第22話 しおなちゃんと朝の魚介スープ
焼津の朝。
家系とは違う、魚介の香りが立つラーメン屋。
主人公は上司と並んで、朝の行列に加わります。
一方、メンちゃんは留守番のはずでした。
今回は、家系の外で初めて出会う、別ジャンルの麺妖精が登場する回。
朝を起こす魚介の湯気、しおなちゃんとの出会いです。
焼津の朝は、俺の知っている休日の朝とは少し違っていた。
眠い。
それは同じだ。
だが、街のほうが先に起きている。
駅を出ると、海の匂いがした。
潮の匂い。
魚の匂い。
市場へ向かう車の音。
どこかで箱を積み上げる音。
俺の胃袋はまだ半分寝ている。
なのに街はもう、麺の湯切りを終えたあとみたいに、きびきび動いていた。
「早いだろ」
上司は妙に元気だった。
会社では、朝から元気な姿なんて見たことがない。
いつもはコーヒー片手に、会議をあと三分遅らせる方法ばかり探している人だ。
それが今は、漁港の朝に自然になじんでいる。
「上司、朝強かったんですね」
「仕事の朝は弱い」
「それは強いと言っていいんですか」
「うまいものを食べる朝は別だ」
分かるような、分からないような理屈だった。
ただ、ラーメンに関してだけは俺も似たようなものだ。
家系の日の朝は、なぜか起きられる。
人間は、義務では動かなくても、湯気では動く。
店に着くと、すでに行列ができていた。
開店前だというのに、十人以上いる。
作業着の人。
長靴の人。
近所の常連らしいお年寄り。
観光客っぽい若い二人組。
そして、俺達。
「三番目だ。いい位置だな」
上司は満足そうに言った。
家系の行列とは空気が違う。
気合いを入れて、濃い一杯に挑みに行く感じじゃない。
朝の仕事の途中で、湯気を受け取りに寄っている感じだ。
会話も小さい。
誰も大声でラーメン論を語らない。
ただ、開店を待っている。
その静けさが、少し新鮮だった。
俺はかばんに触れた。
内ポケットには、メンちゃんが入れた見るだけの海苔。
別のポケットには、半分の食券。
「どうした」
上司が聞く。
「いえ、少し眠くて」
「食べれば起きる」
「ラーメンを目覚ましみたいに言いますね」
「目覚ましだぞ。朝ラーは」
その言葉を聞いた瞬間、どこか遠くで何かが光った気がした。
レンズが朝日を反射したような、鋭い光。
気のせいかと思って振り返る。
店の向かい。
少し離れた駐車場。
停まっている車の陰。
そこに、焼津の朝に必要のない量の装備をまとった、小柄な人影がいた。
フードをかぶり、両手で双眼鏡を構えている。
いや、双眼鏡だけではない。
頭には迷彩柄のバケットハット。
首からは、双眼鏡のほかに単眼鏡と、なぜか天体望遠鏡まで下げている。
背中には三脚。
胸元には「監視中」と手書きされた札。
正体を隠す気が微塵もない、あのフォルム。
俺は見なかったことにした。
見たら負けだ。
家系的にも、社会人的にも。
だが、風向きが少しでも変わると、駐車場のほうから、ほんのりと豚骨醤油の香りが流れてくる。
変装をしても、匂いだけは変装できていなかった。
潮の匂いの中に、一筋だけ夜の家系が混じっている。
俺はため息をついて、また前を向いた。
開店時間になった。
暖簾が出る。
その瞬間だった。
店の中から、魚介の香りが、ふわりどころではなく、どっと押し寄せてきた。
暖簾をくぐった湯気が、朝の光の中で白い帯になって、行列全体を包む。
節の香り。
昆布の香り。
醤油の甘い輪郭。
湯気は行列の頭の上をゆっくり流れて、俺の鼻の奥まで届いた。
豚骨醤油の圧とは違う。
鶏油のきらめきとも違う。
朝の空気に、だしの香りがほどけていく。
行列の何人かが、そろって小さく息を吸った。
まるで、香りに起こされたみたいに。
「行くぞ」
上司にうながされて、俺達は店に入った。
席につく。
三番目だから、最初のターンだ。
厨房では店主が、無駄のない動きで丼を並べている。
湯気は控えめなのに、香りははっきりしていた。
魚介。
醤油。
少し甘いような、潮のような匂い。
「ここはな」
上司が小声で言う。
「朝、働く人が食べに来るんだよ。腹に重くない。でも、ちゃんと残る」
重くない。
でも、残る。
メンちゃんが聞いたら、真剣にメモを取りそうな言葉だった。
というより、今この瞬間、駐車場で望遠鏡ごしにメモを取っている気がした。
五分ほどで、ラーメンが届いた。
透きとおったスープ。
細めの麺。
飾りすぎない具。
家系みたいに、丼の中で全員が肩を組んで迫ってくる感じではない。
それぞれが、朝の席を邪魔しないように立っている。
「いただきます」
上司が先にレンゲを取った。
俺も続く。
一口目。
まずはスープ。
メンちゃんがいなくても、それは変わらない。
レンゲにすくったスープは、朝の光をうすく映していた。
口に入れる。
熱い。
軽い。
いや、軽いだけじゃない。
魚介の香りが、舌の上から鼻へ抜ける。
醤油の輪郭がちゃんとある。
油の膜はうすいのに、物足りなくない。
胃袋を殴るのではなく、肩を叩くような味だった。
起きろ。
今日も始まるぞ。
そう言われた気がした。
「うまい」
思わず声に出た。
その瞬間だった。
店の奥から、白い湯気がふわりと立ちのぼった。
いや、ふわり、では足りない。
湯気は、まるで招かれたように、まっすぐ立ちのぼり、天井で一度ふくらんだ。
そのふくらんだ湯気の帯の中から、一人の店員が姿を現した。
白と淡い水色のエプロン。
髪飾りは、湯気みたいに白い。
彼女が歩くたび、足元から湯気が薄く広がり、朝の光にきらきらした。
目は澄んでいて、朝の海みたいだった。
きれいで、かわいい。
だが、それ以上に、匂いが違う。
彼女が近づくと、魚介の香りが一段やわらかくなる。
普通の店員ではない。
俺は、もう知っている。
うまいと思った瞬間に現れる少女。
ラーメンの味、店の空気、食べる人の記憶。
それが、女の子の姿になって現れた存在。
家系の店だけではなかったのか。
彼女は俺のそばに来ると、上司には聞こえないくらいの声でささやいた。
「たまには家系以外の味も楽しんでね」
背筋が伸びた。
「……君は」
「しおな」
彼女は微笑む。
「朝を起こす魚介の湯気。ここで働く人達の、最初の一口」
俺はレンゲを持ったまま固まった。
上司が不思議そうにこちらを見る。
「どうした」
「いえ」
「熱かったか」
「別の意味で」
「何だそれ」
説明できない。
朝ラーの擬人化少女が耳元でささやいてきました、なんて言えるはずがない。
しおなちゃんは、からかうというより、そっと包むように笑った。
「濃くなくても、残る味はあるよ」
その言葉は、静かだった。
挑発ではない。
ただ、自分の一杯を知っている声だった。
俺はもう一口スープを飲む。
うまい。
やっぱり、うまい。
家系とは違う。
違うから、うまい。
その瞬間、店の外で何かが動いた。
窓の向こう。
駐車場のほう。
三脚が倒れる音がした。
続いて、天体望遠鏡が地面を転がる音。
そして、フードの影が、装備を巻きつけたまま、ものすごい勢いでこっちへ突っ込んでくる。
途中で単眼鏡のストラップが足に絡まって、一回転んで、それでも止まらない。
俺はレンゲを置いた。
遅かった。
店の引き戸が、勢いよく開く。
というより、開けた本人が勢いを止めきれず、そのまま前のめりに店内へ転がりこんできた。
「ごしゅ……ご主人様ぁっ!」
朝の静かな店内に、家系の声が響いた。
メンちゃんだった。
フードに双眼鏡、迷彩のバケットハットを目深にかぶり、背中には斜めになった三脚を背負っている。
そして、なぜか片手に見るだけの海苔を、旗のように高く掲げていた。
完璧に不審者だった。
朝の漁港に、豚骨醤油をまとった不審者が、装備ごと転がりこんできたのだ。
「何してる」
「監視」
「言い切るな」
上司が固まっている。
まわりの客も固まっている。
長靴のおじさんが、レンゲを口の前で止めたまま、こっちを見ている。
観光客の二人組は、スマホを出そうとして、やめた。
店主も一瞬だけ手を止めた。
しおなちゃんだけが、静かにまばたきをしている。
メンちゃんは立ち上がると、バケットハットのつばを上げ、背中の三脚を下ろし、双眼鏡をきゅっと握りなおした。
そして、朝の店内で堂々と胸を張った。
「家系法度、第二十二条」
「まだ増やすのか、それ」
「ご主人様が家系の外で他の味を食べる時、家系ヒロインはこれを遠隔監視する権利を有する」
「そんな条文いつ作った」
「けさ」
「けさか」
「駐車場で」
「駐車場で条文を作るな」
しおなちゃんが、そっと首をかしげる。
「あなたが、家系の子?」
「そうです」
メンちゃんはもう一度、胸を張った。
「濃厚豚骨醤油系ヒロイン、メンちゃんです」
「名乗るな」
俺は小声で言った。
しかし、もう遅い。
上司が俺を見る。
「知り合いか」
「まあ」
「濃厚なんとかって言ったぞ」
「趣味の友達です」
「濃い趣味だな」
「三脚を背負って双眼鏡を持った趣味の友達か」
「バードウォッチングです」
「鳥はどこだ」
「今日は俺を見てました」
否定できない。
メンちゃんは装備をがちゃがちゃ言わせながら、まっすぐ俺の丼を見た。
スープ。
麺。
具。
海苔。
幸い、海苔はあった。
メンちゃんは少しだけ安心した顔をした。
「海苔、いる」
「まずそこか」
「でも、少ない」
「家系基準で見るな」
「持ってきた」
メンちゃんは、掲げていた見るだけの海苔を、そっと俺のかばんの上に置こうとした。
「置くな。見るだけの海苔だろ」
しおなちゃんがくすりと笑う。
「朝はね、濃さより先に、起こしてあげる時間だよ」
メンちゃんの眉が動いた。
「濃さで起きる朝もあります」
「うん。夜の疲れを受け止める朝なら、それもいいね」
しおなちゃんはまっすぐメンちゃんを見る。
その目に、争う色はなかった。
「でも、漁から戻る人。これから働く人。まだ胃袋が眠っている人。そういう人には、静かな応援も必要なんだ」
メンちゃんは、言い返そうとして口を開いた。
だが、言葉がすぐには出なかった。
店内の客達は、それぞれの丼に向かっている。
黙って食べる人。
小さく息をつく人。
スープを飲んで、少しだけ顔を上げる人。
家系の行列とは違う。
だが、ラーメンに救われている顔なのは同じだった。
メンちゃんは、それを見た。
見てしまった。
三脚を背負ったまま、しばらく黙っていた。
「……静かな応援」
「うん」
しおなちゃんはうなずく。
「澄んでいるからって、薄いわけじゃないよ」
それは、メンちゃんに向けられた言葉であり、俺にも向けられた言葉だった。
俺はスープを飲む。
隣で、メンちゃんが装備の重さも忘れて、俺の顔をじっと見ている。
「ご主人様」
「何だ」
「うまい?」
逃げられない。
逃げる必要もない。
「うまい」
メンちゃんの頬が少しふくらむ。
だが、券売機の前で次の休日を奪われそうになった時みたいな、危うさではない。
怒っている。
寂しがっている。
そして、聞こうとしている。
「どのくらい?」
「朝にちょうどいい」
「ちょうどいい」
「胃袋を叩き起こすんじゃなくて、肩をぽんと叩く感じだ」
メンちゃんは真剣に考えた。
「私は?」
「お前は、疲れた日の背中をまるごと抱える感じだな」
メンちゃんの顔が赤くなった。
三脚を背負ったまま、店内で赤くなるな。
上司が全部見ている。
「お前ら、本当に趣味の友達か」
「趣味が濃いんです」
「そうか」
上司はそれ以上聞かなかった。
大人だった。
あるいは、朝ラーのスープで心が広くなっていた。
騒ぎは完全には収まっていない。
メンちゃんが装備をがちゃがちゃさせながら、俺の水の管理を始めたからだ。
「ご主人様、水」
「店の水だ」
「朝でも水」
「分かった」
「スープは全部飲まない」
「分かってる」
「魚介だからって油断しない」
「お前、家にいる時と同じだな」
「隣にいるので」
「双眼鏡の距離で隣を名乗るな」
その言葉で、俺は少し黙った。
連れていけないと言った。
だが、メンちゃんは来た。
来てしまった。
三脚を背負って、望遠鏡を落として、転がってでも。
問題だ。
大問題だ。
でも、俺の一口目の顔を見たい。
その気持ちを、完全に笑うことはできなかった。
しおなちゃんは、そんな俺達を見ていた。
「仲がいいね」
「監視されてます」
「心配されてるんだよ」
「双眼鏡と望遠鏡で?」
「方法は少し濃いけど」
しおなちゃんは、そこで初めて少し楽しそうに笑った。
メンちゃんはむっとする。
「濃いのは悪いことじゃないです」
「もちろん」
しおなちゃんは否定しなかった。
「濃い味が支える日もある。澄んだ味が起こす朝もある。ただ、それだけ」
その言い方が、妙にすとんと胸に落ちた。
家系の外にも、誰かの朝を支えている一杯がある。
俺はそれを、理屈ではなく、丼の中で知った。
食べ終える頃には、店内の空気も少し戻っていた。
湯気の中の少女にも、装備の少女にも、客達はもう驚かなくなっていた。
朝ラーの店の心の広さは、たぶん焼津で一番だった。
上司は満足そうにスープを少し残して、レンゲを置く。
「うまかったな」
「はい」
「たまには、こういうのもいいだろ」
俺はメンちゃんを見る。
メンちゃんは、答えを待っている。
「いいですね」
俺は言った。
「家系とは違うけど、いいです」
メンちゃんが、俺の袖をつまむ。
三脚のベルトを肩からずらして、空いた手で、そっとつまむ。
その力が、ほんの少し強くなった。
でも、止めなかった。
店を出る。
朝の光が強くなっていた。
外に転がっていた天体望遠鏡を、メンちゃんが気まずそうに拾い上げる。
「それ、遠くのご主人様を近くに見るためです」
「距離の使い方がおかしい」
しおなちゃんは暖簾の内側から俺達を見送る。
半歩も外へ出ない。
これまで出会った家系の妖精達と同じで、その店の一杯の中にいる。
ただ、彼女の湯気は、家系の暖簾とは違う方向へ流れていた。
海のほうへ。
朝のほうへ。
その流れの向こうを、一瞬だけ、白すぎる湯気が横切った気がした。
魚介の澄んだ白とも、家系の湯気とも違う、もっと厚くて、まったいらな白。
しおなちゃんが西のほうをちらりと見て、何も言わなかった。
たぶん、朝の光の見間違いだ。
「ご主人様」
メンちゃんが言う。
「何だ」
「帰ったら、ちゃんと書いて」
「書く」
「魚介のことも」
「書く」
「私が監視していたことは」
「書く」
「そこは省略して」
「重要な事件だ」
メンちゃんは不満そうに頬をふくらませた。
しおなちゃんが、くすりと笑う。
「ねえ」
俺達は振り返る。
しおなちゃんは暖簾の内側で、朝の光を受けていた。
「家系の外にも、誰かの朝を支えている一杯があるんだよ」
その言葉は、さっき店の中で感じたものと同じだった。
彼女は続ける。
「気になるなら、次は岐阜に行ってみて」
「岐阜?」
「野菜と塩気で、人を起こすラーメンがあるから」
メンちゃんが警戒した。
「野菜」
「うん」
「ほうれん草?」
「それだけじゃないよ」
「野菜の軍勢」
「言い方」
しおなちゃんは楽しそうに笑った。
「あの子はきっと、濃いだけが元気じゃないって言うと思う」
メンちゃんの目が細くなる。
完全にライバルを見る目だった。
だが、俺はその横顔を見て、少し安心した。
怒っている。
警戒している。
でも、消えそうではない。
家系の香りは、まだ彼女の髪からふわりと立っている。
俺はかばんに触れた。
暖簾の端が、かすかに温かい。
拒んでいるのではない。
知らない湯気を、覚えようとしている。
帰りの電車で、上司はすぐに眠った。
メンちゃんは俺の隣に座り、双眼鏡を膝の上に置いている。
三脚は網棚、天体望遠鏡は足元。
朝の漁港帰りとは思えない荷物の量だった。
「それ、次から持ってくるな」
「次は一緒に行くならいらない」
「次?」
「岐阜」
「行く気なのか」
メンちゃんは俺を見る。
「ご主人様が行くなら」
それは、古暖屋からの帰り道と同じ言葉ではなかった。
でも、同じ場所から続いている言葉だった。
帰り道に隣にいるのは、メンちゃんがいい。
なら、次は。
最初から隣にいてもらえばいい。
双眼鏡も、望遠鏡も、いらないように。
俺は窓の外を見た。
焼津の朝が遠ざかっていく。
巡礼ノートの次のページには、まだ何も書かれていない。
だが、書くことはもう決まっていた。
焼津。
朝。
魚介。
しおなちゃん。
メンちゃん、双眼鏡と望遠鏡で監視。
そして。
次は、岐阜へ。
焼津の朝に、しおなちゃんが登場しました。
濃さで疲れを受け止める家系。
澄んだだしで朝を起こす魚介。
役割は違っても、どちらも誰かの胃袋を支えている。
メンちゃんはまだやきもちを焼いています。
けれど、しおなちゃんの言葉は、ちゃんと届きました。
次は岐阜へ。
今度は、最初からメンちゃんと一緒に向かいます。




