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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第97話 買わない評議長

 百台分の注文書は、署名の重みだけで卓から動かないように見えた。


 金縁の最終頁には南方評議長の名があり、代金の保証印も、博覧会会期内に納めたいという希望も揃っている。欠けているのは使用者の欄だけだった。白い枠が百並んでいるのを、私は指で隠さず評議長の前へ戻した。


「お祝いに配る品だ。受け取った者が、好きな場所で使えばよい」


 評議長は穏やかに言った。魚市で値を読み違えたナディアのような怒気はなく、贈る行為が街のためになると心から信じている顔だった。博覧会を支えた工房、市場、祈りの場、夜警へ、同じ意匠の灯りを渡せば、評議会からの感謝もひと目で伝わる。百台という数にも、思いつき以上の理由がある。


「受取先の名簿は、納品までに渡せる」


「名簿だけでは、こちらへ印を押せません」


「評議会の保証では足りないのか」


「お支払いの保証には充分です。ただ、灯りを使えるという保証にはなりません」


 注文を断るための言葉を美しく飾ってしまえば、相手の面目を潰さずに済む代わり、どこを変えれば買えるのかも消えてしまう。私は魚市、書記工房、祈りの間、夜警で集めた四枚の票を広げた。星雫灯が通じなかった理由は、それぞれ違う。百台を同じ包みで渡したところで、違いまで揃うはずはなかった。


「贈られる方が戻ってから、本人に試していただけますか。《星雫灯》だけでなく、王冠の標準灯と、この街の工房が作る灯りも候補に入れます。買わずに帰る選択と、壊れた時に持ち込む場所までお渡しします」


「星灯りの店で、王冠を勧めると?」


「その方に王冠が合えば」


 評議長は四枚の票を読み、ナディアの欄でしばらく手を止めた。横向きの笠を付ければ星雫も使えるが、夜警には王冠が選ばれている。書記工房は季節を越える試験を待ち、祈り手は隣席への光を理由に保留した。どれも評議長の善意を退けるために作った話ではない。


「式典の日は決まっている。百人を一人ずつ連れてくるなら、間に合わない」


「間に合わせるために、使わない贈り物を作ることはできません。先に引換票を贈り、本人が都合のよい日に試す方法なら取れます」


 私は注文書へ不受理印を押さず、試用条件を書いた紙を添えた。使用者本人の起動と停止、三候補の比較、返品の期限、修理先。評議長の権限で順番を飛ばす欄は作らなかった。会期中の試用卓が埋まれば、贈答予定の者にも待ってもらう。先に来ていた客の予約を移し、大口を押し込むこともしない。


「百台が売れなくなるかもしれないぞ」


「はい」


 返した注文書の端が、天幕を抜ける風に持ち上がった。評議長はそれを掌で押さえ、やがて従者に巻かせた。怒って帰ったのか、考えるために帰ったのか、その背中だけでは分からなかった。


 その日の閉店後、王都から届いた郵袋を開けた。帳簿の報告、王冠から共有された部品表、国内の試用予約に混じって、アルノルトの細い封書がある。公表を終えても、彼の手紙には監査の書類と同じ癖で日付と差出地が正確に記されていた。


『報告は読みました。職務に関わる返事は、副局長の確認を経て送ります』


 そこまでは公の声だった。改行のあと、いつもより濃く滲んだ文字が続いていた。


『会いたい』


 南方の熱を吸った便箋へ指を置く。彼がこの言葉を書くまでに、どれほど余白を見つめたのかを想像した。返事を長く整えれば、会いたいという気持ちまで仕事の報告へ紛れそうだったので、私は別の小さな紙を選んだ。


『私もです』


 その下へ、百台の注文をまだ受けていないことを書いた。彼に正しさを褒めてもらうためではない。帰った時、店がどんな選択で少し軽くなり、あるいは重くなっているのかを知っていてほしかった。


 評議長が再び現れたのは、仮設店の前に朝の列ができている最中だった。今度は従者だけではない。袖へ墨をつけた書記、香木の匂いをまとった祈り手、肩布の褪せた夜警、魚油の染みた前掛けを着けた市場の女たちが、彼の後ろにいた。いずれも贈答先を代弁するために選ばれた正装の代表ではなく、実際に灯りを使う者が仕事の途中で来た姿だった。評議長が前の話を聞いていたことは、揃いの服を着せなかったところに表れている。


「百台を売ってくれとは言わない。だが、誰が何を選ぶかを見る」


「承ります。評議長からではなく、使う方から用途を伺います」


 試用卓には、三つの灯りを同じ高さで並べた。《王冠百貨商会》の標準灯、《星灯り魔法百貨店》の《星雫灯》、そして現地工房の油晶灯。店名を布で隠すことはしなかったが、金色の台を王冠だけへ使うことも、星雫へ星模様を散らすこともやめた。価格、替え部品を置く場所、返品できる条件、修理にかかる経路を、同じ幅の札へ書く。


 受付では、仕事と服装のほか、夜明け前だけ点けるのか、昼から夜まで保つのか、起動する時間を尋ねた。呼ばれる順は評議会の席次で決めず、同じ仕事の者でも一つの列へまとめない。袖を濡らす者と乾いた机へ座る者では、同じ時刻に働いても触れ方が違った。


 評議長の従者は、来た順に金縁の名簿を読み上げようとした。私はその名簿を閉じてもらい、通常客と同じ受付札を、使う人自身へ渡した。贈答先として誰を選んだかは評議会の事情だが、灯りをどちらの手で点けるかは名簿にない。


「閣下がお待ちなのに、先に試せと?」と書記の一人が戸惑った。


「評議長にも、お待ちいただきます」


 私が答える前に、評議長が空いた長椅子へ腰を下ろした。上等な衣の裾へ市場の砂が触れ、従者が払おうとするのを手で止める。


「今日は買い手ではなく、贈り方を習いに来た。私の椅子まで順番を早める道具にするな」


 その一言で、列の肩から余計な緊張が少し抜けた。権威に屈しない姿を見せるため、評議長へ無礼を働く必要もなかった。彼が待つと選んだ時間を、こちらが芝居に使わず、目の前の試用へ戻るだけでよかった。


 最初の書記は、長い机で契約文を読む。星雫の細い灯芯なら端まで届くものの、紙へ近づけた時の熱を嫌った。王冠の標準灯は光の幅を変えにくい代わり、同じ部品が評議会の倉庫にもあり、壊れた日に交換できる。現地品は灯油の手入れが要るが、写字工房の職人がその場で芯を切り直せた。


「冬だけ星雫を借り、夏は今の油晶灯を使うこともできます」と私が告げると、書記は王冠を選んだ。


「毎日替える者が迷わない方がいい。冬に紙が冷えるなら、その時また試す」


 星灯りの帳簿に売上は立たない。代わりに、王冠へ持っていく試用票を本人へ渡した。


 祈り手は正面の光を嫌い、現地品を選んだ。火の揺れを見ながら祈る習慣があり、修理も隣の工房で頼めるからだ。別の者は、手の震えが強くても停止輪を押しやすい王冠を選ぶ。魚市で片手が塞がる者には、横向き笠を付けた星雫が残ったが、誰にでも同じ改良を渡さず、籠の高さと壁までの距離を本人ごとに確かめた。


 染色工房で働く女性は、濡れた袖を肘までたくし、三候補を順に扱った。星雫は色の違いを見分けやすいが、指から落ちた染液が調整輪の溝へ入りやすい。王冠は覆いが深く、洗って交換できるものの、青布と紫布を夜に見分けるには光が少し硬い。現地の油晶灯は火を使うため染料庫へ持ち込めない。


「どれも合わないなら、贈り物は辞退します」


 女性がそう言うと、従者は困って評議長を見た。けれど評議長は首を縦に振り、辞退の欄へ自分の確認印を置いた。私は星雫の輪へ透明な覆いを加える試験を提案したが、式典までに耐久を確かめられないので、贈答には間に合わない。女性は後日の試用票だけを受け取り、空の手で仕事場へ戻った。


 その背中を見送りながら、私は百台を失う惜しさをはっきり感じた。使わない品を減らすことと、売れなくても平気でいることは同じではない。材料を用意した工房も、南方まで運んだ費用も、帳簿から消えてはくれない。それでも、今ここで惜しさを埋めるために彼女へ一台を持たせれば、その重みは帰った後も彼女の棚に残る。


 夜警の一人は、王冠の安定した広い光を選んだ。もう一人は塔の内側で記録を書く時だけ星雫を使いたいと言う。外の巡回には王冠、机上には星雫という二つ持ちを希望したので、評議長が同じ記念品を渡す計画からは外れた。それでも、どちらか一台へ暮らしを押し込むより、本人にとっては自然だった。


 試用が進むにつれ、百という数はほどけていった。王冠が合う者、現地品が合う者、星雫の調整が必要な者、今の灯りを直して使う者、贈り物そのものを断る者。評議長の紋は品の箱から引換票の封へ移されたが、それを受け取った祈り手は胸もとへ大切そうに当て、辞退を選んだ女性も、封だけは祝いの記念に持ち帰った。


 試用を終えた票は使った本人へ返し、評議長の側には残さなかった。評議会へ伝えるのは、どの店の品を引き換えるか、まだ待つか、辞退するかだけにする。手が震えたことや、祈りで隣人の光を嫌ったことまで贈り主へ渡す必要はない。評議長は最初、贈った品が役立ったか知りたいと言ったが、しばらく考えた末、修理費を負担するために必要な商品番号と窓口だけを受け取ることにした。


「感謝の品なら、感想も返してほしいと思っていた」と彼は言った。「それも代価になるのだな」


「喜んだ方が自分から伝えるのは止めません。ですが、受け取る条件にはしないでください」


「百台より、ずいぶん扱いにくい贈り物になった」


 口ではそう言いながら、評議長は辞退札まで金縁の箱へ大切に収めた。


「これでは、星灯りの販売会ではないな」


 評議長は、現地品の芯を自分で切り直す女を見ながら言った。


「三つの候補を比べる場所ですから」


「百台を持ち込んだ客に、よくそれを言える」


「百台だから、変えません」


 彼自身の試用票も用意していたが、評議長は首を振った。執務室の灯りは足りており、夜道は従者が照らす。贈答計画を立てた者だからといって、必要のない一台を自分用に買う理由にはならなかった。


「今日は何も買わない。引換票の文案と、三店の修理条件を持ち帰る」


「では、費用は試用と翻訳の分だけいただきます」


「断った注文書を、記念に返してくれ」


 評議長は、白い使用者欄の並ぶ最初の注文書を巻き直した。その顔に敗北の色はなく、まだ誰のものでもない百台へ、それぞれの持ち主の手を戻そうとしているように見えた。


 夕暮れ、試用を終えた人々が通りへ出ると、大半は星灯りの仮設店を振り返らなかった。その足は、向かいの大通りに建つ金色の展示館へ流れてゆく。王冠なら価格が低く、標準部品をすぐ受け取れ、初めて触る者も同じ手順で点けられる。試して分かったからこそ、そちらを選ぶ理由があった。


 私は天幕の端を押さえながら、その人波を見送った。卓には使われなかった星雫灯が並び、白い笠へ夕日の薄紅が差している。胸の奥が静かに冷えるほど惜しかったが、誰も説明に欺かれて去ったのではない。自分の手で三つを比べ、自分の暮らしへ持ち帰る灯りを選んだ背中だった。


 金色の扉の前には、星灯りの店先よりはるかに長い列が、揃った影を石畳へ落としていた。


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