第96話 通じない星雫
値札の「五」が「三」に見えたのは、魚の鱗が光ったせいだった。
ナディアは籠を提げた右腕に力を込め、まぶたを細めた。夜明け前の魚市には、海から引き上げられたばかりの銀色が幾重にも並び、濡れた敷石には天幕の影が揺れている。値を読み違えれば、客に嘘をつくことになる。もう一度札へ顔を寄せたところで、卓の隅に置かれた《星雫灯》が白く脈打ち、今度は細い痛みがこめかみを貫いた。
「止めて」
ナディアが言うより早く、エステルが停止輪へ手を伸ばした。光が消えると、濡れた鱗の一枚一枚から跳ね返っていた白さも沈み、魚市は薄青い朝へ戻る。
「まだ試すなら、右手の籠を置けと言うのかい」
「いいえ。それでは、あなたが働く時の試験になりません」
卓を挟んだ店主は、言い訳をせずに試用票へ書き込んだ。起動するのは砂除け布を巻いた左手で、右手は魚籠から離せない。布越しの魔力は途切れがちになり、三種の灯芯を選べるはずの灯りが、明るくなっては痩せることを繰り返した。王都の店ではやわらかな星の瞬きと褒められた光も、魚の目や鱗が濡れている場所では、刃を細かく振られるように感じられる。
「明るさが足りないんじゃないよ。こっちへ返ってくるのが嫌なんだ。あんたも、ここに立って見てごらん」
ナディアは自分の場所を譲らなかった。籠を持つ腕の高さも、値札へ目を落とす角度も変えず、エステルに隣へ立つよう顎で示す。店主は裾をたくし上げて魚汁の残る敷石へ入り、同じ高さまで屈んだ。ニナも続こうとしたが、ナディアは止める。
「一人ずつだよ。三人並んだら、客が札を見る場所まで変わる」
王都から来た者たちは、そこで素直に順番を待った。ナディアには、それが少し可笑しかった。立派な百貨店の主なら、魚売りの女へ正しい灯りの使い方を教えたがるものだと思っていた。ところがエステルは、魚の脂が靴へ染みるのにも構わず、灯りが点くたび眉を寄せた。何度目かに「これは長く見られません」と認めたので、ようやくナディアは籠を下ろした。
昨日、返品できる条件で買った品だった。返せば代金は戻る。ナディアは腰帯の返品票へ手を触れたものの、すぐ箱へ戻す気にはなれなかった。魚市で使えない理由を、王都品に不慣れな女の愚痴として片づけられるのが嫌だった。
魚市で通じない、と一枚目の票へ残った。
だが、星雫が合わないという一言で済ませるには、試す場所が多すぎた。
書記工房では、長い灯芯が机の端まで文字を照らした。天窓の狭い部屋で、細かな契約文を写す者にはありがたい光だったものの、白い紙へ近づけるほど反射が目に残り、夕刻まで使うと紙の縁が熱でわずかに反った。工房主は、昼の短い冬なら使えるかもしれないと言い、南方の夏には買わないと答えた。
「魚市とは違う理由ですね」と、ニナが二枚目の票を折らずに重ねた。
「当たり前だろ。魚と紙を同じ光で見る方が、おかしいよ」
祈りの間では、もっと弱い灯芯を試した。香煙の奥で祈祷文だけを読む者には充分だったが、間を置いて力を注ぐたび、正面の笠から洩れた白い筋が隣で目を閉じる者の頬へ走った。灯りへ掛ける薄布も、時間が経つにつれて熱を含む。祈り手の老女は、手の甲で布を確かめてから首を振った。
「言葉を照らしても、隣の祈りを追い払うなら置けません」
エステルは布を厚くするよう命じず、灯りを止めた。厚くすれば眩しさは和らぐが、熱が逃げなくなるとニナが告げたからだ。二人はその場で直そうとせず、祈祷文の位置、隣席との間、布を替える者まで尋ね、三枚目の票を持ち帰った。
夜警の試験は、日が海へ沈んでから始まった。塔の上では風が絶えず、正面へ伸びる光が砂粒を拾って白い幕になる。遠くを見たい時には頼もしい。それでも見回りで灯りを持ち替えるたび、広く映った星形の影が足もとを滑り、階段の段差を見失わせた。夜警は灯りを下ろし、王冠の標準灯へ替えた。光の美しさでは星雫に劣るが、風の中でも照らす幅が変わりにくく、共通部品は詰所にも置かれている。
「こっちは王冠だな」と夜警が言った。「壊れた晩に、船を待ってはいられない」
星灯りの店主は不愉快そうな顔をしなかった。王冠の灯りで階段を一往復し、夜警本人が停止できることまで確かめてから、四枚目の票へ王冠を選んだ理由を書いた。
土地の言葉と仕事場を案内するため、ナディアは四つの試験すべてについて歩いた。昼の書記工房を出た時には、指先へ紙の乾いた熱が残っていた。祈りの間では、隣の老女が眩しさに顔を背けた瞬間を見た。塔では風に煽られ、夜警の肩布へつかまりながら降りた。魚市で頭を痛くした一台が、場所を変えるたび別の顔を見せるのが、腹立たしくもあり、妙に心を惹いた。
王都の品は南方で役に立たない、と笑ってしまえば簡単だった。けれど書記は冬なら借りたいと言い、祈り手も隣へ光を洩らさない形なら試すと言った。夜警だけは、迷わず王冠を選んだ。どの答えも、ナディアが魚市で感じた痛みの言い換えではない。
「この四枚を重ねて、売れなかった印を一つ付けるのかい」
塔を下りたところで尋ねると、エステルは票の端を揃えず、見開きになるよう抱えていた。
「分けたまま持ち帰ります。次に変える物も、試し直す人も違いますから」
「面倒な店だね」
「ええ。四人が別々に面倒をかけてくださらないと、同じ品を四度売りつけるところでした」
冗談らしいものを聞いたのは初めてだった。ナディアが声を上げて笑うと、エステルは少し遅れて笑った。店主らしい澄ました顔も、潮風の中では長く保てないようだった。
朝の魚市へ戻った時、ナディアは並んだ票を覗き込み、鼻を鳴らした。魚市、書記、祈り、夜警。どこでも同じように売れなかったわけではない。使えるところがあり、季節を選ぶところがあり、隣人を眩ませるところがあり、別の店の品が勝つところがある。それを一つにまとめて「南方では不向き」とするなら、試した時間が惜しい。
星灯りの展示台からは、王都仕様の在庫がいったん下ろされた。売れる用途だけへ回すこともせず、四枚の票を見直すまでは新しい注文を受けないという。空いた布の上には、売切れ札の代わりに試験停止の札が置かれた。通りすがりの客が残念そうに覗くたび、ナディアの胸には、悪いことをしたような疼きと、痛いと言った声が品より先に扱われた安堵とが、うまく混ざらず残った。
「この笠が、こっちを向いているからいけないんじゃないかい」
ナディアは正面の反射笠をつまみ、濡れた指を慌てて布で拭った。ニナが留め具を緩めようと工具を取る。だが砂を噛んだ螺子が動かず、力を加えれば外縁が歪みそうになった。
「それ以上はやめましょう」と、エステルが言った。「ナディアさんの品を、こちらの都合で壊すことはできません」
「外せないなら、灯りの方を横へ寝かせたら?」
ナディアは台座ごと持ち上げ、魚のない白い漆喰壁へ光が向くよう九十度近く回した。正面を照らしていた白光が壁へぶつかり、やわらかく散って値札台へ戻る。魚の鱗は静かになり、「五」の輪郭だけが朝靄の中から浮いた。右手の籠を提げたままでも読める。布越しの力が途切れても、直接目へ刺さる明滅はずいぶん弱かった。
「ああ、これなら頭が割れない」
思わず笑うと、周りで見ていた魚売りたちも壁と値札のあいだへ顔を差し入れた。けれどエステルは注文票を出さず、ニナに灯りを消させた。
「もう一度、同じ持ち方で点けてください。そのあとで、倒れるか、壁が熱を持つか、通路の方が眩しくないかを確かめます」
「売れそうなのに、まだ止めるのかい」
「ここで売るなら、魚籠がぶつかった時にも熱い笠を客へ向けない形が要ります」
その慎重さは、ナディアには少し歯痒く、同時に気に入った。思いつきが当たった途端、王都の女店主の発明にされるのではないかと身構えていたからだ。
加工を頼まれた《砂鴎工房》のバシールは、星雫灯をひと目見るなり、台座を横倒しにする案を退けた。油と潮で滑る床では重心が高くなり、籠の角が当たれば倒れるという。代わりに反射笠だけを横向きに支える腕を、南方の軽い合金で作った。共通留め具を削らず、王都へ返す時には元の笠へ戻せる。笠と壁の間をあけ、熱の逃げ道も残した。
「考えたのは魚売り、形にしたのはうちだ」とバシールは言った。「星灯りが全部作った顔をするなら、工具は貸さない」
「発案者と加工者を分けて記します。加工料と、固定法を使う技術料もお支払いします」
エステルが二枚の支払票を差し出すと、バシールはすぐには受け取らず、ナディアへ目を向けた。
「名を出すか」
ナディアは、魚籠の縄で赤くなった手を見た。頭痛を起こした女として博覧会の壁へ貼られるのは御免だったが、魚市で灯りを横へ向けた者としてなら、名前を渡してもよい。
「笠を考えたところだけ。売れなかった理由まで、勝手にくっつけないでおくれ」
エステルは同意票の欄を分けた。発案名の掲示、試験記録の匿名集計、連絡先を工房へ渡す範囲。ひと続きに署名させず、ナディアが選んだ欄だけへ印を受けた。立ち会った時間にも協力料が払われ、《砂鴎工房》には金属代と加工賃のほか、固定法を展示へ用いる技術料が残った。
できあがった横向き笠は、華やかな星を壁へ逃がし、魚の値札へ薄い朝のような光を返した。ナディアは籠を持ったまま点け、消し、濡れた台へ肘をぶつけ、わざと通路側から覗いた。バシールは笠の温度を確かめ、ニナは砂を吹きつけてから留め具を外した。最初の試験では、壁に近すぎた一台の漆喰が熱を帯びたため、支え腕を長くしてやり直した。
試験を見ていた隣の魚売りが、同じ物を今すぐ作ってほしいと手を挙げた。壁が白くない店、値札を頭上へ吊るす店、籠を左手に持つ店まで、皆が一つの笠へ欲しい理由を重ねてくる。エステルは注文を喜ぶ代わり、次の試験品が整ってから、それぞれの売場で順番に使うよう頼んだ。
「この笠は、あの壁から返る光まで借りているよ」とナディアが先に言った。「黒い天幕へ向けたら、同じようには読めない。使ってから欲しがりな」
自分が品を売る側でもないのに、言葉がするりと出た。頭痛を我慢して買うしかないと思っていた朝には、考えもしなかった口ぶりだった。バシールが喉の奥で笑い、発案料の受取票をもう一度ナディアへ押し戻す。
「その忠告まで無料で持っていかれるな。次の加工へ使うなら、魚市の試験役として名を残せ」
紙に書かれた金額は大きくない。それでも、ただ文句を言った客ではなく、働く姿勢を変えずに灯りを直した者へ払われる金だった。ナディアは指についた魚の水気を拭い、選んだ欄の下へ、ゆっくり自分の名を書いた。
その晩、魚市には星雫灯が一台だけ残った。最初に売れた証として飾るためではなく、返品期限のあいだ、ナディアが次の市でも同じ姿勢で試す品だった。書記工房には夏の熱を測る票が、祈りの間には隣席から眩しさを告げる票が残り、夜警の塔には王冠の灯りが置かれた。
翌朝、星灯りの仮設店へ、金縁の注文書が運ばれてきた。
贈答用《星雫灯》、百台。
評議長の署名も、支払保証も揃っていた。ところが、魚市で最初に問われたはずの欄だけが、百台すべて白い。
使う人の名も、使う場所も、一つとして書かれていなかった。




