第28話 辛さは逃げ道をふさぐ
辛さは、味だけでは終わらない。
赤いスープは、主人公が仕事帰りに一人でラーメン屋へ通っていた頃の記憶まで起こしてしまう。
今回は、辛さが本音と昔の自分をたたき起こす回。
メンちゃんは、主人公が昔の自分へ戻りかけた時、止めるのではなく、自分の言葉をひとつ先に置いて、呼ばれるのを待ちます。
辛いものは、思い出を雑に開ける。
台湾ラーメンを半分ほど食べた頃、俺はそんなことを考えていた。
額に汗が出る。
首の後ろが熱い。
舌は痛いのに、レンゲは止まらない。
辛音ちゃんは丼の向こうで笑っている。
「ほら、起きてきた」
「何が」
「お兄さんの中で寝てたもの」
嫌な言い方だった。
だが、外れてはいなかった。
赤いスープを飲むたび、仕事でぐっと飲み込んできた言葉が浮かんでくる。
本当は違うと思ったのに、何も言えなかった会議。
よく分からない指示に、黙ってうなずいた午後。
疲れているのに、平気な顔で帰った夜。
そして、今日、置き手紙を読んだ時に喉まで出かかった声。
——一人で行くなよ。
平気なふり。
それは、いつのまにか癖になっていた。
だから俺は、辛くても大丈夫と言い続けた。
赤い辛さが舌を刺すたび、その言葉が一枚ずつはがれていく。
「優しい味だけじゃ、起きない朝もあるでしょ」
辛音ちゃんが、静かに言った。
赤い湯気の向こうで、その言葉だけがくっきりしていた。
俺は、答えられなかった。
そして、その帰り道で見つけた家系ラーメン屋の灯り。
あの頃の俺は、誰かに呼ばれる前に、自分で自分を呼ぶ方法を知らなかった。
だからラーメン屋へ行った。
券売機の赤い光の前で、やっと自分の指が動いた。
硬め。
濃いめ。
多め。
麺の硬さ、味の濃さ、油の多さ。
あの頃の俺が自分で決められたのは、それくらいだった。
あれは、誰にも言えなかった言葉の代わりだったのかもしれない。
「ご主人様」
メンちゃんの声がした。
俺は顔を上げる。
「今、遠い」
「辛いからな」
「違う」
メンちゃんは静かに言った。
「昔のご主人様の方に行ってる」
言われて、はっとした。
目の前にはメンちゃんがいる。
辛音ちゃんがいる。
赤い湯気がある。
それなのに、俺は一人でラーメン屋に入っていた頃の自分へ戻りかけていた。
赤いスープの湯気が、ふっと会議室の白い天井に見えた。
懐かしい。
だが、戻りたいわけではない。
「悪い」
「謝らなくていい」
メンちゃんは巾着を俺の方へ寄せた。
水ではない。
予備の心。
その雑な名前の巾着が、今は少しありがたい。
昔のメンちゃんなら、もう食べるなとレンゲを取り上げていたかもしれない。
でも、今のメンちゃんは違った。
「逃げなくていいよ」
そう言って、俺の顔をまっすぐ見た。
「でも、倒れるまで向き合わなくていい」
見守るという力を、彼女はいつのまにか身につけていた。
「呼ぶ?」
メンちゃんが聞く。
俺はレンゲを置いた。
すぐには答えなかった。
辛さが喉に残っている。
汗が落ちる。
辛音ちゃんは何も言わない。
メンちゃんも何も言わない。
二人とも、俺を見ていた。
言葉で安心させるか。
黙って見守るか。
俺は、岐阜でメンちゃんがレンゲを下げた時のことを思い出した。
あの時、俺は黙った。
言えば、彼女は飲めてしまうと思ったからだ。
今度は、俺の番だった。
メンちゃんは、何もせかさない。
せかす代わりに、自分の言葉を先に置いた。
「ご主人様。私、先に来たこと、まだちゃんと言ってない」
「守るつもりだった」
「でも、焼津の朝、置いていかれた私は、すごく嫌だった」
「守るための先回りは、置いていくのと同じだった」
気にするな、と言いかけて、やめた。
辛さが起こしてくれた言葉の、いちばん最初の一つを言う。
「……メンちゃん」
俺は呼んだ。
メンちゃんの目が少しだけ揺れる。
「いるよ」
それだけだった。
その短さが、よかった。
説明ではない。
説得でもない。
名前に返事があるだけで、俺は今の席へ戻ってこられた。
さっきまで会議室の白い天井に見えていた湯気が、また赤い湯気に戻った。
辛音ちゃんが少し笑う。
「呼んだね」
「呼んだ」
「逃げたんじゃない」
「たぶんな」
「戻ってきたんだよ」
辛音ちゃんの声は、赤い湯気の向こうで少しだけやわらかかった。
「辛さは逃げ道をふさぐ。でも、帰り道までふさぐわけじゃない」
メンちゃんがその言葉を聞いて、ゆっくりうなずく。
「帰り道は大事」
「家系の子は、そこを見てるんだね」
「ご主人様は、食べ終わった後に薄くなることがあるから」
「薄くなる?」
「うまかったのに、また一人で帰る顔をする」
俺は何も言えなかった。
そんな顔をしていたのか。
たぶん、していた。
ラーメンに救われて、でも家に帰ればまた一人。
その繰り返しが、昔の俺の毎日だった。
平気なふりを、家のドアの前で一度脱いで、それから鍵を開ける夜。
メンちゃんが現れてから、その毎日は崩れた。
朝から家系ラーメンが出てくるという、胃袋にはきつすぎる崩れ方だった。
それでも、帰る場所に誰かがいることを俺は知った。
その誰かが、今は隣で巾着を握っている。
「ご主人様」
「何だ」
「辛い?」
「辛い」
「うまい?」
「うまい」
「つらい?」
一瞬、同じ音に聞こえた。
辛い。
つらい。
赤い湯気の中で、その二つが重なる。
「少し」
俺は正直に答えた。
いつもなら、平気、と言っていた言葉だった。
メンちゃんはうなずいた。
「じゃあ、少し休む」
「食べるのを?」
「うん」
「逃げじゃないのか」
辛音ちゃんが聞く。
メンちゃんは首を振った。
「戻るため」
辛音ちゃんは目を細める。
「いい答え」
俺は箸を置いた。
数十秒。
ただ、座っていた。
店内の音が戻ってくる。
中華鍋の音。
隣の席の笑い声。
メンちゃんの呼吸。
それらが、懐かしい日常みたいに聞こえた。
俺はもう一度箸を取った。
「食べる」
メンちゃんは何も言わず、俺を見た。
辛音ちゃんも何も言わなかった。
見守られる一口は、少し照れくさい。
でも、悪くなかった。
麺をすする。
辛い。
うまい。
つらさは、さっきより少し遠い。
「ご主人様」
「何だ」
「今の顔、書く」
「巡礼ノートに?」
「うん」
「何て」
メンちゃんは少し考えた。
「辛さから帰ってきた顔」
「大げさだな」
「でも、そうだった」
辛音ちゃんが笑う。
「そのノート、見たい」
「だめ」
メンちゃんが即答した。
「どうして」
「ご主人様の顔は保存対象なので」
「見せるな」
いつもの会話だった。
そのいつもが、赤い湯気の中で戻ってきた。
俺は残りを食べ進める。
辛さは最後まで辛かった。
だが、もう逃げ道をふさがれている感じはしない。
むしろ、遠い帰り道に灯りがついているような気がした。
食べ終える。
全部は飲み干さない。
レンゲを置く。
息を吐く。
辛音ちゃんは満足そうに腕を組んだ。
「起きた?」
「起きた」
「何が?」
俺は少し考えた。
「昔の俺」
「あと、言えなかった言葉も少し」
メンちゃんがこちらを見る。
「でも、戻らなかった」
「うん」
「呼ばれたから」
メンちゃんは顔を赤くして、巾着をぎゅっと握った。
「呼ばれたら、返事する」
「家系っぽいな」
「濃いので」
「なあ。岐阜で黙ったのも、先回りだった。守ったつもりで、お前を置いてた」
メンちゃんは、少しだけ黙った。
「じゃあ、お互い様」
「ああ」
「次は、置いていかないで、濃く守る」
辛音ちゃんは赤い湯気の中で笑った。
「いいじゃん。辛いの、ちゃんと食べたね」
ふっと真顔になって、丼の底の赤を見る。
「私の赤でも、起こせない朝がある」
「あれを起こすのは——白」
それ以上は語らず、辛音ちゃんはまた笑った。
逃げずに、でも、倒れずに。
さっきのメンちゃんの言葉が、まだ胸に残っていた。
店を出ると、名古屋の夕方だった。
街の光が少しずつ濃くなっていく。
胃の奥には辛さ。
舌には痛み。
胸の奥には、懐かしい帰り道の灯り。
そして、言えなかった言葉が、少しだけ息をしていた。
メンちゃんが隣を歩く。
俺は、その歩幅を見失わないようにした。
主人公は、辛さの中で昔の自分を思い出しました。
言えなかった言葉。
一人で帰っていた夜。
券売機の赤い光。
でも、今は隣にメンちゃんがいる。
名前を呼べば、返事がある。
そして、メンちゃんにもひとつ。
守るための先回りは、置いていくのと同じだった——二人がお互い様と言い合えた夜でした。
辛さから帰ってきた顔は、巡礼ノートに残るはずです。




