第30話 次の湯気は、まだ知らない
名古屋からの帰り道、巡礼ノートには三つの家系ではない湯気が並ぶ。
焼津の朝。
岐阜の野菜湯気。
名古屋の赤い辛さ。
今回は、家系の外へ出た旅の、ひと区切りです。
好きな味が増えても、メンちゃんは消えない。
名古屋からの帰り道、巡礼ノートは少し重くなっていた。
紙の重さではない。
湯気の重さだ。
焼津の朝。
岐阜の野菜湯気。
名古屋の赤い辛さ。
家系ではない三つの味が、ページの中で並んでいる。
どれも、大きな見出しにはなっていない。
ただ、青と緑と赤の、小さな印として残っている。
それだけで、あの日の湯気が全部思い出せる。
それでも、最初の方をめくれば、家系の記録がある。
麺ノ家。
中伊豆。
伊東。
券売機。
米。
雨。
古い写真。
妖精達の湯気。
メンちゃんは車窓の光を受けながら、そのページを一枚ずつめくっていた。
「重い?」
俺が聞くと、メンちゃんは首を振った。
「あったかい」
「そうか」
「でも、増えた」
「増えたな」
「昔は、家系だけだった」
「そうだな」
「ご主人様も、昔は一人だった」
「急に刺すな」
「事実」
「濃い事実だ」
メンちゃんは少し笑った。
その笑い方が、前とはずいぶん違う。
初めて俺の部屋に現れた朝は、もっと一直線だった。
美味しいと言ってほしい。
食べてほしい。
自分を見てほしい。
今もその願いは残っている。
だが、そこに水やお茶や、予備の心や、知らない味を待つ時間が混ざった。
混ざったのに、薄くなっていない。
むしろ、前より分かる。
メンちゃんは、メンちゃんだ。
「ご主人様」
「何だ」
「私、消えなかった」
「消えなかったな」
「焼津でも、岐阜でも、名古屋でも」
「ああ」
「ちょっと揺れた」
「揺れたな」
「怖かった」
「うん」
彼女は自分の髪に触れる。
金色のツインテール。
赤いリボン。
鶏油の香り。
スープの上できらきら光る、あの鶏の脂のにおいだ。
そこに、ほんの少しだけ別の記憶が並んでいる。
魚介の朝。
野菜の甘み。
唐辛子の赤。
それらは、メンちゃんを上書きしていない。
隣にいる。
「ご主人様が他の味をおいしいって言っても、私は消えない」
メンちゃんは言った。
「消えない」
俺は答えた。
「でも」
「でも?」
「たまには家系の日にして」
「それはもちろん」
メンちゃんの目が少し光る。
「硬め?」
「硬め」
「濃いめ?」
「濃いめ」
「油は?」
俺は少し考えた。
一瞬、昔の自分なら考えるまでもなかったはずだ。
多め。
それが生き方だと思っていた。
今でも、そう言いたい日がある。
だが、毎回ではない。
その日の胃袋。
その日の天気。
その日の気持ち。
隣のメンちゃん。
全部を見てから選べばいい。
「その日の体調で」
メンちゃんは一瞬だけ不満そうにした。
すぐに笑う。
「じゃあ、予備の心も持っていく」
「まだ持つのか」
「いるよ」
「家系の日にも?」
「家系の日にも」
メンちゃんはノートを閉じる。
「好きなものを長く好きでいるには、心も胃袋も予備が必要」
「名言が増えてきたな」
「保存して」
「自分でしろ」
「字、丁寧に」
いつもの会話だった。
何度も繰り返したやり取り。
それなのに、帰りの電車で聞くと少し懐かしい。
あとでノートを開く時、たぶん俺は、こういう音を思い出すんだと思う。
コップを置く音。
ページをめくる音。
メンちゃんが袖をつまむ気配。
そして、どこかの店の暖簾が揺れる音。
メンちゃんは、もう一度だけ名古屋のページを開いた。
俺の字の下に、丸っこい知らない字が小さく残っている。
名古屋で別れる前、辛音ちゃんがこっそり書いていったらしい。
「次は、白いのがいるよ」
その横に、雪みたいな粒がのった丼の絵と、西を指す矢印が一つ。
矢印を見た瞬間、俺の中で三つの白が一本につながった。
焼津の朝に一瞬だけ横切った白すぎる湯気、岐阜で聞いた「西で白い湯気が動いてる」という噂、そして名古屋で辛音ちゃんが言った——あれを起こすのは、白。
ああ、あれか。
見間違いだと思っていたものに道しるべがついて、胃袋の奥が半分だけ身構え、半分だけ浮き立った。
「背脂……?」
メンちゃんがつぶやく。
「辛音ちゃん、知ってたのか」
「麺の子は、次の麺の子を知ってる」
メンちゃんは少し悔しそうに、でも嬉しそうに言った。
「辛い子が、白い子を教えてくれた」
鞄の中で、麺ノ家の暖簾の端が光った。
こはく色。
その中に、青い朝と、淡い緑と、赤い点が並んでいる。
さらに、その先に見たことのない色が一瞬だけ浮かんだ。
白い背脂のような、雪みたいな光。
メンちゃんが顔を上げる。
「今の」
「見えたか」
「白かった」
「背脂か?」
「雪みたいだった」
俺たちは顔を見合わせた。
白い背脂。
雪みたいに降ってくる、白い脂の粒。
名古屋の赤い湯気の次に、それはあまりにも別の景色だった。
でも、辛音ちゃんが先に道を教えてくれた。
メンちゃんは、その光の余韻を見つめる。
「ご主人様」
「何だ」
「油は多め?」
「まだ行くと決めてない」
「でも、白い油が呼んだ」
「呼んだな」
「辛音ちゃんも、行けって書いてた」
「書いてたな」
「こう見えて、確認は必要」
「またか」
「今度は、背脂会談」
俺は笑った。
辛味会談の次は、背脂会談。
メンちゃんの世界は、今日も麺でできている。
だが、その言葉が懐かしくて、少し嬉しかった。
「どこだろうな」
「京都?」
メンちゃんが言う。
「なぜ」
「雪みたいな背脂って、なんとなく京都っぽい」
「辛音ちゃんの矢印も西だったな」
「急に勘がいいな」
「もう、ただの家系ヒロインじゃないので」
「関係あるか?」
「湯気の方角は読める」
それは初耳だった。
でも、その光は確かに、どこか西の方を向いているように見えた。
京都。
背脂醤油。
まだ知らない土地。
まだ知らない湯気。
俺の胃袋は、少しだけ身構える。
メンちゃんはそれに気づいたのか、巾着を一つ俺の膝に置いた。
「予備の心」
「ありがとう」
「今から?」
「予告用」
「予告用の心とは」
「次の湯気を待つため」
その言葉は、少し良かった。
次の湯気を待つ。
昔の俺は、次の一杯を待つことができなかった。
今日の疲れを、今すぐ濃い味で埋めたかった。
メンちゃんが現れてからも、最初は同じだった。
好きだから、毎日食べる。
好きだから、全部受け入れる。
そう思っていた。
今は違う。
待てる。
選べる。
隣にいる。
「ご主人様」
「何だ」
「名古屋、また行きたい?」
「行きたい」
「岐阜も?」
「行きたい」
「焼津も?」
「行きたい」
「家系も?」
「もちろん」
メンちゃんは満足そうにうなずいた。
「じゃあ、忙しいね」
「胃袋がな」
「心も」
「そうだな」
「でも、嫌じゃないでしょ」
古暖屋の帰り道にも、似たようなことを言った。
忙しいけど、嫌じゃない。
あの時の夕方の光を思い出す。
山も海も見えない帰り道。
それでも、全部の湯気がどこかに混ざっていた。
今は、さらに増えた。
焼津の朝。
岐阜の昼。
名古屋の夕方。
そして、まだ知らない白い湯気。
「嫌じゃない」
俺は言った。
メンちゃんは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、帰ったらお茶」
「ラーメンじゃないのか」
「今日は、赤い湯気を休ませる日」
「成長がすごいな」
「でも、次の家系の日はちゃんと濃いめ」
「はいはい」
「返事が薄い」
「濃いめ」
「よし」
電車の窓に、俺たちの顔が映る。
俺。
メンちゃん。
膝の上のノート。
鞄の中のこはく色。
半分の食券。
巾着。
見慣れたものが増えすぎて、もう何が普通なのか分からない。
でも、その分だけ、帰り道は温かい。
メンちゃんがノートを開く。
名古屋のページの最後に、俺の字が残っている。
家系じゃない味も好きだ。
でも、メンちゃんだから隣にいてほしい。
メンちゃんはそれを見て、耳まで赤くなった。
「ご主人様」
「何だ」
「字、次はもっと丁寧に」
「まだ言うのか」
「保存するから」
「永久保存か」
「うん」
そのやり取りも、もう懐かしい。
きっと、次の湯気の中でも繰り返す。
白い背脂の前でも。
知らない街の暖簾の下でも。
俺がうまいと言い、メンちゃんが頬を膨らませ、でも隣にいて。
そして、必要なら互いの名前を呼ぶ。
メンちゃんは、名古屋のページの下に線を引いた。
そこで、いったんページを閉じる。
「終わり?」
俺が聞くと、メンちゃんは少し考えた。
「この旅は、終わり」
焼津から始まった。
岐阜へ行った。
名古屋で赤い湯気にむせた。
家系ではない味をおいしいと言っても、メンちゃんは消えなかった。
俺は、メンちゃんだから隣にいてほしいと言えた。
それなら、確かにここで一度、終わっていい。
丼を空にした後、レンゲを置くように。
「でも」
メンちゃんは閉じたノートの上に、手を置いた。
「巡礼ノートは、終わらない」
「次のページがあるからか」
「うん」
「白い湯気?」
「白い湯気」
メンちゃんは少しだけ笑う。
「だから、ここは完食」
「完食」
「でも、閉店じゃない」
その言い方が、やけにしっくりきた。
家系の外へ出た旅は、ここで一杯ぶん終わる。
けれど、店の灯りはまだ消えていない。
次の暖簾が、どこかで揺れている。
「そうだ、ご主人様」
メンちゃんが急に姿勢を正した。
「家系法度、最終条」
「まだ増えるのか」
「予備の心は、白い湯気の前でも切らさない」
「それ、条項というより口癖だろ」
理不尽な条文が、今日も一つだけ増えた。
でも、その一つが、なぜか少しあたたかい。
「ご主人様」
メンちゃんは、鞄の中のこはく色をそっと見た。
「私にも、いつか来るんだよね」
「何が」
「最後の一杯」
その言葉を、彼女が自分から口にしたのは、初めてだった。
焼津の朝から、ずっと鞄の底で光っていた不安。
いつか麺がのびるように、私にも終わる日が来る——。
第八話の朝に一度こぼれて、名古屋の夜にまた膨らんだ、あの問い。
「前は、それがいちばんこわかった」
「うん」
「いつ来るのか、分からないから」
俺は、嘘をつかなかった。
「来るのかもしれない」
「うん」
「でも、今日じゃない」
こはく色は、まだ消えていない。
まだ続いている、という小さな灯り。
メンちゃんは、少しだけ笑った。
「気づいたの」
「何に」
「次の湯気も、いつ来るか、分からない」
「そうだな」
「最後の一杯も、次の湯気も、分からないのは、同じ」
「同じか」
「だったら」
メンちゃんは巾着を握った。
「こわがらないで、待つ」
最後の一杯を、こわがらない。
いつ来るのか分からないまま、彼女はそう決めた。
鞄の底の灯りが、少しあたたかい色になった気がした。
と、思ったら。
メンちゃんが急に、鞄から新しい帳面を出した。
表紙に大きく、「白対策・家系法度」と書く。
「何を始めた」
「備え」
「今、いい話で終わりかけてたぞ」
「いい話と備えは両立する」
「第一条。白い湯気を見ても、目をそらさない」
「第二条。白い背脂は観察してから食べる。観察中、ご主人様は私の袖から離れない」
「条文に私情が入ってきたぞ」
「第三条。持ち物。水二本、タオル三枚、白米のお櫃」
「お櫃を電車に乗せるな」
「予備の心、五個」
「量産するな」
「あと、雪用の長靴と——」
そこで、ペンが止まった。
昔のメンちゃんなら、止まらなかった。
好きと不安が混ざると、彼女はいつも、量で埋めようとしてきた。
その手が、今、自分で止まっている。
メンちゃんは条文をじっと見て、それから、自分で帳面を閉じた。
「……これ、名古屋の前の私だ」
「先回りして、一人で全部背負うやつ」
メンちゃんは水筒の水を注いで、俺の膝の横にそっと置いた。
濃い一杯の前に、いつも彼女がしてくれたことだ。
「決めた」
「何を」
「待つのは、やめる」
「会いに行こう。一緒に」
こわがらないで待つの、もう一歩先だった。
「怖くないのか」
「怖い」
「でも、守りたいものが決まってるから、行ける」
「この帰り道。ご主人様の隣の席。帰ったらお茶って言える日」
「具体的だな」
「私が私のままでいられる日。留守番で守るんじゃなくて、連れて行って守る」
「装備は」
「お櫃じゃないやつを、三つ」
「置いていかない。置いていかれない。焼津で覚えた」
「おいしいは、隠さない。岐阜で決めた」
「先回りして、一人で背負わない。名古屋で知った」
「ついさっき、やりかけてたけどな」
「だから自分で閉じた」
「上出来だ」
「水とお櫃より、強い」
「それに、ご主人様」
「何だ」
「私、白い子に伝えたいことがある。ついていくんじゃなくて、私の用事」
「他の味が増えても、私は消えなかった。一人を虜にしなくても、たくさんの『また来たい』で残れる。こはるちゃんがそうだったし、倉庫の妖精達がずっと願ってたこと」
「消される側だ、って怯えてた子が」
「今は、答えを配る側。妖精の出前」
「のびる前に届けような」
俺は答えの代わりに、巡礼ノートを開いた。
名古屋のページの、次。
まっさらな、次のページ。
そこに、一文字だけ書いた。
白。
その横に、西を指す矢印を一本。
辛音ちゃんの矢印と、同じ向きだ。
そして、ペンをメンちゃんに渡した。
メンちゃんは少し目を見開いて、俺の字の下に丸っこい字を並べた。
「二人で、会いに行く」
矢印がもう一本、俺のに寄り添うように増えた。
「字、丁寧だな」
「永久保存だから」
ペンを置いて、メンちゃんは窓の外を見た。
「最後の一杯は、いつ来るか分からない。だから、次の一杯は、私たちで決める」
「こわがらないで、待つ、は?」
「卒業。次は、こわがらないで、選ぶ」
電車は夜へ向かって走る。
窓の外に、知らない街の灯りが流れていく。
次の湯気は、まだ知らない。
でも、もう怖いだけではなかった。
隣にメンちゃんがいて、ノートには行き先がある。
鞄の中の暖簾の端が、もう一度だけ白く光った。
雪みたいな背脂の向こうで、誰かが笑った気がした。
俺たちはまだ、その名前を知らない。
でも、辛音ちゃんの書き置きと、二本並んだ矢印が、道しるべになっている。
だから、次のページは、もうまっさらではない。
白、と一文字。
西向きの矢印が、二本。
二人で書いた、最初の一行が、もうそこにある。
その夜、家に着いて、荷物を解くより先に、二人で台所のカレンダーの前に立った。
「家系の日」の赤い丸は、今月もそこにあった。
メンちゃんはその隣、次の連休の日付に、新しい丸を一つ描いた。
丸の中に、丸っこい字で「西へ」。
「いつか、じゃなくなったね」
「日付になったな」
次の湯気は、まだ知らない。
でも、会いに行く日は、もう知っている。
赤い丸の隣に、新しい印。
二人で選んだ、次の一杯の日が、もうそこにある。
家系の外へ出た旅は、ここでひと区切りとなりました。
主人公は、他の味をおいしいと言える。
メンちゃんは、それでも隣にいられる。
ここで、この一杯ぶんの旅は完食。
でも、巡礼ノートは閉店しません。
ノートには、新しい湯気が増えました。
そして最後に、暖簾の端が白く光る。
雪みたいな背脂の向こうで、まだ名前も知らない誰かが笑った気がする。
次の湯気は、まだ知らない。
だから、次のページはまっさらです。




