第20話 休日の一杯、隣のメンちゃん
家系会議で、妖精たちの願いが見えた。
彼女たちは、誰かの帰り道に残りたい。
けれど、主人公一人の胃袋や休日を使って人になるのは、なんだか違う。
今回は、休日家系巡礼編の締めくくり。
俺は一人で決めず、メンちゃんと相談して、次の一杯を選ぶ。
家系会議は、宿題を残して散会した。
次の休日、ご主人様が選んだ一杯で、それを実証する。
多くの「また来たい」に支えられて残る道が、本当にあるのかどうか。
妖精たちの前でそう決まってしまったから、今度の休日は、ただの休日じゃない。
実証の日だ。
会議の途中、湯気に戻りかけた峠子の指先を、俺はまだ忘れていない。
多くの「また来たい」で残れる道が本当にあるなら、あの子はもう戻らなくて済む——今日の一杯には、峠子の明日がかかっている。
次の休日を決めるのに、俺たちは三日かかった。
候補は多い。
峠子の麺乃峠。
潮風子の潮ノ屋。
けん子の券ノ助。
こめりの米乃家。
雨乃の雨乃屋。
こはるの古暖屋。
どの店にも、また行きたい理由がある。
だからこそ、迷う。
前までの俺なら、たぶんその日の勢いで決めていた。
濃いものが食べたい。
海の方へ行きたい。
ライスを腹いっぱい食べたい。
雨だから近場にしたい。
そういう欲は、悪くない。
だが、今はそこに妖精たちの顔が重なる。
選ぶことが、前より少し重い。
そして、前より少し楽しい。
おまけに今日は、会議で決まった実証の日だ。
俺の選ぶ一杯が、妖精たちの残る道の答えにつながるかもしれない。
重さの理由が、もう一つ増えていた。
メンちゃんは三日間、巡礼ノートの前で何度もうなった。
回った店の記憶を書きためていく、俺たちの記録帳だ。
一日目は、全店に丸をつけた。
二日目は、丸を消せずに星を足した。
三日目は、星が増えすぎて夜空みたいになった。
「地図というより星座だな」
「家系座」
「ありそうでない」
「作る?」
「作るな」
「ご主人様」
メンちゃんがページをめくる。
「今日は、私も選ぶんだよね」
「そうだ」
「責任が濃い」
「濃さを責任に使うな」
「じゃあ、普通?」
「責任は普通でいい」
メンちゃんは少し笑った。
その笑い方は、いつもの得意げなやつじゃなかった。
自分で選ぶことを、少しだけ怖がっている顔だった。
でも、逃げなかった。
最終的に選んだのは、古暖屋だった。
派手な理由じゃない。
あの店の記憶を、もう一度ゆっくり見たかった。
メンちゃんも同じだった。
ただし、決め方は前と違った。
俺が先に言ったわけではない。
メンちゃんが先に言ったわけでもない。
二人でノートを眺めていて、同じタイミングで古暖屋のページに指が止まった。
指先が少しぶつかる。
メンちゃんは慌てて手を引いた。
俺も、少しだけ慌てた。
鞄の中の布が、静かに温かくなる。
押しつけじゃない。
せかしてもいない。
選んだことを見届けてくれる温度だった。
「こはるさんの店、今ならちゃんと聞ける気がする」
「何を」
「うまかった顔の話」
古暖屋の暖簾をくぐると、店主は相変わらず口数が少なかった。
「いらっしゃい」
その一言も、前と同じくらい短い。
だが、俺には少し違って聞こえた。
前回は、古い店に入れてもらった気がした。
今回は、もう一度来た客として迎えられた気がした。
たぶん、気のせいだ。
でも、店ってやつは、そういう気のせいが少しずつ積もっていく場所なんだと思う。
俺たちはラーメンとライスを買う。
好みは、硬め、濃いめ、油普通。
もう迷わない。
いや、迷わないというより、今日の俺はこれだと分かる。
丼が置かれる。
湯気の向こうに、こはるが現れた。
湯気は、竜巻にはならなかった。
ふわりと丸くなって、こはるの肩のあたりで止まっただけだ。
派手さのない登場だった。
それが、この店らしかった。
「また来てくれたんですね」
「ああ」
メンちゃんが少しだけ頬をふくらませる。
「今日は、私も選んだ」
こはるは微笑んだ。
「それは、いい来店です」
メンちゃんは、その言葉を聞いて少しだけ背筋を伸ばした。
選ばれる側じゃなくて、選ぶ側に立ったからだろう。
嫉妬が消えたわけではない。
俺がこはるを見ると、俺の袖をつまむメンちゃんの指に、ちょっとだけ力がこもる。
それでも、彼女はこはるの話をさえぎらない。
この店の一杯を、ちゃんと聞こうとしている。
俺はスープを飲んだ。
熱い。
落ち着く。
古い写真のような味。
でも、前より少し違って感じる。
俺一人で来た味じゃない。
メンちゃんと相談して選んだ味だ。
「うまい」
こはるの輪郭が少し光る。
だが、人になるほど濃くはならない。
壁の写真が、ほんの少し明るくなる。
それで十分だった。
ふと、俺は隣を見た。
伊豆に来たばかりの頃なら、こういうときのメンちゃんは、指先が薄くなっていた。
俺が他の店をうまいと言うたび、輪郭がすっと透けて、向こうの壁が見えそうになった。
簡単に消えかけた。
今日のメンちゃんは、透けていなかった。
俺がこはるを見ても、うまいと言っても、袖をつまむ指はちゃんとそこにある。
濃い。
消えない。
「透けないんだな」
思わず口に出していた。
メンちゃんは一瞬きょとんとして、それから自分の手のひらをかざした。
「……透けない」
自分でも、今はじめて確かめるみたいだった。
「もう、透けないよ」
言い直したその声は、得意げでも不安げでもなかった。
ただ、事実を置くみたいだった。
「ご主人様が他の店をおいしいって言っても、私、消えない体になったんだ」
「いつのまに」
「たぶん、ちょっとずつ」
メンちゃんは指を握って、開いた。
濃い輪郭は、閉じても開いても、ちゃんと濃いままだった。
俺は、そこに少し安心した。
そして少しだけ、寂しくもあった。
人にならないから安心する。
人にならないから寂しい。
その二つは矛盾しているようで、どちらも本当だった。
メンちゃんがコップを俺の方へ押した。
水。
いつもの動作。
だが、その手は前より落ち着いている。
「ありがと」
俺が言うと、メンちゃんは小さくうなずいた。
何も説明しない。
水だけが、ちゃんと置かれている。
メンちゃんは隣で、ちゃんと聞いていた。
こはるがこの店のスープを語る。
常連の顔。
店主の手。
雨の日も晴れの日も、同じように湯を沸かしてきた時間。
メンちゃんは途中で頬をふくらませる。
俺がうまそうな顔をしたからだ。
でも、逃げない。
聞く。
それが、これまでと違っていた。
こはるは、メンちゃんへも話しかけた。
「あなたは、帰り道の妖精なんですね」
メンちゃんが箸を止める。
「ラーメンの妖精です」
「もちろん」
こはるは微笑む。
「でも、食べ終えた後も見ている」
メンちゃんは、言い返そうとして口を開いた。
けれど、何も出てこなかった。
代わりに、少しだけ照れた顔で俺のコップに水を足した。
入れすぎて、表面張力ぎりぎりになった。
「多い」
「気持ち」
「こぼれる気持ちだな」
「拭く」
「そこまでがセットか」
店主が、ほんの少しだけ口元を動かした気がした。
笑ったのかもしれない。
気のせいかもしれない。
どちらでもよかった。
食べ終えた。
全部は飲み干さない。
だが、うまかったことは残る。
俺はレンゲを置いた。
丼の底に残ったスープの表面に、琥珀色の光が一度だけ揺れる。
そこには、こはるだけじゃなく、これまで会った妖精たちの気配が薄く重なっていた。
峠子の影は、店の外へ出ようとはしない。
潮風子の声は、波音にならず静かに引いていく。
けん子の食券は、押せとは言わない。
こめりの湯気は、もう一杯とは誘わない。
雨乃の水滴は、濡れた肩を乾かすだけだ。
それぞれの誘惑が、少しずつ形を変えている。
好きでいさせるために、連れて行かない。
その距離を、俺はようやく少し覚えた。
「ごちそうさまでした」
こはるは頭を下げる。
湯気の中に、他の妖精たちの気配が一瞬だけ重なった。
会議の続きを、みんなで見に来ていたのかもしれない。
山の影。
海の風。
券売機の光。
米の湯気。
雨粒。
誰も消えない。
誰も俺を連れて行かない。
ノートの一行ごとに、それぞれの湯気が小さく残っている。
こはるは、人にはならない。
けれど、消えるわけでもない。
これまで会った妖精たちは、誰かひとりを虜にしないと、この世界に残れなかった。
一人の客を連れて行くか、消えるか。
そのどちらかしかないと、俺は思っていた。
こはるは、違った。
「私は、常連さんたちに残してもらっているんです」
こはるは壁の写真を見た。
雨の日も晴れの日も通ってくれた、大勢の顔。
「ひとりの人に飲み干してもらうんじゃなくて」
「また来たい、が何人分も積もって」
「その分だけ、半分、こっちに残れるんです」
半透明の輪郭。
でも、消えない半分。
誰かを連れ去らなくても、妖精がこの世界に足を残している。
多くの人の「また来たい」に支えられて、半分だけ現実に残る。
そんな居方を、俺は初めて見た。
これまでのルールが、ここで一度、動いた。
それが、選ばれたこの店の妖精の、いちばん静かな居方だった。
会議で決まった実証は、俺が何かを証明するより先に、目の前で静かに成立していた。
いや、違うか。
俺たちも今日、この店を選んで、うまいと言って、また来たいと思った。
その一人分は、こはるの半分を支える何人分かの中に、今日から数えられている。
実証というのは、たぶんそういうことだ。
会議のみんなに、持って帰れる答えができた。
こはるが、ふと山の方角へ目をやった。
「この居方は、山の子にも、届きます」
湯気に戻りかけた峠子にも、この道は通じている。
俺は巡礼ノートの端に、次の約束をひとつ書き足した。
峠子の店へ、「また来たい」を届けに行く。
店を出ると、夕方だった。
メンちゃんが隣を歩く。
古暖屋の暖簾は、背後で一度だけ揺れた。
半歩も外へ出ない。
影も伸びない。
ただ、店の内側から、また来てもいいよという温度だけが残る。
それが、今日のこはるの見送りだった。
「ご主人様」
「何だ」
「今日、こはるさんのこと、好き?」
「好きだな」
メンちゃんの頬が少しふくらむ。
「この店の一杯も?」
「好きだ」
「他の店も?」
「好きだ」
「私の前で堂々と言う」
「言う」
俺は立ち止まった。
「でも、どの店に行っても、帰り道に隣にいるのはお前がいい」
メンちゃんの目が丸くなる。
夕方の光が、琥珀色の瞳に入る。
前なら、この台詞で輪郭が濃くなった。
言葉で、彼女をつなぎ止めていた。
今日は、濃くなるも何もない。
最初から濃い。
言葉で引き止め合う二人じゃ、もうなくなっていた。
揺らがない。
彼女はしばらく何も言わなかった。
それから、顔を赤くして、少しだけ俺の袖を強くつまんだ。
強くつまんだまま、歩幅を俺に合わせる。
速くもない。
遅くもない。
ラーメンを食べた後の、ちょうどいい速度。
伊豆の夕方の空は、うすいオレンジ色になっていた。
海は見えない。
山も遠い。
券売機の赤い光も、炊飯器の湯気も、雨の匂いもない。
それでも、全部が今日の帰り道のどこかに混ざっている。
思えばこの旅は、湯気の向こうに立った見知らぬ影を、確かめに行くところから始まった。
正体の分からない影に、少しだけ身構えながら。
でも、確かめてみれば、影はどれも誰かの店の、誰かの一杯だった。
影を怖がる話じゃなかったのだ。
湯気の向こうを一つずつ確かめて、それでも帰り道の隣を選ぶ話として、ここまで来た。
「じゃあ」
「じゃあ?」
「帰ったら、お水いっぱい飲もうね。長く好きでいるために」
俺は笑った。
「色気より水分補給か」
「長く好きでいるための、家系の知恵なので」
「保健委員も兼任だろ」
「最近忙しい」
「でも、嫌じゃないだろ」
俺が言うと、メンちゃんは少しだけ考えた。
「うん」
それから、珍しく素直にうなずいた。
「忙しいけど、嫌じゃない」
「よかった」
「ただし、ご主人様が無茶したら怒る」
「知ってる」
「茶碗も下げる」
「知ってる」
「食券も半分にする」
「知ってる」
「水も出す」
「それは助かる」
メンちゃんは満足そうにうなずいた。
鞄の中の暖簾の端が、静かに光った。
派手には光らない。
てのひらで包める分だけの、小さな光だった。
山、海、券売機、米、雨、古い写真。
全部の記憶が、布の中でけんかせずに並んでいる。
半分の食券も、財布の中で温かい。
赤じゃない。
琥珀色。
待つ色。
選ぶ色。
次の一杯を楽しみにする色。
巡礼ノートを開く。
古暖屋。
メンちゃんと相談して選んだ。
うまかった。
他の店も、また行きたい。
ただし、帰り道に隣にいるのはメンちゃんがいい。
メンちゃんがその一行を見て、耳まで赤くした。
「ご主人様」
「何だ」
「字、もう少し丁寧に」
「そこか」
「大事。保存するから」
「保存するな」
「二人の記録なので」
俺は、その一行の下に、こはるの名前を小さく書き足した。
人にはならなかった妖精の、消えない名前。
メンちゃんは、それを消さなかった。
隣に、自分の丸をひとつ足しただけだった。
「私のも、ちゃんと残す」
「残すのか」
「帰り道の妖精なので」
帰り道、俺たちは次の家系の日の話をした。
どこへ行くかは、まだ決めない。
その日の胃袋。
その日の天気。
その日の気持ち。
そして、隣のメンちゃん。
全部を見てから選べばいい。
最後の一杯じゃない。
最初の一口でもない。
これから続いていく、いくつもの休日の中の一杯。
俺はそれを、ちゃんと楽しみにしていた。
メンちゃんも、隣で同じように歩いていた。
休日家系巡礼編は、ひとつの区切りを迎えた。
店ごとの妖精たちは消えない。
巡礼ノートの中で、それぞれの湯気が残っている。
俺はどの店の一杯もうまいと言える。
それでも、帰り道に隣にいるのはメンちゃんがいい。
次の家系の日は、まだ決めない。
その日の胃袋、その日の天気、その日の気持ちを見て、また一緒に選べばいい。




