第7話 値引きで店は救えない
雨の朝にあれほど賑やかだった現金箱は、差押えまであと八十日となった今日、ひどく慎ましい音しか立てなくなっていた。
ロッテ傘工房へ販売歩合を払い、返品と修理に備える金を別へ移した。三人の店員には七日分ずつ、二度目の給金を先に渡している。仮設防護区画の代金と、停止中でも請求される中央魔力炉の基本料も期日どおり払った。そこまでは帳簿に記した予定と違わない。
予定になかったのは、売上伝票のあいだから、春先の蛾のように次々現れる小さな紙片だった。
「十一足ございます」
マルタが、私の署名入りの値引き票を黒板へ留めた。
外回りの配達人によく売れた《足温中敷き》である。正規の値は金貨一枚と銀貨十枚。仕入れに銀貨十六枚、足へ合わせる作業に四枚、修理の備えに三枚、包みと取扱票に一枚。店へ六枚残して、ようやく値札の額になる。
「私は金貨一枚でお売りしました」
「調整料も頂いておりません。十一足すべてです」
「あの日は雨でしたし、配達の方々は靴まで濡れていました。銀貨十枚も上乗せするのは――」
「上乗せではなく、もともと必要な代金でございます。一足売れるたび、店が銀貨四枚を添えて差し上げた計算になります」
マルタの指先が、黒板へ金貨二枚と銀貨四枚の損失を書き込んだ。白い筆跡は端正で、逃げ道になる曖昧さがない。
それだけではなかった。傘の持ち手調整を五件無料にし、返品された灯りの清掃を「こちらの勉強ですから」と費用から外した。濡れた商品を包む防水布も十三枚、雨の日の心遣いのつもりで渡している。
八日間の売上は、金貨百十一枚と銀貨六枚。仕入れ代と職人への支払いを引いた粗利は、金貨三十四枚と銀貨二枚。その中から、私の値引きと無料作業が金貨九枚と銀貨十一枚を奪っていた。
三人へ三週間分の給金を払っても、まだ残る額だった。
「《宵待ち灯》の調整もございます。絞り板を二度替え、代金は一度分だけ」
「初めの板が合わなかったのは、私どもの推薦が悪かったからです」
「三度目は、お客様が灯りを寝室から仕事場へ移したためです。店の過失ではございません」
「困っていらしたので、つい」
「この店も困っております」
低い声だった。叱責というより、二か月も給金を待たされた者が、ようやく口にした当たり前の言葉だった。
私は帳場の下から三枚の封筒を取り出した。支払日は二日先だが、昨夜のうちに次の七日分を金貨一枚ずつ入れてある。
「これを先にお渡しします。少なくとも、次の七日間は私の善意に付き合わされずに済むように」
ニナは封筒を両手で受け取ったが、マルタはすぐには触れなかった。
「お客様を助けたいとおっしゃるのは、結構です。ですが、その差額を誰に負わせるおつもりですか。給金を待つ私どもか、安く買いたたかれた職人か、それとも、まだこの扉を知らない次のお客様でしょうか」
声を荒らげられるより痛かった。
王宮では、足りないものがあれば私が埋めた。急に増えた招待客の席札も、夜会の前夜に変わる献立も、女官が病めば空く配布所も、誰かが眠らずに働けば朝には整った。殿下から礼を言われるたび、その「誰か」でいられることを、私はひそかに誇りにしていたのだと思う。
役に立てば、いつか必要とされる。必要とされ続ければ、それは選ばれたことと似てくる。そう信じる癖は、青い飾り紐と一緒に王宮へ置いてきたつもりだった。
けれど、私の署名は雨の日の値引き票へ、きれいに残っている。
「値引きをした時、私は自分の懐から差額を出す気でいたのでしょうね」
口にすると、自嘲の味がした。私の懐など、店の現金箱と同じなのに。
マルタは封筒を受け取り、日付のない退職届と重ねて引き出しへ入れた。
「七日間は、値札の裏まで拝見します」
「ぜひ、そうしてください。私が笑顔で無料と言った時は、足を踏んでくださっても構いません」
「靴を傷める手当も、値札へ載せておきましょう」
ニナが吹き出し、ボルクは聞こえなかったふりで棚を動かした。笑えるうちに、すべての値札を作り直すことにした。
表には客が支払う額を、裏には仕入れ、調整、修理引当、店員が使う時間、店に残る粗利を記す。店の薦め方が悪かったために生じる最初の再調整は無料。使用場所や用途が変わった場合は、作業に応じた代金を頂く。修理できないものは、できない理由と、次に選べる方法を残す。
午後までに三人の客が新しい値札を見て、そのまま買った。
四人目の女性は、《足温中敷き》を手にしたまま眉を吊り上げた。
「先週は金貨一枚だったでしょう」
「はい。私が必要な費用を載せずにお売りしました」
「客がついた途端、値上げするのね」
通りにいた連れの女性まで、扉の内側へ顔を覗かせた。弁解ならいくらでも思いつく。先週だけの雨天割引だった、開店記念だった、職人との契約が変わった。どれも一部は真実で、だからこそ質が悪い。
「先週、私どもがお渡しした見積票をお持ちでしたら、その金額で承ります。ただ、今後は皆様へ、この内訳でお願いしなくてはなりません」
「では、常連だけが安い店なの?」
「いいえ。先週のお客様へ、私が間違った値段を申し上げただけです」
女性は中敷きを帳場へ置いた。乱暴ではなかったが、失望を隠す気もない置き方だった。
「安いのは最初だけよ」
連れへそう告げる声が、扉の外までよく響いた。追いかけて誤解を解きたくなったけれど、彼女は誤解していない。昨日までの私が、今日の値札を信じられなくしたのだ。
売れなかった理由を記す欄へ、銀貨三十枚と書いた。取り損ねた金まで帳簿に入れたわけではない。ただ、この一足が棚へ戻った理由を、都合よく「客の予算不足」にしたくなかった。
夕刻近く、宿屋の紋が入った濡れた敷布を両腕に抱え、洗濯店のエマ・リントがやってきた。頬へ張りついた髪を払う暇もないらしく、店へ入るなり乾燥用品の棚を見上げた。
「乾燥布を半額にしていただけませんか。雨が続いて仕事が三日遅れてしまって、明後日までに敷布を八十枚返さないと、宿との契約を切られるんです」
彼女が指した品は金貨四枚だった。財布にあるのは金貨一枚。半額にしても届かない。
昨日までの私なら、おそらく金貨一枚で渡していた。マルタは何も言わず、私の靴にも触れず、少し離れたところからこちらを見ている。
「三日を過ぎても、お使いになりますか」
「冬なら欲しいです。でも今は、明後日を越えられれば、それで」
「では、先に使い方を見せてください。普段どおりに絞った布で」
試用区画へ高出力、中出力、低出力の三枚を並べた。エマ自身に敷布を広げてもらい、仕事場と同じ高さになるよう台を調整する。
高出力の布は、数を十まで数えるうちに一枚を乾かした。縁から白い湯気がふわりと立ち、エマの顔にも明るさが戻る。ところが二枚目を置いた時、彼女は右手をさっと引いた。
「熱かったですか」
「熱くは……ないと思うんです。ただ、指の奥がぴりぴりして」
ニナが停止札を置き、布と彼女の指先の温度を別々に測った。布は規定内だが、エマの魔力が急に減っている。水気と一緒に、使い手の力まで強く引く品だった。
「八十枚には使えません。いま速くても、途中で手が動かなくなります」
中出力品は端ばかりを乾かし、敷布を何度も裏返さなくてはならなかった。エマは三枚目には期待していない顔をしていた。
低出力の《緩乾布》は、一枚に半刻もかかった。けれど、二枚重ねても乾く速さがほとんど変わらない。エマは二枚を広げているあいだに次の二枚を絞り、腕を休ませず仕事を続けられた。十枚目を終えた時も、指の魔力は最初とほぼ同じだった。
「遅いわね」
彼女は正直に言い、もう一度、乾いた敷布を撫でた。
「でも、これなら娘と交代して、一日中使える。夜も二人でやれば、間に合うかもしれない」
合う品は見つかった。買う金はない。
値札を下げる以外の道を、黒板の数字を眺めながら考えた。エマが必要なのは所有することではなく、明後日まで乾かし続けられることだ。
「三日間、お貸しします。貸出料は銀貨八枚、保証金が十二枚。返却時に破損がなく、通常の汚れだけでしたら、十二枚はすべてお返しします」
「合計で金貨一枚……でも、十二枚は戻る?」
「はい。銀貨八枚で三日間お使いいただけます」
マルタが貸出用の帳簿を開き、清掃、貸出前後の検査、摩耗と修理の備え、店へ残す額をそれぞれ書き分けた。《緩乾布》の在庫評価は銀貨十五枚。五回貸せれば元が取れ、借り手がつかなければ使用回数を明記した中古品として売る。
エマが一番気にしたのは、汚した時のことだった。仕事で使えば、糊や石鹸が残るかもしれない。そこで、通常の汚れと破損の境目を実物で確かめ、返却時には彼女の前で検査することまで貸出票へ加えた。
「私だけでなく、娘と息子も使います」
ニナがペン先を止めた。
「三人とも、明朝いらしていただけますか。使う方が替わると、乾く速さや指への負担も変わります」
「子どもまで試すの?」
「見た目がきれいなまま返ってきても、中が傷んでいることはあります。私たちも、一度貸した道具を次の方へ安全に渡したいので」
かつて「見習い」の札を隠したがった娘が、今はできる検査と、その先の責任を自分から増やしている。青い糸を布の端へ縫い入れる指はまだ不慣れだったが、迷いはなかった。
貸出票を三枚作った。エマの控え、売場の控え、返却時に品とともに修理台へ渡す一枚。それぞれに使用者三名、敷布八十枚、最長一回二時間、三日後の閉店時刻までと記す。
「間に合ったら、宿の主人にもこの店を教えます」
「その前に、指が痛まなかったか教えてください。代金より先に」
エマは一瞬きょとんとし、それから忙しい人らしい短い笑い声を立てた。《緩乾布》を濡れた敷布へ重ね、雨上がりの通りへ駆けていった。
閉店後、アルノルトが定期確認に現れた。
外套の肩にはまだ細かな雨粒が残っていた。店内へ入る前にきちんと払い落としたらしく、濃い灰色の布がそこだけ夜露を含んだように光っている。私はなぜそんなところを見ているのだろうと思い、貸出票へ視線を落とした。
「貸出中の品は、店の在庫として計上できますか」
「所有権が店にあるあいだは。ただし返却不能と修理の引当が必要です」
「最低額を教えてください」
「購入原価の四分の一。貸出回数が十回を超えれば二分の一です」
彼は助言を添えず、求めた数字だけを告げた。
「閉鎖中の上階を封印した場合、安全管理費は減免されますか」
「月に金貨三枚。再開検査には金貨十八枚が必要です」
「では、封印申請はいたしません。ひと月の三枚より、再開時の十八枚と、二階を使えない期間の方が大きいと判断します」
「受理しました」
「理由を詳しくお尋ねにならないのですね」
アルノルトは書類を鞄へ戻しながら、わずかに目を上げた。
「申請しない理由まで、監査局を納得させる義務はありません」
断るには、相手を満足させるほど立派な物語が要る。王宮で身につけたその思い込みが、胸のどこかで小さく軋んだ。
彼は貸出票を読み、使用者欄の横へ指を置いた。
「三名とも試用するのは明朝ですね」
「ええ。それまでは、エマさん以外に使わせないよう伝えました」
「貸出品の事故は、販売品より追跡が容易です。その分、店が記録を怠った責任は重くなります」
「手間が増えますね」
「値引きよりは」
皮肉なのかと思って顔を見たが、アルノルトはいつもの真顔だった。ほんの少しだけ口元が緩んでいた気もする。確かめるほどのことではないのに、私は妙に気になって、値札の束を揃えるふりをした。
六日後の朝、まだ開店札を出す前に、扉の真鍮星が鋭く鳴った。
硝子の向こうに立つ女性は、左腕を厚い包帯で吊っていた。右手には古びた包装紙の包みを抱えている。雨に濡れて色褪せても、七つの角を持つ星だけは見間違えようがなかった。
「これを、返したいのです」
包みから現れた小型暖炉の側面には、焼け焦げた筋が走っていた。包帯の隙間から覗く女性の手首にも、同じ色の傷がある。
「夜中に火が噴きました。六年前にこちらで買った、《小春暖炉・旧三型》です」




