第18話 伊豆の家系地図
メンちゃんは、自分の魅力を説明するより、その日の俺を見ることを選んだ。
店ごとの妖精達と出会うたびに、彼女自身も少しずつ変わってきている。
今回は、巡礼ノートが地図になる。
中伊豆、伊東市、券売機、米、雨、古い店。
それぞれの湯気が一本の線になって、伊豆の家系の記憶が見えてくる。
「ご主人様。そこに正座してください」
休日の朝、飯を炊くより先に、俺は正座させられた。
メンちゃんは巡礼ノートを両手で抱えている。
抱え方が、証拠品のそれだった。
「昨日の夜、気づきました」
「何に」
「このノートに、私の知らないページがあります」
ノートの後ろに貼り足された、数枚のページ。
俺が書き溜めて、見せていなかった場所だ。
「隠れ巡礼ですね」
「待て」
「私に内緒で知らない店を回って、新しい子の資料を作ってた。隠れ巡礼は家系法度・第七条違反です」
「そんな条項あったか」
「今できました」
「法度を即席で作るな」
メンちゃんの目は真剣だった。
真剣なまま、ちょっとだけ泣きそうだった。
俺はノートを受け取って、貼り足したページを開いた。
「読め」
一枚目の見出しは、店の名前でも、味の評価でもなかった。
中伊豆。峠子。
影が半歩、ホームまでついてきた日のこと。
続くページにも、潮風子の声、けん子の小さな「ごめんなさい」、こめりの青ざめた顔、雨乃の傘、こはるの古い写真。
「……これ、味の記録じゃない」
「ああ」
「妖精の記録だ」
店の記録の、裏側だ。
帰り道に思い出したことを、忘れないうちに書いておいた控え。
「なんで隠してたんですか」
「隠してたつもりはない。……いや、最後のページは隠してた」
メンちゃんが、最後の一枚をめくる。
見出しは一行。
メンちゃん。
その下には、まだ少ししか書いていない。
雨の日、傘を半分こっちへ寄せてきたこと。
海苔を一枚増やした夜のこと。
メンちゃんは黙った。
黙って、耳まで赤くなった。
「……隠れ巡礼じゃなかった」
「じゃない」
「これ、いつ書いてるんですか」
「お前が寝たあと」
「照れるので禁止です」
そのやり取りの間に、巡礼ノートが、少し重くなってきた。
実際の重さの話じゃない。
ページをめくるたび、湯気が立つような気がするのだ。
いや、今日は本当に、うっすら湯気が出ていた。
この前のメンちゃん資料も、ノートの後ろに挟んである。
本人いわく、成長記録。
「なら、俺のあのページも、お前の成長記録だ」
「屁理屈です」
言い返しながら、メンちゃんは笑った。
笑った瞬間、巡礼ノートのページの端が、熱くも冷たくもない不思議な温度を持った。
中伊豆の峠子。
伊東市の潮風子。
券ノ助のけん子。
米乃家のこめり。
雨乃屋の雨乃。
古暖屋のこはる。
そして、メンちゃん。
書かれた名前の一つ一つに、ページの奥が小さく反応する。
「ご主人様」
メンちゃんがノートをのぞき込む。
「これ、地図みたい」
「地図?」
「ほら」
彼女が指で線を引く。
いや、引こうとした。
その前に、線のほうが勝手にのびはじめた。
中伊豆の山。
伊東の海。
駅前の券売機。
米の店。
雨の日の路地。
古い商店街。
それぞれの店の記録を、こはく色の細い線が、ひとりでに結んでいく。
伊豆のまわりに、小さな家系の道ができる。
その瞬間、かばんの奥で、こはくの光がひとつ灯った。
巡礼ノートの紙の上に、線がふわりと浮かび上がる。
俺は思わず手を引いた。
印刷された地図なんかじゃない。
店の記録と、妖精の記録。
表と裏がそろったページの上でだけ、線が勝手にのびていく。
ページまで、風もないのに一枚めくれた。
「うわ」
「地図が、読んでほしいところに、めくってるんです」
「ノートに意思を持たせるな」
線はまっすぐじゃなかった。
道に迷った日の足取りみたいに、少しずつ曲がっている。
ただの地図じゃない。
味の記憶の流れだった。
しかも、記憶がそのまま、紙の上に立ちのぼりはじめる。
醤油が強い店の線からは、香ばしい湯気が細く上がる。
鶏油が印象的な店の線には、きらきらした光の粒が乗る。
匂いと湯気と光が、地図の上をゆっくり流れていく。
「家系って、横浜だけじゃないんだね」
メンちゃんが言った。
少し前の彼女なら、寂しそうに言ったかもしれない。
今は違う。
広いものを見ている声だった。
「でも、私って何なんだろう」
その問いは、静かに出た。
メンちゃんは、自分のリボンを見ていた。
いつもなら、胸を張っているところだ。
けれど今日は、その勢いが先に出てこなかった。
峠子は峠の店の妖精。
潮風子は海沿いの店の妖精。
けん子は券売機の店の妖精。
こめりは米の店の妖精。
雨乃は雨の日の店の妖精。
こはるは古い店の記憶の妖精。
じゃあ、メンちゃんは何の妖精なのか。
それは、俺も今まではっきりさせずにきた問いだった。
俺はノートを見た。
湯気の流れが、いろんな店から、メンちゃんのいるほうへ集まっていく。
メンちゃんは、麺ノ家だけから生まれたわけじゃない。
俺が食べてきた家系。
救われてきた夜。
濡れた海苔。
赤い食券。
硬め、濃いめ、多め。
そして、今は「普通」を選べる日。
その全部から、彼女は形を持った。
「お前は、一軒の店じゃない」
メンちゃんが俺を見る。
「この前も言った」
「今度はもっと正確に言う」
俺はノートの地図に指を置いた。
「俺が家系を好きだった記憶から生まれた。でも、今はその記憶を一緒に歩いてる」
メンちゃんは黙る。
「じゃあ、私は地図?」
「地図そのものじゃない」
「じゃあ、道案内?」
「近いけど、ちょっと違う」
「じゃあ何」
俺は困った。
言葉にすると、どれも少しずつずれるのだ。
メンちゃんは店じゃない。
でも、家系そのものでもない。
俺の「好きだった」から生まれた。
でも、今は俺の好きだけに縛られていない。
彼女は、俺が一杯を食べ終わった後も隣にいる。
そこだけは、他の妖精達と違う。
「帰り道」
俺は言った。
メンちゃんが目をぱちぱちさせる。
「お前は、俺の家系の帰り道にいる」
彼女はしばらく黙った。
それから、少しだけ口をとがらせる。
「ラーメン本体じゃないんだ」
「本体も含む」
「含む」
「スープも、麺も、海苔も、米も、食べた後の水も、帰り道も」
「範囲が広い」
「広いから、お前なんだと思う」
こはくの光が、彼女のこはく色の瞳に映った。
「じゃあ、私は一軒ぶんじゃなくて」
メンちゃんが、そっと言う。
「ご主人様が好きになってきた、家系ぜんぶの記憶から生まれた、ってこと?」
「そうだ」
さっきまでの不安が、ゆっくり形を変えていくのが分かった。
「じゃあ私、けっこう大きい」
「大きいな」
その声は、もう寂しそうじゃなかった。
自分の広さを、そっと誇りはじめた声だった。
そのとき、俺は気づいた。
さっきまで、彼女の指先は、光にまぎれて少し薄く見えていた。
広い地図の前に立つと、いつも彼女はどこか、透けそうになる。
自分がどの一軒の妖精でもない気がして、輪郭がぼやけるのだ。
でも、今は逆だった。
たくさんの店の湯気が集まってくるほど、彼女の輪郭は、むしろはっきりしていく。
薄まるんじゃない。
濃くなっていく。
背負う地図が広いぶん、彼女はそのぶん、確かにそこにいた。
広さは、彼女を消すものじゃなかった。
彼女を、彼女の形に留めておく力だった。
それは誇りより、もう少し静かな何かだった。
地図の上には、小さな光がいくつか残っている。
峠子の影。
潮風子の声。
けん子の食券。
こめりの米の湯気。
雨乃の水滴。
こはるの古い写真。
それぞれ、妖精達が人に近づいた場所だ。
「みんな、人になりたいのかな」
メンちゃんが言う。
「分からない」
「でも、消えたくはないんだと思う」
それは、彼女自身が一番よく知っている言葉だった。
「俺一人で全員を救うのは、違う」
「うん」
メンちゃんは少しだけ寂しそうに、でもはっきりうなずいた。
「ご主人様の胃袋も休日も、一つしかない」
「そうだな」
「あと健康診断もある」
「現実を混ぜるな」
「大事」
俺たちは笑った。
そのとき、ノートの余白に、また勝手に文字が浮かんだ。
家系法度・第十八条。
地図は、一人で背負うべからず。
「お前、こんな条項いつ足した」
「私じゃないです。ノートが書きました」
「法度が自我を持つな」
その一条は、今日だけ正しかった。
笑った直後、地図の光が一つだけ強くなった。
古暖屋じゃない。
麺乃峠でも、潮ノ屋でもない。
まだ行っていない場所。
伊豆半島の先っぽに近い、空白のあたり。
店名は出ない。
ただ、こはく色の点がぽつんと浮かんでいる。
「これ、次の候補?」
メンちゃんがのぞき込む。
「分からない」
「でも、呼んでる」
誰かが一人で待っているというより、誰かたちが集まるための目印に見えた。
店ごとの妖精達は、俺一人に選ばれなくても消えない。
それぞれの店で、誰かの「また来たい」に支えられている。
俺の「また来たい」も、その中の一つでいい。
全部じゃなくていい。
メンちゃんがノートの端に小さく書き足した。
一人で背負わない。
それから、少し迷って、もう一行。
でも、忘れない。
さっきの第十八条の、すぐ下だった。
「法度と、気が合ったな」
「たまたまです」
「いいな」
俺が言うと、メンちゃんは照れた。
「そういうの、得意なので」
その夜、こはくの光は机の上で静かに灯っていた。
山、海、券売機、米、雨、古い写真。
全部の記憶が、一本の線になる。
閉じたはずのノートが、ひとりでにめくれて、地図のページを出した。
地図の上の小さな光が、動いていた。
ばらばらの場所で灯っていた妖精達の光が、一斉に、同じ方角へすべりはじめている。
伊豆半島の先っぽ。
あの空白の点のほうへ。
ただ、集まる光の中に、一つだけ明滅の弱い光があった。
中伊豆の方角から来る光だ。
進みながら、ろうそくの残りみたいに、ふっ、ふっ、と揺れていた。
「ご主人様」
「見えてる」
「呼ばれてる」
「家系会議かも」
「議題が重そうだな」
暖簾の端が、返事みたいに小さく震えた。
その震えは、山の熱でも海の風でもなかった。
食券の紙の音でも、米の湯気でも、雨の温度でも、古い写真の手ざわりでもない。
全部が少しずつ混ざった震えだった。
俺とメンちゃんは、同時にノートを閉じた。
けれど、閉じたページのすき間から、こはく色の光が細くもれていた。
その細い光も、まっすぐ、同じ方角を指していた。
巡礼ノートに、伊豆の家系地図が浮かび上がった。
妖精達が人に近づいた場所は、小さな光として残っている。
俺一人で全員を救うのは、違う。
でも、忘れないことはできる。
次は、妖精達が集まる家系会議。
誰が次の休日に選ばれるのか、にぎやかで、ちょっと必死な会議が始まる。




