第8話 返品された火
「そのまま、こちらへ置いてください。暖炉には、もう触れなくて結構です」
差押えまであと七十四日の朝、私は包帯の女性を試用区画から離れた椅子へ案内した。抱えてきた小型暖炉は、ボルクが厚い革手袋で受け、石床の中央へ置く。ニナが周囲を赤い停止紐で囲むあいだに、マルタは正面扉の開店札を裏返した。
火は消えている。それでも、黒く焦げた通気口から漂う匂いは、暖炉の中に昨夜の炎がまだ潜んでいるようだった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「テレーゼ・ノルンです」
女性は答え、膝へ置いた左腕を庇うように右手を添えた。包帯は医師が巻いたものらしく清潔だったが、手首近くに薬草油の黄色い染みが浮いている。
「火傷をなさったのは、いつですか」
「一昨日の夜です。日暮れから使って、寝る前に弱へ回したら、内側で乾いた音がして……横から火が走りました」
「医師には診せましたか」
「ええ。指は動くから、仕事には戻れるだろうと。ただ、傷は残るかもしれないそうです」
包帯から出た指先が、言葉を確かめるように一度曲がった。刺繍の針を持つ人なのか、厨房で働く人なのか。訊くべきことは多いのに、私はまず事故の状況を順に尋ねた。
使っていたのは日暮れから夜半まで。窓は夫の煙草のため指二本ほど開け、暖炉の前には洗った靴を一足置いていたが、腕一本ぶんは離していた。秋に煙道を掃除し、本体は六年前の購入以来、一度も修理していない。
質問を重ねるほど、テレーゼの肩が狭くなっていった。
「弱にする前に、いったん消すべきだったのでしょうか。説明書をなくしてしまって……夫には、靴を近くへ置いたせいだと言われました」
「分からないことは、分からないまま書きましょう」
聞き取り票を彼女の側へ向けると、筆先の震えまで紙の上に見えた。
「使い方を伺うのは、あなたの落ち度を探すためではありません。同じ型の暖炉が、同じ状況で火を噴くか調べるためです。靴の距離も、窓の幅も、覚えている範囲で構いません」
「もし、私の使い方が悪かったとしても……返せるのですか」
マルタが古い保証書を開いた。紙は乾ききって黄ばみ、保証期間の五年はすでに過ぎている。販売した経営者も所有者も替わり、法の上では、私が返金を負う理由はなかった。
それをそのまま伝えると、テレーゼの顔から、かすかに残っていた期待が消えた。
「そう、ですよね。店が変わったのは知っていたんです。ただ、この星の包みを見たら、ほかにどこへ持っていけばいいか分からなくて」
古い包装紙には、母が使っていた不揃いな七つ角の星がある。王宮で渡された権利書にも、いま正面扉に掲げる看板にも、同じ印がついていた。
「法律上の義務はありません。それでも、《星灯り》の名で売った品です。購入額の金貨一枚と銀貨十枚をお返しします。治療費も、領収書を拝見してお支払いします」
テレーゼは信じられないという顔で、私とマルタを交互に見た。
「そこまでしてもらおうと思って来たのでは……。修理だけでも、と思ったんです」
「修理を望まれるなら、その方法も調べます。ただ、いま安全だとは申し上げられませんので、お選びいただきたいのです」
机へ三枚の紙を置いた。一枚目は全額返金。二枚目は原因が分かるまで、魔法を使わない暖房具を無償で借り、修理後に暖炉を戻す。三枚目は別の商品との差額交換である。
「交換すれば、今度は大丈夫なのですか」
「使う部屋と時間を伺って、一緒に試すことはできます。けれど、調べる前から大丈夫とは言えません」
彼女の右手が三枚の上を迷い、返金の紙を引き寄せた。
「お金を返してください。火鉢を買います。魔法のない、ただの火鉢を」
「別の品なら」と続けかけて、唇を閉じた。テレーゼの指は返金票の端を強く押さえ、ほかの二枚にはもう目を向けていない。
「承りました」
現金箱から金貨一枚と銀貨十枚を出す。テレーゼは受け取る前に額を二度、受領票へ署名したあとにも一度確かめた。それほど、戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
治療費の領収書を預かり、今後の診察分も届けてもらうよう伝えると、彼女は小さく頭を下げた。扉のところで一度振り返ったが、ありがとうとは言わなかった。言わせずに済んだことへ、私は安堵した。
彼女が帰るのを待って、旧い販売帳を地下の書庫から運び出した。
《小春暖炉・旧三型》。製造番号を追うと、同じロットから十二台が売られている。事故品が一台、残りは十一台。購入者の名と六年前の住所は揃っていたが、修理も苦情も一件として記されていない。
ニナが停止紐の外から暖炉を覗き込み、焦げた調節輪を指した。
「弱へ回す時、内側の蓄熱板が寄る型です。停止輪の縁が変色しています。でも、中を開けて確かめるのは、私の資格ではできません」
「見本品はどうです」
売場に残る同型品を持ってくると、こちらの停止輪も薄く黄ばんでいた。経年によるものか、設計上の癖か、使い方による熱か。外から見ただけでは分からない。
「十二台のうち、一台だけでしょう」
マルタの視線が現金箱へ落ち、また私に戻った。算盤の珠へ置いた指は動かないままだった。
「私たちが事故を知っているのが、一台だけです」
苦情を七階まで運ばせ、返品を諦めさせていた店である。帳簿が白いことを、無事だった証にはできない。
十一人へ、直ちに使用をやめるよう知らせる。暖炉は客に持参させず、こちらから回収する。返金、代替の火鉢、原因が判明したあとの返却を、それぞれ選べるようにする。まだ欠陥と断定できないため、告知には事故が一件起きた事実と、調査中であることだけを書く。
「全員が返金を選べば、十八金貨近くになります。馬車と治療費、代替品まで数えたら、傘で残した利益はなくなりますよ」
マルタが静かに言った。
昨日まで咲いていた花傘の色が、窓の外を過ぎる。青い花は雨上がりの光の中でも、縁に淡く残っていた。
「あの傘が売れたから、十一軒へ馬車を出せます」
「百日後に差し押さえられても?」
胸の奥が、きつく縮んだ。店を残すために始めた商いである。正しいことをして潰れる店が、客の役に立つはずもない。それでも、包帯の下に隠れた傷を見たあとで、知らない十一人に火を抱かせたまま黒字を数えることはできなかった。
「暖炉のために閉じることになれば、私は一生、この型番を覚えているでしょう。せめて十一人の名前と一緒に覚えたいのです」
マルタは長く息を吐き、通知票の束を自分の方へ引いた。
「でしたら、住所の照合からいたします。六年前のままとは限りません」
私は監査局へ事故報告を出し、正面扉へ回収告知を貼った。『《小春暖炉・旧三型》で火傷事故が一件発生しました。原因を調査しております。同型品は直ちに使用を止め、完全に冷めてから離れてください。店が無償で引き取りに伺います』
ボルクが通りの反対側から首を振ったので、文字を二回り大きく書き直す。告知を読んだ傘目当ての客が二人、そのまま帰っていった。店先で足を止めた者たちの囁きは、閉じた扉越しにも聞こえた。
正午前、アルノルトが二人の検査官を連れて来た。
事故品は魔力を遮る封印箱へ移され、店の見本品にも販売停止札が掛けられた。彼はテレーゼの聞き取り票を読み、暖炉を弱へ回す前後の質問だけをもう一度確かめた。
「使用者の魔力逆流が原因とは記載していませんね」
「測っていませんから」
「同じ製造元と見られる旧型で、過去に三件の発火報告があります。三件とも、使用者の魔力が不安定だったとして処理されています」
差し出された記録は短かった。うち二件は同じ製造元、一件は銘板が焼けて不明。停止輪も蓄熱板も、詳しく調べられていない。
「では、型に問題がある可能性が」
「あります。ただし、いま欠陥と決める根拠にも足りません」
疑うことと、決めつけることを混ぜない声だった。店を止める時と同じ冷ややかさが、今回は製造者を早合点から守っている。
「法で求められるのは、事故品と店頭在庫の停止です。ほかの十一台には注意通知で足ります」
「店として、自主回収します」
アルノルトの目が私を離れ、帳場の現金欄へ落ちた。
「全員が返金を選べば金貨十八枚ほど。回収、代替、治療を含めれば、二十一枚を越えます」
「承知しています」
「百日の期限は変わりません。監査局の命令として費用を債権者へ回すこともできません」
「私が決めたと、そのまま記録してください」
自主回収届の実施者欄へ、アルノルトは《星灯り魔法百貨店》と記した。その下に、監査局は届出を受理し、型番照合と原因試験を行う、と追記する。
称賛も、慰めもなかった。私が自分で選んだ損失を、哀れな元婚約者の衝動にも、未熟な店主の道楽にもせず、公の記録へ正しい名で置いた。
署名を終えた彼の指先に薄いインクがついている。そんな些細なことへ目が留まり、ふいに息が楽になった。
「何か」
「いいえ。あなたは、本当に期限を延ばしてくださらないのだと思いまして」
「延ばしてほしかったのですか」
「もし延ばされたら、次からは、あなたのお顔色まで帳簿へ載せなくてはならなくなります」
アルノルトは一瞬黙り、書類を閉じた。
「その勘定科目は、監査局では認めていません」
冗談として返されたのかは、今回も分からなかった。けれど彼の秤は、私が失敗しても、うまくやっても、同じ卓上に置かれている。そのことが、なぜか嬉しかった。
午後は、ボルクと契約馬車が十一軒を回った。私は店へ残るつもりだったが、最初の家だけは自分で行くことにした。
西区の小さな仕立屋で、老夫婦が同型の暖炉を使っていた。事故はない。六年間、冬ごとに店の奥を温め、針子たちの手を守ってきたという。
「一度も悪さをしていないものを、急に危ないと言われてもねえ」
老女は暖炉の天板を撫でた。長く使われた銅は飴色につやめき、店の品よりよほど愛されている。
「危険だと決まったわけではありません。ただ、火傷が一件あり、原因が分かっておりません。調べるあいだ、こちらの火鉢をお貸しします」
「これで湯を沸かせる?」
「ええ。ただし、布を近づけないでください。魔法暖炉より火の粉が出ます」
老女は夫と相談し、調査後の返却を選んだ。品を手放す時、包む布まで自分で選び、ボルクへ「傷を増やさないで」と三度念を押した。
次の家の男は、事故がないからと停止を拒んだ。取り上げる権利はないため、危険の可能性と拒否した時刻を記録し、異音があれば触れず外へ出るよう伝えた。返金を選んだ者もいれば、冬の終わりまで代替火鉢を借りたいと言う者もいた。
六年前の住所に住み続けていたのは七人。二人は近くへ移り、一人は地方へ出ていた。最後の一人は亡くなり、暖炉は息子の家へ渡っている。夕方までに五台を回収し、その後の受取日もすべて決めた。十一人全員へ事故の知らせは届いた。
朝のうちに、残る十一台分の払戻し用として金貨十六枚と銀貨十枚を別箱へ移していた。テレーゼへ返した金貨一枚と銀貨十枚、通知と馬車に金貨一枚と銀貨四枚、貸出火鉢の買取に金貨二枚と銀貨四枚、治療費に銀貨十枚。選ばれた返金を払い、まだ選ばれていない分を残す。
その日までに支払った額と、これからのために引き当てた額は、合わせて金貨二十一枚と銀貨十八枚になった。
《雨花傘》が残した粗利は、金貨二十二枚と銀貨八枚。二つを帳簿の隣り合う欄へ書けば、差は銀貨十枚だった。
ニナが、空に近くなった箱を覗き込んだ。
「あんなに売れたのに、これだけなんですね」
「ええ」
黒板にはまだ、金貨六十四枚と大きく書いた跡が残っていた。その下に、ロッテ工房へ渡した封筒と十一枚の回収票を、マルタが同じ黒いインクで書き足していく。
閉店の鐘が鳴るころ、店の前へ艶のある黒い馬車が止まった。
扉には、金色の王冠が描かれている。
降りてきた男は四十に届くか届かないか、雨上がりの通りに似つかわしいほど端正な濃紺の上着を着ていた。従者へ傘を預けると、正面に貼った回収告知を上から下まで読み、自分の手で扉を開ける。
「マクシム・ローヴェンと申します。《王冠百貨商会》を預かっております」
国内最大の百貨商会。その名にマルタの手が止まり、ニナは反射的に空の払戻し箱を閉じた。
マクシムは事故品の消えた棚と、まだ乾ききらない回収品の包みを見渡した。口元には礼儀正しい微笑があるが、憐れみはなかった。
「見事な自主回収です。しかし、小さな店が同じことを三度すれば、四度目の被害者に返す金がなくなる」
彼は革鞄から、分厚い書類を取り出した。
「建物、商標、販売可能な在庫。そして、こちらで働く方々を引き受けたい。暖炉の補償も、当商会が別途負担いたします」
差し出された買収書の最初の頁には、金貨四千九百二十枚と記されていた。




