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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第91話 招待状と買付票

 南方の金箔を散らした封筒には、博覧会の招待状と、客一人の暮らしにつけられた値札が同封されていた。


『使用者相性個票 一件につき金貨百枚』


 都市事故の公開報告と共通留め具を、国外の商人たちの前で実演してほしい。招待文の下には、出品者が王都で集めた相性個票も買い取ると続いている。店頭で人の手に合わなかった灯りなら、それより高く売れることさえある金額だった。


 百金貨あれば、九十日後払いの公費債権にかかる利息を軽くできる。船賃や通関、通訳の費用にもなる。紙一枚が何枚あるかを数えた瞬間、遠征の金繰りはずいぶん美しく見えるだろう。


 私は掛け算を始める前に、一階の公開記録台へ二枚の紙を離して置いた。博覧会の出品規約には新しい受付番号を付け、相性個票の買付票には別の番号を付ける。封筒が一つでも、受ける返事まで一つにする理由はない。


 マルタは帳場から、遠征費の仮票を持ってきた。通関、通訳、船の保険、留守中の本店勤務。まだ支払先さえ定まらない欄が並び、その横で百金貨の文字だけが完成した数字として輝いている。


「一件を売れば、少なくとも出発の支度は楽になります」


 彼女は私に売れとは言わず、紙を伏せもしなかった。金庫を預かる人が、魅力のない金額のように振る舞えば、私だけが気高い決断をしたことになる。


「買付を断った分は、どの費用を後ろへ送ることになりますか」


「展示装飾を減らせます。通訳と返品窓口は減らしたくありません。船の保険を薄くする案も、私は勧めません」


 私はその仮票を買付票の隣へ掲げた。客の記録を売らなければ、華やかな壁が寂しくなるかもしれない。その損まで見えなくしたくはなかった。


「ずいぶん早く分けるのですね」


 差出人の代理として訪れたサフィアは、砂色の外套を椅子へ掛けた。黒い髪を真珠の留め具でまとめた女商人で、私が買付票を裏返しても気を悪くした様子はない。「百金貨では足りないとお考えなら、値の話をしましょう」


「値ではなく、売る権利の話をしたいのです」


「価値を知ってからでも遅くありませんよ」


 彼女は買付票の余白へ、ためらいなく書き込んだ。使用者が灯りへ渡す魔力の幅、使う時刻と仕事、返品した理由、選ばなかった品。王都から南方へ人気灯を運び、現地の覆い布では半分も起動しないと判明すれば、船腹も通関も返送も無駄になる。先に記録があれば、合う可能性の高い品へ仕入を絞り、使えない物が町へ残るのを減らせるという。


「盗むつもりはありません。役に立つから買うのです。返品が減れば、客も商会も損をしない」


 理屈はまっとうだった。相性を何も知らず、王都で売れた順に箱を送るより、ずっと賢い。サフィアを欲深い相手だと決めてしまえば、百金貨を拒む私は気高い店主になれる。けれど、それでは個票がなぜこれほど高いのかも、南方へ合わない品が流れる危険も残ったままだ。


「買った後、どなたが見ますか」


「仕入係と販売予測の担当です」


「保険会社へ渡すことは?」


「必要があれば」


「別の商会へ売りますか」


「買い取った資料なら、その価値を使う場合もあります」


 雇用、婚姻、学校、軍の選別に使われた時、止める人はいるのか。別の商品へ流用する時、元の客へ知らせるのか。問いを重ねるほど、サフィアの返事には空欄が増えた。彼女が今それを企んでいるわけではない。ただ、所有権を丸ごと買えば、後から生まれる用途まで買った側が決められる。


 私は実際の個票を一枚、持ち主の名を覆って台へ置いた。針仕事をする右手、夕方から夜へ続く作業、強い灯芯で起きる頭痛、反射笠を下げて《宵待ち灯》を選んだこと。名前を隠しても、開店した夜の最初の客を覚えている者なら、誰の記録か気づくだろう。


「これなら、南方の針子へ薦める灯芯を減らせます」


 サフィアは指先で紙の端を押さえた。


「この一人が、あの時間に何を選んだかは分かります」


「同じ仕事の記録を集めれば、傾向になる」


「集めてよいかを、まだ一人にも尋ねていません」


 個票の持ち主であるハンナを呼ぶと、彼女は仕事着の指先を拭ってから椅子へ座った。いまは採用班として他の客の用途を聞く彼女も、灯りが消えていた店へ最初に来た時には、夜業で痛む目を誰にも説明できずにいた。


「あなたがいつ針を持ち、どの灯芯で頭が痛くなり、何を買ったか。この記録に金貨百枚を払いたいそうです」


 ハンナは冗談だと思ったらしく、一度笑いかけた。けれど私が買付票を見せると、古い個票を読み返し、口元から色が消えた。


「その百枚は、私が受け取るのでしょうか」


「今回の買付先は店です」とサフィアが答えた。「ただ、本人へ対価を分ける契約に直すことはできます」


 利益を店だけに囲い込もうとする人ではない。彼女は価値を認めるのと同じ速さで、それを得る契約を作れるのだ。


「売った後、仕事を探す時に使われませんか」


「名前は消します」


「王都で、右手で針を持ち、星灯りの最初の客だった女は、何人いるでしょう」


 ハンナの問いに、サフィアは答えを急がなかった。紙を見つめる横顔から、値段を付けた時には考えていなかったことを、いま考え直しているのが分かる。


「私は個票を売りません。百枚なら迷わないとは言えませんけれど、だから店でまとめて決めないでください」


 金貨へ心が動いたことを恥じるように、ハンナは視線を下げた。百金貨で変えられる暮らしを知らないふりはしたくなかった。迷うほどの値だからこそ、遠征費のため先に売ってしまうこともできない。


「個票ではなく、名前を外した集計ならどうでしょう」


 サフィアは交渉を投げ出さなかった。「針仕事で、どの灯芯が合ったかだけを数える。仕入にはそれで足りる場合もあります」


 私は色石を使い、匿名のつもりで条件を重ねてみた。夜仕事を青、右手使用を白、強光で頭痛を赤にする。百貨店全体の箱なら人の顔は見えない。そこから針仕事、最初の購入月、返品しなかった人と絞るたび石は減り、最後には一つだけが残った。


「役に立つほど細かくすれば、名前を消しても本人へ近づくのですね」


 ハンナが、残った赤い石を摘まんだ。


「粗くすれば、仕入の役に立たなくなる」とサフィアが言う。「その間をどこに置くかです」


 そこで私たちは、匿名利用の選択票を新しく起こした。何の商品を良くするためか、誰が集計するか、いつまで使うか、集計前のいつまで撤回できるか、第三者へ渡すか、別の商品に使うか。匿名という一語の下へ隠れていた問いを、一つずつ表へ出す。


 ハンナは、《宵待ち灯》を針仕事向けに調整する目的だけを選んだ。利用期間は南方博覧会の閉幕まで、集計日は事前に本人へ知らせ、その前なら撤回できる。サフィアの商会から他社へ集計結果を再提供せず、別の灯りへ使う時はもう一度尋ねる。購入額と修理履歴は混ぜない。


「この条件なら、使っても構いません。ただし、私の名前が分かりそうな人数なら集計しないでください」


「価値は百金貨より下がりますよ」


「私の値段ではありませんから」


 ハンナはそう答えたあと、少し迷い、「でも、私が選べる範囲の対価なら知りたいです」と付け加えた。その率直さに、サフィアが初めて微笑む。


「商売の話ができますね」


 匿名利用を無償の善意にせず、対価と集計方法を改めて見積もる。ただし、いま作ったのはハンナ一人の選択で、ほかの個票へ同じ印を写すことはしない。彼女の青札は契約が整うまで封じ、個票そのものは本人へ戻した。


 私は青札を集計箱へ入れる前に、ハンナへ一度返した。彼女が撤回欄を選ぶと、札はその場で本人の封筒へ戻る。もう一度利用を選び直すと、今度は集計予定日を示す砂時計の印を添えて箱へ入れた。


「本当に、一度断っても試用客として扱われるのですね」


「あなたの灯りの修理も、勤務も変わりません」


 ハンナは自分の目で青札が別箱へ移るのを確かめた。署名欄があるだけでは、断った時にどうなるかは分からない。サフィアもその手順を見て、南方側で集計を始める者と、撤回された札を返す者を同じ担当にしない方がよいと書き足した。


「集計した後なら、一人分だけ引けません」


「ええ。だから、その日より前に知らせる必要があります」


「知らせが届かなかった人は?」


「その人の札は、集計へ入れません」


 手間は増え、集計できる数は減る。それを聞いてなお、サフィアは席を立たなかった。彼女には、不完全でも使える情報から利益を作ろうとする粘りがあった。


「買付票への返事は?」


 サフィアが尋ねる。


「一括売却はお断りします。一件百金貨でも、店に売る権利がありません」


「本人から一人ずつ買う余地は残す?」


「修理や返品の順番、価格、接客が、売らない人にも変わらない契約なら。用途と期間、撤回期限、再提供の可否も本人ごとに選べることが条件です」


 白紙の拒絶ではなかったが、百金貨の即金は手放す。私は買付票へ不受諾の印を押した。九十日先の債権も、船の費用もそのまま残り、金庫には硬貨一枚増えない。


 既に個票を預けている客へは、国外出品の知らせだけを送った。情報提供の許可状を同封し、返事がなければ同意とみなす形にはしない。国外へ知らせたくない、匿名でも使わせない、説明を聞いてから決めたいという返答を、それぞれ通常の返品台で受ける。買付を断ったせいで、品の保証や修理が変わらないことも正面へ掲げた。


 公開台の前を通った年配の客が、自分の修理票を胸へ寄せて尋ねた。


「何も書かなければ、私の記録は王都に残るのですか」


「保証に必要な範囲だけ残ります。国外の集計には入りません」


「それなら、今日は決めないで帰ります」


 彼女はどの同意札も取らず、修理済みの灯りだけを受け取った。サフィアは呼び止めず、その後ろ姿を見て、回答しないという欄を自分の控えにも足した。


「個票を持たずに来れば、不利ですよ」


「承知しています」


「現地の店は何年も客の手を見てきた。《王冠百貨商会》は標準品と交換部品を大量に運ぶでしょう。あなた方は、王都で合った記録さえ置いてくる」


 サフィアの声は、値をつり上げる時のようには尖っていなかった。南方で品を売り、人の手を見てきた商人として、そのままの危うさを告げている。私が頷くと、彼女は招待状の方を引き寄せた。


「それでも招待は有効です。個票を買えない星灯りが、何を持ってくるのか見たい」


 出品受諾書には、招待を受けても情報売却へ同意したことにはならないと追記した。商品を買うこと、試用すること、匿名集計へ加わることも、それぞれ別である。サフィアは代理人として文面を読み、自分の名で確認印を置いた。


 七階へ戻ると、出品候補は床を埋めていた。一階の日用品から七階の比較試用品まで、どの担当も自分の棚でいちばん美しい物を見せたがっている。その中央へ、主催者から届いた新しい上限通知を開いた。


『展示区画の都合により、出品は持参予定の十分の一まで』


 個票という即金を断った直後に、商品も十枚に一枚しか置けなくなった。


 アルノルトへは、公的連絡と私信を別々の封筒で書いた。公文には出品受諾、個票買付の拒否、渡航予定、利益相反の連絡先だけを記し、助言を求める欄は作らない。私信の便箋を前にすると、百金貨へ不受諾印を押した時より長く手が止まった。


『長く離れるのは寂しいです』


 立派な成果も、無事に帰る約束も先へ置かず、その一文だけを封じた。恋人だと公に告げたのに、寂しいと書くことはまだひどく無防備だった。


 十分の一の印を持って出品棚へ戻り、私は最も高価な新作の推薦札から、最初の取消線を引いた。


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