第6話 雨の日に咲く傘
夜明け前から降り始めた雨は、朝の鐘が鳴るころには王都の屋根という屋根を煙らせていた。向かいの建物さえ薄墨で描いたように霞み、軒樋から溢れた水が石畳を幾筋もの小川に変えている。
差押えまであと八十八日の朝、これほどの雨を待ち望んだのは、生まれて初めてだった。
「店主というものは、お天気にまで薄情になるのですね」
正面硝子に額を寄せた私が言うと、床へ古布を敷いていたマルタが、呆れたように片眉を上げた。
「雨漏りが三か所ございます。その台詞は、桶を置き終えてからになさってください」
たしかに、吹き抜けの暗がりからは規則正しく水音が落ちていた。それでも屋根倉庫で六年も眠っていた百本の傘にとって、今日の雨は、ようやく巡ってきた舞台だった。
《雨花傘》は、乾いているあいだはひどく愛想がない。煤けた灰色の布に黒い柄、縁に縫い取られた銀糸も、倉庫の薄明かりでは綻びにしか見えなかった。旧い販売記録には「模様発動せず。不良在庫」とある。晴れた試験室で何度開いても、そう見えたのだろう。
ボルクが正面扉の内側へ、浅く広い木枠を据えた。桶で汲んだ雨水を張り、濡れ物を預かる籠と乾燥布を左右に分ける。試し終えた客と、これから試す客が濡れた床でぶつからないよう、ニナは青い床線を入口から試用台まで延ばした。
「傘を買いに来たお客へ、まず水溜まりを踏ませるんですか」
「店内では、雨を降らせられませんもの」
「お嬢様の靴ほど上等なものを履いて来る人ばかりではないぞ」
ボルクに言われ、私は自分の革靴を見下ろした。泥除けの縁飾りまでついた、王宮へ通っていたころの品である。たしかに、濡らして惜しくない靴ではなかった。
「でしたら、私が最初に入ります」
裾を片手で持ち上げて木枠へ踏み込み、一本目の傘を開いた。冷たい水が靴底を越え、爪先へ染みる。数日前なら顔色を変えたであろう自分が、今は傘布ばかり見上げているのが少し可笑しかった。
最初の一滴が落ちても、灰色は灰色のままだった。二滴、三滴と雨が弾け、銀糸の縫い目を細い光が走る。やがて青い花弁がひとひら、濡れた布の上へ浮かび、それを追うように二つ、三つと花が開いていった。
雨の空から切り取った青より、わずかに深い色だった。花は水を吸うのではなく、落ちた雫を銀糸の道へ導いて、傘の後ろへそっと逃がしている。肩にも、隣に立つニナにも、水は跳ねなかった。
「まあ……」
ニナの頬まで青く照らされていた。彼女へ柄を渡すと、同じ傘なのに花は小さくなり、代わりに黄色い蕊が星屑のように増えた。ボルクの大きな手では白い花が三輪しか咲かず、その三輪が受け止めた雨は、音もなく彼の踵の後ろへ流れた。
マルタが旧い試験記録の「模様発動せず」へ細い線を引き、その横へ、雨量と持ち手により変化、と書き添えた。
だからといって、百本すべてを値札の下へ吊るすほど、私たちは浮かれてはいなかった。
ニナが留め具と開閉を確かめ、ボルクが一本ずつ骨を撓ませる。私は持ち手へ弱い魔力を流し、マルタは濡らしたあとの排水と乾燥にかかる時間を記録した。ひとつは花が鮮やかに咲いた途端、中央の縫い目から冷たい筋を落とした。別のひとつは、強い魔力に触れると柄がじわじわ熱を持つ。三本目は閉じたあと、骨が途中で引っかかって戻らなかった。
三本には赤い停止札を結び、売場の奥へ移した。残る品にも、濡らして試したものと、開閉だけを確かめたものとで違う札をつける。正午までに百本すべての基本確認を終えたが、雨の下で四人が持ち比べられたのは四十本だった。
窓の外には、いつの間にか小さな顔が並んでいた。向かいの軒で雨宿りをしていた子どもたちが、硝子越しに青い花を見つめている。そのうち一人が母親らしい女性の袖を引き、二人で一枚の油布を頭から被って、通りを駆けてきた。
扉の真鍮星が鳴る。母親の右肩は、油布からはみ出してすっかり濡れていた。
「この子と一緒に持てるものを探しているのです。今の傘は重くて、この子が手を添えるとすぐ傾いてしまって」
男の子は母親の腰へしがみつきながら、陳列した傘の花を見たくて仕方がないらしい。けれど、きれいな花が咲くというだけで勧めれば、昨日までの店と変わらない。
「いつも、どちらを通っていらっしゃいますか」
「市場を抜けて、東門のそばまで。風の強い道です」
「坊ちゃんも柄を持ちますか」
「持ちたがります。私一人なら抱き上げればいいのですけれど、買い物籠もありますから」
私は三つを試用台へ出した。
一つ目の《雨避け留め》は、襟につければ身体の周りから雫を弾いてくれる。傘より安く、両手も空くので、幼子連れには一見具合がよさそうだった。母親が留め具へ魔力を流して木枠を歩くと、彼女の肩を避けた水が、脇にいた男の子の靴へまとまって落ちた。
「これ、嫌い」
男の子がきっぱり言った。母親は窘めようとしたが、私は留め具を外して箱へ戻した。
「お二人で使う場所には向きませんね。次はこちらを」
二つ目は、魔法を使わない広幅の油布傘だった。二人の肩を覆うには十分だが、男の子が柄へ触れると先端が床を擦り、風を想定してボルクが横から板を扇ぐと、大きな布がぐらりと傾いた。
三つ目に《雨花傘》を開いた。まず母親一人に持ってもらうと、葡萄酒のような赤い花が静かに広がる。その手の下へ男の子の指が重なった瞬間、赤い花々のあいだに、小さな黄色の蕾がともった。
男の子が息を呑む。そのまま一歩、二歩と木枠を歩き、傘が低く傾いても、水は銀糸を伝って二人の背後へ抜けた。ボルクが荷箱を抱えてすぐ脇を通ると、男の子は慌てて傘をすぼめたが、隣へ雫を浴びせることもなかった。
「ぼくにも持てる」
誇らしげな声に、母親の目元がほどけた。私まで嬉しくなりかけたところで、彼女は傘を閉じ、骨の付け根へ指を当てた。
「この子は、きっといつか折ります。直していただけますか」
答えかけた口を閉じた。
在庫票には製作者名がない。修理方法も交換部品も記されておらず、古い契約書の隅に《ロッテ傘工房》と薄く残っているだけだった。売りたい気持ちに任せて「できます」と言えば、その一言は壊れた日の借金になる。
「今日の私には、直せるとお約束できません。工房へ確かめるまで、三日間のお貸出しではいかがでしょう。銀貨四枚をお預かりし、修理を引き受けられない品だと分かれば、全額お返しします」
「売ってくださらないの?」
「きれいに咲いた日にこそ、壊れたあとのことも決めてからお渡ししたいのです」
母親は少し考え、銀貨を四枚数えた。男の子は貸出票へ母親が署名するあいだも、消えてしまった黄色い蕾のあたりを名残惜しそうに撫でていた。
その母子と入れ違いに、ずぶ濡れの女性が店へ飛び込んできた。
短く切った栗色の髪から雫を払い、彼女は入口に並べた傘へまっすぐ近づいた。雨粒より冷たい目をしている。
「誰の許しを得て、これを売っているんです」
「お貸ししたのが一本だけです。あなたが、ロッテさんでしょうか」
女性は答える前に見本の傘を取り、布の裏をめくって骨の根元を調べた。職人の指だった。
「六年前、父と私で百本納めました。一本銀貨十八枚のはずが、不良だと言われて六枚に下げられた。工房名を外し、修理だけはこちらで引き受けるなら十二枚まで出すと言われて、父は判を押しました」
「代金は支払われていますか」
「ええ。ですから、品はもうそちらのものです。法律なら好きに売れるでしょう。でも、雨へ出しもしなかった店が、今度は修理だけ押しつけて儲けるというなら、黙ってはいません」
怒鳴ってはいないのに、木枠に落ちる雨音が遠のくほどの声だった。
ちょうどその時、先ほどの母子が通りの向こうを歩いていた。赤い花の群れから黄色い蕾が覗き、雨に沈んだ街角だけが春を先取りしたように明るい。ロッテは唇を結んだまま、その傘を見つめた。
「二人で持ったのね」
「骨は保ちますか」
「柄の下から二つ目の留めを緩めれば、低い方の手へ重さが寄りません。二人分の魔力が混ざるように作ったんです。父は、家族で持った時が一番きれいだと言っていた」
ニナが見本の留め具を動かすと、柄の重心がするりと下がった。古い説明書には一言もない。
「前の売場長は、花が大きく見える持ち方だけ書けと言いました。派手な一輪の方が、窓飾りには向くからと」
ロッテの指が、銀糸の上をゆっくり滑った。悔しさは六年を経ても、少しも褪せていなかった。
私は帳場へ新しい紙を広げた。
売価は一本、金貨二枚。旧仕入れ原価の銀貨十二枚を記録から消さず、売れるごとにロッテ傘工房へ銀貨十枚、修理引当へ銀貨四枚を分ける。店に残る粗利は銀貨十四枚。値札と包装紙には、彼女と父親の名を戻す。工房は、誤った説明や展示を止めることができ、修理は内容に応じて客、工房、店の負担を決める。
ロッテは数字を追い、やがて訝しげに私を見た。
「今の契約を使えば、私たちへ払わずに売れるはずです」
「けれど今のままでは、お客様へ修理できると言えません。一本売れるたびに、私どもの嘘も一本ずつ増えます」
「私が署名を断ったら?」
「百本は倉庫へ戻します。少なくとも、私が店主でいるあいだは」
そんな余裕があるのかと訊かれれば、胸を張れる状態ではない。差押えまで八十八日、現金箱は頼りなく軽く、今日を逃せば次にいつ雨が降るかも分からない。それでも、彼女の工房名を削った六年前の契約へ、自分の署名を重ねたくはなかった。
ロッテはもう一度、通りの母子を見た。
「父の名は先に。考えたのは父です」
「もちろん」
二つの名を書き加えると、彼女は濡れた袖で紙を汚さぬよう慎重に押さえ、署名した。
午後、《星灯り》の前は、雨の庭になった。
客が来るたび、マルタが濡れた外套と荷物を預かり、ニナが傘の開閉を見せる。ロッテは柄の高さを直し、私はどの道を誰と歩くのかを聞いた。店内の木枠で足運びを確かめたあとは、必ず軒下から本物の雨へ出てもらった。
老人には風を受けにくい短い傘が合い、パン屋の娘には、荷籠を濡らさぬよう後ろへ多く水を逃がす一本が合った。恋人への贈り物を探していた青年は、本人の魔力がなければ花の色も持ち心地も分からないと知り、照れながら取り置き票だけを持ち帰った。
買った直後、柄が掌の古傷へ当たると気づいた女性もいた。ロッテが留め位置を二度変えたが、今度は傘が重くなる。女性は交換ではなく返品を望み、私たちは金貨二枚を返した。濡れた傘には使用回数と調整内容を書いた札をつけ、未使用品から離して乾かした。
夕方、雨脚が淡くなるころには、通りを行く傘に赤や青、山吹や白の花が咲き乱れていた。薄暗い空の下、雫が落ちるたび花弁がほどけ、石畳の水鏡にも色が映る。幼いころに見た七階の星灯りさえ、あれほど華やかではなかったように思えた。
返品した一本を除き、売れた傘は三十二本。売上は金貨六十四枚。
そこから旧仕入れ原価、ロッテ工房への歩合、修理のために残す金を分けると、店の粗利は金貨二十二枚と銀貨八枚になった。ロッテは工房の名が入った最初の値札を一枚だけもらい、歩合を納めた封筒を外套の内側へ大切そうにしまった。
「父に見せます。売れない傘ではなかったって」
扉を出る横顔に、昼の険しさはもうなかった。かといって、店を許したわけでもないのだろう。明日の修理受付時刻を、彼女は自分の字で大きく書き残していった。
私は黒板の売上欄へ、金貨六十四枚と記した。久しぶりに書く大きな数字である。濡れた裾も冷えた靴も気にならず、少し離れて眺め直したくなった。
その隣へ、マルタがここ数日の伝票を一枚ずつ留めていく。
銀貨一枚引き、調整無料、材料代だけ、二つ買えば次の修理代はいらない――伝票に並んだ景気のよい文句には、どれも私の署名がある。
「本日は、よい商いでございました」
マルタはそう前置きしてから、現金箱の蓋を開いた。雨音より乾いた硬貨の音が、底の浅さをよく伝えた。
「けれど、雨の前から売っていた品は、売れるほど店の金を減らしております。明日は、こちらの花畑を片づけましょう」
色とりどりの傘が去ったあとの床に、私の値引き票だけが、濡れた落ち葉のように残っていた。




