙な場所があった。
ラーメン屋の跡地だ。
看板は外され、ガラス戸にはテナント募集の紙。
だが、入口の上に赤い跡が残っている。
かつて暖簾がかかっていた証拠だ。
「ここが、最初の店だ」店主は足を止めた。
「麺ノ家じゃないんですか」
「麺ノ家は後だ。俺はここで働いてた」
メンちゃんがガラス戸に近づく。
中は空っぽだった。
カウンターも厨房も客席もない、ただの空間。
それなのに、メンちゃんは胸を押さえた。
「匂いがする」
「何の」
「分かんない。でも、すごく古いスープの匂い」
俺には何も匂わない。
ほこりと、空き店舗の乾いた匂いだけだ。
店主はガラス戸を見つめていた。
「ここで、あいつは初めて姿を見せた」
「どうやって」
「閉店後だった」店主の声が少し低くなる。「客も帰って、丼を洗って、スープの火を落とした後だ。カウンターに、一杯だけ売れ残った食券があった」
赤い食券。
俺とメンちゃんは、同時に店主を見た。
「その食券が赤かったんですか」
「いや」店主は首を振った。「最初は白かった」
「じゃあ」
「俺が言ったんだ」店主は目を細めた。「今日も、うまかったなって」
空き店舗のガラスに、店主の顔が映る。
今より若い店主を、俺は想像した。
きっと無愛想で、口数が少なくて、それでも、ラーメンには真面目だったのだろう。
「そしたら、奥から声がした」
メンちゃんが息をのむ。
「どんな声でした?」
「腹減った、って」
「……第一声、それですか」俺は思わず言った。
店主は少しだけ笑った。
「あいつらしいだろ」
まだ名前も知らない誰か。
だが、その一言だけで、少しだけ姿が見えた気がした。
「人の姿をしたラーメンは、最初から綺麗な奇跡じゃねえ」店主は言った。「腹を空かせてる。褒められたがってる。食べてもらいたがってる」
メンちゃんが小さくうつむいた。
その言葉は、彼女にも刺さっているようだった。
俺はガラス戸の向こうを見た。
空っぽの店内。
だが、もし目をこらせば、そこに誰かが立っているのかもしれない。
売れ残った食券を握って、腹が減ったと言いながら。
「次へ行くぞ」
店主は歩き出した。
商店街を抜け、バスに乗る。
バスは坂を上がり、住宅街を抜け、やがて海の見える道へ出た。
窓の外に、港が広がる。
クレーン、倉庫、トラック、灰色の海。
観光地の横浜とは違う、働く街の横浜だった。
メンちゃんは窓の外を見ている。
「ここにもラーメン屋があるの?」
「あった」店主が答えた。「港で働くやつらが食いに来る店だ。朝が早くて、味が濃かった」
「味が濃い」メンちゃんが反応する。
「濃くなきゃ、身体が持たねえんだよ」店主は窓の外を見た。「汗をかく。冷える。腹が減る。そういう人間に出す一杯は、綺麗なだけじゃ足りねえ」
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ自分のことを考えた。
俺は港で働いていないし、力仕事でもない。
だが、会社で削られた夜に、濃いスープを求める。
体じゃなくて、心が塩分をほしがっているのかもしれなかった。
バスを降りると、海風が強かった。
メンちゃんのリボンが揺れる。
彼女は目を細めた。
「しょっぱい」
「海だからな」
「スープじゃない塩気」
「当たり前だ」
「でも、悪くない」
メンちゃんは少しだけ笑った。
港の近くに、もう一つの跡地があった。
今は倉庫になっているが、壁の一部に古い排気口が残っている。
油で黒ずんだ跡。
店主はそこに立った。
「ここで、あいつは初めて他のやつに見えた」
「他のやつ?」
「常連だ」店主は少し遠い目をした。「夜勤明けの男だった。いつも無言で食って、帰る時に一言だけ、うまかったって言う」
「ハードボイルドですね」メンちゃんが言った。
俺は黙った。
なぜか、こっちを見られた気がした。
「そいつが、ある朝言った」店主は続ける。「今日は、女の子もいるんだなって」
その時だった。
メンちゃんが口を開いた。
だが、出てきたのはメンちゃんの声ではなかった。
「今日の仕込み、少し遅いよ」
低くて、少しかすれた声。
メンちゃん自身が驚いて、両手で口を押さえる。
「え? 私、何言った?」
店主の顔色が変わった。
港の風も、波の音も、遠くなる。
店主だけが、こちらを見ていた。
「兄ちゃん」
「はい」
「今の声」店主の手が震えていた。「あいつだ」
メンちゃんが胸を押さえる。
「私の中に、誰かの声がある」
「怖いか」俺が聞くと、彼女は首を横に振った。
「怖くない」少し間があった。「でも、この声、すごく寂しそう」
店主は目を閉じた。
「……そうだろうな」
一軒目で見た上書きが、頭をよぎった。
メンちゃんの髪が変わり、目が変わったあの瞬間。
あれは見た目だけの話ではなかった。
声まで変わる。
メンちゃんの中に、別の擬人化ラーメンの記憶が流れこんでいる。
店主が語り始めたのは、俺たちに聞かれたからじゃない。
メンちゃんの中に、あいつのかけらがあると分かったからだ。
もう隠しておけなくなったのだ。
海風が吹いた。
赤い食券が、店主の胸ポケットの中で少しだけ揺れたように見えた。
「つまり、他の人にも見えた」
「ああ」
「どういう条件で?」
「愛だ」店主は短く言った。「食う側の愛。作る側の愛。店に残った記憶。そういうもんが重なると、見えるやつには見える」
メンちゃんが俺を見た。
「だから、会社の人には見えたり見えなかったりするんだ」
「たぶんな」
俺は巡礼の日、街ですれ違う人たちの視線を思い出す。
メンちゃんを見る人、見ない人、見ているのに見ていないふりをする人。
この世界は、俺が思っていたよりずっと薄い膜でできているのかもしれない。
ラーメンの湯気みたいに、ある角度からだけ、向こう側が見える。
「ラーメンの擬人化は、一人の妄想じゃねえ」店主は港を背にして言った。
「じゃあ、何なんですか」
「土地に染みた味だ」
その言葉は、妙にすとんと落ちた。
土地に染みた味。
店、客、作り手、夜道、雨、並んだ時間、空腹、全部が混ざって、人の姿になる。
メンちゃんは、俺だけの気持ちから生まれたのではないのかもしれない。
きっかけは、俺の家系への愛だ。
でもその奥には、俺が通ってきた店の記憶や、街の味も混ざっている。
それは怖いことだった。
同時に、少しだけ救いでもあった。
メンちゃんが俺一人に依存しているなら、俺が間違えれば彼女は終わる。
だが、彼女の中に街や店の記憶があるなら、彼女は俺だけのものではない。
「ご主人様、私、ちょっと分かったかも」
「何を」
「私の中に、いろんな音がある理由」彼女は胸に手を当てた。「ご主人様の美味しいだけじゃない。店主さんの火加減とか、店の匂いとか、海苔を巻いたご飯の記憶とか、そういうのがある」
「怖いか」俺が聞くと、メンちゃんは少し考えた。
「うん」正直だった。「でも、ちょっと嬉しい」
「嬉しい?」
「私、ただご主人様に食べてもらうためだけにいるんじゃないのかもしれない」
その言葉に、俺は黙った。
胸の奥が、少し痛かった。
俺はメンちゃんを守りたいと思っていた。
だが、守りたいという気持ちは、時に相手を自分の中に閉じこめる。
店主が昔、何を間違えたのか、少しずつ見えてきた気がした。
最後に店主が連れて行ったのは、海沿いの小さな公園だった。
ベンチ、古い街灯、遠くに見える倉庫。
昼なのに、人は少ない。
店主はベンチに座り、俺とメンちゃんも座った。
海風が吹く。
店主は赤い食券を取り出した。
「ここで、あいつは消えた」
メンちゃんの身体が小さく震えた。
「店じゃないんですか」
俺が聞くと、店主は首を振った。
「店じゃねえ」赤い食券を、指先でなでる。「俺は、あいつを消したくなかった」その声は静かだった。「毎日食った。休みの日も食った。腹が減ってなくても食った。うまいと思えない日も、うまいって言った」
俺は言葉を失った。
それは、俺がやりかけていたことだった。
メンちゃんを消さないために食べる。
健康を無視して、気持ちを無視して、ただ、消さないために。
店主の背中が、俺の少し先の未来に見えた気がした。
このまま無理を続ければ、俺はきっとこの人になる。
そう思うと、背筋が冷たくなった。
「最初は、喜んでた」店主は言った。「でも、だんだん笑わなくなった。俺が食うたびに、あいつは少しずつ薄くなった」
「どうして」メンちゃんが聞いた。
店主は彼女を見た。
「美味しいって言葉が、嘘になったからだ」
風が止まった気がした。
「擬人化には、いつか必ず最後の一杯が来る」店主は静かに言った。「避けたくて無理に食わせ続けりゃ、来る日を、自分の手で早めるだけだ」
「ラーメンはな、嘘の美味しいじゃ生きられねえ」店主の手の中で、赤い食券が震えた。「最後の日、あいつは俺に言った」
「何て」
店主はしばらく黙ってから、絞り出すように言った。
「もう、食べなくていいよ」
メンちゃんの目が揺れた。
「それで」俺は聞いた。「消えたんですか」
「ああ」店主はうなずいた。「このベンチで、湯気みたいに消えた」
海の音が聞こえる。
メンちゃんは、両手をぎゅっと握っていた。
「名前は」彼女が聞いた。
店主は赤い食券を見つめた。
「呼べねえ」
「どうして」
「忘れたわけじゃない。忘れられねえから呼べねえ」
その言葉は、重かった。
ラーメン屋の親父が背負うには、あまりにも静かな後悔だった。
俺は店主を見た。
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
店主は俺を見返した。
「食うな」短い答えだった。「メンちゃんを救いたいなら、食うな」
「でも、食べなきゃ消える」
「食べなきゃ消えるんじゃねえ」店主は強く言った。「嘘で食うと消える」
メンちゃんが俺を見る。
俺は何も言えない。
店主は続けた。
「本当に食いたい時に食え。本当にうまいと思えた時に、うまいと言え」
「それだけでいいんですか」
「それだけが難しいんだよ」
その通りだった。
好きなものを、好きなままでいる。
言葉にすれば簡単だ。
だが、好きだからこそ無理をするし、好きだからこそ失うのが怖い。
そして好きだからこそ、いつのまにか義務に変えてしまう。
俺はメンちゃんを見た。
彼女は泣いていなかった。
ただ、真剣に店主の言葉を聞いていた。
「店主さん、その人は、店主さんのこと嫌いになったんですか」メンちゃんが言った。
店主は目を伏せた。
「分からねえ」
「私は」メンちゃんは、俺の手を握った。「私は、ご主人様が無理して食べるの、嫌です」
「ああ」
「でも、食べなくなるのも怖いです」
「ああ」
「だから、一緒に探したいです。嘘じゃない美味しいを」
彼女の手は冷たい。
だが、はっきりそこにあった。
俺はその言葉を、ゆっくり飲みこんだ。
嘘じゃない美味しい。
それは、最後の一杯を避ける方法ではない。
最後の一杯と向き合うための言葉なのかもしれなかった。
その時だった。
公園の入口に、白い影が立っていた。
白いフリル、淡い水色のリボン、澄んだ瞳。
しおりん。
塩ラーメンの擬人化。
彼女は静かにこちらへ歩いてきた。
足音はほとんどしない。
海風の中を、透明なスープが流れてくるようだった。
「透明だからって、薄いわけじゃないです」
第一声がそれだった。
俺は思わず言った。
「自己紹介より先に主張するのか」
「大事なことなので」しおりんは俺を見た。
メンちゃんが立ち上がる。
「あなた、昨日の」
「しおりんです」
「塩ラーメン?」
「はい」しおりんは小さくうなずいた。「あなたは、濃いですね」
「なっ」メンちゃんが一歩前に出る。「濃くて何が悪いの!」
「はい。とても濃いです」
「褒めてる?」
「事実です」
メンちゃんはとまどった。
俺も少しとまどった。
しおりんは感情が読みにくい。
だが、敵意はなさそうだった。
「最後の一杯が近いと、昨日言ったな」俺が聞くと、しおりんは俺を見た。
「言いました」
「それは、メンちゃんが消えるって意味か」
「違います」即答だった。
メンちゃんが息をのむ。
「では、何だ」
しおりんは海の方を見た。
「最後の一杯は、終わりではありません」
「じゃあ何だ」
「選択です」
その言葉は、店主の話と重なった。
食券は、もう切られた。
最後の一杯。
選択。
「ラーメン達は、食べる人の美味しいで形を保ちます」しおりんは静かに言った。「でも、誰か一人の胃袋に閉じこめられると、濁ります」
「濁る」メンちゃんが繰り返す。
「はい。透明でも、濃厚でも、同じです」しおりんはメンちゃんを見た。「あなたは、濃いです。でも、濁ってはいません」
メンちゃんの表情が少し変わった。
「それ、褒めてる?」
「はい」
「そ、そう」メンちゃんは少し照れた。
店主が、低く笑った。
「塩の子は、昔から分かりづれえな」
しおりんは店主を見た。
「あなたは、まだ濁っています」
店主の笑いが止まった。
なかなか容赦がない。
小柄で透明感のあるロリータファッションなのに、言葉はよく切れる。
子どもっぽく見せるための服じゃない。
塩ラーメンの透きとおった姿を、布とレースで形にしたような装いだった。
塩ラーメン、あなどれない。
「私たちは、店にいます」しおりんは続けた。「道にもいます。港にもいます。食べた人の記憶にもいます。だから、世界は丼の中だけではありません」
俺はその言葉に、少しだけ息を止めた。
世界は丼の中だけではない。
家系ラーメンだけを見てきた俺には、重い言葉だった。
「でも」しおりんは俺を見る。「丼の中を軽く見てはいけません」
「どっちだ」
「両方です」
「難しいな」
「味も愛も、簡単ではありません」
メンちゃんが小さくうなずく。
「それは分かる」
しおりんは俺たちに向かって、静かに告げた。
「次に行く場所があります」
「どこだ」
「閉店した店」
店主の顔が変わった。
「おい」
「行くべきです」
「まだ早い」
「遅いです」しおりんの声は静かだった。だが、そこには逆らいにくい強さがあった。「赤い食券は、もう反応しています」
店主の胸ポケットの中で、何かが淡く光った。
赤い光。
店主は舌打ちした。
「本当に容赦ねえな、塩は」
「透明なので」
「意味分かんねえよ」
俺は思わず少し笑った。
こんな状況で笑えるとは思わなかった。
だが、その笑いはすぐに消えた。
閉店した店。
それはたぶん、店主が最初に働いていた店ではない。
もっと深い場所。
店主が本当に向き合いたくない場所だ。
メンちゃんが俺の手を握る。
「行こう」
「怖くないのか」
「怖いよ」彼女は正直に言った。「でも、世界が丼の中だけじゃないなら、見たい」
「何を」
「私が生まれた世界」
俺はうなずいた。
「分かった」
店主は深いため息をついた。
「兄ちゃんも嬢ちゃんも、言い出したら聞かねえな」
「家系なので」メンちゃんが言った。
店主は少し笑った。
「便利だな、その言葉」
俺たちは公園を出た。
店主、メンちゃん、しおりん、そして俺。
ラーメン屋の店主、家系ラーメンの擬人化、塩ラーメンの擬人化、家系ラーメンを愛しすぎた会社員。
誰かに説明したら、たぶん疲れてるんだなと思われる。
実際、疲れている。
だが、これは現実だった。
少なくとも、俺にとっては。
夕方の横浜を歩く。
ビルの窓に西日が反射して、港の風が細い路地に流れこむ。
遠くで電車の音がする。
街は広い。
俺が見ていたより、ずっと。
そして、その広さのどこかに、ラーメン達の記憶が眠っている。
俺は今まで、店へ向かうために街を歩いていた。
これからは違う。
店だけじゃなく、店が生まれた場所、味が残った道、誰かが「うまい」と言った夜。
そういうものを見なければならない。
メンちゃんを守るために。
いや、メンちゃんを、俺だけの味に閉じこめないために。
俺はメンちゃんの手を握ろうとして、途中で力をゆるめた。
強く握れば安心する。
でも、強く握りすぎれば、この手はまた透けるかもしれない。
たぶん、俺たちはその一瞬の加減を探している。
しおりんが前を歩く。
白いフリルが、夕方の風に揺れる。
彼女は一度だけ振り返った。
「急いでください」
「なぜ」
「閉店した店は、夜になると記憶が濃くなります」
「濃くなる?」メンちゃんが反応した。
しおりんはうなずいた。
「はい。濃いです」
「それは良いこと?」
「場合によります」
「あいまい!」
「味も愛も、場合によります」しおりんは真顔だった。
メンちゃんは少し悔しそうだった。
その時、路地の向こうから、いくつもの気配がした。
白くにごった豚骨の香りをまとった、余裕のある笑みの少女。
味噌色のリボンを揺らす、あたたかそうな少女。
背筋の伸びた、醤油色の瞳の少女。
少し離れた場所に立つ、長い髪を結んだ少女。
そして、家系に近いのに家系ではない、深い豚骨醤油の気配。
誰もこちらへは来ない。
ただ、それぞれの湯気だけが、横浜の湿った夜に重なっていた。
白くにごった香りの少女が、遠くで小さな麺の玉を指先に乗せた。
くるり、と回す。
玉が二つに増えた。
もう一回、くるり。
四つになった。
まるで、話が終わっても替え玉だけは無限に残ってるよ、とでも言いたげだった。
だが、調子に乗って回しすぎた玉が一つ、ぽーんと路地の向こうへ飛んでいく。
少女はあわてて追いかけ、拾って、何ごともなかった顔で戻ってきた。
飛んでいった替え玉は、なかったことになっていた。
醤油色の瞳の少女は、見えない箸を一本ずつそろえようとした。
だが、そろえたそばから、箸はぱらぱらと落ちる。
拾う。
そろえる。
また落ちる。
それでも彼女は、むっとした顔のまま、根気よく一本ずつ拾い続けた。
混乱した空気を、まず基本に戻すための動きだ。
味噌色のリボンの少女は、両手を合わせて、ふーっと息を吹きかけた。
力みすぎて、湯気がもわっと吹き上がる。
少女自身が、その湯気で軽くむせた。
けれど、その温かさだけで、メンちゃんの冷えた指先が、少しだけ色を取り戻した。
「あの人たちも、ラーメン?」メンちゃんが小さく尋ねた。
しおりんは一度だけまばたきをした。
「はい。まだ混ざっていない味です」
「混ざったら?」
「その人ではなくなります」
その言葉に、メンちゃんは口をつぐんだ。
さっきまでのにぎやかさが、急に遠くなった気がした。
ふざけて見えて、あの子達も、消えないように必死なのかもしれない。
俺は、二人のやり取りを聞きながら歩いた。
少し前まで、俺の世界はシンプルだった。
仕事、疲れ、直系の家系ラーメン、硬め、濃いめ、多め。
それだけでよかった。
だが今は違う。
世界は広がっている。
麺ノ家のカウンターから、赤い食券から、メンちゃんの手から、そして、消えた一杯の記憶から。
閉店した店へ向かう道の途中、店主がぽつりと言った。
「兄ちゃん」
「はい」
「次の場所で、名前を言う」俺は店主を見た。「あいつの名前を」
店主は前を向いたままうなずいた。
「言わなきゃ、終われねえ」
赤い食券が、彼の胸ポケットで淡く光った。
その光は、夕焼けよりも少しだけ濃かった。
麺ノ家のカウンターから横浜の街へ、物語の場所が広がった。
閉店した店、港の風、古い食券。
そこに残っている味は、まだ完全には名前を取り戻していない。
次に店主が呼ぶ名前は、赤い食券の奥にある。




