第9話 王冠百貨商会
マクシム・ローヴェンの買収書は、差押えまであと六十八日となるまでの六日間、帳場の上に置かれていた。
黒革の表紙には《王冠百貨商会》の紋が金で型押しされ、閉じたままでも、この店にあるどの帳簿より裕福そうに見える。初めの晩、私は二度読み、翌朝にはマルタたちの前で開いた。
「この条件は、全員にお見せします。それぞれが私と関係なく、移籍を選べる形にしてください」
そう告げると、マクシムは驚きもせず、六日後を回答期限に定めた。次の日には、マルタとニナへ向けた雇用条件を別紙で届けてきた。守秘を求める条項は初めからなく、私は買収額も含めて正面窓へ写しを貼った。
未払い給金を抱えた店の主が、扉を閉めて忠義を求めるほど見苦しいことはない。
そう考えたのは本当だった。けれど朝ごとに帳場の鍵を開け、三人分の回答欄がまだ空白であることに、胸の内で安堵していたのも本当である。
買収額は、金貨四千九百二十枚。
代金から総債務四千八百枚が債権者へ支払われ、残り百二十枚が私の手元へ入る。《小春暖炉》の回収、治療、今後判明する事故補償は、その額と別に《王冠》が引き継ぐ。差押えの日を待たずに負債は消え、誰かが次に火傷をしても払戻しの金が尽きることはない。
ニナには正式な修理見習いの席が用意されていた。週給は金貨一枚と銀貨六枚、有資格の親方の下で学べ、資格試験の費用も商会が持つ。マルタは一階販売主任、週給一枚と四枚。半年後の勤務評定を通れば、さらに上がる。
ボルクの名は、雇用欄になかった。代わりに勤続清算金、金貨十二枚。
私には一年間の顧客選定顧問という肩書があり、給金も悪くない。店を売ったあとも売場を歩き、客の声を報告できるらしい。
建物の使い道まで、すでに図面になっていた。一階から三階には《王冠》の廉価な家庭用品、四階と五階は倉庫、六階は配送所。七階の比較試用室は、規格品の公開検査場へ変わる。販売できる青札の品だけを選び、黄札からは共通部品を外し、白と灰は工房別に処分する。黒札は《王冠》の費用で安全に廃棄する。
正面の名は、《王冠・星灯り館》になる。
七つ角の星も、母が建てた壁も残る。なくなるのは、入口に掲げた三つの約束と、客のために違う品を並べ直す手間だった。
「悪いお話ではありませんね」
すべて読み終えてから言うと、マルタは紙面から目を上げた。
「悪い話でしたら、迷う必要もございません」
六日の猶予に、私は三人へ答えを訊かなかった。ニナが《王冠》の修理所を見学したいと言えば半日を空け、マルタが雇用規則を商人組合へ持ち込むあいだも給金を引かなかった。ボルクには、近くの製粉所で夜警を募っていると先に伝えた。
残ってほしい、と言うことなら簡単だった。
母の店を共に救ってほしい。いま辞めれば営業許可に必要な人員が足りない。百日まででいい。そんな言葉を一つでも口にすれば、三人の選択に私の窮状が混じる。恩義という名の細い糸で袖を引くことを、私はよく知っていた。
だから私は黙って接客をし、回収暖炉の連絡を待ち、夜になると誰もいない帳場で買収書を読み返した。
客も窓の写しを読んだ。
「王冠になるなら、もっと安い品が並ぶわね」と楽しみにする者がいる一方で、「返品は今と同じですか」と尋ねる者もいた。その答えは買収書の二十七頁目に、小さな字で記されている。
七日返品は未使用品に限る。調整品の交換は一度。個別の使用記録は同型商品の販売改善へ利用できる。《星灯り》の名は残っても、雨に濡れた傘や、家で火を入れた暖炉まで迎え入れる窓口は残らない。
回答期限の日、マクシムは約束の時刻ちょうどに現れた。
今回は従者を連れず、入口で外套を脱ぐと一階をゆっくり歩いた。《宵待ち灯》の試用票を手に取り、《雨花傘》の値札に戻された工房名を読み、暖炉を下ろした空の棚では足を止めた。どれにも嘲る様子はない。
「当商会には、八十六の売場があります」
返品窓口の前で、彼は言った。
「一店で一件の例外を認めれば、明日には八十六通りの約束が生まれる。同じ部品をどの町でも替えられ、同じ価格で翌日に届けるためには、平均から大きく外れる品を増やしすぎるわけにいきません」
「その仕組みで助かる方が多いことは、承知しています」
《王冠》の強い灯りはハンナの手では消えた。けれど、あの灯りがなければ夜に本を読めなかった者もいるだろう。共通部品だからこそ、故郷から遠い町でも直せた旅人もいるはずだ。
マクシムは棚から古い家庭灯を取り、裏の値札へ目をやった。《星灯り》では銀貨十六枚をつけている品である。
「これと同じ性能の灯りを、王冠なら銀貨十二枚で売れます。筐体を三工場へ統一し、効果核を年に一万個買う。交換部品は全店で共有し、百個に一個の返品費を、すべての値段へ薄く載せるからです」
「百個のうち二つ、合わない品が出たら?」
「返金します。三つなら仕入れを止める。ただし、その三人のために、残る九十七人が倍の値を払う仕組みにはしません」
彼の言葉には、八十六店を動かしてきた確かさがあった。《小春暖炉》が百台燃えれば、いまの私には百一人目へ支払えない。ロッテの傘がもう一度奇跡のように売れても、補償基金を持つ王冠には敵わない。
「正しい商いを続けるには、正しさへ代金を払える大きさが要ります」
穏やかな声だった。私を侮るためでなく、この店が次に負う事故を、本当に案じているのだろう。
「そうでしょうね」
私は家庭灯を受け取り、元の棚へ戻した。
「それでも、九十七人の便利さを損なわず、残る三人が入れる扉を残せないか、もう少し試したいのです」
「もう少し、とは百日目まで?」
「まずは」
それより先のことを口にできるほど、私は楽天家ではなかった。
ボルクが買収書を抱えて近づいてきた。
「俺から書いていいか」
太い指が、細身のペンよりずっと頼りなさそうに見える。
「もちろんです」
「製粉所の夜警は、ここより週に銀貨二枚多い。もう話も聞いてきた」
自分で次の働き口を確かめてきたらしい。胸の奥へ冷たいものが落ちたが、顔には出さずに頷いた。
「いつから来てほしいと?」
「明日からでも、とさ。だが断った」
「なぜです」
「地下に持ち主不明の箱が四十七ある。俺が捨てれば、次に来た人間には、最初からなかった箱になる。百日までは、あれに名前をつける」
「母への御恩で?」
「先代には世話になった。だが、あんたとはまだ三十二日しか働いとらん」
ボルクはそう言い、回答欄へ『移籍せず』と不器用な字で書いた。嬉しいと言えば、彼の選択を私への忠義にすり替える気がして、私は礼だけを言った。
ニナは《王冠》の修理所で見たものを、まずマクシムへ話した。
「工具が何でも揃っていました。焦げた効果核を測る機械も、親方もいます。資格を取るなら、きっと王冠の方が早いです」
「研修記録も、昨日届いています。あなたなら一年半で受験できるでしょう」
マクシムが答える。ニナの瞳が揺れた。その迷いに、私は自分の期待を重ねまいと、爪が掌へ食い込むまで指を組んだ。
「でも、向こうでは、合わない握りを一人ずつ直さないんです。規格の部品を丸ごと替えます。その方が早くて、安全なのも分かっています。けれど、ハンナさんの灯りに入れた絞り板の仕事は、修理に数えないと言われました」
ニナは胸元の札へ触れた。できる作業と、資格が足りずできない作業を同じ大きさで記した、あの札である。
「百日まで、この店で試してみたいです。その時になっても資格を取る道が作れないなら、今度は私が辞めます」
「分かりました」
私はようやく指をほどき、資格試験までに必要な実務時間と指導者の欄を、雇用条件の余白へ書き入れた。
「百日目に、この欄を埋められていなければ、遠慮なく辞めてください」
ニナは『百日目まで移籍せず』と書いた。ペン先が最後の字で少し跳ねた。
マルタは、三人の中で最も長く買収書を読んでいた。
「王冠では、返品率の高い販売員は、半年後の勤務評定で給金が下がるそうです」
「不適合を減らすための仕組みです」
マクシムが説明した。
「最初に合う品を売れるなら、よい仕組みでございましょう。ですが、買ったあとに合わないと知ったお客様へ、返品を思いとどまらせても、帳面の上では同じ数字になります」
「店長が内容を確認します」
「八十六店すべてで、店長が、返品を思いとどまらせた販売員を見抜けるとは思いません」
二人の視線が静かにぶつかった。先に紙へ目を落としたのはマルタだった。
「この店が始めた返品が、ただ金を返すだけで終わるのか、それとも次の売上へ繋がるのか。百日目の帳簿で確かめたいと思います。それまでは、こちらで売場主任をいたします」
彼女は日付のない退職届を買収書の隣へ置き、回答欄へ署名した。
三人の選択を見届けてから、私は自分の頁を開いた。
店を売れば、四千八百枚の債務は消える。暖炉を抱える十一軒にも、これから先の被害者にも、払える大きさが手に入る。ボルクを除けば店員の暮らしは安定し、私には金貨百二十枚と、失敗しても誰も火傷をしない顧問席が残る。
なにより、七本の鍵を返したあとの私は、もう百日を数えなくてよい。
その安堵を想像すると、胸の奥が甘く痺れた。王宮を去った日、宝石や年金へ手を伸ばさなかった自分を、ほんの少し恨みたくなるほどだった。
けれど顧問という言葉だけが、どうしても喉に引っかかった。
三年七か月、私は王宮で、別の女性が立つ舞台を整えてきた。今度は名前も給金も与えられる。けれど、私の判断が値札にも返品票にも残らず、最終的には誰かの成功を美しく整えるのなら、椅子の布地が変わるだけかもしれない。
私は回答欄へ、『買収をお断りします』と書いた。
「三人が移籍を選んでいても、同じ答えでしたか」
マクシムが問う。
返事まで、一呼吸遅れた。三人とも去った空の一階を思い浮かべると、乾きかけた自分の署名が、急にひどく細いものに見えた。
「筆を置くまで、迷ったと思います。それでも最後には、断ったでしょう。自分で決めた返品票が、どんな失敗をするのかまで見届けたいのです」
「失敗すれば、店そのものがなくなります」
「ええ。その時は、この署名をした者の名も残ります」
マクシムは拒絶書を折らずに鞄へ収めた。腹を立てた様子も、説き伏せようとする気配もない。
「では、今日から商会同士です。あなたの方法が百人に品を合わせるあいだに、王冠は一万人へ同じ品を届けます。どちらが多く求められるかは、客が決めるでしょう」
「一万人の列から外れた人にも、こちらの扉が見えるようにしておきます」
マクシムの口元に、初めて商人らしい笑みが浮かんだ。
「そのためには、扉の中に商品が必要です」
彼が帰ったあと、まるでその言葉を待っていたように七通の通知が届いた。
二つの主要魔石問屋、二つの共通部品商、三つの大手製作所。来月から《星灯り》への新品割当はゼロになるという。
《王冠百貨商会》が春期分の大口優先契約を更新し、八十六店へ回す効果核と部品を確保したため、小口注文へ回す分が残らない。契約日は三週間前、私が買収書を受け取るよりも先だった。通知の末尾には、取引規約どおりの問屋印が隙なく並んでいる。
残る五つの仕入口座も、全額を先に払い、ひと月十点までという条件だった。そこへ現金を使えば、三人の給金か、暖炉の回収費が払えなくなる。
マルタが青札在庫の減り方を計算する。灯具は十九日、雨具は二十六日。《足温中敷き》は、あと十一日で棚が空く。黄札から修理して戻せる品を足しても、ひと月は保たない。
私は一階を歩き、商品を数えた。今日売れる品は、まだ棚にある。客の手へ渡れば隙間ができ、その隙間を埋める箱はもう届かない。
閉店後、ニナが同じ大きさの品を棚の前へ寄せ、空白を小さく見せようとした。動かされた跡だけ、木肌の色が若い。
来月、《星灯り》へ届く新品は、一つもなかった。




