第21話 焼津の朝、連れていけない一杯
休日家系巡礼で、主人公とメンちゃんは「一緒に選ぶ」ことを覚えた。
どの店の一杯もうまい。
それでも、帰り道に隣にいるのはメンちゃんがいい。
ここから、さらに一歩外へ出る。
今回は、会社の上司からの珍しい誘い。
行き先は焼津。
家系ではない、朝の魚介系ラーメン屋。
次の家系の日は、まだ決めていなかった。
巡礼ノートは机の上に開いたままだ。
古暖屋のページは、メンちゃんが何度も読み返している。
おかげで、端に小さな指の跡がついていた。
俺の字で、こう書いてある。
他の店も、また行きたい。
ただし、帰り道に隣にいるのはメンちゃんがいい。
その一行を見つけるたび、メンちゃんは耳まで赤くなる。
そして、赤くなった後で必ず言う。
「字、もう少し丁寧に」
「まだ言うのか」
「保存するから」
「保存する前提をやめろ」
「記録係なので」
言い返せない。
巡礼ノートは、いつの間にか俺一人の記録ではなくなっていた。
家系ラーメンの記録。
店ごとの妖精達の記録。
メンちゃんと相談して選んだ休日の記録。
そこまでは、悪くない。
問題は、そこにメンちゃんの赤面観察記録まで混ざり始めていることだ。
しかも、そのページには「本日のご主人様、耳の赤さ・中」と点数までついていた。
「ご主人様」
「何だ」
メンちゃんはノートの隣に、水の入ったコップを置いた。
もう習慣になっている。
家系の日の後でも。
家系の日ではない夜でも。
俺が仕事から帰って椅子に座ると、メンちゃんは水を出す。
「今日は、次の候補を決める?」
「まだいい」
「大人」
「その言い方だと、普段の俺が子どもみたいだな」
「硬め濃いめ多めを生き方って言う人は、少し子どもだよ」
「お前が言ったんだろ、それ」
「私は家系ヒロインなので」
便利な肩書きだった。
その時、スマホが鳴った。
会社の上司からだった。
珍しい。
上司は、仕事の連絡なら社内チャットで済ませるタイプだ。
嫌な予感がした。
仕事のトラブル。
休日出勤。
資料の修正。
胃に悪い単語が、頭の中でラーメン屋の券売機みたいに並ぶ。
電話に出ると、上司の声は妙に軽かった。
『今度の土曜、朝空いてるか』
休日出勤。
俺の脳内で、最悪の食券が光った。
「内容によります」
『焼津、行かないか』
「焼津ですか」
『朝ラー。うまい店があるんだよ』
一瞬、言葉が止まった。
仕事ではない。
ラーメンだった。
しかし、家系でもない。
しかも、朝。
情報の麺が、頭の中で絡まる。
「朝ラー、ですか。えっと、土曜は」
『魚介系でな。あっさりして、朝でも重くない。お前、絶対好きだぞ』
「いや、まだ予定が」
『予定なんて朝の一杯には勝てないだろ。集合、五時な』
断る隙が、どこにもなかった。
上司の話は、麺上げのタイミングを一切くれない店主みたいだった。
こちらが硬めか柔らかめか聞かれる前に、もう丼が出てくる。
「あの、まだ行くとは」
『日曜だと市場が休みでな。土曜一択だ。決まりな』
いつのまにか、俺の土曜は上司のスープの中に沈んでいた。
『最近、顔が疲れてるだろ。朝からうまいもん食べると、一日が少し変わるぞ』
仕事の話ではない。
たぶん、本当に誘ってくれている。
そこがずるかった。
断ろうとした言い訳が、全部ぬるくなって喉で溶けた。
「……分かりました。行きます。何時集合でしたっけ」
『五時って言っただろ。もう一回言わせるな』
言われた時刻は、やっぱり休日の人間に許される時間ではなかった。
漁港と市場の時間だった。
電話を切ると、メンちゃんがじっと俺を見ていた。
いや、正確には、見上げていた。
なぜか椅子の上に立ち上がって、俺と目線を合わせにきていた。
「ご主人様」
「何だ」
「今、ラーメンって言った?」
「言ったな」
「朝?」
「朝」
「家系?」
俺は黙った。
メンちゃんの瞳が、静かに光る。
あの鶏油みたいに。
「ご主人様」
「魚介系らしい」
その瞬間、部屋の温度が二度くらい上がった気がした。
いや、比喩ではなかった。
どこからともなく湯気が立ちのぼり、キッチンの換気扇が「ゴォ」と低くうなり始めた。
冷蔵庫の上に、頼んでいない寸胴が一個増えている。
「魚介」
「ああ」
「家系ではない」
「ない」
「朝から」
「朝から」
「私を置いて」
そこだ。
問題は味の種類ではなく、そこだった。
休日家系巡礼の中で、俺たちは一緒に選ぶことを覚えた。
次の家系の日は、俺だけで決めない。
メンちゃんだけで決めない。
その日の胃袋。
その日の天気。
そして、隣のメンちゃん。
全部を見てから選ぶ。
そう決めたばかりだった。
なのに、今回は違う。
仕事ではないが、付き合いではある。
俺一人の休日の中に、外から予定が入ってきた。
「今回は、上司と行くんだ」
「上司さんも、家系?」
「たぶん違う」
「教育が必要?」
「必要ない」
「海苔は?」
「魚介系に海苔があるかどうかも分からない」
メンちゃんは目を見開いた。
世界の土台が一枚ずれたような顔だった。
「海苔が、ないかもしれないラーメン」
「そこまで衝撃を受けるな」
「海苔なしでラーメンを受け止めたら、帰り道が不安定になる」
「どんな理論だ」
「家系理論」
強い。
俺は、メンちゃんが出した水を飲んだ。
冷たくて、少しだけ落ち着く。
「今回は連れていけない」
メンちゃんの表情が固まった。
言ってから、しまったと思った。
連れていけない。
その言葉は、思ったより重かった。
「どうして」
「上司と行くからだ。会社の人間に、家系ラーメンの擬人化ヒロインですって紹介できない」
「私は礼儀正しいよ。一口目はスープって言える」
「それがまず駄目だ」
「じゃあ黙ってる」
「黙っていられるのか」
メンちゃんは少し考えた。
「三分」
「カップ麺か」
「硬めなら二分」
「茹で時間で沈黙を測るな」
メンちゃんは唇をとがらせる。
そして、どこからか一冊の帳面を取り出した。
表紙に、堂々とした字でこう書いてある。
家系法度。
「ご主人様。家系法度・第十一条」
「増えてるな、条項が」
「ラーメンを食べる時、ヒロインは隣にいるべし」
「今、作っただろ、それ」
「第十一条の二。朝ラーもラーメンなので、これに含む」
「二枚目の条文をその場で挟むな」
メンちゃんは帳面をぱたんと閉じた。
法律にでもした顔だった。
「家系法度に、書いてあるので」
「お前が今書いたんだろ」
「書いた瞬間から効力です」
分かっていないわけではない。
俺が困ることも、会社の付き合いであることも、たぶん分かっている。
それでも、納得はできない。
だから、法度なんて持ち出す。
古暖屋の帰り道で、俺はようやく伝えたのだ。
他の家系を好きだと言っても、隣にいるのはメンちゃんがいいと。
だが、今度は隣にいられない。
それが彼女を不安にしている。
「ご主人様」
「何だ」
「朝ラーって、家系にもあるよ。早朝からやってる家系だってある。だから朝ラーは家系の管轄」
「管轄を主張するな。今回はそういう話じゃない」
「だって」
メンちゃんは机の上のページを見る。
古暖屋のページ。
俺の字。
帰り道に隣にいるのはメンちゃんがいい。
その一行を見て、メンちゃんの声が少し小さくなる。
「隣にいるのが私でいいなら、朝も隣にいたい」
俺は言葉に詰まった。
それは、わがままではない。
「帰り道に隣にいるのは、お前がいい」
俺は言った。
「それは変わらない」
「でも、行きは?」
「今回は上司と行く」
「スープの一口目は?」
「俺が飲む」
「ずるい」
「ずるいのか」
「ずるいよ。ご主人様の一口目の顔、私が見られない」
そこだった。
メンちゃんにとって、一口目の顔はただの食レポじゃない。
うまいと思うこと。
その顔を見ること。
その二つがあって、メンちゃんは「自分はここにいていい」と確かめられる。
彼女にとっては、そういう大事なものなんだ。
「帰ってきたら、話す」
「本当?」
「本当」
「家系より褒めない?」
「比較の仕方が雑だ」
「じゃあ、家系と別枠?」
俺は少し考えた。
家系の妖精達と出会う中で学んだことがある。
好きは、一つだけにしなくてもいい。
ただし、雑に増やすと誰かを不安にさせる。
「別枠だな」
「別腹みたいに言った」
「近いかもしれない」
「別腹は危険。無限に入る」
「入らない」
メンちゃんはまだ不満そうだった。
だが、少しだけ肩の力が抜けた。
湯気も、少しずつ薄れていく。
換気扇のうなりが止まって、寸胴も、いつのまにか一個に戻っていた。
「じゃあ、帰ってきたら水。朝ラーの後も、水」
「分かった」
「あと、ノート。私も見るから、字、丁寧に」
「努力する」
メンちゃんは小さくうなずいた。
納得ではない。
保留。
ラーメンでいうなら、まだ麺を持ち上げたところだ。
その夜、メンちゃんはいつもより早く寝る支度をした。
明日は早いから、俺も早く寝ろと言う。
自分は行かないのに。
「ご主人様、寝坊したら上司さんに迷惑だよ。店の開店時間を守るのは大事」
「珍しく社会性がある」
それは正しい。
俺は布団に入った。
部屋の明かりを消す。
暗がりの中で、机の上のノートだけが少し見える。
その隣に、メンちゃんが置いた水。
鞄の中の暖簾の端は、静かだった。
家系の記憶は、まだ何も言わない。
ただ、夜の底で、メンちゃんの気配だけが少し落ち着かない。
「ご主人様」
暗闇で声がした。
「何だ」
「魚介に、負けないでね」
「勝ち負けじゃない」
「じゃあ、飲み込まれないでね」
俺は目を閉じた。
休日巡礼の終わりには、妖精達は俺を連れて行かなくなった。
好きでいさせるために、連れて行かない。
その距離を覚えたばかりだった。
だが、家系の外ではどうなるのか。
俺にも分からない。
「飲み込まれない」
そう答えると、メンちゃんは少しだけ黙った。
「あと」
「まだあるのか」
「一口目の顔、覚えて帰ってきて」
「分かった」
「できれば詳細に」
「寝ろ」
「はい」
翌朝。
目覚ましが鳴るより少し前に目が覚めた。
台所から音がする。
まさかと思って起きると、メンちゃんが弁当箱のようなものを包んでいた。
「何してる」
「水」
「水を包むな」
「あと、胃に優しいもの」
「ラーメンを食べに行くんだが」
「魚介だからって油断しない」
包みの中には、小さなペットボトルの水と、なぜか海苔が入っていた。
「海苔」
「お守り」
「持ち込みはしないぞ」
「見るだけ」
「見るだけの海苔とは」
メンちゃんは真剣だった。
笑っていいのか、迷うくらい真剣だった。
俺は海苔を返さず、そのまま鞄の内ポケットに入れた。
使わない。
だが、持っていく。
そういうものも、たぶんある。
玄関で靴を履く。
メンちゃんはいつもより少し離れて立っていた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「帰ったら話す」
「うん」
「水も飲む」
「うん」
「ノートも書く」
「字、丁寧に」
「そこは忘れないんだな」
メンちゃんは少しだけ笑った。
それで、俺も少し安心した。
扉を開ける。
朝の空気は、まだ暗さを残していた。
駅へ向かう道を歩き出す。
家系ではない朝。
メンちゃんのいない一口目。
鞄の中には、半分の食券と、見るだけの海苔。
俺はそれらの重さを感じながら、焼津へ向かった。
その頃、俺は知らなかった。
部屋の中でメンちゃんが、フード付きのパーカーと双眼鏡を取り出していたことを。
「三分なら黙れる」
彼女は真顔でつぶやいた。
「なら、遠くからなら一時間いける」
その理屈は、家系より濃かった。
主人公は初めて「メンちゃんを連れていけない一杯」と向き合いました。
家系ではないから不安なのではなく。
一口目の顔を、隣で見られないことがメンちゃんには寂しい。
だからこそ、次は焼津の朝ラー本番。
魚介の湯気と、遠くから見守る(つもりの)家系ヒロインがぶつかります。




